肆話

 雨に濡れた泥とアスファルトの匂いが鼻を刺す。

 ボクは無言で立ち尽くした。彼の言葉を理解することはできた。だが、それを受け入れるには少し時間がかかる。

 ボクが一体、何をしたというんだ。

 確かにエロ本を拾ったのはよくないことかもしれない。

 然りとて、ここまでのことになってしまうことでは決してない。こんなことが、ボクの人間としての後生を奪った。…何故だ?

 ボクは童女の方を見た。彼女がこの事態を意図的に仕組んでいて欲しかった。

 だが、彼女は言葉をかけるでも、さも全て仕組まれたことだと言わんばかりに笑うでもなく、またボクの不幸に同情してわざとらしく泣くでもなく。ただただ俯いているばかりだった。

 ボクは膳所従兄の方へ目を向ける。ボクは膳所従兄からメッセージが来たとき、彼がボクを解放してくれると思った。事態は快方へ向かっていくと思っていた。しかし、そうはいかなかった。

 彼もまた、ただ雨に打たれていた。まるでボクにかける言葉を持ち合わせていないとでも言わんばかりに。

 「おい……ボクは人間には戻れないのか!戻れるんだよな……。善兄なら、〈述師〉のすごい術かなんかで、人間に戻れるんだろう?」

 ボクがそういうと、膳所従兄は重々しく、眉間に皺を寄せながら、かぶりを振った。

 「言いづらいことだが、あらぬ期待を持たせ続けるのは単に突き落とされるよりも辛い結果になるから言うよ。……魂は不可逆なんだ。成ってしまえば、元には戻らない。ただの人間は〈魑魅〉にかけられた呪いに慣れることはない。これは〈述師〉の通説だ。こういう観点からも…君の魂は既に〈魑魅〉になっている。」

 そんなことだろうとは思っていた。そんなのがあるなら、善兄が動揺するようなことなんて…きっと無かった。

 「……元を辿れば、お前が悪いんだろ!お前が……ボクから離れればいいんだよ!そうだよ、そうすれば元に戻るじゃないか。悪霊退散、みんな幸せのハッピーエンドに、なるんじゃないのかよ!」

 ボクは童女に当て擦りを言った。その声は少し嗄れていた。ボクは彼女を憎まなければいけないはずだ。

 彼女は全ての悪役で、彼女を打倒すれば万事丸く収まる。淡い希望を抱いた。それだけがボクを照らしてくれた。

 『……こちが悪い。そうじゃ…何一つ気づかなかったこちが悪いのじゃ。こちが…そちの側にもう暫く居たいなんて思うたから…。それがこんなことになるなんて…知らなかったのじゃ!そち、こちを殴れ、なぶれ。同じ〈魑魅〉なら…こちを殺せる。殺せば…なんとかなるやもしれん!』

 彼女も雨に濡れていた。白金プラチナブロンドが雨に濡れ、街灯で艶やかに輝く。嗚咽混じりの声で、身体は震えていた。

 ボクはこのとき、彼女と出会ってから兆候はずっとあったのではないか、ボクはずっとそれを見逃し続けたのではないか。そんなほぞを噛むような思いだった。

 違和感を異変を彼女に言えば、このことは取り返しがついたのではないかと思った。

 だが、それはすぐに振り払った。それは後付けの理屈に過ぎないからだ。

 ボクは深呼吸をした。やり場のない怒りを一旦は脇に置いて、失っていた言葉を拾い集めた。

 「……善兄、少し席を外してはくれないか?」

 ボクは多分、こう言ったような気がする。

 彼も整理をつけたかったのだろう。それは承認された。

 『……さあ、嬲るが良い。こちは去ぬ覚悟はとうに出来ておる。』

 童女は胸に手を当て、身体を差し出すようにボクに一歩近づいた。ボクは拳を握った。

 「聞かせてくれ、お前は何故に俺の側に居たかった?」

 『そんなもの、そちを利用して力を取り戻すために決まっておろう。』

 童女はない胸を張って言った。それは虚言だ。

 「それなら、涙は出ないだろ。お前は知らないかもしれないが、さっき泣いてたぜ。……わかったら、本当はどうだったか教えてくれ。」

 俺は握った拳を少しだけ緩めてながら言った。雨はさっきよりは弱くなったが、俄然として雫が身体を打つ。

 『……こちはの、この世に顕現して直ぐに封印されたのじゃ。それ故に人とこうして言葉を交わすのは殆どそちが初めてというわけじゃ。』

 その後、少しの間だけ雨音を聴いた。ハーフタイムを挟み、会話を再開する。

 『こちは……そちと話すのが、楽しかったのじゃ……。』

 彼女は素直に微笑んだ。

 ボクは不思議なことにそれに憎しみを覚えなかった。その言葉に嘘はなかったから。

 ボクは〈活字の禍〉を操る側になってしまった。だから、言葉の裏に燻るものを感じやすくなったのだろう。彼女の外見からは何も読み取れない。けれど、その言葉から読めるものはあった。

 彼女は〈魑魅〉だ。無論、ボクもだが。そんな彼女をゆるすというのは人間の敵になるということだ。〈魑魅〉の実態がボクが時々テレビやスマホで見るようなものならば、彼らはいとも容易く人間を殺す、壊す。ボクも意図せず殺すかもしれない。

 そうなれば、ボクは晴れて人類悪の仲間入りだ。

 ボクは人間でなくなったとしても、人の心を保ちたいと思う。そうすれば人間でいられるとも思っている。 人を殺してしまってから、人間を名乗り続けるのはボクには難しい。

 ……だから、押し付けがましいが、彼女にもそう思ってもらう。ボクを〈魑魅〉にした元凶なのだなら、それくらいは償ってもらわなければ、ボクが損だ。

 「……ボクはお前を赦さない。お前もボクをきっと赦せなくなる。だけど、ボクはお前と共に傷つきながら……生きることはできる。」

 ボクはそう言って、彼女の頭を撫でた。

 雨はだんだんと弱まって、小雨になった。

 『もしかするとこれが最後の会話になるやもしれん。何せやつは〈述師〉じゃ、こちらを封印するのは容易いことよ。じゃから、提案がある。』

 さっきとは打って変わり、今度はどこかかしこまった雰囲気を醸し出している。彼女は続けて、ボクを上目遣いで見つめながら口を開く。

『互いの名を呼び合わんか?』

 童女は少し顔を赤らめながら、それを言った。

 「〈魑魅〉にとって名は恥部のようなもの」と教えたのは彼女だ。それから導き出されるのは、名を呼び合うというのは、人間でいうと最低でも接吻せっぷん。もしかすると、それ以上の行為……なのかもしれない。

 そんなお見苦しい連想ゲームをした後、ボクはそれを了承した。

 『こ、こちの名は……み、魅言みことと云う。……こちが呼んで良いと云うまでは後生こちのことを名で呼んでくれるなよ! わかっておるな!』

 「わかったよ、俺は玉梓綴だ。」

 『知っておるわ、そんなこと。それでは、せーので云うのじゃぞ。せーのっ!」

 ボクは善兄を呼んだ、ボクらの話は終わったから。

 「綴くん。君の選択を聞こう。君は〈魑魅〉として生きるか、まだ人間としての意識があるうちに俺に封じられるか。……〈述師〉は私情で動くことはできない。だから、どちらを選んでも君たちは俺らと敵対することになる。それはわかってほしい。できることなら……無害認定にしてやりたいんだが。」

 善兄の顔がさっきの苦虫を噛み潰したような顔ではなく、元のに戻っていた。

 ボクはそれに安堵を覚えた。あんな顔は見てられなかったから。

 「……第三の選択肢がある。」

 「無害認定のケースは現存しないほどにレアなんだぞ」と善兄の顔に書いてあった。

 ボクの提示する第三の択。これは〈魑魅〉の素人が考えた理論だ。もしも破綻しているならば、封印を潔く受け入れるつもりでいる。

 「〈魑魅〉は記録されることで弱体化するんだろう?」

 ボクは善兄の合いの手を待った。それを汲んでくれたのか、

 「まあ、そうだな。」

 と肯定。ボクはそれに背を押された。

 言葉を繋ぐ。

 『そうならば、こちらは自らを記し続けることで、弱体化し続け人間に近い存在として暮らせるのではないのかの?』

 つまり、ボクらが言いたいのは封印されるのではなく、この世界に〈魑魅〉として存在できるギリギリまで毎日弱体化し続けることで限りなく無害な人間モドキの〈魑魅〉になるということだ。

 ……〈魑魅〉の自分を自傷しながら人間社会を生きていこうと思っているのだ。それは封印されるよりも辛いことだ。

 ボクもそのことを委曲を尽くしてその旨を伝えると、善兄はうんうん唸った。そして、彼は結論を出した。

 「……それならば、理論上はいけるかもしれない。だが、問題は二つある。」

 彼は一服するようにタバコ型ラムネを口の中に放ると、それを直ぐに平らげた。そして、言葉の矢を継ぐ。

 「一つ、その場合だと君たちは永遠に傷つくことになる。それはとても辛いことだ。それでもいいのか?」

 親戚としての心配だった。誰かのために傷つくことが青春なら、ボクは魅言の為に傷つく。これも立派な青春だ。

「……もちろん、覚悟は決めた。ボクは人間であるための努力は惜しまない。」

 俺が普段より少しだけ大きな声でそういうと、彼はそれを聞き入れた。だが、問答は続く。

「それなら一つ目はクリアかな。だが二つ目がある。」

 深呼吸をすると、彼は言葉を投げる。

「それは、君たちが弱体化することを止め、〈魑魅〉として生きることに決め直した場合だ。」

 続けて、少し嫌そうな声で

「その場合、俺たちは君を容赦なく封印する。そして俺は殺されるだろうね。その件についてはどう思っている。」

 ボクを見つめる。彼にとってここは冷酷にならなければならない時だから当然なのだが、切り替えの早さに舌を巻いた。ボクは決意を以て言う。

「……毎日、ボクの記録を善兄に送信します。」

 それを聞いた彼は、ほっと息を漏らした。

「…………わかった、それを信じよう。毎日、二十三時には送ってくれ、もちろん時間厳守で頼む。それなら俺は、綴くんに無害判定の判を押してやれる。」

 と優しい声で言った。いつもの、ボクのよく知る膳所善だった。

 雨は止んで、雲から光が射す。虹でも掛かればよかったが、そうもいかなかった。

 誰にも祝福されないボクらの行いを、ましては天が讃えてくれるわけがないのだから。


 いわゆるその後の話だ。話半分に聞いてもらいたい。

 ボクと一心同体である魅言は、常に部屋の中にいてもらうことにした。

 ……そうでもしないと、ボクは何かしらの犯罪を疑われることになるから。

 そして、ボクは今までのことを家の共用ノートパソコンで書くことになっている。善兄に今までのことをひとまず送らないといけない。

 それがボクに課せられた義務なのだ。〈魑魅〉のままに人間の心を持ち続ける為の。

 『……そち、決めたのなら疾うやらぬか!……こちも共に傷つくと決めたのじゃ、これでそちがしくじってはこちの覚悟はなんだったのかと云うことになりかねんからのう!』

 ボクは知ったような口を聞く童女、魅言に叱咤激励されつつパソコンのメモ帳を開く。

 そこから始まるボクの二日間。それは今総括すれば、「ミクロで真黒まくろな奇譚」と言えるだろう。

 ボクはそのフレーズをまずは打ち込み、そこから追憶に耽りつつ、指をぎこちなく動かすのだった。


【了】

 




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魑魅奇譚 斗南億人 @6T_T9

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