徐州

 徐州じょしゅう


 三月、皇帝劉秀りゅうしゅう洛陽らくようの宗族の王たる者に国にかせるべきかと考える。当初は李通りつうの屋敷におもむいて李通やりゅう伯姫はくきらとわした軽い歓談であった。劉秀、西平せいへい王であった頃に較べて、今の大司農だいしのうの職はどうかとたずねて、李通、劉氏以外が王に為るのは自らを敵と為すようなものですとこたえて苦笑し、就国しゅうこくすれば身内なら強固な防塁となるとも、宗族でなければ縁を結んでいても時には反って疑われる所であれば、洛陽にいる今の方が安心できますと言う。劉伯姫、語らうのが三人であれば、兄上は皇帝に為られて如何いかがですかと問い、今度は劉秀が苦笑する番と為る。皇帝ともなれば周囲は敵だらけと為る。それは分かっていたが、遂に祭り上げられて今に至る。

 劉秀、宮に戻って考えれば考える程、宗族を国に就かせる方が良いと思えてきた。漢は高祖こうそ劉邦りゅうほう以来、藩屏はんぺいとして親族に国を持たせてきた。けい帝の時の七国の乱以降、兵権・為政権は朝廷から送り込んだしょう掌握しょうあくさせるといえども、王莽おうもうに廃されるまで子々孫々まで継承してきたのである。よって就国は漢と言う帝国が昔と同様に機能していることを内外、内は司隷しれいから山東さんとうまでの領域、外は隗囂かいごう公孫述こうそんじゅつ匈奴きょうど単于ぜんうに至るまで知らしめることになる。しかし就かせるとすれば誰にすべし。劉秀、自身が河北かほくに出て祭り上げられたことを思い出す。就かせるなら、万が一にも祭り上げられることの無い人物にすべし。思い出せば、かつて劉秀が兄劉縯りゅうえんと共に挙兵した時に、これをいさめ続けたのは叔父の劉良りゅうりょうであった。慎重といえば慎重であるが、現状を良しとすれば、そこから変わる事をいとう性格である。そこで劉秀、広陽こうよう王劉良を国に就かせんと考える。宗族で実際に就国するのはこれが初めてである。広陽国の主都はけい彭寵ほうちょうの反逆以来、荒廃著しく、また政は相が見るところなれば、ここの王と為り政を黙って見るのは元県令にはもどかしい筈である。よって劉良を既に治まって久しい邯鄲かんたんのあるちょう国に換えて就かせる。彭寵が討たれて、徐州の張歩ちょうほ董憲とうけんよう州の李憲りけんを撃つとなれば、宗族の就国は周囲に不都合も無い。

 しかし、劉秀の思惑おもわく通りに事は運ばない。先に彭寵が奴僕ぬぼくに斬られたのが、劉秀にとっての僥倖ぎょうこうであるとすれば、今度起こったことは悪い椿事ちんじであった。

 平狄へいてき将軍龐萌ほうぼう反す。当初、虎牙こが大将軍蓋延こうえんの伝者がそう申せば、劉秀、先ずは聞き返し、次に聞いたことを口に出して問い、伝者に確認させる。よって伝者は三度同じ事を言う、しかり、平狄将軍龐萌反す。

 劉秀、嗟歎さたんして曰く「人、この如くを知るべからざる」

 不意打ちであった、劉秀にはそうとしか捉えようが無かった。龐萌、言少なく従順にして謙遜、劉秀の好む性格である。しょう王劉秀が劉玄りゅうげん尚書しょうしょ僕射ぼくや謝躬しゃきゅうを討った時、陣営に引き入れた。車に同乗させ、いよいよ親しむところとなった。皇帝となった劉秀、軍中忙しく、ついに産褥さんじょくかく聖通せいつうを見舞うことも出来ぬ時、侍中じちゅう龐萌が手配とどこおりなく致したれば、劉秀、喜びて曰く「我が亡くなろうとも、孤児の君主をして国の命を預けるべき者は、龐萌、この人なり」

 劉秀が信頼し、龐萌も寵を受けていると思い、虎牙大将軍蓋延と共に働けば、功を得るのにしのぎを削る。自然、蓋延と龐萌には溝が生じる。劉秀、先に蓋延には董憲をたんに撃たせようとしたが、蓋延は蘭陵らんりょう城を直に救おうとしてかえってこれを失った。それでも蓋延は、彭城ほうじょう、郯、の間で董憲の別働の将を撃ち、時には華々しく勝ちを得ることもある。劉秀、敵をあなどり深入りする故に、蓋延に詔勅しょうちょくを以て諫める。蓋延、それに応えて書に曰く「臣、幸いにも干戈かんかを受けて兵を動かすことを許され、逆賊をちゅうすることを得たるも、職を奉じることいまかなわず、久しく天誅を留め、常に名号を汚辱おじょくし、同輩に及ばざらんことを恐れる。天下平定したる後、寸分の功の数えること無く、竹帛ちくはくに記載されるに預かることを得ず。詔勅は明にして、深く憐れみ、つぶさいさめられる。事毎に詔命を遵奉じゅんぽうし、必ずあええて国の憂いと為らざらん」

 蓋延の返書は殊勝しゅしょうではあるが、この将自身、手が掛かることを他言するも同じである。また蓋延、戦いに忙殺ぼうさつされれば、自らの勇を頼んで嘗て蘇茂そぼに背かれたのも忘れて他をかえりみない。

 一方、龐萌にはそういう詔勅は下されぬ。龐萌、猜疑心の強い男である。嘗て劉秀が尚書僕射謝躬を度々伺っていた時に、劉公信ずるべからずと謝躬を諫めた男である。後に龐萌が劉秀に降った際、何時から疑っていたと詰問され、龐萌はかなり前からと答えた。この時、龐萌には後ろめたい思いが生まれた。しかし、劉秀は龐萌をないがしろにするわけでなかった。寧ろ寵愛したと言っても良いだろう。よって龐萌、君主が国の命を預けるべき者という劉秀の言葉をに受けていた。今の主上を疑っていたという古傷を覆う自負が生じた。し、この自負が無ければ詔勅が至らぬことにも差して気に留めなかった。けれど、皇帝が我を気にしているというのに何故に詔勅が至らないのかと思えば、古傷の後ろめたさをかばうように、疑心が膨れ上がる。誰かが陥れようとしている。誰だ、と龐萌、周囲見渡せば、気の至らない武将が目に入る。そりが合わず、気性も合わない蓋延である。これは蓋延が己をそしったからかと思って疑う。

 因って将が疑い、これに親しむ配下が迎合げいごうすれば、そこに流れが生じる。疑いは嫌悪を憎悪に変え、瑣末さまつなことを重大事に変える。部隊自体が味方の総大将を敵視する。機がじゅくせばはじける。

 龐萌の軍、等閑なおざりにされれば、すなわち蓋延憎し故、遂にこれを斬ろうとまず郡彭城を撃ち、太守孫萌そんぼうを破る。龐萌、すぐさま続いて蓋延を襲う。不意を突かれた蓋延、彭城の北を流れる泗水しすいを渡り、残る船の舵を折り、橋と渡し場を壊して、漸くまぬがれた。渡河とかして蓋延を攻めようとする龐萌はかえって敗れる。ここに至れば引き返せぬと龐萌、董憲と結び、自ら東平とうへい王と号して桃郷とうごうの北に駐屯した。

 蓋延は、伝者を遣って帝に龐萌が反したと告げさせる。彭城では、逆賊が孫萌を斬ろうとするが、劉平りゅうへい白刃はくじんの中、この上に身を投げてかばおうとする。すなわち号泣して謂いて曰く「願わくは身を以て太守殿に代わらん」

 賊、剣を納めて曰く「これは義士なり。殺すこと無かれ」と、遂に解いて去る。気絶せる孫萌、息を吹き返し、渇して水を求めれば、これに欠いた劉平、自らが流した血を与える。数日して孫萌遂に死す。劉平、亡骸なきがらを包んでその故郷までこれを送る。

 つまびらかに経緯いきさつを聞いて劉秀は怒る。信置くところにそむかれた。詔勅が至らぬ故に反すというのが許せぬ。漢帝国の威容を高め、公孫述や匈奴の単于を戦わずして降そうなびかそうとするときに反すか、と考えればますます怒りがこうじる。隗囂の使者馬援ばえんが来て見聞きする所に、面目めんぼくを逸させるかの如く歯向われた。しかし、劉秀、理性を失うほど血道を上げて怒っている訳ではない。嘗て龐萌に心を砕いたのは、折角降った者に冷たく当たったことへの取り繕いである。復た龐萌をめちぎったが、己の至らぬ処を繕ってくれた故に、余計に舌が回ったからで、心底頼んでいる訳では無い。よって怒りも心底からは込み上げてこない。その分、少し先まで頭が回った。これが皇帝の威信の分かれ目でもあると気付いたのである。討たざれば、劉玄の如くあなどられる所となる。逆に反する者は必ず討たれると周知させれば、皇帝の威光は却ってはばかられる所となる。もう一つ、張歩・董憲、皇帝とでも自ら号してくれれば、それを名分に攻めに攻めたであろうが、王と称し、それさえも劉永りゅうえいに号を贈られた故であれば、劉秀自身が親征すると云う討伐の名分としては弱い。しかし、逆臣なら、それが結びついた敵なら、味方を束ねるために皇帝自身が出陣しなければならず、総力を注ぎ込んで討つべき大義名分となる。よって劉秀、怒髪天を突くが如く怒って見せるが、綯交ないまぜとなり吹き出た激情は怒りそのものと変わらなかった。先ず蓋延の伝者に、檄を持たせて帰らせる。書に曰く「龐萌は一夜にして反逆し、隔たること遠からず、営塁は堅からず、殆ど歯を打ち鳴らして恐れる所なり。しかるに将軍はいささか動じず。吾甚だこれをよみす」

 檄を発した後の劉秀、尚書らに兵站へいたんを考えさせる。すなわち背反した龐萌をして、これを仇と親征をおこし、もって徐州攻略の手立てとすべく方策を練る。


 同じ月、征南せいなん大将軍岑彭しんほう積弩せきど将軍傅俊ふしゅん騎都尉きとい臧宮ぞうきゅうを率いて沔水べんすい沿いに江夏こうか郡を降す。南の長沙ちょうさから中尉ちゅうい馮駿ふうしゅんが兵を率いていたる。岑彭、長江ちょうこうさかのぼり、南郡なんぐんの要、津郷しんごう或いは江陵こうりょう田戎でんじゅうの前線を破り、夷陵いりょうを破り、更に追って長江を遡り秭帰しきに至る。田戎、数十騎と共に逃れてしょくに入る。岑彭、ことごとくその妻子兵衆数万人を捕え、けい州南郡の平定に取り掛かる。次に、臧宮・傅俊を再び江夏郡平定に遣る。臧宮は代郷だいごう鐘武しょうぶちくを破ってみな降す。報を受けた劉秀、太中たちゅう大夫たいふ張明ちょうめいに節を持たせて臧宮を輔威ほい将軍と為し、璽書じしょにて馮駿を威虜いりょ将軍に拝した。

 一方、岑彭に命じられて荊州から揚州盧江ろこう郡に入った傅俊、配下から郅惲しつうんなる人物が在ると聞く。郅惲、字は君章くんしょう汝南じょなん西平の人物、『韓詩』『厳氏春秋』を修め天文暦数れきすうに明るい。傅俊が名を知るは、王莽に上書して、天命は劉氏にあってこれを還すべしと、天文を以て諫めたために獄に入れられ、血迷って口走ったと言えば良いとなだめられても、なおも天の聖意であると屈しなかった話を伝え聞いた故である。その郅惲は偶々たまたまの大赦以来、江東に逃れていたのである。傅俊、礼を以て招き、将兵しょうへい長史ちょうしと為し軍政をつかさどらしめる。

 郅惲、衆兵に向って曰く「民の備えざるを突いて、これをきゅうさせること無かれ。人の四肢ししを断ち、人のむくろを裸にし、婦女をいんすることを得ず」

 それでも傅俊の軍士、猶も塚をあばしかばねを連ね、人民を掠奪する。郅惲、傅俊を諫めて曰く「昔、周の文王は地を掘らせて白骨を得、これをさらすに忍びず衣棺を以て埋め、武王は約束の期日を守って雨中を昼夜兼行し、天下を以て一人の命に代えず。故にく天地の応を得て商の林の如き兵に勝つ。将軍、如何ぞ文王を師法とせず、しかして天地の禁を犯逆し、多く人を傷つけ物を害し、残虐は亡骸にまで及び、神明に対して罪を得るや。今、天に詫び政を改めざれば、以て命を全うすこと無からん。願わくは将軍自ら士卒を率い、傷つくるを収め、死せるを葬り、暴虐至る所にこくし、以て将軍の本意に非ざることを明らかにせよ」

 傅俊、これに従えば、人民悦び服し、向う所皆降る。

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