深く脆い青

楓雪 空翠

水族館

 世界はひどく脆い青に包まれて、泡沫は私の吐息と揺蕩い融ける。それは昨日にはなかったものでも、明日にはなくなるものでもない。ただ無機質に循環し輪廻するそれが、私を硝子の檻に引き留めていた。


 ここはとても、とても広い世界だ。一面に広がる芝生と、ラムネ色の空。手を伸ばしても届かないくらいに、遥か遠い天球。星座を指でなぞって眠りに落ち、旭光の眩しさで目を覚ます日々は、単調ながらも飽きの来ないインディーズ映画のようだった。

 単調とは言っても、暇潰しの方法はいくらでも思いついた。疎らに生える果樹から、林檎を採るか蜜柑を採るか。気まぐれでどちらも採って、食べきれなくなりそうになることもしばしばある。それから花畑の広がる辺りまで歩いて、花弁の絨毯に体重を委ねる。洋菓子みたいな香りに酔狂して、微睡んだままに雲を眺める夕暮れ時は、まさに魔法のような時間だった。

 しかしそれ以上に、私には好きな場所がある。毎日フルーツがなる木も、ヒマワリとコスモスが共生する花畑も越えた、ずっと向こう。そこには、群青を纏った硝子の壁が反り立っている。上を見上げても際限はなく、まるで世界を二つに分かつように、ただ粛然とそこに在った。

 壁の向こうもやはり群青色で満たされているが、どうやら不透明の障壁というわけではないらしく、構造物の輪郭がゆらゆらと映し出されている。陽炎のような光の揺らぎを見るに、どうやら向こう側は水で満たされているようだ。波も立たない、満ち引きもない、深海のような水だった。


 そして今日。私はその『向こう側の世界』についてもっと知るために、陽が沈んだ後の端っこへ行くことにした。昼寝を終えてからすぐに歩き出したおかげで、空がまだ茜色のうちに壁まで辿り着くことができた。壁の向こう側は依然として暗く、深い青で充満している。それは星の見えない星空のようで、なんだか少し寂しく思えた。

 やがて太陽がすっかり見えなくなると、もはや彩度すら失った水に、明かりが灯った。何の明かりか、誰が灯したのか、ただ明るくなったことだけがなんとか理解できる中で、目の前を黒い影が通り過ぎた。――魚だ。

 ぼんやりとした光源が浮かんでは消える水中で、大小様々の魚が泳いでいる。銀白色の鱗に乱反射して、私の目に届いたその光は雄大で、それでいて陽炎のような脆弱さを秘めていた。無数の魚影に見惚れていると、一匹の小魚がこちらへ寄って来た。

 そっと手を伸ばすと、ゆっくりと指先を掠めたり、壁をつついたりしてみせている。右の方に歩きながら指を滑らせると、それに合わせて拙く泳ぐ。その様子があまりに可笑しくて、壁に両手を突いて向こう側を覗き込んでみた。

 途端に、今までびくともしなかった冷たい壁が、ダイラタンシーのように私を呑み込んだ。驚く間もなく冷たい水が私を包み込み、気道を圧迫する。ぼんやりと照明の浮かぶ空間で、静寂に包まれた室内で、依然として魚群は渦を巻いている。硝子の内側に戻ろうと伸ばした手は、ただ水を掻くのみだった。


 世界はひどく脆い青に包まれて、泡沫は私の吐息と揺蕩い融ける。それは昨日にはなかったものでも、明日にはなくなるものでもない。ただ無機質に循環し輪廻するそれが、私を硝子の檻に引き留めていた。

 箱庭に縛るその檻は、私から自由を奪い幸福を強制した。理不尽だ、とは思わない。私は理を尽くす世界を知らないから。それでも、一度でいいから未知の景色を見てみたいと、切に願っていたのだ。


 硝子の壁の向こうに覗いた小魚の、私を憐れむような眼が、未だ瞼の裏に焼き付いている。

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深く脆い青 楓雪 空翠 @JadeSeele

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