英雄なんてしらない
西野和歌
第1話
私は走る。
幼い命を胸に抱えて、わき目もふらずに私室を目指す。
この教会で保護されて、ささやかに私たちは暮らしていた。
抱きしめるわが子が泣く。
「ローズ、俺は君だけを思って生きて帰ったんだ」
私だって彼の生還を祈っていた。
なのに、どうして?
どうして運命は、私と彼を引き裂いてしまったんだろう?
追いかけてくる足音、バタンと閉まると同時に鍵をかけた。
激しく叩かれる扉の音が聞こえぬように、私は息子を強く抱きしめた。
*****
「必ず生きて帰るから、だから待っててローズ」
「私の事はいいから、ともかく無事に帰ってきてね」
私は幼馴染を抱きしめて、彼を戦場に送った。
こんな田舎の村にすら徴兵が来るほどに、この国の戦況は悪化していたそうだ。
私たちの住む村は、本当にささやかな村で、そんな都会の情報は一切入って来なかった。
だからこそ、村の青年たちが国王によって戦場に駆り出されたときは、皆で泣いて見送った。
そんな中に、バックもいたのだ。
物心ついた時から共にいた幼馴染の彼とは、いつかは結婚するのだと自然に思っていた。
年頃になり互いに意識しあうようになり、そして私たちは親に隠れて結ばれたのだ。
赤い髪に深い緑の目、体格もスラリと背が高く顔立ちも穏やかに整っている。
いつも太い眉を下に向けた優し気な顔は、村のみんなにも人気のバック。
憎まれ口をたたく私と、互いに相思相愛になったばかりだったのに……。
彼が出陣する前夜も、私たちは愛を交わした。
「まだ怖い?」
初めての夜に泣いた私を、今でもずっと気遣ってくれるバック。
恥ずかしくて、私は彼の胸に顔を埋めた。
笑いもせず、彼は真面目な声で私の耳元で囁いた。
「ずっと愛し合っていたいよ。朝も昼も夜も」
「バック……」
明日には彼は村を出る。
逃げることは叶わない。彼も村を守るため、命をかけて戦うのだから。
重い気持ちを振り払うように、バックの太い首にしがみついた。
私の重みなんて大したことがないとばかりに、彼は私を抱き返してくれる。
この暖かさ、そして重み……お願いだから消えないで。
夢中になって私を貪る彼が愛おしくて、私は何度も彼の短い赤い髪を撫でた。
少しクセのある髪はフワフワで、まるで太陽のようで私が大好きな色だ。
私のように、少しくすんだ金色とは違う、命の色。
迷信だと言われても、私はバックに自らの金の髪を入れたお守りを手渡した。
小さな首から下げる小袋を、彼は嬉し気に首にかけてくれた。
「帰ったら結婚しような? ローズ」
「うん、うん!」
ずっと私は思っていた。
――このまま一つになれればいいのに――
夜が明けるまで、その時間よ止まれと互いに重なり合った。
愛を刻みあい、決して互いが忘れぬようにと夜を超え、無情にも朝が訪れたのだ。
言葉になんかできない。
こうして彼は村から旅立った。
*****
村から若者たちがいなくなり、村には年寄りと女子供だけになる。
農作業や、狩りの人手が足りなくなり、村は貧しくなっていく。
「このままじゃ皆が飢え死にしてしまうわ」
そう誰が言ったのか。残った村人たちは相談して、若い女を出稼ぎに出す事にした。
いくら戦時中でも、まだ人の多い都会のほうが稼げるだろうという判断だ。
そして選ばれた何人かの中に、私が含まれていた。
本音は村を離れたくなかった。
バックに待っていると約束したのだ。
けれど、村の惨状をしれば否という言葉は出てこない。
こうして私は数人の女性たちと、王都に向かったのだった。
何日もかけて初めて訪れた王都は、まったくの別世界だった。
沢山の人でにぎわい、見たこともない食料や店舗が並ぶ。
本当に、今は戦時中なのか疑うほどだ。
私たちは村長を介した商人によって、就職先を振り分けられた。
私は同じ村の娘たち数人と、まとめて大貴族の下級使用人として雇われた。
豪華な屋敷に綺麗なドレス。
同じ年頃の貴族の娘は、化粧もドレスも特別で、毎晩のようにパーティーを開いていた。
庶民たちが、物資不足で苦しんでいても無関係だったようだ。
そして、ここに来て知ったのだ。
戦場に出ているのは平民と騎士のみで、貴族は徴兵などない事を。
王都にきて三か月目、バックと別れて半年目……私に変化が訪れていた。
「体調悪いなら、はやく奥にいきなよ」
仲間が私を気遣ってくれる。
その優しさに感謝しながら、私は食器運びを任せて、奥の部屋でシーツを畳む。
こちらは座り作業で、まだ体を労わる事ができたからだ。
口元に手をあてて、吐き気を我慢するのも慣れたものだ。
匂いもつらいので、できる作業が限られてきていた。
このままではいけない。
いつまでも仲間たちに負担をかけられない、何より私は原因を理解していた。
――どうしよう、どうすれば
日に日に隠すことのできない腹部を撫でて、私は不安に押しつぶされそうだった。
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