第11話
ガジャラージ様は、私の差し出したラドゥを、その長い鼻で器用に、そしてとても優しくつまみ上げた。その仕草には、これから口にするものへの敬意が込められているように見えた。市場は水を打ったように静まり返り、誰もが一言も発さず、神の行動を見守っている。
彼はゆっくりと、そのラドゥを口元へと運んだ。そして、静かに口の中に収める。
その瞬間だった。
ガジャラージ様の全身から、柔らかく、そしてどこまでも温かい黄金色の光が、後光のように放たれたのだ。それはパワンプトラ様の時のような、爆発的な力の奔流ではなかった。市場全体を、まるで春の陽光のように優しく包み込む、慈愛に満ちた光だった。
その光に照らされた人々は、誰もがうっとりと目を細め、その表情からは、心配や不安といった影がすっと消えていくのが分かった。八百屋の主人は、腰の痛みを忘れたように背筋を伸ばし、布屋の女主人は、最近の売れ行きの悩みがどうでもよくなったかのように、穏やかに微笑んでいる。
ガジャラージ様は、ゆっくりと目を閉じていた。その大きな象の顔に、深い感動の色が浮かんでいる。やがて、その閉じられた瞼から、きらりと光る一筋の雫が、静かに頬を伝い落ちた。神が流した、至福の涙だった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。やがて、ガジャラージ様はゆっくりと目を開けた。その瞳は、先ほどよりもさらに深く、澄み渡っているようだった。彼は、目の前に立つ私をまっすぐに見つめ、そして、深く、深く、頷いた。
「……素晴らしい」
その一言は、市場の隅々にまで、厳かに響き渡った。
「これは、ただのラドゥではない。わしは今、この一粒の中に、物語を味わった」
ガジャラージ様は、穏やかな声で語り始めた。
「ひよこ豆の粉を炒る、真摯な心。ギーを溶かす、温かい愛情。スパイスを合わせる、探究心。そして何より、これを食べる者の幸せを願う、純粋な祈り。お前のこれまでの道のり、喜びも、迷いも、その全てが、この一粒に凝縮されておる」
彼の言葉は、ヴァーニ様が語ってくれたことと、どこか重なって聞こえた。神様には、お菓子の味だけでなく、そこに込められた作り手の心まで、すべてお見通しなのだ。
「わしは、悠久の時を生きてきた。天界の、ありとあらゆる甘露を味わい、地上では、数えきれぬほどの菓子職人たちが捧げる、至高の菓子を食してきた。じゃが」
彼はそこで一度言葉を切り、私をまっすぐに見据えた。
「これほどまでに、作り手の魂が宿ったラドゥは、生まれて初めてじゃ。アマラよ、お主のラドゥは、まこと、天下一品じゃ」
その言葉は、私にとって、望みうる限りの、最高の賛辞だった。嬉しさで胸がいっぱいになり、視界が涙で滲む。隣でリラが、私の肩を優しく支えてくれていた。彼女もまた、自分のことのように喜んで、静かに涙を流していた。
ガジャラージ様からの言葉が終わると、それまで静まり返っていた市場の人々から、わあっと、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
「やったな、アマラちゃん!」
「ガジャラージ様から、天下一品のお墨付きだ!」
「デヴァプラの誇りだよ!」
みんなが、笑顔で私を祝福してくれている。その温かい声援に、私は何度も何度も頭を下げた。
すると、ガジャラージ様が、その大きな手をそっと上げて、歓声を鎮めた。
「アマラよ。お主のその素晴らしい腕を、これからは、このデヴァプラの、いや、神々と人のために役立ててはくれぬか」
「えっ……?」
「もうすぐ、光の祭り、ディワリがやってくる。今年のディワリで、神々に捧げる全てのミターイーを、お主に任せたいのじゃ。そして、それ以後も、このデヴァプラの寺院における、全ての祭事の菓子を、お主の店、『アムリタ・ミターイー』に、御用達として一任したい」
その申し出は、私の想像を遥かに超えるものだった。寺院の御用達菓子司。それは、この国の全ての菓子職人が夢見る、最高の栄誉だ。
「そ、そんな……。わたくしのような未熟者に、そのような大役が、務まるでしょうか……」
あまりの名誉に、私は恐縮してしまった。
「未熟者ではない。お主は、菓子の心を知る者じゃ。わしが、保証する。どうじゃ、引き受けてはくれぬか?」
ガジャラージ様の、穏やかで、しかし有無を言わせぬ力強さを持った瞳に見つめられ、私は迷いを振り払った。ここで断ることは、神様に対して、そして応援してくれている全ての人々に対して、あまりにも失礼だ。
私は、背筋を伸ばし、覚悟を決めて答えた。
「はい……! 謹んで、お受けいたします! わたくしの持てる力の全てをかけて、最高のミターイーをお作りすることを、お約束します!」
私のその言葉に、ガジャラージ様は、満足そうに大きく頷いた。
「うむ。頼んだぞ、アマラ。楽しみにしている」
彼はそう言うと、私に優しい視線を一度向け、そして、再び悠然と踵を返した。市場の人々が作る花道を、彼はゆっくりと歩いていく。その神々しい後ろ姿が見えなくなるまで、私とリラ、そして市場の全ての人々が、深く頭を垂れて見送った。
ガジャラージ様が完全に去った後、市場は再び爆発的な歓声に包まれた。そして次の瞬間、私の屋台に、人々が津波のように押し寄せてきたのだ。
「アマラちゃん、すごいよ! 寺院の御用達だって!」
「ガジャラージ様が天下一品と認めたラドゥを、わしにも一つくれ!」
「私はバルフィを! いや、ジャレビも! 全部一つずつおくれ!」
屋台の前は、もはや行列というレベルではない。黒山の人だかりができて、身動きも取れないほどだった。
「リ、リラ! 手伝って!」
「ええ、もちろんよ! さあ皆さん、順番に並んでくださいな!」
リラが優雅に、しかし的確に人々をさばいていく。私たちは再び、息つく暇もないほどの忙しさに巻き込まれた。昨日を遥かに上回る大盛況。ガジャラージ神の祝福は、これほどまでに絶大な効果があるのかと、私は改めて驚いていた。
用意していたお菓子は、あっという間に売り切れてしまった。それでも、人々は「明日また来るよ!」「ディワリのお菓子、楽しみにしてるからね!」と、興奮した様子で声をかけてくれる。
その日の営業を終え、空っぽになった屋台の前で、私とリラは、二人してへなへなとその場に座り込んでしまった。
「すごかったわね……。まるで、嵐のようだったわ」
リラが、幸せそうなため息をつきながら言った。
「うん……。まだ、夢の中にいるみたい。私、本当に、寺院の御用達菓子司に……」
「夢じゃないわ、アマラ。これは、あなたの努力が引き寄せた、現実よ。あなたは、最初の夢だった『ガジャラージ様に最高のラドゥを捧げる』という目標を、最高の形で達成したのよ。それどころか、遥かに超えてしまった」
リラの言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。そうだ、夢じゃないんだ。
「でも、これからが大変だわ。ディワリまで、もうあまり時間がない。寺院に納めるとなると、作る量も、種類も、今までの比じゃないわ。それに、最高の品質を保ちながら、たくさんの人々に満足してもらえるようなお菓子を、安定して作らないといけない」
考えるべきことは、山のようにあった。今の私とリラ、二人だけでは、物理的に限界があるかもしれない。工房も、この家の小さな台所だけでは手狭になるだろう。
「どうしよう、リラ。私一人で、本当にやり遂げられるかしら……」
急に押し寄せてきた責任の重さに、少しだけ不安が顔を出す。するとリラは、私の手をぎゅっと握りしめて、力強く微笑んだ。
「一人じゃないわ、アマラ。あなたには、私がいるじゃない。それに、このデヴァプラには、あなたのことを応援している人たちが、たくさんいるわ」
「リラ……」
「さあ、まずは計画を立てましょう。どんなお菓子を、どれくらい作る必要があるのか。そのためには、何が必要で、誰の助けを借りればいいのか。一つ一つ、考えていけば、きっと道は開けるわ」
彼女の言う通りだった。不安になっている暇はない。やるべきことを、一つずつ、着実にこなしていくだけだ。
「そうね。ありがとう、リラ。あなたがいると、本当に心強いわ」
私は彼女に微笑み返した。
「よし、まずは、ディワリのお菓子のための、特別な材料を集めるところから始めましょう。ラージューさんのお店に行って、相談してみるわ。彼なら、きっと最高の材料を手に入れるための、良い知恵を貸してくれるはず」
「ええ、それがいいわ。それから、新しい工房の場所も探さないと。この際、パワンプトラ様にも相談してみたらどうかしら。彼なら、街の空き家事情にも詳しいかもしれないわ」
「そうね! それもいい考えだわ。それから、人手も必要になるわよね。お菓子作りを手伝ってくれる人が、あと二人くらいはいないと…」
私たちは、顔を見合わせながら、次々と湧き出てくるアイデアを出し合った。
不安は、いつの間にか、未来へのわくわくするような期待へと変わっていた。これから始まる、新しい、そして大きな挑戦。それは、私一人の夢ではなく、このデヴァプラの街全体を巻き込んだ、壮大な物語の始まりになるのかもしれない。
私たちは、夕日に染まる市場の中で、これからの計画について、熱心に話し込み始めた。
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ラドゥとアムリタの雫 ☆ほしい @patvessel
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