2.ずっと、一緒

「え、早坂さん……好きって……?え?私が?」

 思いもよらない言葉から数秒後、未だ私は赤らむ彼女の顔を眺めていた。

 彼女はそう、早坂奏さん。確か、中三の頃も同じクラスだったと思う。

 でも別に話したこともないし、何か接点があるわけでもない。ただ、顔と名前を知っているくらいだった。

 

 だから、突然のその言葉に私は心底驚いた。

 そして、それからすぐに、驚きよりも「好き」と言われたことの衝撃が上回ってしまった。

 冷静に考えて、女の子から好きなんて言われるとはまず考えていない。そもそも男の子からすらも言われたことはないのだけれど。

 私はどこか、気持ちが昂ぶっている。人から好意を向けられる感覚を知らなかったからだろうか。

 恥ずかしそうに目を逸らすその顔が、何故だかだんだん可愛く見えてきて、気付けば

「えと、その。私なんかでよければ……」

 と、そんなことを口にしていた。

 あの瞬間の木の匂いを、今でも覚えている。思い出せば思い出すほど、窓の外の桜色は色濃く私の脳裏に残っていった。


「奏ー!海、冷たくて気持ちいいよー!」

 波の中でその名前を呼ぶ。五月蠅いくらいに眩しい日の下、私は青に揺られながら夏日の夢を見ている。

「ほら、危ないから気を付けて」

 なんて声をかけ、奏はサンダルに入った砂を落とす。

 あまり乗り気で無いように見える。でも、私は知っている。

 奏は、感情をあまり出さないから。きっと今も、私の隣で楽しんでいる。

 思えば、彼女の感情を一番見られたのはあのときだったかもしれない。

「ほら。こっちおいでよ」

 その顔にもっと笑ってほしくて、私は波の奥から彼女を呼ぶ。

 やがて膝が少し濡れる。真っ白なペンキを被ったようなワンピースの下が、ほんの少し潮に染まった。

 快晴の下、溶けるような暑さの中でそのひんやりとした感触はハイライトされ、もう少しこのままでいたいとさえ思う。そんな私をあるべき場所へ帰すように、少し大きい波が私を攫った。

「うわっ!濡れちゃった……はは……」

「ほら、気を付けてって言ったじゃん」

 水滴を拭い顔を上げる。そこには、手を伸ばす奏。

「ほら、行こ。花。」


「うん、奏。」


 そうして手を引かれるまま、私たちは浜辺へと戻る。

「あはは……すっかり濡れちゃった……」

 淡く潮の色を映す服が張り付く。潮風が当たる度にひんやりと光って気持ちが良い。

「だから危ないって言ったのに……」

 その顔も笑っている。

 なんだか可笑しくて、楽しくて、私は思わず笑みを溢す。

「あはは、じゃなくて。このままじゃ電車も乗れないでしょ……乾くまで帰れないよ?」

「ん、大丈夫。着替え、持ってきてるから。」

 そしてまたその手を掴む。離れないように。

「奏も、持ってきてるでしょ。だからほら、行こうよ。」

 未だ波打ち際に囚われている私達は、こうしてまた青の下に繰り出す。

 楽しくてたまらない。この瞬間が。

 隣に居るだけで楽しい彼女との時間が、愛しくて堪らない。

 

 どうかこのままで。


 何も言わせぬまま、その腕を引く。

 戻ろうとしていても、確かにその顔は笑っていた。

 ――

「うっ」

 ある日の授業中突然、得体の知れない感覚が喉を上がってくる。

 それは形になる前に、私の口から漏れ出た。

「うっ、ぅぇ……」

 そんな突然に、私は吐き出してしまう。またこの感覚だ、と分かっていても苦しいものは苦しい。

「朝日奈さん、大丈夫!?」

「え、ちょっと、大丈夫?」

 みんなの視線が次々と集まる。見ないでほしいのに、当の私は苦しみに喉を絞められて何も言えない。

「あ、私、保健室連れて行きます」

 そう真っ先に申し出てくれたのは他でもない、奏だった。

 彼女の腕に支えられながら、ふらつく足で歩く。

「はあ、はあ、奏、ごめん、ね……」

 そんな自分の姿が情けなくて、自然と涙が出てくる。

「何回も、迷惑掛けて、はあ、ごめんね」

 整わない呼吸のままそう続ける。

「私は大丈夫。それに、花は悪くないから」

 笑顔でそう答えてくれる奏の声は、流れる涙が大きくなるほどに優しかった。


「ねえ、これどういうこと?」

 それから数日、まだ体力も戻らない頃、唐突にクラスの友人にスマホの画面を見せられた。

 そこに映っていたのは、彼女のSNSの投稿とそのリプライ。投稿は、よくあるような写真だった。

 どうやら問題はリプライの方のようだった。


『ブサイク。よくそんな顔をネットに上げられたね』


 こんな事を書くなんて。誰だかわからないけど、ただひどいとしか思えなかった。

「こいつさあ」

 彼女はそのアカウントのアイコンをタップする。

 プロフィールには、私達の高校と、私のクラスが書いてあった。その隣にはおそらく、出席番号であろう数字。

「えっ」

 その数字が、私のと同じものだった。

 それだけじゃない。

 アカウントのID。そこには『@Asahina_Hana_sub』の文字。

 血の気が引いた。これじゃあまるで、私のサブ垢、裏垢みたいだ。

 違う。こんなの知らない。

「待って、私こんなアカウント知らない。これ偽物」

 しかし、彼女からしてみればこんな話を信じる気は無かったのだろう。

「最低。ちょっと自分が可愛くてモテるからって。」

 その瞬間、激しい衝撃が頬を伝う。ぶたれたのは、すぐにわかった。ひりひりとした不快な感触が嫌に残る。

「待って、それ私じゃなくて」

 そんな言葉は聞かず、その足は去ってしまう。

 ひどい。一体、誰がこんな事を。


 どうして、私が。


 その後、気が付けば私の周りからは人が居なくなっていた。みんなして私の事を避けるし、嫌がらせも増えてきた。

 悔しくて、苦しくて堪らない。どうして私が、こんな思いをしないといけないのだろう。

 何も、わからなかった。

 心が押しつぶされそうで、また私はいつかの吐き気を感じていた。

 

「大丈夫、私が付いてるからね」

 そんな中でも、確かに私に声を掛けてくれる奏。ずっと傍にいてくれる彼女は、今の私にとっての全てだった。

 いっそ、奏に全てを委ねてしまえたなら。


「うん、ありがと」

 そんな淡い願いを断ち切る。今は、まだ。

 ――

 やがて私は、一人暮らしの奏の家によく行くようになった。誰にも見られない、二人だけの空間に。

 好きな人の部屋にいる、というのは不思議な感覚がした。まるで何が起こるか分からないような感覚で、心が躍るような、嬉しいような気がした。

 目の前でベッドに座りスマホを覗き込む奏。その横顔を見る度に、なんだか恥ずかしくて視線を逸らしてしまう。

 私は、そんな奏を顔を見るよう肩を掴み、向き合わせる。突然のことに驚いたのか、彼女の目はまんまるになっていた。そんな奏も、可愛いなあ。

 

 その瞬間、唇を奪う。柔らかく。温かかった。

 お互いの顔も見えないまま、口は繋がったままでいる。高まる鼓動の中、肩に掛けていた手をそっと下ろした。腰を掴み、離さぬように力を込める。

 そして、そのまま私は奏に押し倒された。

「ん……花……」

 荒い呼吸が響く。段々と大きくなる拍動は、まるで打ち付ける花火の音のようだ。

「はぁ……はぁ……」

「か、奏……もう……」

 躊躇する私に構わず奏は続ける。息もできなくなるくらい、死んでしまうくらい、彼女に愛されたい。隣に居たい。

 前も見えないまま、私は抱きしめられる感覚に浸っていた。何も考えられなくなるほど、奏に溺れていた。

 そして、奏は指でそっと私のその華に触れた。

 

 薄暗いベッドの上、まだ息の整わない花を見つめる。

 私は、奏の手をを握った。それが嬉しかったのか、また奏は私を抱きしめる。

 

 大好きな、私の可愛い奏。

 大好き、愛してる。

 

 もう何も無い、友達も信頼も失った私に。唯一残ってくれた、私の希望。

 私の大好きな人。どうか、ずっとこのままで。

 

「奏、また明日ね。」

「うん、明日。」

 そっとキスをして家を出る。

 夢のようなひとときに、私は目の前の現実さえ忘れていた。

 その声を思い出すように、私は何度もその記憶を思い出す。刻み込むように。

「私には、奏しかいないから。」

 それだけだった。


 その日、私はひどい夢を見た。愛した人を、奏を失う夢。

 線路の彼方に堕ちたその顔を見られなかった。助けられなかった。

 彼女を失いたくなくて、私はまたあの夏を再演した。

 そうして訪れる、何度目かの季節。そこでも私は、奏を失ってしまった。


 何度繰り返したって助けられない。何回やり直したって、結末は同じ。

 まるで奏がそれを望んでいるかのように、結末だけが私達を迎えにくるのだ。

 

 そしていつしか、私は考えてしまう。

 

 奏を失いたくない、と。

 ――

 最悪な目覚めだった。午前六時、外はまだ薄暗い。

 惨劇を繰り返した私の目には、涙が滲んでいた。

 どうしてか、苦しくて仕方がなかった。所詮夢の中の話なのに。奏を失ったわけじゃないのに。


 どこか、夢じゃない気がした。


「奏……奏……!」

 

 離れたくない、失いたくない。

 ただ、傍にいてくれるだけでいい。それだけなのに。


 ガチャ、とドアを開ける。六時半過ぎ、すぐに家を出て真っすぐに向かってきた。重い足取りのまま中へと入る。

「え……花……?」

 いつもの奏、そのはずだった。

 でも、あの笑顔が消えない。


 ずっと、私の傍で笑ってくれていたのに。


 気付いたときには、私は奏を押し倒していた。固い床に倒れる身体は大きな音を立てる。

 馬乗りになり、首を掴む。

「は、花、なにし、て、ぐっ」

 抵抗しようと強い力で腕を掴んでくる。それでも、私の腕は動かなかった。


 違う、こんなことしたくないのに。

 

 涙と絶望に満ちたその顔は、今にも消えそうな眼で私を見ていた。違う、ただ、奏の傍にいたいだけなのに。

 

 嫌だ、嫌だ

 そんな目で見ないで。


 苦しんでいるのに、どうしてそんなに幸せそうなの?

 どうして、笑っているの?


 細い喉が跳ねるのを眺める。

「は、は……が、はっ、あぁ」

 ――

「私が付いてるからね」

 走馬灯のように溢れ出す、前の事。


 ずっと、傍にいてくれて。ずっと、支えてくれた、


 奏は、


 奏は、どんな目で私を見てたの?

 ――

 あぁ、花。私の可愛い花。こんなことしたくないって、わかってるよ。

 苦しそうな顔。それすらも愛おしい。

 

「……可愛い」

 私の花。花。

 ――

「す……き……」

 

 嫌だ。聞きたくない。力を強める。ぐっと、力を込める。

 

「奏、」


 好き


「嫌い」


 好き


「嫌い」


 すき。


 動かなくなった奏を見つめる。口から出た泡と、汗と涙に塗れた顔。目を瞑った彼女からは、不思議と苦しみを感じなかった。

「あ、あ、」

 震える手をそっと放す。苦しい、苦しい。ただ感情のままに嗚咽を漏らす。泣くこともできないまま、ただ目の前の事実を見る。

「うっ」

 何かが上がってくるのを感じた。

「ぅ、えぇ……」

 その場で吐いてしまう。もう何回も吐いているが、未だに慣れない。ただ嫌な感覚だけが、私を襲う。

 そして、憎しみにも似た何かが渦巻く吐瀉物は、奏だったものを汚した。


 いつの間にか、私の世界は奏だけになっていた。

「ずっと、好きで、その……」

「私と、付き合ってくれたり……なんて……」

 嬉しかった。それまで他人に好きだなんて言われたことはないし、なによりこんなに真っすぐ愛を向けてくれる人は、他にはいなかった。

 一緒にいろんな場所へ行ったし、いろんなことを経験した。

 ずっと隣にいて、ずっと私を見てくれていて。そんな奏が、私の全て。

 私には奏しかいない、そう思っていた。奏しか、見ていなかった。


 だからこそ、彼女の笑顔を理解したくなかった。奥に見えるものを。


「……奏……行かないで、」

 ようやく溢れる涙。自分で奪った命を乞うても、どうにもならない。

 ただひたすらに泣く。何回も見てきた彼女の死を、彼女を、私の手で奪った。

 

 私が。


 あぁ、そうだ。私が殺した。

 こんな結末にたどり着いても、何も変わりはしない。

「奏は、私が殺した。」


 何かに頭をかき回される感覚。もう全てがどうでもよくなっていった。未だ震えが止まらない脚で立ち上がる。壊れた頭は、無意識に私を歩かせる。

「奏、待ってて」

 包丁を取り出し、躊躇いなく喉へ突き刺そうとした。

 震える手、それは寸前で止まる。ここまで来て、まだ死を恐れているのかもしれない。頭では、そんなことこれっぽっちも考えていないのに。

 自分の手で奏を殺しておいて、結局私は死ぬのか。


 その瞬間、膝から崩れ落ちる。

 きっと、最初から間違っていた。

 奏と出会ったこと、その全てが。

 

 なら、いっそ。

 ――

 できるだけ大きなカバンを探した。そこへ荷物をギリギリに詰め込み、家を出る。

 重いそれを背負ったまま、ひたすら歩く。引き摺ることはできなかった。

 聞こえない喧騒、それを掻き消すような心臓の音も聞こえない。

 そこにあるのは温度も何もない、ただの死んだ心。

 きっともうずっと前に私の心は壊れていた。

 ズタズタに引き裂かれた後に火を付けられた燃えカスみたいに。もうどうにもならない事くらい、わかっていた。

 最後の気力を、体力を振り絞り歩く。

 

 やがて辿り着いた冬の海。もう空は暗くなっていた。

 いつかの記憶が残る青。それは黒く染まり、知らない世界を作り出す。

 欠けた月は空を照らし、冷たさだけが満ちている。

 

 波が、私を呼んでいた。

「一緒にいこう、奏。」


 背負ったままの身体と共に、青に堕ちる。


 弾ける泡、暗く、何も見えない世界で。そっと冷たい手を握る。二度と、離れ離れにならないように。


 いつか、二人で語り合った永遠。ずっと一緒に居たいなんて、願っていた。

 ここではないどこかの世界でも、きっと私達は一緒だ。

 どこにいても、何をしても。私は、きっと貴女を愛する。

 貴女が、私の世界の全てだから。


 大好きだから。

 

「奏」

 

「ずっと、一緒だよ。」


 誰にも届かない声は軈て、泡沫に消える。

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泡沫に消える 咲花楓 @nu2520

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