渡る灯に雪の歌を

瑠璃かけす

渡る灯に雪の歌を

 氷の張った湖を歩く。松明は消え、視界は恐ろしく暗い。月の光を頼りに歩く。僕の少し前を進む彼女の横にはトナカイが一頭。小さなそりを引いている。そりには毛布と少しの薪、残り一食分ほどの食料。

 夜明けまであと何時間だろう。朝には町につけるといいが、正直厳しい。現在地すらもよく分からない。大きな湖の上を、彼女の持つ磁石を頼りに南へ、南へと進んでいく。

 湖畔の森は針葉樹。遠くで狼が吠えている。彼女は少し怯えている。僕の荷物は大きな革のリュック。中身は服と食器とテント。左手には油の切れたランタン。胸ポケットには地図。

 彼女が寂しいというので歌を歌った。僕らの故郷の村の歌。一緒に歌えば寒くない。かぼちゃ畑を抜けた先、神父のいない教会で、みんなで歌った歌だから。家に帰れば温かなスープ。パンを浸して食べた。橙色の暖炉の炎。椅子に座って絵本を読もう。

 戻れない過去と、寒くて苦しい現在と、希望の見えない未来を、変える力は僕らにない。遠くへ飛べる翼はないし、今日を生きるお金もない。もし僕が天国に行ったら、多分彼らに会えるだろう。でもきっと、僕らは天国でも殺し合う。

 彼女は歌いながら泣いている。「どうして泣いているの?」とは訊けない。なので寂しいからか、悲しいからか、理由は僕にはわからない。そもそも寂しいと悲しいの違いは一体なんだろう。多分誰も知らない。

「町についたら何がしたい?」

 僕は彼女にそっと問う。

「サウナに入りたい」

 歌うのをやめて彼女は答える。

「サウナがある町だといいね」

 もっと気が利いたことを言えたらいいけど、僕にはそんな知識も余裕もない。彼女は「そうだね」と言って少し笑っている。月に照らされた彼女の顔は、絹のように滑らかで美しかった。

 彼女はもう歌わないみたいだ。夜空はいっそう暗くなる。星はこんなにもたくさん輝いているのに、町の明かりは一つも見えない。僕らは無言のまま歩き続ける。

 鳥も鳴かない深い夜を、南へ南へと進んでゆく。僕に魔法が使えたら、夜には消えない火を出して、おなかいっぱいシチューを食べて、そして彼女に服を作ってあげる。そしてもう二度と、離れることのないように。もう二度と、苦しくならなくていいように。彼女が肩にかけている散弾銃が、必要なくなる世界に行けるように。祈りたい。


 どれくらい歩いたのだろう。昨日までいた町からはだいぶ離れたはずだ。

 僕らは旅をしているわけではない。僕らは殺し合いから逃げてきた。昨日の朝までいた町も、最初は安全だったけれど、今はもう地図にない。

 僕らの故郷は西の果て。猫とトナカイが沢山いる村だった。畑もいっぱいあって、学校には僕ら以外にも多くの子供たちがいた。

 最初の殺し合いは国の西側で始まった。僕らの故郷のすぐ近く。大人たちはみんな猟銃と斧で戦った。僕らは馬車に乗って北へ逃げた。二年くらい北側の村で生活した。けれどそこでも殺し合いが始まった。だから南へと逃げることにした。

「私たち、今どのあたりにいるの?」

 不意に彼女が問う。

「次に着く町が北部地方の中でも一番南の町だと思う」

 僕は地図を見ながら答えた。けれどまだ湖を抜けられていないということは、町まではかなりの距離が残っているということだ。

「じゃあ頑張って歩こうね」

 彼女が振り向いて言った。僕はそっと笑顔を返した。

 ざっざっざっと、氷上を歩く。まだまだ明かりは見えない。けれど夜空は少しだけ、明るくなってきた。まだだいぶ遠いけれど、対岸も見えてきた。雪の積もった地面の上に、うっすらと木々が見える。

「向こう岸、見えてきたね」

 僕は彼女の背中に言葉を当てる。

「そう、だね。もう少し、だね」

 彼女の声は、疲れてきたのかとぎれとぎれだ。

「大丈夫? 少し休む?」

 僕は心配になって問いかける。けれど彼女は首を振る。

「そりに乗ったら? 今乗ってる荷物は僕が持つからさ」

「既に色々持ってもらってるのに、そんな我儘、言えないよ」

「でももう四時間くらい歩きっぱなしだよ」

「わかった。じゃあ、湖を渡り切ったら、休もう」

 僕らは昨日の朝に町を逃げ出し、夕方までずっと歩いた。その後仮眠をとって夜中の二時ごろから湖を歩き始めたのだ。時間帯的にもうすぐ夜明けだろう。彼女のトナカイもかなり疲れてきているようだ。

 対岸が見え始めてから四十分ほどで、僕らは湖を抜けた。陸地に上がった途端彼女は地面に突っ伏した。

「疲れたぁー」

「湖は近道だけど陸より疲れるよね」

 そろそろ夜明けだ。周囲で鳥たちが騒いでいる。うっすらと白んできた空に雪の積もった山々が反射している。風が吹いて木々がざわざわと歌う。遠くの方ではまた、狼が吠えている。少しづつ、また一日が動き出してきている。

 僕らは最後の薪を使って火をおこした。リュックからカップと鍋を取り出す。朝ごはんにしよう。湖の氷を少し削って溶かす。沸かした後に布で何回かせば飲めるようになる。僕は最後のベーコンとじゃがいも、そしてハーブでスープを作った。今日の朝食はそのスープとクッキー。クッキーは気温で勝手に凍っているので、焚火で解凍してから食べる。食料もこれで完全に尽きた。

「できたよ」

「はーい」

 料理はいつも僕の仕事。彼女に任すとろくなことにならない。料理が出来上がるまで彼女はトナカイの世話と銃の手入れをしていた。

「いただきます」

「いただきまーす」

 故郷の村で食べていたものとは比べ物にならないけれど、それでも疲れた体に温かいスープは沁みる。ベーコンの塩味がありがたい。

「あとはお茶があればなぁ」

 僕はカップに入った白湯を少しづつ飲みながら呟いた。

「えー私は白湯好きだよー。お茶は苦いからむりー」

 彼女はクッキーをかじりながら目をぎゅっ、とつぶる。

「ルミは子供だね」

「歳はラウルと変わんないよーだ」

 そうこうしてるうちに、切り立った雪山の間から太陽が顔を出した。夜明けだ。

空気中の水分に反射した光の玉が、一斉に煌めきだす。氷の張った湖面にも陽光が当たり、周囲の森を一気に照らし出す。もう少し段々と明るくなるものかと思っていたが、山間の夜明けはこんな感じらしい。一瞬にして世界は明るさを取り戻した。森にいた鳥たちが朝を待ちわびていたかのように飛び立つ。カップの白湯に自分の顔がうつる。雪と木と朝の匂いが混ざって、冷え切った空気と一緒に降り注いでいる。まるで魔法だ。

「うわー、一気に明けたねー」

 彼女の薄い瓦礫色の髪と、冬の空のような水色の瞳が、朝日に照らされて輝いている。焦げ茶色をした厚手のコートとのコントラストがきれいだ。

「わっ、やっぱ帽子ないと寒いやぁ」

 彼女は荷物と一緒に置いていた毛皮の帽子を取りに行く。僕は少し、残念だな、と思いその様子を見ていた。

「なに? どうしたの?」

 帽子を手に取った彼女がきょとんとしている。しかしすぐにいたずらを思いついたかのように、ふっとにやける。

「あ、そっかー。ふふーん。見とれてたんでしょ」

「なわけあるか」

 目を逸らす。

「ばれてるよー。かわいー」

 うるさい。

「でもね。私ラウルの髪と瞳も好きだよ。きれいな麦畑と、若葉の色」

 ルミはそう言って微笑む。そしてすぐに「ま、私の方がきれいだけどねー」と一言足して片付けを始めた。こんな状況なのに、どうして彼女はこんなにも陽気なのだろうか。湖を歩いてるときは泣いてたくせに。まあでも正直、悪い気はしないからいいけど。

僕も慌てて冷めきった白湯を飲み干し、片付けにとりかかった。


 僕らは焚火を消すと荷物をまとめ、出発の支度をした。僕はリュックに食器を詰め込み、背負う。テントはそりに移した。地図でだいたいの現在地を把握し、左手には油の切れたランタンを持つ。彼女は左手に磁石、右肩には散弾銃。トナカイには申し訳ないが、またしばらくそりを引っ張ってもらう。

 谷を一時間ほど南に進むと、町が見えてきた。陸上もスムーズに移動できていたようだ。少し雪が積もっているとはいえ、氷の上よりは断然歩きやすかった。

「あれ、意外と早かったね」

「だねー」

 僕らはやっとゆっくり休めるという喜びを胸に、町へと入った。しかし、町に入っても人はおろか、生き物の気配がしない。家もいくつかは半壊状態だ。ともかくまずは休める所を探そう。僕らは住人と宿らしき建物を探した。

 けれど、豚の一頭も見つからない。どうやらここも、殺し合いの後らしい。仕方なく僕らは町の中心にある一番きれいな家に、しばらく泊まらせてもらうことにした。

 家には風呂も寝床もついていた。正直、ここ最近で一番環境の良い休憩所だ。僕も彼女も久しぶりの風呂に心が弾んだ。が、なぜかこの町の家には備蓄の食料と薪が一切なかったので、使用しない家の壁や柱を少しだけ壊して、僕らは薪を調達した。

「なんか申し訳ないね」

 ルミが言う。

「まあ仕方がないよ。崩れない程度に壊してもらっていこう」

 僕らは周囲の家で薪を調達し、その後寝床の家に戻った。

玄関に入った刹那、ドアの陰に隠れていた誰かに僕は足を引っかけられ、前向きに倒れこんだ。そして後ろから首を掴まれると、床に押し付けられる。さらに誰かはすぐさま僕の身体を仰向けにし、首に腕を回した。どうやら左腕で僕の首を抱え、右手で首筋にナイフを突き立てているらしい。しかし何より驚いたのは、僕にナイフを突き立てているのは僕らよりも五歳ほど年下の少年だということだった。少し遅れて後ろを歩いていたルミは家に入って僕の状態を見るなり薪を落とし、肩にかけていた散弾銃を玄関から三メートルほど奥にいる少年と僕に突き付けた。

「ラウル動かないで」

「お姉さん、それ散弾銃でしょ。撃ったらこのお兄さんも死んじゃうよ」

 少年は少しイントネーションのおかしな言葉で、彼女にそう忠告した。実際少年の力はそこまで強くはなく、僕だけでも拘束はほどけそうだったが、ナイフを突きつけられてしまっているので下手に動けない。

「ルミ、落ち着いて。殺すなら僕が入ってきたときにもう殺してる」

「うん」

 彼女は僕の言葉が聞こえているのか聞こえていないのか、あやふやな返答を返す。

「君、何が欲しいの」

 僕は少年に問う。

「まずはその銃と持ってる食料」

「ごめん。生憎なんだけど食料は持ってないんだ。ルミ、この子に銃を」

「何言ってんの」

「いいから」

 彼女は僕に言われ渋々銃を床に置き、蹴って少年の足元に滑らす。両手が塞がっている少年は足で器用に銃の肩掛け紐を首にかけると、瞬時にナイフを咥えて銃を構える。そしてそのまま僕を玄関の方へ離し、僕と彼女に銃口を向けながら窓の方へと移動している。


「ラウル、伏せてて」


 彼女は解放された僕を手で引き寄せるとそう呟いた。瞬間、彼女は少年に向かって駆け出す。少年はたまらず引き金を引いたが弾は出ない。彼女はすぐさま銃身を掴み銃を奪うと仰向けに倒れた少年に馬乗りになり、銃口を口に突き刺す。そして瞬時にポケットから銃弾を取り出すと装填する。

「ルミ!」

 僕は急いで駆け寄ると彼女を少年から引き離す。彼女の荒い息が後ろから抑えている僕の腕にかかる。少年は何度か大きくせき込んでいるが無事みたいだ。


「僕らは沢山の人を殺してきたんだ。生きるために。でも、君は子供だから今回は見逃す。けれど次はないよ。わかったら、二度と僕たちの前に現れるな!」


 僕は彼女を後ろから抑えながら精いっぱい怒気を込めて少年に叫ぶ。少年は一瞬たじろぎ、悪魔でも見るような目つきで僕らを睨むと、すぐに走りだし玄関から逃げていった。


「ごめん、ラウル」

 ルミは荒い息をゆっくりと整えながら僕に謝る。

「大丈夫だよ。助けてくれてありがとう」

 僕は彼女の正面に回る。

「でもっ、でも私は、あんな小さい子供を……」

 嗚咽が混ざった声で彼女は言う。

「でもルミは撃たなかった」

「でもっ、結局私も、あいつらと一緒だ……」

「違う。違うよ」

 僕は彼女の肩に手を置く。

「そうだ。歌を歌おう」

 僕らの故郷の村の歌。一緒に歌えば寒くない。

かぼちゃ畑を抜けた先、神父のいない教会で、みんなで歌った歌だから。家に帰れば温かなスープ。パンを浸して食べた。橙色の暖炉の炎。椅子に座って絵本を読もう。


「ほら、もう大丈夫」

 いつかこの戦いが終わったら、銃の代わりに杭をうとう。杭をうって家を作ろう。家を作って一緒に住もう。

 僕らはこの先も、生きてゆかなくてはいけないのだから。


 二日後、僕らはこの町を出発した。少年の行方は、誰も知らない。

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