第7話

007

「はぁ…掃除するかぁ…」

チャットルームでのやり取りを終えた一ノ瀬玲央はため息をついて部屋の中を見渡した。

一人暮らしのアパート。

学生が住むにしてはそこそこの広さがあり、家具にもそれなりの金がかかっている。

だがそんな一ノ瀬のお気に入りの部屋が、現在は台無しになっている。

何者かが床を泥だらけの足で歩いたのだ。

廊下、リビング、玄関、お風呂場、更にはトイレまでも、泥だらけの足跡で汚されている。

また壁には手形などもついており、簡単には落とせそうにない。

最悪なのが、部屋中に何かが腐ったかのような腐臭が漂っていることだ。

最初、一ノ瀬は泥が何か動物の糞なのかと思ったが、匂いは糞というよりもどちらかというと生ゴミのそれに近かった。

一ノ瀬はこれをやったのが、雨宮や黒瀬たちだと思い込んでいた。

彼女の吉田彩花に渡してある合鍵を使い、彼らが一ノ瀬の部屋を汚し、どこかにカメラを仕込んでドッキリ動画を撮ろうとしているとそんなふうに思っていた。

だが彼らを問いただしたところ、どうやら違うらしい。

となると犯人として考えられるのは、一ノ瀬の弟だった。

アパートの部屋の鍵は、実家にもある。

おそらくそれを使ってイタズラずきの弟が自分を驚かせるために部屋を汚したのだ。

実家は徒歩で1時間程度の距離にあり、小学生の弟の足でも十分に移動が可能だろう。

「にしても限度ってもんがあるだろ…今度実家に帰ったら絶対にぶん殴ってやる…」

お気に入りの家具を汚されたことに、一ノ瀬は腹を立てていた。

泥の手形がついた壁は張り替えるしかないだろう。

問題は匂いだ。

掃除してもこの匂いが取れない場合、最悪引っ越さなければならなくなる。

一ノ瀬の実家は医者の家系であるためお金の心配はないのだが、一ノ瀬はこの部屋が気に入っていたために、なるべくなら引っ越したくはなかった。

「掃除するか…くそ。明日が休みでよかったぜ…」

一ノ瀬はぐちぐち言いながら掃除を始める。

バケツに水を汲み、濡れた雑巾で床についた泥の足跡を消し始めた。

「ん…?」

何かの視線を感じ、一ノ瀬は顔を上げた。

誰かに見られているような感覚があった。

辺りを見渡すが、当然誰の姿も見当たらない。

「気のせいか…?」

一ノ瀬は掃除を続けるが、その間も誰かに見られているという感覚が終始付き纏った。

「やっぱりどっかにカメラがあるんじゃ…」

再び、仲間たちによるドッキリを疑い、カメラを探すが、どこにも見つからなかった。

一ノ瀬は首を傾げ、掃除に戻る。

「ん…?」

床の泥の足跡を消している最中、一ノ瀬はあることに気づいた。

泥の足跡は、どうやらベランダの方から始まっているようなのだ。

一ノ瀬は誰かが合鍵を使って自分の部屋の中へ入り、床を泥だらけにした後に鍵を閉めて出ていったと思っていたのだが、どうやらこれをやった犯人はベランダから部屋の中へ侵入したらしい。

「となると合鍵を持ってないやつも犯人候補になるってことか」

一ノ瀬は普段、ベランダの鍵をかけたりかけなかったりするので、おそらく犯人は鍵の開いたベランダから部屋の中へ入ってきたのだろう。

「なるほど…排水管を伝って登ってきたわけか…」

一ノ瀬はベランダの外に出て確認する。

どうやら犯人は、外にある排水管を伝ってベランダに侵入したらしい。

ベランダの地面と、排水管には泥の手形がいくつも残されていた。

一ノ瀬の部屋は2階なので運動神経が多少良ければ、排水管を伝ってベランダに侵入することは不可能ではない。

一ノ瀬はスマホのライトで、それらの手形やベランダの地面の足跡を照らし、足跡が窓へ向かってついているのを確認した。

「ベランダから侵入し、部屋を汚してそのままベランダから逃げていったわけか。一体誰がそんなことを…」

一ノ瀬は犯人の目的がわからなかった。

少なくとも部屋の中から何もなくなっていないことから、金銭目的の泥棒でないことはわかる。

近所の小学生がいたずらでこんなことをするだろうか。

やはり一ノ瀬の知り合いの誰かが一ノ瀬を驚かせたくてやったとしか考えられない。

「臭いな…とりあえず掃除をしよう…」

部屋の中の腐臭は時間と共に濃くなっているような気がした。

この匂いの充満した部屋で寝る気は起きなかった。

一ノ瀬は雑巾で床の足跡を落とす作業に戻る。

「ん?待てよ…」

一ノ瀬の中に、ある違和感が生まれた。

その違和感の正体がなんなのか、一ノ瀬はしばらく気が付かなかったが、ふと思い立ってもう一度ベランダに出る。

「そうだ…足跡が行きの分しかない…」

ベランダの地面についた足跡をもう一度よく確認すると、てんてんと窓に向かって伸びている足跡が一つしかないことに気がついた。

侵入者がベランダの窓から室内に侵入し、再びベランダから出ていったのなら、足跡が行きの分と帰りの分、二つついていなければおかしい。

「ベランダから侵入し、ドアから出ていったのか?」

考えられるのは、ベランダから侵入し、ドアから出ていった可能性だが、わざわざそんなことをする理由がわからない。

鍵を持っているのなら、最初っからドアから入ればいいだけのことだからだ。

「いや、違う…そうじゃない…何か重要なことを見落としているような………っ!?」

ある可能性に至り、一ノ瀬は身震いした。

ベランダの足跡が行きの分しかない理由。

考えてみれば実に簡単なことだ。

「あ…ぁ…」

侵入者がまだ部屋の中にいる。

「そんな…」

それならば、辻褄が合う。

「ぁ…」

一ノ瀬は声にならない声を漏らし、部屋の中を見渡した。

先ほどからずっと感じている誰かに見られているという感覚。

あれはもしかしたら、ずっと部屋のどこかに隠れていた犯人が一ノ瀬のことをじっと見つめていた、ということなのではないだろうか。

一ノ瀬は壁を背にして室内をぐるりと見渡した。

目視できる範囲に誰も姿も見当たらない。

だが、広い一ノ瀬の部屋の中には人が隠れることのできる場所はたくさんあるような気がした。

テレビの裏、押し入れの中、洋服ダンスの中。

そういえば、浴槽の中もまだ確認してなかったような気がする。

「…っ」

きっと知り合いの誰かが自分を驚かせるためにこんなことをしているのだ。

きっとどこかにカメラが仕込まれており、自分はまんまと乗せられているだけだとそう心の中で言い聞かせる。

だがそうではないと一ノ瀬の勘が告げていた。

何か命の危機に瀕しているかのような本能的な恐怖が体の底からせり上がってくる。

「…っ」

一ノ瀬はゆっくりと壁際を移動して台所へと向かった。

台所には包丁がある。

今侵入者に襲われたら、一ノ瀬になす術がない。

何か武器になるようなものを手にして安心を得たかった。

一ノ瀬は息を殺し、足音を立てないように移動しながら台所へ向かう。

誰かに見られているという感覚は、どんどん強くなってくる。

「…っ!」

緊張感に耐えられなくなって、一ノ瀬は走った。

急いで台所へ駆け寄り、包丁を手にする。

武器を得たことで、一ノ瀬はいくらか平常心を取り戻した。

リビングに戻り、洋服ダンスの中や、押し入れの中など、人が隠れられそうなところを確認していく。

侵入者は見つからなかった。

「はぁ…」

一ノ瀬はため息を吐いた。

どうかしている。

侵入者がまだ部屋の中にいるなんて。

冷静に考えたらそんなことあるはずないのに。

全ては自分の勘違いだった。

やっぱりこれをやったのは、知り合いの誰かだろう。

足跡が行きの分しかないのは、きっと行きの足跡を辿って歩いたからだろう。

「くそ…誰か知らないが、マジでタダじゃおかないからな…」

一ノ瀬は額の汗を手の甲で拭い、包丁を机の上に置こうとした。

次の瞬間、はっきりとした物音がベットの下で鳴った。

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