書聖

午後八時

第1話 書聖

【書聖(しょせい)】・・・書道の名人のこと。 


 デュポン不思議相談所はガンタベラ地方の車輪の街にある、少し不思議なことで困っている人のための相談所です。長い雨の時期が終わり、太陽が一年で一番元気な季節のある日、新聞広告を見た一人の依頼人が相談所をおとずれました。

「わたしの話を聞いてください」

 依頼人は若い女性です。口調も見鼻立ちもはっきりをした人で、ライオンのたてがみのような雰囲気でまわりの人を威嚇していました。化粧は薄く、艶の無い黒髪を一つにまとめ、歳は二十歳にも満たないようです。

「もちろんお聞きしますよ、グッドさん」

 相談所のネコ所長のジャン・デュポンは、負けん気の強そうな依頼人の気配などお構いなしに机の上でだらしなく寝そべり、顔をだけを依頼人のレターナ・グッドに向け、鼻をひくひくさせました。彼は長毛な上に太っているため、暑さに弱いのです。

 普段のデュポンでしたらすぐに依頼人に相談内容をたずねますが、この日はそうしませんでした。依頼人の話ことよりも、彼女からただよう香ばしいにおいに興味がそそられたからです。

(しかし、女性ににおいのことをたずねるのは、不躾でしょう)

 気にはなりましたが口には出さず、デュポンは依頼人であるミス・グッドの言葉に耳を向けます。

「ここではなんでも願いを叶えてくれると聞いたんですが、本当ですか」

「いいえ。相談所は神社やお寺や教会ではありませんから、そのようなことはいたしません。お客様の話を聞き、問題解決のお手伝いをするのです」

(そういうことを、願いを叶えてくれるというのではないかしら)

 デュポンが希望に沿った答えをしなかったため、ミス・グッドは少しいら立ちましたが、すぐに気を取り直すと、手さげの中から漆塗りの文箱を取り出し、机の上に寝そべるデュポンの脇に置きました。文箱の蓋には螺鈿で描かれたアヤメの花が虹色にきらめいています。

「この箱を開けて欲しいんです」

 デュポンは首だけ伸ばしてにおいをかぎました。

「特に変わったところはないようですが」

「でも、開かないんです」

 ミス・グッドは文箱の蓋をつかみ、上に引き上げようとしますが蓋は動きません。

「なるほど」

「わたし、どうしてもこの箱の中身が必要なんです。金槌で叩いても、二階の窓から落としても、馬車に引いてもらっても壊れなくって。なんとか開けられませんか」

「箱の中身は何です?」

「遺書です」

 依頼人はせっぱつまった様子でこれまでのことを説明しはじめました。


 ミス・グッドはうなぎ屋の住み込みです。朝から晩までさばいたウナギにタレをぬって焼くのが彼女の仕事でした。

 朝からセミがうるさく、空がまぶしく晴れたとても蒸し暑い休みの日のことです。日差しのあまりの強さにミス・グッドは外出する気になれず、与えられた小さくて風通しの悪い自室の日陰に寝そべり、何を思うでもなくぼんやりとすごしていました。

「レターナ、あんたにお客さんよ」

 おかみさんに呼ばれて表にいくと、黒い背広を隙なく着た男性がいました。緑濃い木立や、海のような色の空、深紅・紫・ピンク・白・黄色のタチアオイが男の背後にありましたが、どんな鮮やかな色彩も、男の影のように真っ黒な背広の色ほど印象に残りませんでした。

「レターナ・グッド様でいらっしゃいますか」

「失礼ですが、どちら様ですか」

 男性が発する整髪料の香りが湿度の高い熱気と混ざり合い、不快なにおいとなってミス・グッドの鼻につきます。

「私は弁護士のロイヤーと申します。あなたのお父様から遺書を預かっていましたので、お届けに参りました」

 ロイヤーと名乗った男は、読み慣れた台本を朗読するようにミス・グッドに言いました。

(わたしに父親なんていないのに)

 ミス・グッドには母親しかいません。物心ついたころにはすでにうなぎ屋で母親と一緒に住み込みで働いていました。父親がいないことに疑問を持ったことはありません。妹がいない子供がいるように、オウムを飼っていない子供がいるように、自分は父親がいない子供なのだと思っていたからです。

 だから、数年前に母親が亡くなった時も、父親に知らせようなんて思いもせず、一人で葬式を行いました。

「あなたが探しているのは、別のレターナ・グッドさんではありませんか」

「いいえ、うなぎ屋で働くレターナ・グッドが娘だと聞いております」

 男はかばんから文箱を取り出し、ミス・グッドに押し付けるように差し出します。

「遺書はこの中に入っています。ご確認ください」

 つい文箱を受け取ったミス・グッドは、蓋に描かれたあやめの螺鈿に見とれてしまいました。その螺鈿細工はお店で使っているお重や箸に施されているものとは比べ物にならないほど繊細で、七色の光を放ち、芸術にうとい彼女が見ても優れたものだとわかります。

(お客様でもこれほど立派なものは身に着けていないわ。いえ、そうじゃなくて、返さなくては)

 我に返ったミス・グッドはあわてて顔を上げ、「これはわたしのものではありません」と言おうとしましたが、ロイヤー氏の姿はどこにもありませんでした。


「これが、数日前に起きた出来事です。部屋で文箱を開けようとしましたがびくともせず、困っていたところに新聞でこちらの広告を見て連絡しました」

「ロイヤー氏を探して返そうとは思わなかったのですか」

 デュポンの問いに、ミス・グッドはふいをつかれました。しかし、それは一瞬で、彼女はすぐに驚きを隠します。

「ロイヤーさんの事務所がわからなくって、返せないんです」

「こちらで彼の居場所を探しましょうか」

「それは結構です」

 今度は焦った表情を隠しもせず、ミス・グッドはデュポンの言葉を打ち消しました。

「もしかしたら、本当に父親がわたしに財産を残してくれたのかもしれないじゃないですか。母の口から父のことを聞いたことはありませんが、だからと言ってわたしに父親がいないということにはなりませんでしょう」

「・・・まあそうですね」

「わたしの話が信じられませんか」

 不信感を隠さないデュポンの返事に、ミス・グッドは棘のある口調でたずねます。

「確かに信じられない話かもしれません。でもどんなに開けようとしても開かない不思議な箱なんですもの、不思議な経緯でわたしの手元にきてもおかしくないじゃありませんか」

「ええ、ええ。もちろんですとも。世の中には不思議なことがありふれているものです」

 デュポンはのんびりと起き上がると、

「あなたの問題を解決するのに、ちょうどいい人物がいます。少しお待ちください」

と言って、隣の部屋に行きました。もちろんデュポンは扉を開けられないので、扉の下に付けられたネコ用の出入り口を使います。

 しばらくすると、隣室の扉が開き、柔和で薄い顔立ちの男性が現れました。眼が糸のように細く、わずかに上がった口角がどことなくひょうきんな印象を与える男です。

「始めまして、デュポン不思議相談所の相談員のジェームズです。ジムとお呼びください」

 ジムと名乗る男が口を開くとがった犬歯がちらり見え、この人はキツネが化けた姿かもしれないとミス・グッドは思いました。何しろ所長がネコなのですから、社員がキツネでもおかしくありません。

(なんだかダチョウをツルと偽って売り付けそうな人だわ。信用できるのかしら)

 突然現れた男への不信感を隠しきれないまま、ミス・グッドはあいさつをします。

「レターナ・グッドと申します。あなたが、この箱を開けてくださるの?」

「その前に、失礼ですが、あなたはうそをついていませんか?」

 やわらかな笑顔と口調をそのままに、ジムはミス・グッドへ失礼な発言をしました。あまりに突然だったため、言われた本人はその意味を理解するのに一瞬の間が必要でした。

「なぜそう思いますの?」

「この箱は空ですから。遺書なんて入っていません」

「開けてみないとわからないじゃないですか」

「それがそうでもないのです。私は空箱をびっくり箱に変える、少し変わった体質なのです。そのせいか、箱が空かどうか、見ればわかるのです。びっくり箱にできないなと感じれば中身は入っていますからね。見たところ、この箱はびっくり箱にすることができます」

「そんなでたらめな話を信じろとおっしゃるの?」

「あなた、先ほどおっしゃったじゃありませんか。不思議な箱だと。そんな箱なのですから、不思議な理由で中身の有無がわかったっておかしくおりませんよ」

 ついさっき口にした自分の言葉を引き合いに出され、馬鹿にされたように感じたミス・グッドは顔を赤くし、ジムをにらみつけます。

「そうおっしゃるなら、すぐに箱を開けてください。箱が開けば、わたしがうそつきかどうかわかります」

 すると、ミス・グッドの言葉に答えるように、箱が硬い音をたてました。驚いて身動きができなくなったミス・グッドの代わりにジムが蓋に手をかけ、一思いに文箱を開けました。

 箱の中は空っぽでした。

 中身を確認した二人はなんだか疲れ、椅子とソファに座り込みます。外からセミの声が聞こえましたが、とても遠い所から聞こえてくるようでした。

「なぜ、箱は開かなかったの? うそをついた私をからかったの」

 しばらくして、ミス・グッドはつぶやきました。先ほどのようにはげしい口調ではなく、なげやりながらも年相応のみずみずしさを持った声でした。

「やはりうそをついていたのですね」

「ええ、ロイヤーなんて人、いないわ。店のお客さんが噂をしていたのよ。街はずれの廃屋にはケチで意地の悪い金持ちの男が住んでいたけど、数年前のこの時期に病気でなくなったって」

 ジムは黙ってうなだれる彼女を見つめながら、その言葉に耳をかたむけます。

「その人は家族も親戚も信用していなかったから、いつも財産をどこかに隠していて、その場所の地図をアヤメの箱に入れていたらしいの。で、死んでから周りの人がその箱を探したけど見つからなかったの」

「それで、あなたは箱を探しに行ったんですか?」

「ええ、冗談のつもりで行ってみたら、見つかったの。開かなかったけどね。わたしを責める? でも何が悪いの? 幸せになるチャンスをつかもうとしただけよ」

 セミの声はいつの間にか止み、外を見ると夕焼けが街を染めていました。遊んでいた子供たちが家に帰る声、仕事帰りの大人たちの足音、カラスの鳴き声が聞こえます。たくさんの人が何不自由なくあたりまえの毎日を過ごしているのに、自分だけがなにもかもうまくいかないように思え、ミス・グッドは無性に悲しくなりました。

「いいえ、責めませんよ。箱というのはおもしろいものです。パンドラの箱というお話を知っていますか?」

「悪いことがいっぱい詰まっていたけど、最後に希望が入っていたっていう箱のこと?」

 予定が狂ってしまい、なにもかもどうでもよくなったミス・グッドは、つまらなそうに返事をします。

「ええ、この箱も同じです。希望があります。見てください」

 ジムはそんな彼女に蓋の裏を見せました。蓋の内側には流れるような文字で何か書かれた御札が貼っていたのです。

「「カエルの子 そこのけそこのけ おウマが通る」かしら」

 ミス・グッドは横目で一瞥すると、くずし文字をすらすらと読みます。

「読めるのですか? それはすごい!」

「・・・私、書道を習っていたの」

 大げさに驚かれ、ミス・グッドは恥ずかしくなりました。彼女はもともと字が上手く、それを見た母親が近所の書道教室に行かせたのです。しかし、教室の先生が高齢を理由に教室を閉めて、ミス・グッドの習い事は終わりました。

「なんだか聞いたことのある俳句ですね」

「有名な人の句よ。でも間違ってるわ。本当はカエルじゃなくてスズメよ」

 ミス・グッドはメモ帳を取り出すと、正しい句を書きます。彼女の字は御札の文字ほど崩れておらず、ジムでも読めたので、彼はミス・グッドの字の方が御札より上手く感じました。

「お上手ですね」

「これくらい、何てことないわ。でもなんで間違った句なんて書いたのかしら」

「ケチな金持ちが書いたと考えられませんか? 財産のありかを示しているんですよ」

 ジムは文字通りの宝さがしにわくわくしているようですが、ミス・グッドは乗れません。句の一部が間違っているのも、書いた人がたまたま間違えただけとしか思えませんでした。

「これが財産の場所だとしたら、箱が開かなかったわけもわかります。箱はきっと怒っていたんです」

「怒る? 箱に感情があるの?」

「ええ。私にはわかりませんが、道具と意志を通わせる友人がいうには、箱でも電球でも机でも、物には感情はあるそうです。この箱は本来の持ち主でないあなたに開けられそうになって、怒って閉めたんでしょう」

 ジムはもともと上がっていた口角をさらにあげ、にんまりと笑います。人をうまく化かしたキツネの顔みたいだとミス・グッドは思いました。化かされた人から見れば不快な顔ですが、そうでない人にとってはその顔を見ていると、なんだか自分もうまくやれそうな気になってきます。

「それなら、このわざと間違えたカエルになにか意味があるのかしら」

 ミス・グッドは少しならこの宝探しにつきあってもいい気になりました。

「きっとそうです。しかし、カエルで何か思いつくものはありますか」

「そんなことに急に言われても・・・。アヤメのほうならあるけど」

「なんですか? それは」

「アヤメで有名な池があるのよ」

「少しお待ちください」

 ジムは隣の部屋に姿を消すと、すぐに地図を片手に戻ってきます。

「それは、どこのことですか」

 ミス・グッドはある池をさしました。その池のあたりはお寺と民家と土産が混在する場所で、一時はたくさんの家が建てられましたが街中から微妙に離れているせいで次第に人がいなくなり、今は空き家が多いさびれた雰囲気の地区です。

「ここよ。五月雨池っていうの。お店に近いから、たまに散歩で横を通るのよ」

「この池にカエルはいますか?」

「見たことないわ。思ったんだけど、御札が貼ってあった場所も関係ないかしら?」

 地図を眺めていたミス・グッドはあることを思いつきます。

「御札は箱の裏、つまりアヤメの裏、反対側にあったわ。アヤメが咲いている池の場所の反対にはお土産屋さんと民家があるの」

「そのどちらかに財産が?」

「ええ。それで、御札にいたのはカエルよ。カエルはカワズとも言うわ。つまり買い物をしてはいけないの。財産が隠されているのは、民家じゃない?」

「なるほど! では、さっそく行きましょう!」

 ジムは地図を持つと、ミス・グッドが驚くほどの速さで彼女の手を取って事務所を出ました。


 五月雨池に着くころ太陽はすでに沈み、残光がつくり出す不気味な雰囲気に、ミス・グッド心細くなります。あたりの寺や家々に灯りはなく、彼女は自分とジム以外、世界から誰もいなくなってしまったように思えました。

「暗いので、足元に気を付けてください」

「ありがとう」

 二人は目を凝らしながら池に沿って目的の民家へ向かいます。

「ねえ、何か聞こえない?」

 ジムは耳をそばだてました。女性の声のようです。

「なんでしょう」

 声はどうやら二人が向かっている民家の方から聞こえます。

「私たちのほかに財産を狙っているやつがいるの?」

「まだわかりません。しかし、こんな寂しい時間にここにいるのは普通ではありませんから、気を付けた方がいいでしょう」

 ジムは用心深く歩みを進めました。次第に声は大きくなります。話声というより、メロディがあり、歌のようです。

「なんて歌ってるのかしら?」

 ミス・グッドは歌声の主に聞こえないよう、声を潜めました。

「まだよくわかりません」

 歌声は次第に大きくはっきりしてきました。低く透き通ったその声は、あたりのもの悲しい空気を一層際立てます。


『 荒野の果てに 夕日は落ちて 妙なる調べ 天より響く 』


「ねえ、あそこ」

 ミス・グッドは、池のほとりの柳の下に祠があることに気がつきました。声はそこから聞こえてくるようです。

 ジムはおそるおそる近づき、祠をのぞき込みました。ミス・グッドはジムの後ろに隠れながらのぞきます。

「あら、お客さんとはめずらしい」

 祠の中には白亜の聖母像が鎮座していました。歌はこの聖母像が歌っていたようです。

「こんばんは。失礼ですが、あなたは?」

「アタシは五月雨聖母さみだれせいぼ

 聖母像は先ほどの歌声と打って変わって酒やけ声で名乗りました。聖母という名前というより、場の末バーのママのような雰囲気です。

「なぜ歌っていたのですか」

「ヒマだから。ご覧の通りアタシは動けないからね、歌うくらいしかすることがないの」

「ねえ、この人何か知らないかしら。ここから動けないんでしょ」

 ミス・グッドはジムを脇に引っ張り、小声で相談しました。

「金持ちが財産を隠すところを見てるかもしれませんね」

「ナニ話してんの?」

 隅でこそこそ話す二人に、聖母像は不審そうな目を向けます。

「実は、われわれはとある金持ちが隠した財産を探していまして、それがこの近くの家にあるかもしれないんです。何かご存知ありませんか」

「金持ち? そんなやつ見てないよ」

「そうですか。それは残念」

 聖母像の答えを聞いたジムはあっさり引き下がりましたが、ミス・グッドは納得しませんでした。

「ちょっと、この聖母がうそをついているかもしれないでしょ」

「失礼な小娘だね。アタシは聖母だよ。ウソなんてつくもんか」

「この人が我々にうそをついてもしょうがないでしょう」

 ジムの言葉にミス・グッドはしぶしぶ納得しました。

「お手数をおかけしました。何かありましたら、また来ます」

「いってらっしゃい。財産、見つかるといいわね」

 聖母像と別れた二人は、目的の民家に向かいます。いつの間にかすっかり夜になり、星明りだけが頼りです。

「ここですね」

「空き家かしら。都合がいいわ」

 民家の外観はきれいでしたが、表札ははがされ、明かりもついていません。

「空き家とはいえ、勝手に入ってはとがめられます。こっそり行きましょう」

 ジムとミス・グッドはあたりに気を配り、静かに中へ入りました。

 家は広くなく、財産を隠す場所も多くないようです。しかし、明かりがない中で、つまづき、頭をぶつけながら探すとなると、思ったより時間がかかりました。

「これかしら。隠し場所も似てるし」

 二人は炭山の中から一つの文箱を見つけました。

「しかし、これも空ですよ」

 ジムは箱を一目見ただけで中身の有無を見破ります。

「そんな!」

 ミス・グッドは箱を開けました。中身は無く、底に一枚の紙が貼られています。紙には

「盗人」

と達筆で書かれていました。

「どういうこと?」

「私たちはまんまと乗せられたのかもしれません」

 ジムは気まずそうに言葉をつづけます。自分の軽はずみな言葉でミス・グッドに希望を抱かせてしまったからです。

「金持ちのじいさんが死ぬ間際に、自分の財産を狙うふとどき者をからかいたくなったのではないでしょうか」

「じゃあ財産はないってこと!」

 ミス・グッドは泣きたくなりました。あと少しで財産が手に入るはずだったのに、どうしてうまくいかないのでしょう。

「財産はもともと、金持ちの人のものなんです。あなたがもらう権利はなかったんです」

「だって、その人はもう死んでいるじゃない。死んだ人にお金なんてなんの意味もないのよ! 生きている人が使って何が悪いの?」

 ジムはヒステリックになったミス・グッドをあやしながら、アヤメの文箱と見つけた文箱を手に民家を出ました。ここに居てもできることは何もないからです。

 夜道を歩きながら、ミス・グッドは自分がどれほどつまらない人生を送り、これからも送っていかなければならないことをジムに愚痴り続けました。ジムは彼女の話を適切なタイミングで相槌をうちながら聞きます。それは、一時でも彼女に希望を持たせてしまったことへの償いのつもりでした。

「あら、どうしたの」

 二人はいつの間にかあの五月雨聖母の祠の前にいました。

「どうしたもこうしたもないわ。ひどい人がいたのよ」

 ミス・グッドは五月雨聖母に民家での出来事を、涙ながらに話します。

「それは大変ね。でもね、人間なんてだいたい意地悪なものよ」

 五月雨聖母はこともなげに言いました。聖母なら聖母らしくなぐさめの言葉でも言ってくれるのではと思っていたジムは、彼女の言葉の潔さにいっそ感心します。

「私はこれにかけていたのよ! 財産を手に入れたら店なんて辞めて、のんびり暮すつもりだったのに」

「気にすることないわ。人生のチャンスは一回きりじゃないもの。同じ機会は巡ってこないだろうけど、別の機会がまたあるわよ」

「そんなのわからないじゃない! 私のチャンスはこれっきりかもしれないのよ。私はウナギのタレくさいまま一生を終えたくないの!」

 激しく言い合う二人女性をネコのけんかを見るような気持ちで眺めていたジムは、ふと民家から持ち出した箱のことを思い出しました。その箱は装飾のないシンプルな漆塗りの文箱で、ジムの手になじみ、彼のために作られたようです。箱の底には、昔死んだ名前も知らない男が入れた紙が貼られたままでした。

 達筆で「盗人」と書かれた紙を見たジムの頭に、あるひらめきが浮かびました。

「あの、考えたのですが、グッドさん、あなたは字が上手いのですから、水の街に行かれてはどうですか? そこで書道家のもとに弟子入りして、書家になればいいのです」

 水の街はゴチック川の河口、アケリア海沿岸にある街です。街中をめぐる水路と、赤い屋根瓦を備えた白壁造の建物が並ぶ風光明媚なところで、その風景を愛して多くの画家や文人が集まり、芸術活動が盛んな街に発展していきました。

「あら、いいじゃない! こういうことは思い立ったが吉日よ。今ならまだ夜行列車の時間に間に合うわ」

 ジムと五月雨聖母は肝心のミス・グッドを置いて二人で盛り上がります。

「勝手に話を進めないで」

「そうだわ、一流になったら、この祠の看板を書いて。自慢にするわ!」

「だいたい、私、お金、持ってきていないわ」

「箱を兄サンに売れば? さっき見つけたヤツとアヤメの花が描いてあるヤツ、二個セットで」

「それはいい! グッドさん、ぜひ私にお売りください。お高く買いますよ」

 ミス・グッドの静止は二人に流されました。

「何を迷っているの?」

 なかなか踏ん切りがつかないミス・グッドを、五月雨聖母は不思議そうに見つめます。

「そんなうまくいくわけないわ」

「アンタ、このまま戻って、ウナギ屋の小娘に戻るの? これが二回目のチャンスと思わないの?」

「そうですよ。グッドさん、相談所で言ったではないですか。幸せになるチャンスをつかんでなにがいけないのですか?」

 ジムが持っていた文箱を開けると中から封筒が飛び出ました。

「どうぞ。箱の代金です」

 ミス・グッドが中身を確認すると、夜行列車の代金には十分すぎる額のお金が入っています。彼女が口を開く前に、ジムはミス・グッドの背中を押しました。

「頑張ってください。応援します」

 あれよあれよと話が進み、いつの間にかミス・グッドは駅の方へ夜道を一人で歩いていました。

(キツネにつままれたみたい)

 事務所をたずねたこと、ジムや五月雨聖母と会ったこと、民家に忍び込んで空の箱を見つけたこと、それらの出来事がミス・グッドには昨夜みた夢のように思えました。しかし、遠くからかすかに聞こえる五月雨聖母の歌が、夢でないことを彼女に教えます。


『 何も知らずに 生きて来た わたしはもう 迷わない  』



 ジムがミス・グッドを送り出した翌日、彼はデュポン不思議相談所にいました。昨日の事件の報告書を書くためです。

「ジムさん、よろしいですか」

 机に向かうジムに、デュポンの秘書・ミセス・マスカットが声をかけます。

「グッドさんからお電話です」

 思いがけない相手からの電話に驚きながらも受話器を受け取ったジムの耳に、ミス・グッドのはずんだ声が飛び込みました。

「ジムさんですか? 昨夜お世話になりました、レターナ・グッドです」

「こちらこそ、お世話になりました。グッドさん、その後、どうなりました?」

「それが、信じられないことに、書道家の方に弟子入りすることができました」

 彼女が弟子入りしたという書道家は、芸術に疎いジムでも聞いたことのある有名な書家でした。

「おめでとうございます!」

 ミス・グッドの新しい門出を自分のことのように祝福していると、部屋のラジオから、ミス・グッドの働いていた店が昨夜火事で全焼したというニュースが流れました。

「ジムさん? どうしたの?」

 ニュースに関心を奪われたジムは、ミス・グッドの言葉に我に返ります。彼女にこのことをどのように伝えるか迷うより先に、ジムは言葉を口にしていました。

「さすがグッドさん、字・辞が上手い!」

                                おしまい

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書聖 午後八時 @gogo8zi

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