いのちの博覧会
あづま乳業
前編
大屋根リングは夕映えを孕み、格子の陰を刻一刻と濃くしては、まるで朱と黒の知恵の輪が入り組むように聳え立っていた。どのパビリオンも長蛇の列である。八月の大気は蒸風呂のように、皮膚を鋭角に抓った。
夏休み。
今年十歳になる
湊がいのちの博覧会へ訪れたのは目的がある。
母は心の病を患っていた。この世のすべてが哀しくなる病である。母のうわごとはいつかこの星も滅ぶとか、一秒経過することが哀しいとか、どれも目の前にある現実ではなかった。現実の哀しみではないからこそ取り除きようがなかったのである。哀しみの病は多く投薬の効果が認められるが、母に限ってその例に漏れた。
今はただ横たわり、悪夢を見るだけの人形と変わり果ててしまったのだ。
湊は母の笑顔をビデオの中でしか知らない。この博覧会へ訪れたのは、母の病を治す手がかりを探すためだった。
しかしそれも思い違いだったようだ。来場者十万人によるパビリオンの争奪戦は熾烈を極め、東京へ戻る便の時刻が近づいても、まだ人気パビリオンをひとつも回れていなかった。
人工心臓も。
20年後の自分に出会う体験も。
3Dプリンタでつくった人工肉を食べることも。
何も見られない。
何も見られないことを体験するために、自分たちはこの博覧会へ訪れた。湊はようやく気付いたのである。
父の手が、湊の濡れた背中を撫でた。
「ごめんね。混んでいる日にしかお休みが取れなくて」
その声色が特別にやさしい時、湊は余計甘えられなくなる。母が人形だったことへの贖罪に聞こえるからだ。
気付けば、大屋根リングがオレンジ色のライトアップを始めていた。そろそろ大阪を発たなければ、母の居る東京へ戻れない。
湊は背筋を伸ばした。
「帰ろう」
その時だった。
大屋根リングから潮風がふうっと通り抜けてきた。ふと風のほうへ振り返ると、人々が忽然と姿を消していた。父もパビリオンの長蛇もなく、湊はがらんどうの廃墟と化したパビリオンの街で途方もなく独りだった。
ぽつぽつぽつ。ぬるい雨が頬を打つ。
胸騒ぎがしていた。童歌が聞こえる。知らない子どもの声だった。
あの世、この世。
水、空気、めぐる、いのち。
誰かいる。
恐る恐る声の方へ振り返ると、パビリオンの陰から、二歳児ほどの人影が現れた。
「あそぼ」
湊は言葉を失った。人影はどう見ても人間ではない異形だった。人のような身体はぬめり気のある水分の塊で、目玉はぎょろりとし、気味の悪い風貌をしていた。
「ば……化物!」
湊は尻餅をついた。すると化物の目がぎょろりと湊の方を向いた。
殺される、そう思った瞬間である。
「おいら、ばけものやったんかぁっ! 知らへんかった! えへへっ!」
ばけものはほっぺを両手で抱え、人懐こく笑い始めた。
「化物っ、化物っ、おいらはばけものやっ!」
湊は呆気にとられて、化物が機嫌良く踊るのを見詰めた。
いや褒めてないから。拒絶されてるんだよ。化物って言葉は、人間が君を蹴ったり殴ったりする時に使う言葉なんだ。
すると化物は湊におずおずと小さな手を差し伸べた。
「化物とは、あそべへん?」
その、人の好さそうな顔といったら。
湊はおずおずと化物の手を取った。熱帯の夜、化物の手ひらだけ、深夜を先取ったようにひんやりと心地よかった。
化物は宇宙船の中のようなアメリカ館の中を傍若無人に走り回っていた。
「おーん。これが火星の石か。フツーの石やん。目玉くらいついとるのかとおもうとったわ。火星とゆうからには!」
化物はショーケースに顔を押しつけ、大きな目玉を寄り目にしている。
湊は化物にただぽかんと口を開けるばかりだった。
「勝手に入って大丈夫なの?」
「誰もおらんやん」
「戻ってくるかも知れない!」
「お腹空いたわぁ。お寿司屋さん食べいこか~っ。未来の料理出てくるらしいで」
化物はきゅううっとお腹を鳴らした。
ああ、やっぱ人間の常識ってもんがない。こいつは。
シャリの上に、巨大な、目玉付きの触手が乗っていた。
「地球外生命体のお寿司や~っ!」
湊は思わず目を背けた。未来の食べ物って地球外生命体を食べるってことなのだろうか? サステナブルとかそういう話だと思ってた。
化物がお箸を伸ばすと、地球外生命体の触手は食べられまいと化物の首を締め始めた。
「ぐええっ! 新鮮やっ!」
それから化物と地球外生命体は、食うか食われるか命がけでもみ合っていた。
回転寿司のレーンから、未来の料理が壊れたみたいに絶え間なく流れてきて、二人の座るテーブルを埋め尽くしている。
「僕はふつうっぽいのを食べよう……」
湊は怖々ハンバーグのお皿を取った。
人工肉のハンバーグ。粉末状の細胞を培養器に入れると肉に育って、それを3Dプリンタがハンバーグに変える。いつか電子レンジのように当たり前の家電になるらしい。
でも少し怖いな。何の細胞なんだろう?
湊はハンバーグを口に含んだ。すると。
「えっ! おいしい……?」
肉汁が広がる。それはデミグラスソースと混じりながらだんだんと味を変え、ああこれは何の肉だっていい、今はこの肉を食べること以外、何も要らないっ!
その時だった。
どーんっ!
回転レーンの向こう爆発音がした。
湊がレーンの向こうを覗き込むと、大きなブタの怪物が調理場で暴れていた。どうやら人工肉プリンタがクリーチャーを生み出してしまったらしい。大きなブタの怪物は次々に生み出され、お寿司のお皿に座って次々レーンを流れてくる。
すると化物がぶるぶるっと震えた。
「やばっ、楽しっ!」
「何言ってんだ、逃げようっ!」
湊は化物の手を引いて席を発った。
二人はお寿司屋さんを出て、廃墟となったパビリオンの街を逃げる。夜空には、パビリオンの展示品「夜の地球儀」が月の代わりにぽっかり浮かんでいた。
「……何がどうなってるんだよ!」
地球儀が本物の天体になってる。
まるで夢。何の脈絡もないことが、次々起こる。こんなの博覧会じゃない。まるで不思議の国だ。
湊が混乱していると、化物は湊に訊ねた。
「湊は何が見たくて博覧会へ来たん?」
湊は言い淀んだ。
「……それは」
「なんでもええよ。今ならどのパビリオン見放題やし」
「お母さんの病気を治したいんだ」
湊は拳を握って言った。父にも言ったことがない夢だった。
化物はしばらくきょとんと湊を見ていたが、やがてにっこりと笑った。
「治るかもしれへんで。ここ夢の国やからな。夢を見せたる」
どくん、どくん。
そのパビリオンの内部は血管が這い、内臓のように収縮運動していた。太陽の塔の体内を模したこのパビリオンには、人工心臓が展示されている。
血管に埋もれた扉を抜けると、赤い培養液が入った装置があった。
「人工心臓や」
二人は装置に鼻が付きそうなほど近づいた。
培養液の中、ひな鳥のように小さな人工心臓が鼓動している。ISP細胞で生まれた心臓は一週間ほどで死んでいく、誰のものでもない孤独な心臓だった。
「すごい。もう人の身体って人工的につくれるんだ」
「せや。未来では脳細胞も含めてすべて医療再生できるようなるし、そもそも身体を捨ててVRの世界で暮らす人もふつうになる。人類はあと百年くらいで、永遠の命……死から解放されるかもしれへん」
「永遠の命……?」
「そうや」
「でも百年後じゃ……」
今生きている人はほとんど死んでしまう。
「そうやな。本当に残念やけど、今生きてる人たちは『死』がある最終世代になりそうなんや」
「それじゃ意味ない!」
「せやけど、生きてるうち叶わへん夢やからってみんな諦めたら、千年経っても、一万年経っても現状維持のままやから」
湊は培養液をまじまじと見詰めた。あと百年くらいなら、藻掻いて、藻掻いて、藻掻き抜けば、生きているうちに訪れないだろうか。
それを見透かしたように化物は言った。
「湊ひとりが藻掻いても未来は早うならへんかも知れんけど、いのちの博覧会を見た世界中の子らが、同じ夢みたらどうなる? みんなで藻掻いたら間に合うかも知れへん」
「みんなで?」
「せやから、おいらはパビリオンを見れなかった子どもたちにパビリオンを見せておるんや」
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