枝豆姉妹
ものういうつろ
第1話 私、もう行かないから
はじめて
「
晩ご飯を終えて洗い物をしながら、脱衣所から出てきた智慧を呼び止めた。
「私、行かない」
「じゃあ、チィはまた今度って返事しておくね」
スマホを取り出す。時刻の表示は二十二時を過ぎていた。画面にずらりと並んだアイコンから緑色のものを選んで起動する。
「私、もう行かないから」
突き放すような声に、手を止めて振り返り智慧を見る。
「どうして」
「どうでもいいでしょ」
でもと言いかけると、智慧はお姉ちゃんには関係ないでしょと言って、自分の部屋へ向かった。
「ねぇ、ちょっと」
もう一度尋ねてみても智慧は無視する。
ざわざわと胸騒ぎがして、智慧を追いかけた。
「チィ、答えてよ」
振り切るように智慧は足を速め、自室の扉を開いた。
慌ててドアが閉まらないように抑えたときだった。
「入らないでよ!」
鋭くて大きな声だった。
智慧がこんなに大きな声を出したのにびっくりした。見ると智慧自身も驚いた顔をしていた。
我に返ったのは智慧が先で、私が気づいたときにはドアはバタンと閉じられた。
智慧のあんなに大きな声ははじめて聞いた。もともと智慧は大声を出す方じゃないし、むしろ声が小さい方だ。もしかすると智慧自身、人生ではじめてだったんじゃないかなって思うくらい、智慧自身も驚いている様子だった。声の出し方がいつもとまるで違った。
しばらくドアの前で立ち尽くしていた。まだ心臓がどきどきしていた。落ち着こうと息を深く吸い込む。
妹が生まれてから十七年近く、まったく聞いたことのない大きな声で、しかもあれだけ鋭く言われたことなんてはじめてだった。
そう思い至ってから、ようやく自分がしつこかったのかなと思い始めた。どうしてあんなに食い下がっちゃったんだろう。考えてみてもバカな私には全然わからない。
去年、二人で舞台演劇を観に行ったことを思い出す。
YouTubeで偶然見つけた舞台演劇のダイジェスト動画が、とてもかっこよかった。智慧に見せてみたら、おもしろそうと満面の笑みで言うので、私の就職祝いと智慧の高校入学祝いを兼ねて観に行ったのだ。
新進気鋭の劇団の舞台は、想像していたよりも迫力があった。ダンスや音楽と融合した演劇は、難しいことがわからない私でも楽しめた。その帰り道、二人で主演俳優がかっこいいっていう話をしていたのをはっきり憶えている。
いつ頃からだろうか。智慧の様子がおかしくなった。
そういえば、しばらく智慧の部屋に入った記憶がない。
ドアの向こうからドライヤーの音が聞こえた。きっと声をかけても聞こえない。それがなんだか私にもう来るなと言っているように感じた。
耳の奥の方で音が聞こえた気がした。
ぱちん、ぱちん、ぱちぱち。
どうしよう。
ただいまと言って玄関の明かりをつけた。仕事から帰ってくると、大抵家の電気はついていない。
智慧はまだ帰ってきていない。いつ頃からか、妹は遅くまで外にいるみたいだ。
リビングに行って明かりをつける。それから冷蔵庫を開けると、私と
レンジでごはんを温めているあいだ、スマホでSNSを眺めていた。スマホの時刻表示は二十時半を過ぎていた。
お父さんは私が中学一年生のときに死んだ。妹は小学四年生だった。お父さんが死んでから、お母さんはそれまでのパートを辞めて忙しく働き始めた。それでも毎日私たちの晩ご飯は作ってくれる。
そういうお母さんの姿を見て、いつも大変そうだって智慧と話していたから、家事の手伝いを始めるまでにそう時間はかからなかった。
私は洗濯、妹の智慧は掃除とゴミ出しという分担だ。
高校を卒業した私は就職した。お母さんには、奨学金は必要だけれど、行ってもよかったんだよって言われたけれど。家計を助けるため、なんて言えたらきっとかっこよかったのだろう。実際は、やりたいことがなかったし、成績も悪かっただけだ。
とはいえ、働き始めて家にお金を入れるようになると、生活が少しは楽になるようで、晩ご飯がちょっと豪華になった。
私が役に立っていると思えるのが嬉しかった。だから、もしかしたら使うときがくるかもなんて思って、智慧のための貯金というのも今年に入ってから始めた。といって毎月一万円くらいだ。
一方、そんな私と違って智慧はとても賢い。勉強もできるし、高校だって私と違って県内でもトップの進学校だ。きっと大学だっていいところに行くに違いない。
そもそも私と智慧では姉妹なのに見た目からして違う。
それに比べて智慧はとても華奢だ。肩なんか私が触ったら壊れちゃいそうだし、とてもキレイな顔をしている。メイクも映えそうだ。ナチュラルメイクでも元の顔がいいからかわいいし、SNSで見掛けるようなメイクだってやれそうだ。特にぱっと見はちょこっと唇に色を載せているだけに見える、あのメイクをした智慧はきっとかわいい。緑の下地で完全に肌の赤みを消した、実はものすごく濃いメイクだ。
あのメイクには実は憧れてはいるけれど、倫子に「あんたじゃ輪郭も顔のパーツも立派すぎて化粧じゃ誤魔化せないよ」と言われた。鏡を見て、たしかにそうだと思ってから、あのメイクは諦めている。
カタ子の私にはできないけれど、智慧ならどんなものでも似合う。
足音だって、私が智慧につけるなら、キラキラとかサラサラとか、リンリンみたいな音をつけたい。
晩ご飯を食べ終えると、智慧が帰ってきた。もう二十一時半を過ぎていたけれど、何も言わないでおいた。いつものことだし、昨日のことを思うと言いづらい。
「洗濯しちゃいたいから、ご飯の前にお風呂入って」
智慧は「うん」とそっけなく答えて、さっさと自室に向かった。お風呂の前に荷物を置きに行ったのだろう。ちっとも私の方を見なかったなと思いながら、食器を重ねる。
洗い物をしていると、着替えを持った智慧が私の後ろを通って風呂場に入っていった。キレイになった食器を片付けて、脱衣所へ向かった。
シャワーのじゃーじゃーいう音を聞きながら、洗濯カゴを覗いて、またかと思った。
智慧の着ていたブラウス、下着、靴下のほかに体操着が入っていた。
鈍い私が気づいたのはつい最近だけれど、智慧の帰りが遅くなった頃から、体操着を洗濯することが増えたと思う。
「部活、入ってるの?」
そう尋ねたのはこの間のことだ。
「入ってないよ。いきなりなに?」
「いつも外でなにしてるのかなって」
「勉強だよ」
智慧は普段通りに答えたけれど、どこかそれ以上聞けないような雰囲気があった。
いくら私にだっておかしいことがわかる。勉強をしてくるだけなのに、体操着が洗濯に出ることが多くなって、土日にも体操着が洗濯に出されることもある。
智慧はそのくらいお姉ちゃんは気に留めないって思っているかもしれないけれど、そんなことない。
ねぇ、智慧。いつも何をしているの。
ぱちん、ぱちん、ぱちぱち。
耳の奥の方で音がしている気がする。
いつだったかSNSで流れてきたショート動画で聞いた音だ。枝豆が大豆になってさやから弾けるのを録った動画だった。
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