第20話
※
店を出ると、近くの飲み屋までぼくたちは歩いていった。てんなちゃんは眠ってしまったのだろうか、一緒に来ていないようだった。訊ねようと思ったけれど、姉さんは三太君の手を振り振り歌うことに忙しそうだったから──と言っても言うまでもなく、歌っているのは姉さんだけで、三太君はエイハブ顏のまんまだった──、今はやめておくことにした。さっき三人と伯母さんが言っていたことを考えると、あの時点でてんなちゃんが行かないことは、決まっていたのかもしれない。
五分ほど歩いてたどり着いた店は、以前ぼくも何度か会ったことのある、姉さんの高校時代の親友、ゆみいなさんとその母親が経営している、こじんまりとしたスナックだった。紫色の四角い看板が脇に置かれた、分厚い板チョコのようなドアをくぐって入店し、敷き詰められている年季の入ったカーペットの上を歩き、一番奥に位置する、別珍でワインレッドの、ほんの少しだけ埃っぽいソファー席に腰を下ろすと、姉さんとぼくはとりあえずオリオンビールの中ジョッキと枝豆を頼み、三太君用に、オレンジジュースとお菓子を適当に見繕った。けれど三太君は席に着いた早々うとうととし始めて、かと思ったら、姉さんの腿の上にばったりと横向きに倒れ、そのままぐっすりと眠り込んでしまった。
「ずいぶん疲れとったみたいやね」三太君の頭をなでながら姉さんが言った。
「いろいろあったからね」ぼくは熱いおしぼりで顔を拭いた。
「いろいろ?」
「まあ、いろいろ」
「何があったん?」
「それは教えられないかな」きっぱりとぼくは言った。「男同士の秘密だから」
「何が秘密たい」姉さんは言った。
そこで飲み物がやって来て、ぼくたちは乾杯をした。
どうやらぼくたちが一番乗りだったらしく、お客さんは他に誰もいなかった。オーナーであるおばさんもゆみいなさんもまだのようで、たった今ビールを持ってきてくれた、ぼくよりもいくつか年上っぽい男の人が、一人で店を切り回しているようだった。彼は身長こそ低めだけれど、なかなかに喧嘩の強そうな、だけどものすごく優しそうな感じの、都会的な雰囲気を醸し出している男性だった。あれ、君って確か、竺くんだよね? 久しぶり、としゃがれ声で言われたのだけど、誰なのかまったく思い出すことができなかったぼくは、どうもです、と言って頭を下げてごまかした。にやりと笑って彼が去ったあと、ねえ、あれって誰だったっけ、と姉さんに訊ねたのだけど、姉さんも彼と同じようににやりと笑っただけで、教えてくれようとしなかった。
「まあ今に思い出すけん」ぼくとジョッキを重ね合わせ、ぐいっと一口ビールをあおったあとで姉さんが言った。「そげんしても、三太が楽しかったみたいでよかったたい」
「うん」ビールを飲んだあと、なぜか海老フライであるお通しをつつきながらぼくは答える。そのあとに続けて、ねえ、三太君ってひょっとして……と訊こうかどうか迷っていると、姉さんの方から切り出してきた。
「ところで竺、この子、なんかしゃべったりした? 声を出したかどうかって意味なんやけど」
「しゃべってない、かな」やっぱりそうだったんだ、とぼくは思った。「何、もしかして三太君って……」
姉さんが真剣な目でぼくを見た。ぼくは口元まで上げたジョッキをテーブルに戻した。「だけど、最後に会ったときは確か……」
「去年の春辺りからね、しゃべらんようになったんよ」姉さんは無音のため息をついた。「ちょうど、この子の父親が出て行ったときくらいから」
「一言も?」
姉さんがうなだれるように頷いて、ぼくはビールを一口飲んだ。「……そうなんだ」
でもね、原因はそれだけじゃないみたいんよ。ぼつりと姉さんは言った。
「他にもあるんだ?」
「多分、そっちの方が問題と思うんやけどね……」
姉さんは頷いてそう言ったけど、それ以上何も言わなかった。しばらく待ってみたけれど、伏し目がちにオリオンビールの泡をじっと見つめたまま、やっぱり何も言いそうにない。それでぼくは一旦話題を変えることにした。
「そう言えば、てんなちゃんは家? 疲れて眠っちゃった?」
ぼくが言った瞬間だった。姉さんが弾かれたように顔を上げた。
「な、何?」
「あんた、なん言っとうと?」そう言った姉さんの目は、どういうわけか、怒りに燃え始めているように見える。
「え? おれはただ、てんなちゃんは疲れて眠っちゃったのかなって、そう訊いてみただけ──」
「竺、わたしがそういう冗談すかんの、あんた知っとるよね?」
混乱してぼくは言った。「いや、ちょっとみっちゃ──」
「一体なんであんたがあの子のこと知っとるのか知らんけど、亡くなった命をちゃかすような真似だけはやめんさい」
ぼくはジョッキを落とすようにテーブルに置いた。ショックで持ち続けていることができなかったからだ。……ごめん、と言ったあとに続けてぼくは訊いた。「ってことは、てんなちゃんは、『いない』ってこと?」
「当たり前やないの」
姉さんは今や、本気で怒る寸前だった。けれどこれだけははっきりさせとかなければならないと思ったぼくは、勇気を出して訊いてみた。
「ごめん、でもこれだけは教えてよ。島には何人で戻って来たの? 三太君と二人? それとも、てんなちゃんと三人?」
「二人に決まっとるやないの!」姉さんはジョッキを音を立ててテーブルに置いた。思わず振り返って見ると、カウンター内でグラスを磨いていた男の人が、怪訝そうな顔でこっちの様子を窺っている。
「それ以上くだらないこと言ったら、いくら竺でも許さんけんね!」
──見ると、姉さんの両目には、涙が浮かんでいた。ごめん、とまたぼくは言った。頬を伝い始めた涙を払うように指先で拭きながら姉さんが話し始める。
「まだたった五歳の子が、あんな機械に繋がれて、全身チューブだらけになって、どれだけ辛かったことか……」
そこで姉さんははっと顔を上げてぼくを見た。ぼくには姉さんが、優衣のことを思い出したのが直感でわかった。つまりそれは、姉さんがわずか三歳で逝ってしまった優衣の存在を、忘れてしまっていたということの裏返しだった。
「ごめん竺、わたし、わたし……」
いいんだ、気にしないで。ぼくは言った。今日一日てんなちゃんの幽霊と過ごしたことは、黙っておくことにしようと決めながら。必死で落ち着こうと心がけながら。
「……こっちこそ、変なこと言って悪かったから。どうかしてたよ。でも、良かったら教えてくれないかな。その、てんなちゃんのこと。名前だけしか知らないんだ。やっぱりてんなちゃんが亡くなったってことが、関係してるの? 三太君がしゃべらなくなったことと」
姉さんは姉さんで、必死に落ち着こうとしているようだった。口を閉じたまま大きな呼吸を繰り返している。
長い沈黙が過ぎ去ったあと、三太君の頭をなでながらようやく姉さんは話し始めた。
そのとき姉さんが聞かせてくれたところによると、てんなちゃんと三太君は、保育園で一番の仲良しということだった。家が近所だったということもあって、家族ぐるみで付き合っていたらしい。そのてんなちゃんが、ウィルス性の急性心臓病に罹って亡くなってしまって以来、三太君はまったく口を利かなくなってしまったとのことだった。
「医者には診せたんだよね?」
姉さんは頷いた。
「なんて言ってたの?」
「待つしかないって。三回違う病院で検査したけど、脳にも声帯にも、器質面での異常は、一切ないみたいだからって……」
「そうなんだ」
──直後、まるで酸素を求める水棲生物かのように、昼間耳にしたてんなちゃんのとある言葉が、記憶の水面までぶわりと浮かび上がってきたけれど、黙っておくことにした。ジョッキを両手で握りしめながら、言いにくそうに姉さんが言った。
「この子、きっと責めてるんやないかな、わたしのこと」
「まさかそんなこと……」ぼくは驚いて姉さんを見て、眠っている三太君の顔を見た。「だってまだ六歳だよ?」
軽く笑ったものの、冗談でもなさそうに姉さんは左右に首を振った。
「なんにしても、やっぱり親としての責任は感じるよね。もし父親が出て行ってなければ、こんなことにはなってなかったような気がするけん……」
ぼくは三度だけ会ったことがある、三太君の実の父親で、南子姉さんの二番目の旦那さんを思い出した。日本人にしてはとても彫りの深い甘い顔立ちをしていて、背が高くて、物腰が柔らかくて陽気でおしゃべりで、そしていつも酔っ払っていたあの人のことを。
「それに、いくらなんでも普通じゃないやろう? 小さな子供が一年近く、一言もしゃべらんなんて」
ぼくは曖昧に頷いた。
「けどま、他には何の異常もないみたいやし、生きとってくれるだけで充分、ってところはあるんやけどね」
何も応えることができないままビールをあおったぼくに、すかさず姉さんが続ける。
「またごめん竺、わたし、そんなつもりじゃ……」
「わかってるよ」ぼくは息をついた。「大丈夫、わかってる」
「……それにしても、本当にひどい事故やったね」
姉さんが気を使ってそう言ってくれたことはわかっていたのだけど、ぼくはこう返さずにはいられなかった。
「ねえみっちゃん、あれは事故なんかじゃないんだよ」ぼくはジョッキの取っ手を握りしめた。ほんの一瞬、優衣をはねる直前に少年が浮かべていた、薄ら笑いが脳内に浮かんで消えた。「あれは、『絶対に』事故なんかじゃないんだ」
驚いた顔で姉さんがぼくを見た。「……うん、そうやね。あれは事故なんかじゃないんよね、絶対に」
このままじゃいけないなと思い直したぼくは、明るい声を意識して、ビールのお代わりを注文した。その後新しいビールがやってきたときに、オーナーであるおばさんが店に入ってきて、みよこ伯母さんとはまた違った豪快さを以ってして、姉さんとぼくに挨拶をしながらどしどしと厨房に入っていった。おばさんの着ているやたらと光沢がかったドレスの背中を見つめながら、ってゆうか今日はゆみいなさんはいないんだね、となにげなく言ったぼくの一言に、なぜか姉さんのみならず、ちょうど空いたジョッキを下げようとしていた男の人までもが一緒になってくすくすと笑い始めた。
「え?」とぼくは言った。
「実はおるから、ゆみいな。最初からずっと」
「どこに?」
姉さんは視線を横に流した。
「どうも、ゆみいなです」とハスキーな声で男の人が言った。
ぼくは自分の顔が赤くなってゆくのがわかった。「あー、そうだったんですか。すみません気が付かなくて……」
「その方が嬉しいけどね」
ぼくの顔はさらに赤くなった。
テーブルから離れてゆくゆみいなさんを見ながら、小さな声でぼくは訊ねた。「ねえみっちゃん、ここってさ、六本木とかじゃないよね?」
「人口約五万人の奄美市じゃっど」そう言っておかしそうに姉さんは笑った。
その夜、ゆみいなさんとはほとんど言葉を交わさなかったのだけど、ぼくはその数日間を思い出す度に、彼のことをもまた思い出さずにはいられないのだ。正直それは、彼が元女性だというインパクトがおおいに関係あるのだけど、でもそれ以上に、彼が周りの地元の人間たちと、とても楽しそうにやっていたからだということもある。誰もが誰をも知るようなあんな小さな島で、彼のような目立つ人間がうまくやっていることに、びっくりしてしまったのだ。ぼくは自分で経験してきたということもあって、田舎の人間の悪い意味での保守的なところをよく知っているつもりだったのだけど、やはりどこにでも例外はあるのだな、と妙に感心した。
ちなみに姉さんから聞いた話によると、ゆみいなさんは長い間本当に六本木で暮らしていて、そこで勤めていたホストクラブで、常に売り上げナンバー3を保っていた、なかなかにやり手のホストだったらしい。と言ってもゆみいなさんは、お客に無理にお金を使わせないために売り上げが突き抜けないだけで、実質的には、文句なしのナンバー1だったということだ。けれど一昨年の暮れに、父親が脳梗塞で亡くなってしまったのを機に帰郷して、そのまま母親の経営するその店を、手伝っているという話だった。それ以上の詳しいことはなんだか失礼な気がして訊けなかったけれど、ただゆみいなさんが帰ってきて以来、店の売り上げはじわじわと上がり続けているらしいということだ。
でもこんな風に考えをまとめられるのは、あくまでも今だからのことで、とにかくそのときのぼくは、てんなちゃん──とあの老夫婦──のことで、頭がいっぱいだった。本当にてんなちゃんは存在していなかったのだろうか? 幽霊だったのだろうか? あの老夫婦の旦那さんが言っていた能にまつわる一連の話は、そのことに関係していたのだろうか? そして老夫婦は本当にガジュマルの木の妖精だったのではないだろうか?
とそうすると、老夫婦にはてんなちゃんが幻だったことが、初めからわかっていたのだろうか? いくら自分の一族が代々祈祷師を生業にしているとは言え、はたしてそんなことが、起こったりするのだろうか?
でもそうだと仮定すると、これまで微かに覚えていたいくつかの違和感に、すっきりとした説明がつけられることは確かだった。それは南子姉さんが、てんなちゃんを一度も正視したことがないこと、話しかけたことがないこと、てんなちゃんが物を持っているところを見たことがないこと、飲食物を摂取しているところを見たことがないこと、みよこ伯母さんが三人と言ったこと、そして旦那さんが、まるで自分が人間じゃないかのような言葉遣いで終始しゃべっていたことなどの、違和感にだ。でもそれは、すべてが気のせいと言えばそうと言えるレベルの出来事であったことも事実だったから、ぼくは今一つ確信が持てないでいた。
そんな具合に、あたかも無重力空間にでも放り込まれたかのように、ふわふわとふわついている思考を現実に繋ぎとめるために、そのときのぼくは、とにかく飲まずにはいられなかった。ピッチの速さを心配する姉さんをよそに、早々にビールを切り上げたぼくは、黒糖焼酎のロックを立て続けに三杯あおった。それでようやく地に足を付けることができたような心持ちになることができた。
「ちょっとあんた、そんなにペース早くて平気?」
「大丈夫、もう落とすから」
思い切ったように姉さんが言った。「ところでさっきのてんなちゃんのことやけど、ひょっとして竺、あんた本当は……」
姉さんが何を言わんとしているのか、ぼくにはちゃんとわかっていた。姉さんはぼくがてんなちゃんの幽霊を見たのかもしれないという可能性に、すっかり気が付いてしまっているのだ。それでぼくは、一瞬ありのままを正直に話してしまおうかとも思ったけれど、でももしそうしたとして、それからどうなる? 二人で幽霊談義にでも華を咲かせるのか? とそう考えたら、結局は虚しい想いに陥ってしまいそうな気がしてしまったから、寸前で思い止まって、いや、何もないよ、と言った。
だったらなんでてんなちゃんの名前知っとったん? と顔に書いてある姉さんにぼくは続ける。
「てんなちゃんのことは、あの人に聞いたんだ。ほら、あの、すごくおしゃべりな……」
「君子叔母さん?」
君子叔母さんには悪かったけれど、彼女の名を使わせてもらうことにした。「そう君子叔母さん。で、あんな訊き方したのはほら、ちょっと魔が差したんだ。驚かせてやろうと思って。だからもうほんとに忘れて。ちゃんと反省してるから」
何か言いたげだったけれど、姉さんはそれ以上訊ねてはこなかった。少しの沈黙のあとで姉さんが言った。「それはそうと、麻凪さんは元気なん?」
「麻凪? 麻凪かあ。さあねえ、どうだろうねえ」
「何ねその言い方は」
ぼくは首を傾げた。話題が見つかったことにほっとしたのか、いつもの調子に戻って姉さんが言った。
「なんかわけありそうやない。話してみんさいよ」
「いいよ」
「いいから話しんさいよ」
「いいって」
「話しんさい」
それで仕方なくぼくは、話すことにした。今までの二人のこと、最近の二人のこと、そして今回の旅行のことを。優衣のことを暗に語りながらも、でも、直接は名前を出さないように気を付けながら。情けない話、それはほとんど麻凪に対する愚痴だったけれど、かなり酔ってしまっているせいで、一度話し出したが最後、止めることができなくなった。ぼくは機関銃どころか、掘削機のごとく勢いで話し続けた。本当は誰かに話したくて話したくて、たまらなかったのだ。話しながらその事実に気が付いた。
すべて聞き終えたあとで姉さんが言った。「それで、竺はこれから麻凪さんと、どうしたいわけ? 別れたいの?」
「かもしれないね」
自分で言ってびっくりしてしまったけれど、訂正はしなかった。カウンター席に着いた新規の男性客が、昭和の歌謡曲を熱唱しだして、喧しい沈黙が流れ始める。
「でも」と姉さんが言った。
ぼくは心の中で訊き返した。でも?
「でもそうやって、何かがある度に相手を責めて、別れて、また違う人と付き合って、一体何になるのかなってわたしは思うんよね。自分が一度、心から愛した人と──そうやろう?──乗り切れなかった問題を、果たして違う人と乗り切れるのかなって。きっとまた同じような問題が起こったときに、同じようにつまずくんやないやろうか」
「何、つまりみっちゃんはさ、我慢して付き合い続けろって言うわけ?」
「ある程度はね」姉さんは頷いた。「一人でいることが、嫌だったらよ? そんなこと、できそうになか?」
「どうだろうねえ」
「ねえ、勘違いしないでほしいんやけど、わたしは何も正しいことを言おうとしとるんじゃないんよ? ただ自分の考えを言うとるだけ。それはわかっとる?」
「もちろんわかってるよ」
「あと、わたしには何も言う資格なんてないってのも自分でわかっとる。なんせ二度も失敗しとるんやからね」
ぼくは無言で焼酎を飲んだ。
「だけどね、だからこそ、忠告できることもあると思うんよ」
「どんな?」
姉さんは背を曲げてぼくの目を覗き込んだ。「よかね竺、あんたはたとえ、本物の女神さまと暮らしたとしても、今と同じように嫌になってしまうときが来るって思うと」
話しているうちに、なんだか弾みがついてしまったぼくたちは、ビールをチェイサー代りに、結局ボトルキープしてしまった黒糖焼酎をロックで飲み続けながら、延々と話を繰り広げた。いつの間にか店内は多くの客でひしめいていて、満卓の状態だった。
いきなり姉さんがテーブルを叩きつけた。「みんななんか勘違いしとるんよ! 一人でいることができないから結婚したくせに、したらしたで相手の文句ばっか言って、当たり前のように浮気して、すぐに別れて。そんなの最低やって思わん? だったら初めから結婚なんか、しなきゃよかとに。ってこげんこと言うとよく『別れると思って結婚するやつがいると思うか』なんて逆ギレみたいに言う人がおるけど、わたしはそういう人って、けっこうたくさんおると思うな。っていうか世の中もしかしたら、そういう人ばっかりなんじゃないのかなって思ったりもする。だって周りを見とるとね、みんな好きで結婚したとは、どうしても思えんとよ。単に世間体とか寂しいとか、そんなご都合的な理由で結婚したとしか思えないんよ」
なんだかそれは姉さん自身の話のように聞こえたが、深くは突っ込まないことにした。
「ちょっとあんた、黙っとらんでなんとか言いんさいよ、ほらあ」
姉さんはテーブル越しにぼくのアロハシャツの襟ぐりを掴むと、ゆらゆらと左右に揺らした。
「んー、でもそれはー、本人たちのー、自由なんじゃないのかなあ」
「そうだよ? 自由だよ? そしてその自由で子供たちが犠牲にされる」
「そっか」妙に納得してぼくは言った。「あ、けど今ちょっと思ったんだけどさ、逆に不幸な環境が、子供にとってプラスになる場合だってあるのかもしれないよ?」
呆れた顔で姉さんは言った。「あんた馬鹿じゃなかと? 子供のためって言ってわざわざ子供を傷つけることが、まともな親のすることだって思うん? 小さい頃に、不幸な環境で育った人たちをあんたが何百人も調査して、そういうことを専門に研究しとるって言うんならわかるけど。それとも、そういう研究をしとるの?」
「してない」
姉さんは掴み続けているぼくのアロハシャツの襟を、容赦無く手前に引いた。拍子に地鶏の刺身の載った皿がずっとずれ動いた。
「だったら間違ってもそげんこと言わんでくれる? 不幸な環境の方が、子供のためになるかもしれんなんて、そんな馬鹿げたこと。そんなんはね、放棄した子育てを正当化してるだけの、馬鹿親の言い訳にすぎんとよ。それに第一、もしもそういう人がいたとしても、いい環境で育てば、もっともっとその人は幸せになっただろうとは思わんわけ? 褒めて伸びない子は叩いても伸びない、そんな風には考えられんわけ?」
「いや、何もそこまで大げさに言わなくても。っていうかそろそろ本気で苦しいから放してよ」
姉さんが気付いたように手を放し、ぼくはシャツの襟ぐりを整えた。
「いやさ、おれもただ自分の考えを言ってるだけなんだよ。経験を基にしてね。みっちゃんも知っての通り、おれも小さい頃の環境は決してよくなかった方だと思うけど、そんなことはもう、全然気になんてしてないからさ。むしろよかったとさえ思ってるぐらいだから」
「気が付いてないだけよ」姉さんは言った。「気が付いてないだけで、心のずっと奥の方じゃ、気にしとるの。ちっちゃい頃のあんたがね。膝を抱えて、しくしくと泣いとるんよ」
「そういうものかなあ」また伸びてきた姉さんの腕をかわしながらぼくは焼酎を一口飲んだ。「じゃあみっちゃんの言うそのご都合的な結婚を防ぐには、一体どうすればいいんだろうね?」
姉さんはテーブルにずいと片肘をつくと、邪悪と言ってもいいような顔で微笑んだ。
「結婚前にね、嘘発見機にかけるんよ。あなたはこの相手を本当に愛していますか? ってね」
その夜ぼくは、姉さんが泥酔すると、筋金入りの説教魔になってしまうことを思い出した。姉さんの話は恋愛や結婚を通り越して、なんと世界経済や哲学にまで及び、その後どういうわけか、こんな話題にまでたどり着いた。人が人を変えられるかについて。
ぼくは言った。「人が人を変えることなんかできない。人が変わるときは、誰かに言われたからとかじゃなくて、ただ単にその人が変わるべき時期にたどり着いたからなんじゃないのかな」
「ふん。そんなのわかったふりをしとるだけの、ただの馬鹿ちんの理屈やね。くだらなか」
「そうかな?」
「だって人は人を殺すことができるやろう」姉さんは言った。「個人の負の情熱によって、一人の生きた人間を、単なるたんぱく質の塊に変えることができるやろうが。だったら逆に、正しい情熱で、逆の方向に変えることもできるはずやろう?」
「あー」とぼくは言った。「ひょっとすると、そうかもしれない」
こんなことも話した。信じることについて。と言うのも、麻凪が隠れて新興宗教まがいの本を読んでいることを、ふっと思い出したからだった。でもそのことを言うのはなんとなく気が引けたから、それ関連の話題が出たときに、それとなく話を振ってみた。
「っていうか信じることってさあ、さも美徳のように言われてるけど、そんなに大切なことなのかなあ。なんだかあんまり必要ないような気がするんだけど」
「なんでよ」
「だって信じても信じなくてもあるものはあるし、ないものはないじゃないか。っていうか信じるってことは実は、単に怠けたいって気持ちを正当化してるだけのような気がするんだけど」
姉さんは焼酎をぐっと一口飲んだ。「何言っとんの。信じたからこそ生まれてきたものだってたくさんあるじゃないよ。って言うよりも、そういうもので成りたっとんのよ、この世の中は。それに、あんたが今言った怠惰うんぬんについても、ちょっと考えてみんさいよ。たとえばもし麻凪さんが浮気してるかもしれないってときに、信じることと疑うことの、どっちが大変だって思うん?」
「そう言われると、確かに信じることの方が大変かもしれないね」
「そうやろ? だいたいものごとってもんはね、いつだって大変な方の道に、より正しい真実があるもんなんよ。よか? ってことは信じるってことは、何かが存在するための、第一歩ってことになるやろうが。現にそうやってこの世界はここまでたどり着いたんよ。もしも信じることがなかったら、魚は陸に上がらんかったし、ライト兄弟は飛行機だって造ることができんかったし、誰もみんな、いまだに地球が回ってるってことさえ知らんかったかもしれんやろうが。それともなん? あんたはずっと、恋することも旅することもなんにもできない、アメーバか何かのままでいた方がよかったって言うと?」
「ぶっちゃけそう思うときもあるよ」
姉さんはふんと笑った。「嘘っぱちよ、そんな考え。あんたは人間として生まれてきてよかったと思っとる。どれだけ人生や人間に──もしくは自分自身に──絶望しようともね。なぜかって言うとね、いい? よく聞いて。あんたが絶望できるのは、人間として生きているからなんよ? 死ぬことができるのは、生まれてこれたからなんよ? 不幸だと感じられるのは、幸せだったからなんよ? それもこれもあんたのご先祖さまたちが、稀代の爺さまや婆さまたちが、未来を信じてきたおかげなの。だから決して信じるってことは無駄なんかやないし、くだらんくもないの。そしてね、ここからが肝心なことなんやけど、もしもあんたがそう信じるんなら、いつでもその状態に戻ることができるんよ。幸せだった頃の状態にね。それは決して忘れることなんかでも、逃げることなんかでも、悪いことでも、後ろめたいことでもなんにもないんよ。もちろん、そんなに簡単なことでもないけど、でも、決して不可能なことなんかじゃない」
姉さんは自分に言い聞かせていると同時に、優衣のことを言っているのがぼくにはわかった。わかったからこそ、話を逸らすためにぼくは言った。
「ねえみっちゃん、たとえどんな悪人にでも、今と同じことを言える?」
そこまでぼくの性格を見抜いていたのだろうか、姉さんは手を叩いて狂喜した。「そうくると思っとった!」
憮然としているぼくに向かって姉さんが続ける。「正直言うとね、言えんよ、わたしは。それどころか、まっさきにその人をぶっ飛ばしちゃるね。場合によっては、殺しちゃるかもしんない。思い付く限りのひどい方法でね。だけどね、それにもかかわらず──さっきはあんな風に言ったけど、本当は、それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。うまく説明することができない、『でも』──、わたしがさっき言ったことに、違いはないんよ。どんな人間にでも、同じ権利が与えられてるんよ。可能性が与えられているんよ。でないとこの世に未来なんかないやろう? ねえあんた、そげなこともわからんままで三十年近くも生きてきちゃったわけ?」
「らしいね」ぼくは言った。
「信じんさい」姉さんが言った。
ふと思い出して、ぼくは姉さんに質問をした。『涙は堪えるためにあるものなんだ。感情の赴くままに流される涙は、汗や排泄物と変わらない』というこの言葉を、どこかで目にしたか耳にしたかがないだろうか、という質問を。姉さんはいわゆる文学少女だったから、その言葉をぼくは姉さん経由で知ったんじゃないのかと思ったからだ。すると姉さんは初めきょとんとした顔つきになって、そのあとくっくっと笑い出し、そのうち片手で自分の腹を抱きしめながら、目尻に涙を貼り付けて笑い始めた。
「なんなのその笑い」九割方白けた気持ちでぼくは訊ねた。「おれ、何かおかしなこと言ったかな」
笑ったままぶんぶんと姉さんは首を振った。
「じゃあ何、考えすぎとか?」
また姉さんは首を振った。それから自分の顔を繰り返し親指で差しながら、それ、わたし、と言った。「わたしが中学生のときに、あんたに言った言葉。わたしが考えた言葉」
「……嘘」
「ほんとほんと」姉さんはにゅっと腕を伸ばすと、油断していたぼくの襟を見事に掴んで自分の方へと引き寄せ、ぼくの頭を乱暴になでた。「竺、ちゃあんと憶えてたんだねえ。いい子だー」
抵抗するのが面倒になったぼくはされるがままの状態で訊ねる。「てかそれ、ほんとに?」
姉さんはにかっと笑った。「ほんとよ。そん頃のわたしってさ、何か格言めいたことを考えるのが趣味やったとよね。中二病ってやつ?」
その事実を聞いて一瞬複雑な気持ちになったけど、でも、本当にその言葉の通りだって思うのは変わらないのだからと、気にしないことにした。
気が済んだのだろうか、突き放すようにぼくの襟を放すと姉さんは言った。「でもま、いいんやないの? 泣きたくなったら泣けば」
「そうかな」
グラスと間違えているに違いない、姉さんは持っているしょうゆの瓶を回しながら真面目な顔で言った。「だっておしっこ我慢してたら膀胱炎になっちゃうやろうが」
「そんな、無責任なあ」
このままやられっぱなしじゃいられないなと思い、ぼくはささやかな反撃を試みた。
「ぼくには人生を自由に生きる権利がある」とぼくは言った。
「その通り。あんたにはあんたの人生を自由に駄目にする権利がある」と姉さんが言った。
そのあとも際限なく続いた姉さんのお説教攻撃に耐え切れなくなって、懇願するようにこんなことをぼくは言ってみた。
「ねえ、みっちゃんは何か思い違いをしてるんだよ。男っていうのは例外なくみんな馬鹿で、すけべで、弱くて情けない生き物なんだ」
「知っとるよ」姉さんは寝ている三太君の頭をがしがしとなでた。「だからもう男はこの子だけでじゅーぶん」
これはもうかなわないなと思い、カラオケに逃げることにした。ぼくは立て続けに二曲長渕剛の曲を歌った。そのあとで姉さんが驚くほどに音程の外れたアニメセーラームーンの主題歌を歌い、それをきっかけに、店はちょっとしたのど自慢会場と化すことになった。誰かが一曲歌うたびに拍手が沸き起こり、怒声と笑い声が乱れ飛んだ。でも本当の意味で驚いたのはゆみいなさんで、彼が美空ひばりの往年のヒット曲を、異常にうまくてそっくりな声で切々と歌い上げたときには、感動してむせび泣きする者まで出現するほどだった。眠っている三太君には申しわけなかったけれど、そうしてぼくたちは、高校生にでも戻ったような気分で歌いまくってしまった。
「ぼちぼち帰ろうか」と、ようやく場が落ち着いたところでぼくは言った。時刻は午後十一時をいくらか回ったところだった。店内はまだ賑わっているけれど、ピークは過ぎた状態だった。
「そうやね。あと、一杯だけ飲んだらね」
と。ぼくの携帯が鳴った。ディスプレイには麻凪の番号が表示されている。
「ちょっとごめん、電話してくる」
「麻凪さん?」
「みたい」
姉さんが背中に声をかける。「ちゃーんと仲直りするんよー」
「努力する」ぼくは店のドアを開けながら通話ボタンを押した。「もしもし?」
「なんだかずいぶん賑やかなところにいるんだね」
すぐに返ってきた麻凪のその声と言葉に、責めているニュアンスを感じたぼくは思わず言い返した。「なんだよ、いきなりけんか腰かよ」
麻凪は何も答えなった。扉の向こうの喧騒とは正反対の重苦しい沈黙が流れ始める。電話に出たのは今からということにしようと、できるだけ軽い調子でぼくは言った。「実は今日さ、みよこ伯母さんのとこ顔出したときに、たまたま里帰りしてた、いとこの姉さんに会ってさ。それで今、一緒に飲んでるんだ。ほら、南子姉さん。麻凪も何度か会ったことあるだろ? とてつもなくでかいあの人だよ」
「それは楽しそうで何よりなことですね」
目を閉じて静かに深呼吸を一つしてからぼくは言った。「あそうだ、聞いてくれよ。今日その姉さんの子のおもりを急に頼まれちゃってさ。で、その子と一緒に昼間出かけたんだよ、加計呂間島って離島まで。そしたらさ、」
ぼくは雰囲気を少しでも和らげるために、今日一日の出来事をできるだけ陽気な口調で話し始めた。麻凪にならてんなちゃんのことを言ってみても大丈夫かもしれないと思いながら。まずは島で出会った例の老夫婦のことを一種異常なテンションで以って話し始める。意外にも、麻凪はぼくの話に耳を澄ませてくれているようだった。
一通り話し終え、勢いでてんなちゃんのことを言ってしまおうとしたときに麻凪が言った。「ねえ竺、あなたまさかそのお婆さんに、何か失礼なこととか言わなかったでしょうね」
「ごめん、ちょっと言ってる意味がわからないんだけど」
「あっそ。なら、別にいいよもう」
「いや、嫌味とかじゃなくてさ。なんでだよ」
「なんでって、本当にわからないの? その辺りの歴史、けっこう好きじゃなかった?」
「なんだよ、言ってくれよ。本当にわからないよ」
「その人、ほとんどしゃべらなかったんでしょ? だとしたらそのおばあさんはね、多分日本人じゃなくて、外国の人だって思う。そしてそうだとしたら、軍の慰安婦だった可能性が高いって思う」
そう言われてみれば、あのお婆さんの仕草は確かに日本人離れしていたと思った。ひょっとしたら麻凪の言う通りなのかもしれない。麻凪は続けている。
「でももしそうだとしても、本人の口からは言えるはずないって思うから。だからそういう前提で考えた上で、竺、何か失礼なこととか言ってないよね?」
ぼくは夫婦とのやり取りを思い返した。「うん、大丈夫だと思う」
ならよかったけど、とそっけなく麻凪は言った。──ぼくには、わかっていた。麻凪がぼくに八つ当たりをしているということが。こうやって相手の話から倫理的に反論できないような箇所を取り上げてあげつらう、これが最高に機嫌の悪いときの麻凪流の攻撃方法なのだ。そしてぼくはこのやり方が大嫌いだったから、一瞬怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られたのだけど、久々にお酒を愉しんでしまった自分に罪悪感を覚えていたということもあり、ぐっと堪えつつ話題を変えた。
「ところで、明日こそはこっちに来れるんだよな?」
「多分ね」
「多分ねって、やっぱり休み、取れそうにないのか?」
「休みは取れたよ。湯川さんも元気になったし」
「だったら──」
「なんかね、行く気になれないんだ」
ぼくはとうとう大きな声を出した。「どうして」
麻凪は何も答えない。反動で優しい声を意識してぼくは続ける。「もしかしてまだ、気分がよくなかったりするのか?」
それもある、といよいよそっけなく麻凪は言った。ぼくは舌打ちをする寸前でなんとか堪えた。「そういうことなら、初めからそう言えばよかったじゃないか」
「言えなかったんだよ。それに、できるだけ行くつもりだったから」
「できるだけってどういう意味だよ」
「そのままの意味だよ」
「それじゃわからないよ」
「いいよわからなくても。言ったところで、『どうせ』、すぐに忘れちゃうんだから」
麻凪の声質からして、もしもこれがアニメの台詞だったなら萌えるのかもしれないと思ったけれど、残念ながら現実だった。そのどうせという一言をきっかけにして、突然、一気に頭に血が上っていくのを感じながらぼくは言った。「なあ、どうせ忘れちゃうって、もしかして優衣のことを言ってるのか? いいか、おれはあの日から、一日たりとも──」
「あの子の話はしないで。竺の口から、あの子のことは聞きたくない」
喚き散らす代わりにぼくは声を低くして力を込めた。「なあ、おれはあの子の父親なんだぞ? だからおれにはあの子のことを想う資格がある。口に出せる権利がある。それに、おれは君の夫──」
何が夫よ、と息を吐くように麻凪は言った。「わたしの気持ちなんて、なんにもわかってなんかいないくせに」
「わかってるよ」
「わかってない」
わかってる、とぼくは言った。「少なくとも、わかろうと努力してるつもりではいる。そもそも、あの子を失って悲しい気持ちは、おれも麻凪も同じだろう?」
麻凪は鼻で笑った。
「おい、今、なんで笑ったんだ?」
「おかしいからだよ」
「何がおかしいんだ?」ぼくは声を荒げた。「なあ、一体何が──」
「竺はなんにもわかってない!」突然麻凪が怒鳴り声を上げた。「あの子が生まれる前まで、わたしはずっと不眠症だったの。物心ついたときから、思うように眠ることができなかった。でもあの子が生まれた途端に、嘘みたいにそれが治った。毎日眠りたいときに、ぐっすりと眠れるようになった。目覚まし時計がいくら鳴っても起きないくらいに。けど不思議とね、あの子の泣き声ではすぐに目が覚めるの。どんなに深い眠りについてても、ぱっと目が覚めちゃうの。そんな風に、女は母親になったと同時にね、赤ちゃんを育てる体に変化するの。心だけじゃなくて、体も変化するの。男とは『わけ』が違うんだよ。だからあの子を失ったわたしの悲しみは、男の竺にはわかりっこないの。絶対に。『絶対に』」
「……そんな話、今まで一度もしてくれなかったじゃないか」
「しても無駄だからだよ」
「無駄じゃないかもしれない」
無駄だよ。冷たく麻凪は言い放った。冷凍庫の奥で忘れられた保冷剤のような声だった。「あの日以来、竺はいつだって、世界で一番に自分が不幸な顔をして、わたしの話を聞こうともしなかった。考えてくれようともしなかった。『少しも』。第一竺、今日がなんの日かも憶えてないでしょ?」
ぼくは今日がなんの日だったかを急いで思い出そうとした。「なんの日だい?」
「ほら、やっぱり憶えてない。去年だって、おととしだって、その前だってずっとそうだよ」
結婚記念日、優衣の誕生日、麻凪の誕生日。幸いそのどれもを数秒で思い出すことができたけれど、そのどれもが今日じゃなかった。
「ごめん、思い出せないんだ。教えてくれ」
「言いたくない」
「頼むから教えてくれよ」
「言いたくないって言ってるでしょ」
「いいから言ってくれよ」
「やだ」
ぼくはわざと大きなため息をついた。致命的な言葉はいつだって自動的に発せられる例に洩れず、気が付けばぼくは言っていた。「なあ、おれたち、もう終わりなのか?」
──途端に、分厚い辞書のような沈黙が一気に目の前に降りてくる。そしてその全てのページを一枚一枚ゆっくりとめくりでもするような、長い長い時間が過ぎたあとで、そんなことわからないよ、と麻凪が言った。黒い用紙の上に、硬い鉛筆で書いたかのような、細く頼りない声だった。けれどぼくはほっと心の中で息をついた。どうやら最悪の返事を聞かないで済みそうだからだ。
でも、と麻凪が続ける。「竺と一緒にいるとね、優衣のことをどうしても思い出しちゃうの。あの子が死んだ理由を、どうしても考えちゃうの。あのとき竺が遊びになんて連れて行かなければ、あの子は死ぬことなんてなかったんじゃないかって。どうして近くにいたのにもかかわらず、竺はあの子を救ってあげることができなかったんだろうって。そんな風にあの子の死を、竺に押し付けそうで嫌なの。すべてを竺のせいにしそうで嫌なの。時間が経てば変わるかもって思ったけど、まだ、よくわからない……」
「……現にその通りなんだから、そうすればいいじゃないか」
「やっぱり竺は、なんにもわかってない」麻凪の声は震えていた。「そんな安っぽいドラマみたいな台詞言って、わたしが喜ぶとでも思ってるの? 竺はそれでいいのかもしれないけど、わたしはね、そんな自分が嫌なの。嫌で嫌でたまらないの」
そのとき、ぼくは嘘でもいいから、何か優しい言葉を麻凪にかけてやるべきだったのだ。なぜなら麻凪は、長い間独りで抱えていた負の想いを正直に告白して、ぼくに何らかの救いか、あるいは許しを求めていたのだから。ぼくには、そのことがちゃんとわかっていた。しかしそこでぼくが言ってしまったのは、それとは真逆の意味の言葉だった。
「だからあんなくだらない本に手を出したのか?」
ぼくの言った声は、さっきの麻凪のそれよりも、ずっと冷たいことがはっきりと自分でわかった。そして麻凪が何も答えないのは、答えたくないからではなく、答えられないからということもまたはっきりと。絶句しているのだ。それをいいことに、ぼくはさらに言葉を続けた。ひどく倒錯して歪んではいるものの、その行為に内在している、確かなる快楽を感じながら。「なあ、だからあんなくだらない本に手を出したんだろ? あんなインチキまがいのスピリチュアル本に。おれが何も知らないとでも思ったのか? え?」
「……何で、勝手に見るわけ?」
麻凪がああいう宗教めいた本を読んでいるということを知ったのは、嘘偽りなくたまたまだったけれど、ぼくはその質問には答えなかった。ぼくは意識的に声を尖らせながら尚も続ける。
「あんな馬鹿げた内容の本なんかに手を出してお前、恥ずかしくないのか? 優衣を誰かの金儲けのための道具にされて、平気なのか? それが実の母親のすることなのか? お前はただ、優衣を失った悲しみから自分を解放したいだけなんじゃないのか? 単に自分が楽になりたいだけなんじゃないのか?」そこまで言ったとき、そうかと思い付いてぼくは言った。「なあ、もしかして今回の旅行は、あの本と何か関係があったりするのか? 旅行先がここ奄美大島だってのは、あのくだらない本と何か関係があったりするのか? こっそり行った占いと何か関係があったりするのか? おい、だったらおれは──」
麻凪はそこで電話を切った。
ぼくはしばらくの間、送話口から流れ出る電子音を動かないままで聞き続けていた。心の中の暗闇に、その針のように硬くて直線的な音が落下するように吸い込まれてゆく。それにしても、一体なんでこんな寂しい音にしているのだろうか。何かもっと明るい音にすればいいのに。ふっと我に返って、携帯を元の長さに戻してポケットに入れた──瞬間、無意識下でサーチを続けていた記憶の検索エンジンが、今日がなんの日だったのかを思い出させてくれた。今日は麻凪の誕生日でもなく、ぼくたちが付き合い始めた記念日でもなく、結婚記念日でもなく、優衣の誕生日でも命日でもなく、九年前に麻凪が初めてぼくの子供を妊娠して、二ヶ月目で流産してしまった日だったということを。ぼくはすぐに麻凪に電話をかけ直したけれど、電源は切られていた。留守番電話の信号音が聞こえるまで待ったけれど、声を吹き込むことなく電話を切った。
店に戻ったぼくに姉さんが言った。「仲直りしたあ?」
「どうだろうね」
「まーたそんなこと言ってー」
ぼくは座って焼酎を一口飲んだ。姉さんは寝ている三太君の頭をそっとなでた。「それにしても、改めて今日はありがとね、三太のこと」
ほんの少しとは言え、三太君の寝顔を見てリラックスできた自分にほっとしてぼくは言った。
「全然。おれも楽しかったし」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
姉さんがにやりと笑った。「だったら、明日もお願いしてよかかな」
「まじで?」
「どうせ暇なんでしょ?」
「どうせ、って」ついさっきその台詞で麻凪と言い争ったことを思い出した。
「ごめんごめん。っていうのは冗談でさ、ちょうど明日お店定休日だから、四人で海行こうよ。麻凪さん、明日来るって言っとらんかったっけ?」
「いや……」
答えあぐねていると、急に三太君ががばっと起き上がり、ポケットから例のボイスレコーダーを取り出してボタンを押した。
「何よそれ」と姉さんが言った。
「おトイレ」とボイスレコーダーが言った。
「オッケー」ぼくは三太君の両脇に手を差し入れた。
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