第二章
七月二八日。集中など微塵もできなかった稽古の明けに、ヒイロに心の調子を尋ねてみた。
「なに、急にどうしたの?リツこそ疲れてるんじゃない?」
笑ってそう言うヒイロに迷いや苦しみの色はない。
「いやそんなことないけどさ、今年に入って先輩たちもいないし、部長だからって無理してんじゃないかなって心配になって」
「そんなことないよー、それに無理はリツの専売特許でしょ、去年とか熱中症指数とんでもない日に急に『かかり稽古やる』とか言って先輩に受けさせてたじゃん」
「それはー…」
その時は夏の入り頃で、男子は二回戦敗退で女子優勝、といった試合があった。あまりに悔しかったので、次の日は稽古せねば気がすまず先輩を付き合わせたのだった。
「暑くて気が違ってたんだ」
彼女は呆れたように笑った。
「いやそんなときに稽古しないでよ本当に。今年の後輩はみんな素直だから、リツが言ったら本当に死ぬまでやっちゃうかもよ?」
「まさか」
「いや本当本当、大真面目。気を付けてね」
と、少し顔をしかめた。
「わかった、ヒイロも抱え込みすぎないでね」
「だーからなんなのそれー」
と、いった具合だった。心配したはずが気づけば行動を注意されていたので少し情けなかったが、元気そうだったので安堵と半々だった。
やはり自殺じゃない。おそらくは不慮の事故、あるいは事件。災害かもしれない。脳を巡る不安が俺を取り込み、昼食は喉を通らなかった。
七月三○日。今日は部活もオフだったので、午前は図書館に行って勉強しつつ、応急処置などの本を数冊貸し出して読んだ。勉強は全く手につかなかったが、ヒイロのための知識はするりと頭に入ってきた。きっと未来を決める神も、俺が突然心肺蘇生や止血の勉強を始めるなんて考えていなかったはずだ。どうだ、恐れ入ったか。
午後は有志委員で学校へ行った。前回同様に少数精鋭で、発泡スチロールの組み立て。ただ委員長がオープンキャンパスで遠出して欠席だったので、少しばかり静かだった。ユウトは少しばつが悪そうにしていたが、学校近くの喫茶店に誘うと承諾した。
「俺が今やってるのは、死因らしい死因のリストアップ、あとその対策」
「それでいいと思います、多分。そもそも僕自身、未来を変えるなんてはじめてなので何が正解かは分かりませんが」
最初のどもり具合はどこへやら、しっかり話すようになった。人見知りしていただけかもしれない。ユウトが続ける。
「僕の未来視というのはすごく不便で、対象の手を触っている間だけ、きっちり二週間後の夜だけが視えるものです」
「じゃあ、こないだ視た未来はもう視れないのか」
こくり、とユウトは頷く。なるほど確かに不便だ。
「それじゃあどうやって未来が変わったか判別する?」
「先輩の様子の変貌具合だけで見極めます。今の先輩の状態から見て、すごく落ち込んでいたり荒んでいたりしたら恐らく未来は変わってません」
俺がその日の晩に偶然ものすごく落ち込んでいたらミスリードもあり得るということか、などと余計なことも考える。
「俺の未来を視て、また苦しくなるならやめておいた方がいいんじゃないか」
と言ったのは、まだ少し後ろめたかったからだった。
「僕もあんなもの視せられてしまったら協力せざるを得ないんです、力を使わず見殺しなんて寝覚め悪いので、先輩の未来は視るし最後まで視届けます」
ユウトはまっすぐこちらを見つめた。
「先輩の大事な人守るんでしょ。僕の心配なんてしてる場合じゃないです」
「─そうだな。ありがとう」
ユウトの言葉に背を押され、視てもらうことにした。窓からは西陽が差し込んでいた。アイスコーヒーを一口飲み、手を触れてもらった。今回は少し長く触った後、そっと静かに手を離した。
「先輩、すごく落ち込んでました。木のテーブルの前で座って、先輩はずっと泣いてて。『俺のせいだ、俺のせいだ』って」
「やっぱり、変わってないのか」
ユウトは困ったような顔をした。
「どうやらそうみたいです。対策が不完全なのか、見当違いなのかはわかりませんが」
「あと十二日でどんだけ策を練れるか、か」
こくり、とユウトが頷く。
「また次の委員会の時にも視せてください。僕にできることはやらせてもらいます」
「ありがとう。また頼む」
まだ未来は変わっていないか。そう簡単にいくとは思っていなかったがやはり、そう一筋縄で通用するような話でもないらしかった。
七月三一日。そろそろ止血とAEDもわかってきた。不慮の事故には外に出させないことで対策するが、死因と言っても多種多様なので備えておくに越したことはない。
五日後に部の錬成会、試合と連日で控えているので、ヒイロがいつもより少し気負っていたように感じた。稽古自体のキツさもあるが、自分で自分を追い込んでいる、そう見えた。
「リツはさ」休憩に入ったとき、ヒイロが面をはずし口を開いた。
「今度の試合どうなると思う?」
「うーん。他人事だけど、俺にはわからない。団体戦だから、ひとえに後輩たちの頑張り次第だし」
「まあ、そうといえばそうだけなんだけどね」
水筒からこくり、と水を飲んだ。
「私ちょっと安心してる」
「安心?」
思わずヒイロの方を見た。どこか、遠くを見ているような。
「そう、安心。初心者の子たち、みんな頑張ってるから」
「俺は心配だけどね、中央高校とか全中まで行った人が入ったみたいだし。勝てるかどうか」
「いや、そりゃ勝てはしないかもしれないよ?初心者は初心者だから」
いまいち理解できず首をかしげる。
「じゃあ何で安心してる?」
「うーん、なんていうか、あの子たちなら、勝てなくても勝てないなりの剣道できるかなって」
ヒイロがそういって微笑む。─あぁ、この人を、守らなきゃ。
「…そっか」
「反応浅っ、私いいこと言ったのに」
冗談めかして笑うヒイロに、どんな態度をとっていいかわからなくなった。
「それがなかったら完璧、おしかったね」
「うへえ意地悪っ」
「意地悪で悪かったな、ほら時間じゃない?再開しなきゃ」
わかったよぅ、とぶうたれつつヒイロが号令をかける。なんだか素っ気なくなってしまったのは話しているうちに訪れる未来を思い起こしてしまったからなのかもしれない。
この日もやはり居ても立ってもいられず、家に帰ってから丸一時間をランニングで過ごすに至った。ヒイロの笑顔を思うと、自然と脚が止まるところを知らなかった。
八月一日。委員長が帰ってきて、委員会作業がぐんと進んだ。お転婆なところもあるが仕事の進行に関しては逸材なのかもしれない。
毎度店に立ち寄っていては財布に優しくないので、というユウトの提案によって今日の作戦会議、もといカウンセリング会場は空き教室である。自販機で買った某乳酸菌飲料を机に置き、手を差し出した。ユウトもふう、と息を吐き両手で応えた。触れ始め二秒後、「痛っ」とユウトが手を離した。
「どうした、なにがあった」
ダメであることには確証が持てたが、痛み?ユウトは左手首をおさえている。
「先輩、手首を、切りつけてて」
ここで、はっ、と気がつく。リストカット、リスカ。俺は自傷に逃げたか。
「何ヵ所も何ヵ所もです。ここにも、ここにも」と、手首に爪で痕をつけた。内手首に幅広く傷をつけたらしかった。
「やっぱり変化なしで間違いないな」
「そうですね。未来視ももう少し小回りが利けばこんな推理しなくてもいいんですけど、申し訳ないです」
「そこはユウトのせいじゃないだろ。とにかくまた事件事故対策に勤しむことにするよ」
帰りに図書館に立ち寄り、「よくわかる防犯対策」「襲いくる犯罪心理」といった本を借りていった。自殺、事故、事件。可能性のある死因は少しずつ減らせているはずだが、どうにも未来は変わらない。神は果たして、どんな難をヒイロにぶつけるつもりだろうか。わからないがとにかく、俺がやるべきことは八月十日の一晩、ヒイロを守り抜くことだ。それに変わりはない。
八月四日。丸一日錬成会だった。団体が組めるだけの人数はいるものの、経験者が少ないこともあり負けが続いた。しかし先日ヒイロが言ったような「勝てないなりの剣道」ができたらしく、男女とも午後からは少しずつ引き分けが増えた。ずっと忙しくしていたためヒイロとはまるで話さなかったが、遠巻きに彼女の圧倒的な勝利を見届け、彼女の力強さに改めて気づかされた。
俺自身は負け続きだったこの日、更衣室の体重計に乗って気がついたことがあった。体重が、以前から考えて減少しすぎていたことだ。先週から考えて、五キロ。驚いた俺に後輩が怪訝に思ったか訪ねてきたが適当にごまかした。食事が喉を通りづらくなったのは自覚していたが、ここまでとは。俺の精神の大部分がヒイロに占められていることを認めざるをえなかった。
八月五日。会場は港沿いの体育館、とうとう市内の剣道大会である。
女子の試合前、観客席でヒイロと話す機会があった。
「俺ら四試合目だから、女子の応援行けるわ」
「ありがと」
「…緊張してるか」
「もちろん。リツは平気なの?」
「何でか不思議と、ね。昨日の錬成会のおかげで後輩にも少し頼りがいができてきたし」
「私も後輩が頼れないってことはないんだけど、やっぱりちょっと怖くて」
「怖い?」
「そう、怖い。団体で負けることも試合することも怖くないのに」
─それは少し、
「気負いすぎじゃないか」
「別に気負ってなんか」
「ううん、多分気負ってる。ヒイロは強いから、勝たなきゃ、頑張らなきゃ、って思ってる」
ひとつ下の列の席に座るヒイロの肩にマメだらけの左手を置いた。
「俺はヒイロほど切羽詰まってないけど、状況は似てるから全く共感できない訳じゃない。ヒイロは確かに強いけど、それでヒイロなりの剣道ができなかったら俺は少し残念」
「…リツってたまにロマンチストだよね」
あ、と肩から手を離す。前を向くヒイロの表情は読めない。
「ま、でもちょっとほぐれたかも。感謝するよ、副部長」
「…うん」
行ってくる、と後輩たちを連れて試合場に降りていった。左手には、ヒイロの体温が微かに残っていた。
先鋒、二本負け。次鋒、引き分け。中堅、一本負け、副将引き分け。試合はある意味予想通り、どう足掻いたとて負けるという状態でヒイロの番が回ってきた。相手は女子のなかでは体が大きい方で、平均少し下のヒイロとは頭ひとつ分違っていた。
始めい、という審判の声と共に立ち上がり、これまでにない発声。相手方の大将も小さな体から出た爆発音に狼狽したか、前後を繰り返している。─これはいける。そう思った矢先、相手方が面、フェイントで小手を仕掛けた。しかし落ち着いている「三篠」の文字はわけなく打ち落とす。初手でフェイントとは、俺の苦手なタイプである。鍔迫り合いを解消した二人は再度構え直した。今度はヒイロが、竹刀を前へ前へと押し込んでいく。ヒイロお得意の攻めの姿勢だ。─近間に差し掛かったところで相手が打ちに出た、が。「めえええええん!」と凄まじい発声と共にヒイロの出ばな面が炸裂。審判も満場一致、文句なしの面あり、である。
二本目。相手方の大将は一周回って落ち着いたらしく、少し様をうかがいながらも極端な行動には出ない。一方ヒイロ、果敢に攻め入る姿勢は烈火が如くである。しかし続くにらみ合い。相手方、とうとう自ら打ち間に入るが打たず。端から見れば応じ技の狙いは火を見るより明らかである。そしてそれに気づかぬヒイロではない。わざと腕を少し上げ相手方の小手を誘い出し、事も無げに受ける。その刹那。ばしいっ、と痛快な音を響かせたヒイロの返し面が、言うまでもなく一本となり、勝負あった。
まもなくして男子の試合も始まった。二本勝ち、引き分け、引き分け、一本負けという引き分ければ勝ちの場面が回ってきた。相手方は上段の相手に不馴れだったらしく、片手面で軽く打ち倒し歩をひとつ進めることができた。負け続きの男子にはある種快挙であるとも言えた、全く屈辱的ではあるが。
しかし第二試合。相手校は前年度優勝校。同じ公立高校にも関わらず桁違いの力に伏せられ、三負け一勝ちという勝負の決まった試合を回されるに至った。
始め、の声にかぶせるかのように、今出る一番の雄叫びを上げ、上段をとる。─相手がでかい、あまりにも。顎を少し上げねば目も見えないような巨体を前に怖じ気づきそうな自分を奮い立たせる。左小手を前に押し、攻めの形をとる。が、前触れひとつなく飛んできた左小手を咄嗟に避ける。互いの打ちを打ち落とし避け、と続いたが、刹那の迷いと油断が読まれ左小手を打たれ、一本負けに終わってしまった。決して悪い試合ではなかったが、一人になったとき悔しさが流体となり溢れ出た。
ふう、とヒイロは隣でため息をついた。閉会式後の話である。
「なーんかどっちもぱっとしない結果で終わっちゃったね」
「ヒイロは勝ったじゃん」
「団体としては負けちゃったし」
つーんとそう言うヒイロの方を見やる。口をついて言葉が放たれた。
「『勝てないなりの剣道』。言ったのはヒイロでしょ」
ヒイロがはっとこちらを見て、口元を緩めた。
「そうだったかもね」
そう言って、グータッチを交わした。
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