麻婆豆腐婦人
木村楓
一皿目:湯気の向こうの記憶
町中華の狭いカウンターに、小さな背中が見えた。
湯気が立ち上る厨房で、三十代半ばの女性がお玉を振るっている。結い上げた髪から数本の前髪が頬にかかるが、その手つきに迷いはない。彼女の名前は田中静華。母・静江から受け継いだこの店を、十年前から一人で切り盛りしている。
「いらっしゃい」
扉のベルが鳴ると、静華は振り返らずに声をかけた。常連客なら足音で分かる——これは母から教わった技だった。今日は見知らぬ足取りだった。
カウンターに座った若い男性が、壁に貼られたメニューを見上げた。手書きの文字が並ぶ中で、ひときわ大きく「麻婆豆腐」の文字が躍っている。
「あの、麻婆豆腐をお願いします」
静華の手が一瞬止まった。微かな強張りが肩に宿る。
「かしこまりました」
彼女は奥の冷蔵庫から絹ごし豆腐を取り出した。包丁を握る手が僅かに震える。母への想いからだった。
あの日も、こんな風に一人の客が麻婆豆腐を注文したのだった。母・静江がまだ現役だった頃。「お母さんの麻婆豆腐は本当に特別ね」——そう言ってくれた常連のおばあさんの声が、今でも耳に残っている。
静華は豆腐を一口大に切り分けながら、心の奥で眠っていた母の声を思い出していた。「静華、この味を受け継ぐのはあなたよ」——
フライパンに油が踊り始める。豆板醤の香りが空気を染めて、静華の表情が変わった。一瞬よぎった情念は去り、母から受け継いだ職人としての集中へ。
挽肉を炒める音が店内に響く。パチパチという音に混じって、静華の小さなため息が漏れた。
彼女の手が調味料の瓶に伸びる。甜麺醤、醤油、そして秘密の隠し味。三十年かけて完成させた黄金比が、彼女の指先に刻まれている。
豆腐がそっとフライパンに加えられる。崩れないよう、まるで赤ん坊を扱うような優しさで。真っ赤なソースが豆腐を包み込んでいく様子は、まさに芸術だった。
「お待たせしました」
差し出された皿から立ち上る湯気の向こうで、静華が小さく微笑んでいる。夕暮を思わせる鮮やかなソースに包まれた豆腐が、まるで宝石のように輝いていた。
男性が一口食べると、目を見開いた。
「これは……」
言葉を失った表情を見て、静華の胸に暖かいものが広がっていく。この十年間、彼女が守り続けてきたものが、また一人の心に届いたのだった。
男性はゆっくりと箸を置いた。その目には、驚きと感動が入り混じっている。
「こんなに美味しい麻婆豆腐は初めてです。本当に……本当に美味しい」
静華は頬を赤らめた。幼少の頃より母と共に何十年料理を作り続けても。お客様の笑顔に勝る報酬はない。
「ありがとうございます。でも、まだまだ修行中ですから」
謙遜する静華だが、その目には確かな自信が宿っている。この麻婆豆腐には、彼女の人生そのものが込められているのだ。
男性はお会計を済ませながら、振り返った。
「また絶対に来ます。今度は友人も連れてきますね」
「ええ。また来てくださいね」
静華の声に、今度は震えはなかった。扉が閉まった後も、彼女は小さく微笑み続けていた。
夕日が店内を橙色に染める中、静華は今日使った調理器具を丁寧に洗い始めた。明日もまた、母から受け継いだ心温まる一皿を作るために。
この小さな町中華で、今日もまた一つの小さな奇跡が生まれたのだった。母・静江の想いと共に。
第一話 完
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次回:「静江」
静華!アンタなにを人が逝ったみたいに語ってるんだい!!
鍋振りで腰痛めたから店任せただけだろうに!!
母への想いだ!?トンチキなこと考えて一人で笑っとっただけだろうアンタ!!
麻婆豆腐婦人は、お茶目な女性😜
お……?湿布買ってきてくれたのかい。
いつも有難うよ。
麻婆豆腐婦人は、親孝行🥰
……続く?
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