第四章

 八月十日。招かれざる運命の朝は、いやに目覚めがよかった。

 今日の晩、日付が変わるまではヒイロと一緒にいて守る。布団から起き上がり、着替えと髪と、と準備を始めた。うるさく響く鼓動を抑える努力をしようと思ったが、すぐに無駄だとわかった。当然のことだ、不確かで確実な危機を避けねばならないのだから。集合は五時、港までは最寄りから二時間弱ほどの距離がある。それはヒイロもほぼ同じだ。改めて応急手当、止血を復習したものの、何をするにもおぼつかない時を過ごした。


 かくして、待ち合わせの時刻がやってこようとしている駅の改札口。後輩らは少しずつ集まってきたが、ヒイロが訪れる気配は一向にない。呑気に笑い合う彼らを横目にそわそわし、腕時計と携帯電話、改札口と順に視線をうろつかせる。午後五時、未だ日は天高く地上を照らしている。しかし、もし事が早まったらどうだ。夜が来る前に予見が訪れ、早くにヒイロが血まみれになったら。そうならない確証はない。途端に沸き上がりだした不安は止まるところを知らず、脳内をぐちゃぐちゃにかき乱していく。周りの音や風景すら判らなくなるほどに。

「おーい、おーい?大丈夫?」

ふぇぁっ、と思わず変な声が出た。白いシャツに白パンツ姿のヒイロが、目の前で手をふんふんと振っていた。

「なーに間抜けな声出しちゃってんの」

「ヒイロが急に来るから」

「待ち合わせなんだからそりゃ来るよ」

「ちょい遅刻して」

「わーわー聞こえなーい!ほらみんな行こー」

わぁい、とみんなが駅構内へと続くのであえなく同行した。

 地下鉄に乗り数駅。降りた駅は既に人がごった返しており、全員はぐれず外に出られたのも奇跡といって差し支えないほどであった。時刻は五時半、未だ日はある。この様子ならもう一時間は安心だろうが、ユウトの視た時間帯がいつかはわからないので油断ならないのが現状だ。

 さすがにこの人混みを全員で回るのは憚られたので、なんとなくいつものメンバー構成でまとまり行動しはじめた。八時に集合し花火は皆で見よう、と約束した。まだ行動相手が固まらなさそうなヒイロに、「一緒に回らないか」と声をかけてみる。こういう場で一緒に動くのは変に緊張するが、そうも言っていられない。ヒイロは心なしか少し目を伏せて、のちに笑顔を浮かべ「いいよ」と言った。

 二人で歩き出してすぐ、ヒイロはタコ焼きを、俺はトルネードポテトを買った。頬張りながら人混みを歩き、ぽち、ぽちと会話が生まれては消えた。予見のことがなくても、きっと上手く話せなかっただろう。心音は並々ならずキャッチボールも上手くいかない。沈黙が生まれてから少し経ち、ヒイロが口を開いた。

「リツはさ」

「ん」

「部長やりたかったな、とか思った?部長が私に決まったとき」

「なに、急に」

「いや、なんというか気になって。で、どうなの」

ポテトをかじりながら少し考え、慎重に答える。

「全く思わなかった訳じゃないけど、ヒイロがやってくれてよかったなって思ってる」

「その心は」

「…言わなきゃだめか」

「言わなきゃだめ」

はっきりと、力強くそう言ったヒイロの顔を今一度見直す。俺がいつもと違うからなのか、ヒイロもどこかいつもと違っているような。

「ヒイロにはリーダーシップがあるし、部活のみんなを元気づけるエネルギーもあるから、そう思ってる。かな」

「でも、それってリツもじゃない」

「そうかな」

「そうだよ」とヒイロがタコを頬張る。あちち、とかじりなおした。

「でも、ヒイロがくれる力と俺が人に与えれる力には、でかい違いがあるかなって思う」

「それってなに?」

ちらっとヒイロがこちらを見る、が目は合わない。なんとなく言いよどんで息をつく。

「ヒイロのくれるエネルギー、というかヒイロそのものがみんなにとって、何だろ、太陽みたいなんだよ」

ヒイロが横でくすっと笑った。

「ちょっとそれ大袈裟じゃない?私ってお日様?」

おこがましくない?と笑うヒイロに、なんとか言の葉を紡ぐ。

「例えば太陽が壊れそう、なんかにぶつかりそう、ってなったらどうするよ」

「んー…私にはちょっとどうしようもない」

「うーん確かに。でも地球規模でそれを食い止める力があるなら止めるでしょ、多分。隕石を光線銃でドカン、とか」

なに言ってんだ俺は。案の定ヒイロは吹き出した。

「ごめーん何言ってるか全っ然わかんないわ」

「まあでもとにかく、みんなが命懸けで尽くしたくなるような何かがヒイロにはある、って言いたいのよ」

「リツにはないの?その、何かっていうのは」

「俺にはないよ、断言できる。ヒイロだけの力」

「なんか照れるなぁ」

ヒイロが頬をかきながら嬉しそうに、しかしどこか寂しそうに笑った。

「きっとリツも一緒だよ。私がお日様ならリツはお月様」

ヒイロの言葉に、はっと顔をあげる。そうか。ある詩の一説を思い出す。

 月は太陽の力を借りて煌々と光る。その光を見たとき、ある者はこう言ったという。月は太陽に、恋をしたのだ、と。

「えっ?ごめんなんか言った?」

無意識に呟いてしまっていたらしく、ヒイロが聞き返す。からりとした笑った顔に

「ううん、何でもないよ」

と、笑いかえした。


 時刻は八時を過ぎ、赤い太陽はすっかり海岸線に沈み、警戒心も強まってきた。人々は徐々に花火の場所取りに海岸へと向かいはじめた。部活のみんなとの集合地点は少し離れた海沿いからは少し離れた所なので、混みすぎて見つからない、ということもないはずだ。

 ヒイロと俺が到着した頃には、後輩たちは既に集合場所にいた。こっちに気づくや否や駆け寄ってきて、先輩たち遅っ、と軽くどつかれた。悪い悪い、と謝りながらヒイロと顔を見合わせ笑ったとき。どおおおん、と大きな音とともに大輪の花火が空に咲いた。おおおっ、と歓声が上がる。続けざまに、もう一発、さらにもう一発。どれも綺麗な円形を描き夜空に消えた。後輩たちも、そしてヒイロも、その光に見とれていた。

 どおん、どおおん。続けざまに響く破裂音をききながら、赤に黄色に照らし出されるヒイロを見やる。さっきの会話があって変に意識しているのか、なんてきれいな横顔だろう、と心の底から思った。一際大きな花火が空に打ち上がった。それが散ったとき、ヒイロの目には、─涙。危険も承知だった、それでも。「─こられてよかったな」、と呟いた。

 会場の全員が、俺でさえも、空の光に目を奪われていた。警備が走り回っていることにも、─地上を脅威が這いずり回っていることにも、ちっとも気づかないほどに。再び大輪が咲いた時、遠くで悲鳴が上がった。周囲も、例にもれずヒイロも、悲鳴の聞こえた方に心配の眼差しを向けた。夜空に警笛が鳴り響いた。その方向には、─大型のトラック。間違いなく、これが予見だと直感した。人を掻き分け暴走するトラックから逃げ惑い、人々はドミノ倒しのようになっていた。荷台には大きなガスタンクを積んでおり、フロントガラスは割れていた。運転手は倒れているのか寝ているのか判別がつかない。─ヘッドライトがこちらを向いた。わあきゃあと走る人々に流されるままに、ひたすら逃げる。─が、しかし。ヒイロが人の波にもまれ、こけた。

「ヒイロ!」

戻ろうにも手を握ろうにも、人の波に押され掴めない。トラックはどんどんこちらに迫ってくる。分かってても助けれないってのかクソ。ヒイロは必死に動く。俺も必死にヒイロのもとへ向かう。─助けれないんじゃ、ないだろ。ヒイロは諦めてない。だから俺も諦めない。手をまっすぐ伸ばす。トラックはすんでのところまで迫っている。握れ、握れ、握れ。そうしてヒイロの手を、掴んだ。強く、強く。どちらの手汗か滑りそうになるこの手にヒイロが爪を食い込ませる。そして、ぐっ、と引っ張りあげた。立ち上がったヒイロが素早く避ける。トラックはヒイロの背を少し掠めて、海岸まで走り去った。

「ああ、怖かったぁ」

どちらから言い出したでもなく、互いに口にする。ただ手を握りあったまま。

「危なかったな」

「ほんとそうだよ、冗談抜きで死ぬとこだった」

乾いた笑いが湧いた。─が、すぐに笑えなくなった。ヒイロがひたん、と膝をついた。

「…生きてる、んだよね。あたし」

俺は目の高さを合わせた。彼女の腕を流れる脈が、俺にその答えを告げていた。

「…生きてるよ。ヒイロは、生きてる。だってここにいる」

繋いだ手の温もりが、掌の真っ赤な爪痕が、大きな危機を乗り越えた証だった。再び大輪が夜空に咲いた。


「キレイだったね」

「いろいろありすぎたけどね」

花火が上がりきった夜九時。祭りから帰る人々は、地下鉄の駅へと長蛇の列を作り上げていた。かき氷を食べ過ぎて腹を下した後輩を待ち続け、随分と列後方になってしまった。全員はぐれず進むのに必死になりながら、時間は過ぎていった。何もなかったかのように、平和な時間だった。

 そうして何とか列車に乗れた頃には、時刻は十時を回っていた。なおも混み続けている車両にはもはや呆れの情も浮かばなかった。ただ守りきった達成感のなかで、帰るだけだと確信していた。─ヒイロに差した陰に気がつかないほどには。

 後輩たちは続々と別路線に乗り換えていき、俺とヒイロだけが車両に残された十一時二五分。

「リツは」

ヒイロがぽつりとこぼした。

「明日、急に私がいなくなったら、どう思う?」

どくん。嫌な予感が心を取り巻きはじめたのを感じた。

「そりゃあ─」

ヒイロは黙って聞いている。窓に映るその表情はよく見えなかった。

「心配するし困るし、嫌だな」

「そう、かぁ」

ヒイロが困ったように笑った、きっと。そんな声だった。

「お日様がなくなっちゃっても、剣道部には光が必要なの。だから」

「なに言って」

嫌な予感が心臓に突きつけられている。─まもなく、虹ヶ丘、虹ヶ丘。列車のアナウンスはヒイロの降車を、いやそれ以上に重苦しい何かを冷たく告げている。

「私がどこに行っても、リツは着いてきちゃダメだよ」

ヒイロの声は、震えていた。悲しみとも、痛みともとれるように。

「私ね」

ドアが開いた。

「リツたちと、剣道部の皆と会えて、幸せだったよ、本当に、ほんとうに」

ヒイロが不意に振り返り、こちらを見た。嫌な予感が心臓を貫いた。だめだ、そんな、待って。ホームに、ヒイロの腕に手を伸ばす、が。


「─さよなら」


そう言って泣きながら笑ったヒイロをよそにドアは閉まり、車両は彼女を置き去りにした。俺の手は虚しく扉を打ちつけた、ただそれだけだった。


 今度は掴み損ねた出来損ないの腕を見つめて何秒が経っただろうか。そうしている場合でないと気づくまでも。

 ヒイロの声だけがただ、俺の脳内で繰り返されていた。危機は、予見は、トラックじゃなかったのか。クズな神はもうひとつ爆弾を仕掛けていたのだ、彼女の心の中に。このままゆけばヒイロは自ら命を絶つ。そうなれば俺はどうすれば。時計をみる。十一時三○分。今日という日が終わるまでは気を抜かないと誓ったのに、この間抜け。

「─まもなく、荒木ヶ坂、荒木ヶ坂」

無機質な社内アナウンスが鳴り響く。ドアが閉まってからここまで二分くらい。きっと、ヒイロはまだ、生きている。今この瞬間も、泣いている。俺が、ヒイロを助けなきゃ。

 列車が止まってすぐさま、逆向きの車両に滑り込む。「駆け込み乗車はおやめください」?知ったことかヒイロの、─大好きな人の、命が懸かってるんだ。心臓の音は、列車の音より大きく響いている。

 ドア際に立っていると、すぐそこに座っていた爺さんが呑気に話しかけてきた。

「君、やけに急いでいるじゃないか」

うっせえ当然だ、─だって、ヒイロが。怒鳴り付けてやりたい気持ちを押さえ「まあそうですね」と低く答える。

「そうもいきり立っては女房に逃げられるぞ、私みたいにな。常に静かな、水面のような心たれ」

はっ、と爺さんの方に目をやる。薄い白髪がわずかに揺れている。

「まぁ、言ってやらねばならんときは爆発させなきゃいけないがね」

そう言い笑う老人は、何か懐かしい匂いと必要なものをくれたような気がした。

「─まもなく、虹ヶ丘、虹ヶ丘」

「さあ行きなさい少年よ。自分に、挑め」

「…ありがとうございましたっ」

開いたドアから飛び出し、階段を駆け上がった。


 地上に出て、ヒイロの姿を探した。あちらこちらに走り回った。さほど遠くには行ってないはずだ、きっと駅の近くに─。

 歩道橋の下を走り抜けたとき、なにか予感がして上を振り返った。車も人も通らない静けさの上で、震えて身を乗り出すヒイロの姿がそこにあった。─あの高さから落ちたら。

「ヒイロ!」無我夢中で声を張り上げた。はっとこちらを振り返る彼女のもとへ、必死に駆け上る。

「何で自殺なんか、絶対、死んだら─」

「リツには!」

今度はヒイロが声を荒げる。その勢いに気圧された俺に、彼女は震える声で続けた。

「リツには分かんないよ、あたしの気持ちなんか!ちゃんと皆に応えて頑張れるリツにはさ!」

ヒイロは溢れる涙はそのままに切れ切れに続ける。

「ほんとは弱いのに、勝手に信頼されて期待押し付けられてさ、応えれないのがどんなに苦しいかわかんないよね、なのに自分勝手に死んじゃダメとか言わないでよ!何ができるかばっかで誰もあたし自身なんて見てくれない、こんなのもう嫌なの!ほっといて!」

ヒイロの悲痛な叫びは全て心の深くに突き刺さり、言葉が出なかった。そうしてしばらく沈黙した。ただいつからか、泣きじゃくる彼女を正面から抱きしめていた。嗚咽をもらす彼女に、言葉を紡いでいく。

「さっきヒイロ言ったよね、剣道部には光が必要だ、って」

「…うん」

「勘違いしてるよ、ヒイロは。ヒイロがいなきゃ俺は俺らしく光れない」

「…なんでよ」

「ヒイロが太陽なら、俺は月なんだろ。太陽の光がなきゃ月は光らない」

「…あたし、今日死ぬつもりだったのに。最期の思い出作りのつもりだったのに」

「最期の思い出が暴走トラックでいいわけあるかって。バカ」

ヒイロは胸元で─少しだけ、笑った。

「…ずるいよ」

「ずるくて結構、それでこれからもヒイロと一緒にいれるなら」

ヒイロがもう一度、声をあげ泣き出した。その背中をさすり、語りかける。

「俺、ヒイロが好きだ。大好きだ」

「…私も、リツが好き」

そう言ったヒイロは俺の顔を引いてまっすぐに向けた。泣き腫らした目が、今度はまっすぐに見つめる。

「私のこと、ちゃんと見ててくれる?」

「もちろん。一生、陽彩を見てる」

そう言って、ヒイロの唇に自分の唇を重ねた。ヒイロもそれに応じた。互いの汗に、涙にまみれて。それでもこの瞬間、世界で一番おこがましくて幸せなのは間違いなく俺たちだった。

 時刻は、午前の零時を過ぎていた。

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空を越え、君と陽を見る。 石楠花 葵 @Aoi_shakunagE

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