第21話
※
その施設は、全員で六十名ほどの子供たちが暮らす、大型の施設でした。施設に詳しい人間からは、
住み慣れた部屋から出ることがたまらなく怖かったものの、その施設での新しい生活は、それを上回るほどの新鮮さと驚きで満ちていました。わたしはゴミのないきれいな部屋に驚き、大きな食堂に驚き、そして浴槽が浴槽として機能している、プールのような広い浴室に驚きました。湯船に浸かったのは、憶えている限り、そのときが初めてでした。家族以外の人間と話したのもそのときが初めてです。無数の初めてがそのときのわたしを絡め捕り、感情を抱かせる間もなくして、毎日がめまぐるしく過ぎ去っていきました。
しかしそこでの生活は、約半年ほどで終わってしまいました。兄が年配の女性保育士より、性的な虐待を受けていたことが、他職員からの告発によって発覚し、一部の週刊誌に大きく取り上げられてしまったのが原因でした。その保育士は懲戒解雇となり、わたしたちは施設の責任者が運営している、別の施設へと移り住むことになりました。小学校を転校しないでも済むよう、可能な限り遠くにある、同地区の施設でした。それは施設側が下した兄に対する、せめてもの配慮だったようでした。
次に移った施設は、以前のような大舎制ではなく、一般的にグループホームと呼ばれている、地域密着型の、ごく小規模な養護施設でした。建物はごく普通の一軒家なので、外見的に、施設とはわかりません。グループホームは、大型のそれに比べ、より家庭的な雰囲気の強いのが特色の施設です。そこには、兄とわたしの他に、四人の子供たちと、親戚同士なのだという、中年の男女の二人の保育士が、一緒に暮らしていました。通いでやって来る若い女性の保育士も一人いて、彼女も二人と血縁があるらしいとのことでした。
そこでの生活は、安定していました。住んでいる二人の保育士も、兄の事情を知っていたようなので、兄に対しては、優しく接してくれていたようです。しかしそれはあくまでも初めのうちだけで、今度はそこで、わたしが性的な虐待を受けてしまいました。わたしは男性の方の保育士と一緒に、時々入浴するようになりました。そのことについてもう一人の女性の保育士は、何も言いませんでした。
その男性の保育士は、わたしと入浴する度に、石鹸を泡立てた手のひらで、わたしの全身を執拗に撫で回したり、ここもきれいにしなければいけないと言いながら、性器に指を挿し入れてきたりしました。わたしが嫌がると、お兄さんがどうなっても知らないからねと、あからさまに脅迫までしてくる始末でした。しかしなんのことはない、いざ蓋を開けてみれば、三人の保育士の全員から、陰では兄も、身体的な虐待を受けていたのでした。兄だけではなく、そこにいる全員の子供たちが、多かれ少なかれ、何かしらの虐待を受けていたようです。兄よりも一つ年上の女の子などは、悲しいことに、男性の保育士から、まともに性の対象として扱われていたようでした。そこは、その中年男性の保育士を中心とする、三人の保育士によって、暴力で支配されていた施設だったのです。他にその施設に出入りする大人はおらず、わたしたち子供は、誰一人外部に訴えられるほど成長していなかったというのもあり、事実が明るみになることは、なかったのです。
しかし、その数ヵ月後のことでした。長い間その施設で続けられていた数々の虐待の事実が、ある二人の人間によって明るみにされ、わたしたち全員は、解放されることになりました。皮肉にも、その二人の内の一人とは、わたしたちの母親でした。ある日突然、一人の見知らぬ男性と共に、母親が施設へと現れたのです。
おそらくは週刊誌を通じて知ったのでしょう。母親は、兄とわたしを速やかに引き取ったあと、その男と共に行動を起こし、兄を虐待していたことに対する慰謝料を、施設を経営する人物から勝ち取ったようでした。その中には、次に行ったグループホームでの虐待の分も含まれていたようです。わたしが母親にした告白を基に、男が自ら人を雇って独自に調査をし、施設の実態を暴き出したのです。そうしてわたしたちを虐待していた三人の保育士は、すぐさま懲戒解雇処分となり、そのグループホームは、閉鎖されることになりました。
その男のやったことは、確かに正義ではあったのですが、結局のところ、動機は利権にしかありませんでした。その証拠に、その男は母親を使い、刑事訴訟を起こさないことを条件に、施設の運営者を脅迫し、決して少なからぬ額の慰謝料を、ごく短期間の内に現金で受け取ると、わたしたち兄妹を、違う地区の養護施設へと預け、再び母親と共に、姿を消してしまったからです。その際、兄は転校をひどく嫌がったのですが、聞き入れてはもらえなかったようでした。
ただ、それらのすべては、あとになってから知ったことなので、その頃のわたしたちには、何がどうなっているのか、自分たちが一体今どういうことになっているのか、まったくわけがわかりませんでした。まったくわけがわからないまま、わたしたちは新たなる養護施設の門をくぐり、そこでの生活を始めました。そこは二番目に入った施設と同じような体系の、小規模な、初老の夫婦の保育士が個人で運営をしている、ファミリーグループホームと呼ばれる施設でした。
その施設に入る前の、約一ヶ月ほどの間、母親とその男と、わたしたち兄妹の四人は、全員でウィークリーマンションに住んでいたのですが、皮肉なことに、そのときのわたしは、幸せでした。おそらくはわたしだけでなく、兄も同じだったと思います。わたしたちは毎日、好きなものを好きなだけ食べ、欲しいものを買ってもらいました。そのときはちょうど夏休みの期間だったので、そのほとんどを、全員がマンションで過ごしました。昔の生活が、戻ってきたかのようでした。母親は絶えず笑顔を見せ、いつになく優しく接してくれました。母親のことを思い出す度に、憎んでいるはずなのに、不思議とそのときの優しかった笑顔を思い出してしまいます。
それがゆえに、再び母親に捨てられたのだと悟ったときに、わたしたちの心は、大きく引き裂かれることになりました。特にそのときの兄の落ち込みようは、わたしから見てもはっきりとわかるほどでした。兄は、母親はもとより、その男のことを信頼し、尊敬さえしていたのです。
それ以来、兄は目に見えて、荒れ始めてしまいました。本来の兄は、とてもおとなしい内向的な性格で、どちらかと言うと、いじめるよりも、いじめられるタイプの人間だったのですが、その頃以来、いじめる側に立つようになりました。転校先の学校で同級生に暴力を振るい、恐喝行為などの問題を度々起こし、生活のためにではなく、快楽のために盗みを繰り返すようになりました。煙草や酒や、シンナーなどの薬物にもいつからか手を染め始めました。まだ、小学校六年生だったにもかかわらずです。当然、学校でも施設でも、周りの人間は、兄を避けるようになりました。わたしもどうしていいかわからずに、そんな荒れてゆく兄の姿を、ただ遠巻きに眺めていることしかできませんでした。
これは余談になってしまいますが、その頃の兄は、きっとわたしの分まで、荒れていたのだと思います。と言うのも、兄がそのように荒れていなければ、わたしが同じような行動を取っていたような気がするからです。そういう人間がいると、すぐ身近の人間の負の感情は、自然と抑えられてしまうのかもしれません。そのこともあって、最近のわたしは、自分と同年代の人間が起こした、凶悪な事件をニュースで見かける度に、そういう人間はもしかしたら、似たような境遇にいる者の想いを、無意識に背負っているのではないかと考えるようになりました。そう考えると、あの悲しい事件を起こしてしまったのは、兄ではなく、わたしであったかもしれないのです。ですから、兄がわたしの肉親だということもあるのですが、それとは別に、そのこともまた、わたしに筆を執らせた原因の一つになっています。
そんな風に、目に見えて荒れてゆく兄のことを、ぎりぎりのところで思い止まらせてくれたのは、わたしたちが新たに入った施設を運営している、初老の夫婦の二人でした。旦那さんの方は、顔つきや身体つきよりも、あたかも制服のようにそればかり身に着けていた、いつでも襟元まできっちりとボタンを留めている、緑色のチェック柄のシャツの方が特徴になるような、外見上は特に変哲のない、至って普通の男性です。奥さんの方も、顔よりはどっしりとした体つきと、いつも巻いている花柄のエプロンの方が記憶に残るような、外見的には、至って普通の女性です。しかしその見た目から受ける印象とは裏腹に、その二人ほど誠実で尊敬できる人間に、わたしはいまだ、会ったことがありません。
これはあとになってから兄に聞いた話なのですが、兄が何か問題を起こす度に、二人のうちのどちらか一人が、被害を受けた者の前に出て行って、兄の代わりに、深々と頭を下げてくれたそうです。たとえどんなに怒っている相手でも、彼らに頭を下げられると、どういうわけか怒りが治まるのだと、不思議そうな顔で兄は言っていました。実際にその二人のおかげで、警察沙汰になってもおかしくないほどの出来事が、事なきを得ずに済んだということが、いく度もあったようです。そしてその帰りに、いつも決まった駅前の甘味処で、ほとんど言葉を交わすことなく、二人で何か、甘いものを食べるのだという話でした。そしてその度に、二人のどちら共が、この店に来たことを、相手には内緒にしておいてくれと、微笑みながら頼むのだそうでした。本当に心を許すことのできる大人が、初めてわたしたちの前に現れたのです。
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