第2話 私は見えていなかったんだ

 私がまだ小学六年生で、妹の智慧ちさとが小学三年生だった頃、私たちは今ほど仲良しというわけではなかった。

 その頃はまだお父さんが生きていた。もともと子供好きだったお父さんは、仕事から帰ってきて疲れているだろうに、よく私たちと遊んでくれていた。毎日というわけじゃなかったけれど、休日や夕方頃に帰ってくる日は、晩ご飯の時間までお父さんの趣味のテレビゲームやボードゲームで遊んでくれた。

 私たち姉妹がそろって遊ぶのはそういうときだった。

 お父さんがよく言っていたことがある。

「お父さんな、枝豆なんだよ」

 そういうときは大抵、ご飯のあとの晩酌のときだった。ほどよくお酒が回って、気持ちよさそうに話していた。

「二人のおじさんがいるだろ。三人兄弟で親父に枝豆兄弟って言われていたんだ」

 そこからお父さんの子供の頃の思い出話が始まる。口達者のお父さんの話は、飽き性な子供の私を惹きつけた。きっと智慧もそうだったろう。といって、どこまで本当の話かはわからないけれど。

 あるとき、私は父の枝豆話が始まったときに尋ねてみた。

「私とチィはなんの姉妹?」

 お父さんはそうだなぁと言いながら、ゆでられた枝豆をひとつつまみ上げた。

 小さい枝豆だった。豆が一粒大きく育って、その隣に小さな豆があるのが、さやの膨らみからようやくわかるくらいのものだった。

「おまえたちも枝豆姉妹だ。大きいのがお姉ちゃんで、小さいのがチィちゃんだ」

 チィが大きいのがいいって文句を言うと、お父さんは「大きくて頼りになるお姉ちゃん。小さいのは可愛いじゃないか。いろんな人に愛されるぞ」と笑っていた。

 今の私のことを考えると苦笑いしてしまう話だ。

 その日から私と智慧は父が遅い日も家にいない日も一緒に遊ぶようになった。

 ところが、お父さんが死んでから、私たちはなんとなく遊ばなくなっていった。そのことにようやく気づいたのは、それから二年経った中学三年生くらいの頃だ。

 そこでようやくお父さんが私と智慧を繋ぐだったと知った。

 倫子と出会ったのは高校に入学した頃だった。なんの話だったか、私が智慧の話をしたところ、倫子が興味を持ったことがきっかけだった。

 それから私と智慧、そして倫子の三人でよく遊ぶようになった。不思議なことに以前にも増して、智慧との結びつきが強くなった気がする。

 ――私はお姉ちゃんのこと大好きだからね。

 ときどき、倫子との遊びの帰りにそう言ってくれるのが嬉しかった。

 今、私と智慧を繋いでいるのは倫子というさやだった。


 やっぱりもう一度誘おう。

 昨日のことが気まずいけれど、このままじゃいけないと思った。でも、智慧の顔を見て誘うと思うと急に怖くなってきた。

 お風呂場のドアの音が聞こえた。私は脱衣所の引き戸を閉めたまま、向こう側で身体を拭いているだろう智慧に声をかける。「なに」と智慧は短く答えた。

「やっぱり、明後日の倫子との食事、いかない?」

 話題を切り出した途端、智慧の表情があからさまに曇った。

「行かないって言ったじゃん」

 大きなため息が聞こえた。智慧を待つあいだ、どう話そうか考えたつもりだったのに、それだけでどうしていいかわからなくなった。私がなにも言い出せずにいると、戸の向こうから「私――」と智慧の声が聞こえた。

「私、トモちゃん嫌い」

 そんなこと、はじめて聞いた。私が高校生の頃から四年ものあいだ、私と智慧と倫子の三人で遊んできたのに。

 自然と口から言葉が出てきた。

「どうして」

「どうして? わからないの?」

 智慧の声が苛立っているのが、私でもわかった。

「いつもお姉ちゃん、バカにされてるのに、わからないの?」

「あれは、倫子の悪ふざけだよ」

 責めるような勢いの智慧に、私はまるで言い訳している気分だった。

 私の言い訳を聞いた智慧は「悪ふざけ!」と信じられないといった様子で叫ぶ。

「トモちゃん、お姉ちゃんのいないところで、いつも私に言うんだよ。いいお姉ちゃん持ったね。お姉ちゃん隣にいるとチィちゃん引き立つもんねって。だからお姉ちゃんと仲良くしてるんでしょって」

 智慧の「ねぇ、これでも単なる悪ふざけだと思うの?」という言葉に、私は言葉を返すことができなかった。

 頭に熱がのぼったと思ったら、それが次第に降りてきて、お腹のあたりでぐるぐると渦巻いていた。そのぐるぐるが落ち着いてくれなくて、話すこともできなかった。

 着替え終わった智慧に「どいて」と言われても、お腹のなかのぐるぐるは収まらなかった。

 ――私はお姉ちゃんのこと大好きだからね。

 倫子と遊んだ帰り、智慧がよく言ってくれたことを思い出す。

 私は見えていなかったんだ。


 倫子との食事会の帰り、帰宅ラッシュとぶつかったのに、電車のシートに座れたのは幸運だった。とはいえ、座っていてもあまり楽な姿勢にはなれない。ぎゅうぎゅう詰めの車両内は、だらだらできるスペースなんかない。

 ぐったりした気分な上に、お腹が空いている。

 なにか甘い物が食べたい。

 ぱっと思いついたのは、自宅最寄りの隣駅にあるコーヒーチェーンだった。

 あそこで甘いドリンクとちょっとしたものでも食べられればいいなと思った。


 隣駅に着き、改札を出てコーヒーチェーンに入ると、カウンターには何人か並んでいた。最後尾で待ちながらスマホを開く。メニュー表を見るより、スマホで公式サイトのメニューを確認する方が選びやすい。画面の右上に表示された時刻は十九時過ぎだった。

 どれにしようかな、と眺めていると、別のことが頭をよぎる。

 ――カタ子、チィちゃんのこと知ってる? 大学の帰りの電車でさぁ、たまに見るんだよね。チィちゃんが男と一緒にいるの。しかも、大人の男だよ? それに見るたびに違う男つれてんの。サークル帰りだったし、夜の八時過ぎてたんだけどさ、何してたんだろうね。

 にやにや笑いながら倫子が言ったことだ。

 帰りが遅かったのは、大人の男と一緒に帰っていて、それも見掛けるたびに違う男だという。

 やっぱり智慧ちさとはおかしい。

 気がつくと、次が自分の番になっていた。

 あわててスマホを見ながら、画面をスワイプして商品を選ぶ。

「ご注文は」

 妙に固い声が聞こえた。私がまごついているのを催促するのに、そんなに緊張しなくてもいいのに。

「あ、はい。すいません」とさっさと選んで伝えようと顔をあげた。

 店員の顔を見て凍った。

 もしかすると店員の顔の方が私よりももっとカチコチに凍っていたかもしれない。

 カウンターの向こうにいたのは、私の妹――智慧だった。


 ホイップをのせた紅茶とサンドイッチを持って、窓際のカウンター席に座った。

 智慧はここでバイトをしていたのか。

 サンドイッチを頬張って、ボトルのストローに口をつける。細かく砕かれた氷が身体を冷やして、紅茶の甘みが頭に回った。

 智慧の通う学校は長期休み以外バイト禁止だ。といっても、遊ぶお金が欲しければお母さんに話せば許可をくれるだろう。

 智慧はなんでバイトをしているのを内緒にしていたんだろう。

 男の人と遊ぶのを隠すなら、お母さんには友達と遊ぶと言えばいいのに。

 それとも高い買い物をしようとしているのかなと考えてみた。

 でも、智慧がそんなものを買っている様子はなかった。いつも帰ってくるときは、学校の荷物くらいしか持っていない。

 スクールバックに隠せるものを買っているのかなとも考えてみたけれど、それもやっぱり違う気がする。

 だって、たとえばアクセサリーを集めていたのなら、必ずそれに合う可愛い服が必要だし、服に合わせてメイクだってしたいはずだ。

 私たちに見えないところで、そこまでやってうまく隠せるものなのかなと、怪しく思う。

 これが他の小物でも同じ気がした。

 せっかく甘い物で疲労回復と思っていたのに、考えていたらまた疲れてくる。

 もう一度紅茶を飲む。今度は上澄みのホイップの部分を吸って、ストローを奥に押し込んで紅茶を飲む。

 窓の向こうを見ると、駅前の夜景が見えた。街の明かりを見ていると、去年観た舞台を思い出す。

 照明が暗くなり、ぱっとスポットがあたった俳優さんがまるで踊るみたいに、歌うみたいに演技をしていた。

 それを熱心に見ながら、目を輝かせる智慧の横顔は美しかった。

 ふいに、直感した。

 自分でもよくわかっていないけれど、わかった気がしたのだ。

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