ナンバー5
瓦礫
ナンバー5
「今度、俺とデートしようよ」
向かい合って座る彼の茶色がかった瞳が私を見ている。一瞬、時間が止まったような感覚に陥りそのまま吸い込まれそうになる。
「どうして私を誘うんですか」
「どうして敬語で喋るの?俺たち同期なのに」
彼とは同じ年にこの会社に入社した。彼は十数名いる『同期男子』の中で一番と言って良いほど端正な顔立ちで、すぐに『同期女子』の中でも話題となった。すっぴんと大差ない薄化粧に真っ黒な長い髪をひとつにまとめた地味の基本に忠実な私が、彼にデートに誘われたなんて知られたら社内で噂されるに違いない。周囲を見渡して、他の社員の姿がないことを確認する。今の時間帯、この休憩スペースには西日が強く差して暑いからか社内でも利用する人は少なかった。
「知ってます。同期の女の子に、何人も手を出してること」
「えー、誰から聞いたの?俺そんな酷いことしてないのに」
「本人たちから聞きました。この前デートして良い雰囲気になったって。同じようなことを話す子が何人かいたんですよ」
それは一週間ほど前のことだった。おそらく二人、三人の同期女子が集まってランチでもしている最中、誰からともなく「そろそろみんなでご飯行きたいよね!」とでも言い出したのだろう。特に何があったわけでもなく、唐突に『同期女子会』なるものが企画された。私は特別親しい同僚がいるわけでもなかったが、同期女子会と銘打ったからには全員に声をかけないわけにはいかないのが社会人というもので、便宜的に誘いを受けたのだった。「みんな参加するらしい」という触れ込みのもと、一人だけ不参加としてしまっては和を乱すのではないかと慮ってしまうのもまた社会人というものであり、気乗りしないまま会社の一駅隣にあるイタリアンバルへ赴いた。
はじめのうちは残業が多くて大変だとか、上司と反りがあわないとか、仕事の話で盛り上がっていたが、女子会と名のつく集まりにおいては必ず恋愛の話に発展していくのが世の常である。その時も私の前の席に座っていたショートカットの同期女子が左隣に向かって「最近、彼氏とどうなの?」とけしかけた。それを皮切りに順番に最近あった恋愛話や恋人への愚痴を一人ずつ披露する流れが構築され、こちらに話を振られる前にトイレにでも逃げてしまおうかと考えはじめた頃に事件は起きた。
「私、実は…」と次に話し始めたのは、この流れを作り出した張本人であるショートカットの同期女子だった。「彼氏ができるかもしれないんだよね」
はじめから相手が誰なのかをはっきりさせないのは何故なのだろうかと思いながら皿に残ったサラダをフォークでかき集めていると、テーブルでは同期男子の名前が飛び交い、白熱したクイズ大会の様相を呈している。なるほど、これはそういうエンタメなのかと感心していると、とある名前が挙がった瞬間に出題者の表情がくしゃっと緩み、右手の親指と人差し指でつくった輪で正解の意を示した。それが、同期男子の中でも最も端正な顔立ちの、あの彼だった。テーブルでは喚声や感嘆といったような声があがる。私の背中に冷や汗が伝う感触があった。こめかみのあたりにジンジンとした痛みが響く。ショートカットの彼女が彼とのデートの様子を再現するかのように身振り手振りを交えながら話しているが、うまく脳内で情報を処理できず彼女の言うことはただのノイズのように聞こえるだけだった。あの日、エレベーターを降りる瞬間に振り返ったときの、彼の少年のような屈託のない笑顔がフラッシュバックする。
「それってさ、ほんとなの?」
右隣から発せられた声で私は現実に引き戻された。少しの間、呼吸するのを忘れていたようで慌てて意識的に大きく一度息を吸って吐く。そして、目の前の皿に視線を落としたまま右方向からの声に耳を傾けた。彼女が言うには、彼女もまた件の同期男子とデートをしたばかりで、手を繋いで歩いたり、とても良い雰囲気の中、二人で一日中過ごしたらしい。その『一日中』というのが単に『長時間』のことを指すのか、はたまた共に一夜を過ごしたという意味合いなのか誰も追及することもなく、一気に場が静まり返る。誰がこの状況を打破するのかと各々が視線だけで会話していると、また別の同期女子が実は私も…と申し訳なさそうに手を挙げ話し始めた後、どうやってその場を締めくくり、一人あたりが支払うべき金額を計算し、どのような挨拶を交わして解散したのかあまり覚えていない。頭に残っているのは、少なくとも彼が三人の同期女子に同時にアプローチ、というと聞こえが良いが、手を出しているという事実と、店を出た後でショートカットの彼女が泣き崩れ、その場でしゃがみこんで動けなくなっている姿だけだった。
私にとってもそれは衝撃的な内容で、その日の夜はうまく眠れなかった。考えてはいけないと思うほど、あの日のエレベーターで感じた彼の手の感触と甘く華やかな香りが強烈に脳内にこびりついて離れない。
今、目の前にいる彼の、いつも通り口角がきゅっと上にあがった唇は明るく爽やか、というより何かを企んでいるようにも見えた。
「だから私にはもう、こういうこと、しないでください」
「こういうことって?」
「私に気があるような振りをすること、です」
「俺、全然付き合えるよ」彼は私の顔を覗き込むようにして、いたずらっぽく笑う。「派手な顔の子より地味な子の方が好きなんだよね」そう言うと、私の前髪のあたりに手を伸ばした。ビクッと身体を震わせてそれを避ける私を見て、また楽しむように笑う。その瞬間、彼と視線があったがすぐに逸らして手元の缶コーヒーを伝う水滴を目で追いかけた。
「あなたみたいに顔が良いだけの人は好きじゃない。それに」コーヒー缶を握る手にぎゅっと力を込め、涙が溢れそうになるのをなんとかせき止める。「そういう人に気のある素振りをされただけで、すぐに舞い上がる自分が心底気持ち悪くて、嫌いなの」
「自分のこと気持ち悪いとかいうのは、よくない」
いつもより低いトーンの声だった。叱るわけではなく、悲しみや苦しみを帯びたような声色は彼の心から漏れ出た本心のように感じられた。でも、彼が発する言葉をひとつでも受け入れてしまったら、私の中で一気に何かが崩れ落ち、何もかもがコントロールできなくなってしまう。彼は嘘をついている。だから、絶対に信じてはいけない。そう自分に言い聞かせた。
「泣いてるの、俺のせいだよね」
もう、いくら手に力を込めても、歯を食い縛ってみても涙を止めることはできなかった。せめて泣いている顔を見られないように、うつ向くと、黒いスカートの上にぽつぽつと微かに音をたてながら水滴が落ちていく。
「自分のせいです」苦しい。喉まで逆流してくる涙と鼻水でむせ返りそうになるのを我慢しながら声を絞り出す。「あなたのこと、簡単に好きになった自分が情けなくて、悔しい」
「それは、悔し泣き?」
喉元に溜まった粘度のある混ざりものの液体を飲み干して頭を何度も上下に動かした。
「俺のこと、好きなんだ」
私は黙ったまま肩を上下させ、呼吸を整える。シャツの袖口で涙を拭うと甘ったるい匂いが鼻にまとわりついて不快だった。
エレベーターが到着するのを待つ間、目を閉じて静かに息を吸い込んだ。『素敵な女性』の香りがする。白を基調とした店内に色とりどりのボトルが並んだ光景を思い出す。はじめて買った香水は、べっこう飴みたいな黄金色の液体が入った丸い形のガラス瓶で、半月分の食費くらいの値段がつけられていた。バラみたいな華やかさの奥に甘い香りが隠されていて、その香りと同じく明るく華やかで自信に満ち溢れた女性のイメージを想起させた。もう一度、目を閉じて大きく深呼吸する。私の隣に誰か別の人がいるみたい。きっとこんな香りを纏った女性は、ふんわりしたシルエットのスカートや、全身に花が散りばめられた可憐なワンピースが似合うに違いない。
エレベーターの扉が開く気配がして、そのまま中へと入る。
「お疲れさま、何階?」操作盤の前には彼が立っていた。突然、声をかけられて、反射的に身体が小さく跳ねる。喉が詰まるような感覚のあとで「…三階で」と独り言を呟くように声を絞り出した。操作盤とは対角線上の、奥の方へと進む。エレベーターの扉が閉まり降下をはじめると、低く唸るような機械音が静かに響いた。
話しかけたい。でも、一体何を?
目的の階へ到着するまでのなんとも言えない絶妙な秒数。沈黙のままやり過ごすには長く、何かを話すには短すぎる。
「なんか、良い香りするね」
前を見たまま、彼がぽつりと呟く。心臓が脈打って、いつもより温かい血液が全身にじわっと広がっていくような感覚がした。
「どこの香水?」彼は壁にもたれかかるようにしてこちらを振り返っていた。
「え、あぁ、これは」
私は黄金色の液体がなみなみと注がれた瓶を頭に浮かべながら、有名ブランドの名前を口にした。
「俺、この香り好きかも」
あなたが好きだって言っていたブランドだから、きっとそうだと思った。
何の言葉も返せないまま、エレベーターが停止する。階数表示に視線を向けると、まだ降りるべきフロアではなかった。
「じゃあね」
彼は私の右手に触れると、一瞬だけぎゅっと力を込め、すぐにほどいた。開いた扉から外へ出ると同時に純粋無垢な少年のような笑顔をこちらに向け、顔の横でひらひらと手を振り、去っていった。
「俺、今日ひとつだけ嘘をついたんだ。何だと思う?」西日に照らされた色素の薄い瞳はより一層茶色が引き立てられ、琥珀みたいに輝いている。
私はこれまでの彼の言葉を一つずつ振り返る。とても嘘がひとつだけだとは思えなかった。少しの間、沈黙があり、考えあぐねた末に適当に選んだ選択肢を口にした。
「…地味な顔が好き」
「ハズレ!」彼はいつも通りの変わらない笑顔を見せた。
「正解は?」
「俺とデートしてくれたら教えてあげるけど、どうする?」
「じゃあ、もういい」
立ち上がり、その場を離れようとする私の腕を彼は優しく掴んだ。
「その顔でデスクに戻る気?せめて泣き止むまではここにいなよ」そう言うと、さっきまでコーヒーが入っていた缶を私の手元から取りあげ立ち上がった。「俺がいなくなるから」
すぐそばのゴミ箱の中で金属同士がぶつかって音を立てている。
「そういえば」
少しの間があり、次の言葉を求めるように彼の方を見た。
「そういう、甘くて女の子らしいのも好きなんだけど、柑橘みたいなすっきりした香りの方が好きなんだよね」
「え」
「それに、そういう香りの方が君には似合うと思う」
「…私も今日、そう思った」
この香りは私には似合わない。
「でも」
似合う人になりたかった。華やかで、明るく堂々とした『素敵な女性』。
「でも、何?」
話すきっかけが欲しかった。自分から話しかけるのが怖いから、話しかけてもらうきっかけが必要だった。
「この香水、高かったから最後まで使いきらないと勿体ないなぁ」
せっかく涙が止まったところだったのに、また、泣けてくる。
「今度、俺のおすすめ教えてあげるね」
「新しく増やしてどうするの。今使ってるのはもう捨てろってこと?」
「捨てる必要はないよ。いくつか揃えて気分によって使いわければいいだけ。ひとつにこだわる必要なんて、ないでしょ?」
「そういうものなのかな」
「いろいろ試してみないと自分にはどれが合ってるのかなんてわからないもんだよ」
「…それもそうだね」
「んで、結局は最初の一本がいちばん良かった!って思うかもね」
「そんなことって、ある?」
彼はいつにもまして自信ありげな表情で微笑んでいた。「その香水が空っぽになる頃には、わかるよ」
彼の言葉を無意識に頭の中で繰り返す。空っぽになる頃には、きっと。
ナンバー5 瓦礫 @Gareki_no_shita
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます