白河つぐみ15歳、余命三ヶ月の異世界転移ー心臓移植の順番が回ってこないので、異世界で村を救う薬師になりますー
@sweetone
第1話 異世界転移
医師は静かに言った。
「移植の待機順位は、いま十五番目です。三か月という期間で、ドナーが見つかる可能性は、決して高くはありません」
白い病室に、その言葉だけが響いた。心電図モニターの機械音、廊下を歩く足音、遠くで鳴るナースコールのベル。すべてが妙にはっきりと聞こえる。まるで世界の音量を上げられたみたいに。
「以前お話しした補助人工心臓を導入すれば、時間を稼ぐことはできます。ただし、ご家庭の状況を考えると……とても険しい道になると思います」
医師の淡々とした声は、かえって現実味を奪っていく。
母の手が、そっと私の手を握った。わずかに震えている。
その細さに、これまでどれだけ無理をさせてきたのかと思う。
「……わかりました」
母は、掠れ声で言った。
――私の命は、なんて頼りないんだろう。
何かに触れただけで、あっという間に弾けて消えてしまうシャボン玉のような命。
医師が去ったあと、母は窓辺に立った。
背中は小さく丸まり、肩がかすかに震えている。
ーー泣いているのかな…。
父が事故で亡くなってから、私たちはずっと二人きりだった。
小学三年生で拡張型心筋症と診断されてから、もう七年。小学校も中学校も、検査と薬に合わせて過ごす日々だった。友達が部活動に励んでいるとき、私は病室のベッドで副作用に耐えていた。母の生活もまた、私の病気を中心に回っていた。
慎重に過ごしていたはずなのに、急激に悪化した病気。
――いっそのこと何か原因があったなら、思い切り恨むこともできるのに。
「お母さん」
声をかけると、母は慌てて振り返った。
「ごめんね」
「何を言ってるの」
無理に笑顔をつくった母の目は、真っ赤に腫れていた。
「つぐみは悪くない。病気になりたくてなったんじゃないでしょう?」
「でも……」
「でも、じゃない。まだ希望はある。がんばろう?」
母は私の頭を優しく撫でた。その手の震えを止める力は、私にはなかった。
病室の窓の向こう、公園では子どもたちが走り回っていた。
転んでも立ち上がり、また駆けていく。
――もう一度、あんなふうに走れたら。
風を切って、土を蹴って、汗をかいて、笑って。
そうしたら、母は笑ってくれるだろうか。
その日を境に、母は未来の話をしなくなった。
来春のことも、高校のことも、将来のことも。
代わりに「今」のことばかりを尋ねるようになった。
何を食べたいか、どんな本が読みたいか――まるで明日がないみたいに。
夜中に目を覚ますと、母の小さな背中が見えた。
掛け布団からのぞく肩は細く、灯りの消えた部屋でいっそう頼りなく見える。
私がいなくなったあと、この人は独り、どうやって日々を過ごしていくのだろう。
布団を頭までかぶって丸まる。
唇を噛んでこらえても、涙は勝手にあふれ、枕を濡らしていく。
息を殺しても、体の震えだけは止められなかった。
そのとき、胸にガツンと衝撃が走った。
息が詰まり、世界が一気に真っ暗になる。
ピーーーーー!!
心電図のアラーム、母の叫び、ナースコールの音、看護師のせわしない足音。
すべてが渦のように重なり合い、やがて遠のいていった。
――ああ、きっとこのまま死んでしまうんだろう。ごめんね、お母さん。
でも、これでやっと終わりにできる。
痛みも、苦しみも、母を悲しませることも。
もう、なにも背負わなくていい。
生温かく重たい闇が、そっと私を抱きしめた。
私は抗わず、その腕の中へ沈んでいった。
ピッ…ピッ…ピッ…
――それにしても。人生の終わりに耳にするのが心電図の音だなんて、本当にやめてほしい。
やがて闇の向こうから、かすかな光がさしてきた。
母の声でも、機械音でもない、何か別の音が聞こえる。
ピッピッピ…
――鳥の……声?
薄目を開けると、見慣れた薄黄色のシミのある白い天井の代わりに広がっていたのは、青い空と緑の枝だぅた。
木漏れ日がまぶしくて、思わず手で目を覆う。
頬に触れるのは冷たいシーツではなく、さわやかな風。
土の匂い、草の香り、花の甘い匂い――生命の息づかいに満ちた空気だった。
――ここは、どこ?
私はゆっくり身を起こす。
ーー……森の中?
大きな木々が空へと伸び、小川のせせらぎが耳をくすぐる。
鳥が枝から枝へと舞い、小さな花々が足元を彩っている。
体が不思議なほど軽い。息苦しさも、胸の痛みも、だるさもない。
七年間つきまとってきた症状が、まるで最初からなかったみたいに消えていた。
――夢……なの?
恐る恐る立ち上がってみる。足に力が入る。ふらつかない。
深く息を吸えば、肺の奥まで空気が満ちる。
一歩、また一歩。
土が足裏を押し返し、かかとからつま先へと力が流れる。
背筋を伸ばした瞬間、体は自然に前へ飛び出していた。
――駆ける。
夢中で走った。
風が髪を撫で、足音が森に響く。木々の間を縫い、小川を飛び越え、坂を駆け上がる。
肺は苦しくならない。心臓も暴れない。ただ、爽快さだけが全身を駆け巡る。
こんなふうに走れるのは、いつぶりだろう。
小学生のとき? それとも、もっと昔?
風が顔を洗い流し、耳のうしろで鳴り、ほどけた髪が舞う。
涙さえ、風に溶けて消えていった。
「きゃっ!」
草に足を取られ、前のめりに倒れこむ。
柔らかな土と草が受け止めてくれたが、肘に小さな擦り傷ができた。
――まずい。
こんな小さな傷でも、感染につながる。
胸の奥がひやりと強張り、思わず水を探して周囲を見回す。
「大丈夫?」
振り向くと、茶色い髪の少女が心配そうに駆け寄ってきた。
私と同じくらいの年頃で、素朴な麻のドレスを着ている。
――このこは誰?
胸がきゅっと縮み、思わず一歩あとずさる。
知らない森の中で、見知らぬ人間が目の前に立っている。
どうしても警戒せずにはいられなかった。
「あなた、村の人じゃないよね?」
少女は首をかしげると、革の水入れを取り出した。
「傷、洗うから貸して」
差し出された手に、息をのむ。
でも、その瞳はまっすぐで、打算や悪意の影は見えなかった。
――悪い人では、なさそう。
ためらいながらも肘を差し出すと、生ぬるい水が傷を流れ落ちた。
泥がすっと落ちていき、傷の痛みよりも、その優しさのほうが胸にしみた。
「……ありがとう」
私の言葉に、リナはふっと表情をやわらげる。
その穏やかな笑みに、こちらの緊張も少しずつ解けていった。
「私はリナ。村の医師見習いなの。あなたは?」
「私は……つぐみ。ここには、たぶん来たばかり」
我ながら曖昧な答えだった。
「つぐみね。変わった名前」
「リナさん……ここは、どこなんでしょう?」
「ここ? アルトハイム村の近くの森よ。あなた、本当にわからないの?」
アルトハイム? 聞いたことのない地名。
リナの服装も、まるでファンタジー小説の中から抜け出したみたいだ。
――まさか、異世界転移?
なんて説明すればいいのかわからず、リナの言葉に乗ることにした。
「……迷子、かもしれません」
「じゃあ、村まで一緒に来る? 一人で森にいるのは危ないし」
リナは少し首をかしげて笑った。
「何か食べたほうがよさそうな顔してるよ」
言われてみれば、確かにお腹が空いている気がした。
その瞬間、ぐぅぅぅ――と大きな音が響く。
「えっ、私……?」と、お腹を両手で押さえる。
リナが「ほらね」とほほ笑んだ。
顔が熱くなったけれど、リナの笑顔に肩の力が抜けていく。
――この子についていくのが、今は一番よさそう。
それにしても。お腹が空くなんて、いったいいつぶりだろう……。
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