ヒラ社員

チャッキー

第1話 影の社員



田中浩司はいつも同じデスクに座っていた。

蛍光灯の下で、パソコンの画面をぼんやりと見つめながら、耳に届くのは上司の声と同僚たちのキーボードの音だけ。


「田中君、これ今日中にまとめられるか?」

「ハイ、わかりました。」


口ではそう言った。だが心の中で彼は違うことを考えていた。

『わかろうとしてない、というより、どうでもいい』

彼の目は冷たく、しかしどこか虚ろだ。仕事の内容は頭に入らない。手だけが動く。作業も報告書も、ただ形式的にこなすだけだ。


オフィスの雑音に紛れて、浩司は計画を練る。

密かに、誰も知らない方法で、この空間に秩序ではなく自分のルールを作ることを。


窓の外では春の陽光が差し込む。街は忙しなく、人々は急ぐ。だがここは違う。オフィスの中の時間はゆっくりで、無意味に長い。

浩司は窓の外を見ながら、誰にも気づかれず、誰も止められないことを夢想した。


最初の標的は上司の小林課長。

口うるさい、細かすぎる、無駄に威張る。社員の誰もが息苦しさを感じている男だ。浩司にとって、その存在は目障りでしかない。

『始めるにはちょうどいい』

そうつぶやき、机の引き出しから小型の麻酔注射器を取り出す。

毎日見る顔、聞く声、触れる資料のすべてを観察しつつ、タイミングを計る。


昼休み、同僚たちが外へランチに出る中、浩司はデスクに残った。

誰もいない会議室に小林を誘い込み、いつも通りの仕事の説明をさせる。

話す課長の目の奥に、浩司は冷静に針を合わせる。

『動きが止まった瞬間、全てが静かになる』


針を刺す、わずかな抵抗、しかし注射の効果はすぐに現れた。

課長は椅子にぐったりと崩れ落ちる。

浩司は深呼吸し、心の中で微笑む。

『これで一歩目は完了だ』


だが外の世界は常に動いている。

監視カメラ、警備員、同僚の戻り。

一瞬の隙も見せられない。浩司は全てを計算し、すべてを回避する。

それは現代オフィスという戦場であり、同時に彼にとっての遊戯だった。


午後、電話が鳴る。

「田中君、会議室に課長いる?…あれ、戻ってないのか」

声の主は総務の課長。浩司は無表情で答える。

「ええ、ちょっと外出しているみたいです」

すべて計算通り。誰も怪しまない。


オフィスの片隅で、彼は作戦ノートに次の標的を書き込む。

小林の次は、経理の佐藤。

無駄な仕事で社員を苛立たせる存在、邪魔な存在。


「もう一歩、進むだけ」

浩司はつぶやく。

ペン先がノートの紙を走る。その文字は冷たく、計算されたものだった。


夜、オフィスを出るとき、街は明かりに溢れていた。

誰もが普通に生活し、通勤し、家族と会話し、笑っている。

浩司はその光景を無表情で見つめる。

『俺はその世界の外にいる』


帰宅して小さなアパートの鍵を閉めると、彼は静かに座り込み、ノートを広げる。

ページには次の計画が描かれている。

次の密殺の標的、回避経路、警察の動線、目撃者の有無。


そして彼は心の中で、自分自身に問いかける。

『この世界で、俺は何を得たいのか?』

答えはまだ出ない。

ただ一つ、確かなことは、

誰も知らない、誰も止められない、俺だけの秩序を作る――

その感覚だけだった。


窓の外、夜の街にネオンが瞬く。

浩司の影は長く伸び、暗闇の中に溶け込む。

誰も気づかない。誰も見ていない。

だが、彼の手の中にはすでに次の行動の計画が握られている。


この夜から、田中浩司のオフィスでの「影の支配」が始まった。

誰も知らない、密やかで、恐ろしく冷静な物語が、静かに動き出したのだった。

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