第2話 八名島の家族と学園への道
1 港の出口にて
ターミナルの検査場を抜けると、空気が一段と変わった。海風の塩に、鉄と油の匂いが薄く混ざる。床に落ちた水滴が照明を弾き、スロープの白線は朝の光で乳白色に浮かんでいた。観光客向けのカラフルな看板が並び、スタッフは笑顔でパンフレットを配る。だが、その十歩先では黒い銃を抱えた警備兵が等間隔に立ち、赤いセンサーを瞬かせる魔導ドローンが人の流れを俯瞰していた。
――安全で、最前線。八名島はその矛盾を正面から生きている。
「――潤!」
低く、よく通る声に振り向く。祖母の更屋敷・琴乃(ことの)が立っていた。白髪を後ろでまとめ、杖をつきながらも背筋は真っ直ぐ。年輪は増えても、瞳の刃は鈍らない。
「おばあちゃん!」
「無事で何よりだ。……ふむ、少し顔つきが変わったな」
琴乃は僕をまじまじと見て、息を一つだけ細く吐いた。その背後から、二つの影が跳ねてくる。
「お兄ちゃん!」
「潤兄!」
澪(みお)と詩音(しおん)。澪はショートカットで快活、詩音はロングでおずおずと笑う。二人とも八名学院の制服がよく似合っている。
「わっ……二人とも、久しぶり!」
「もう! 連絡くらいして!」
「心配したんだから!」
左右から抱きつかれて息が詰まる。けれど胸の奥は、ちゃんと温かくなった。
(にひひ、モテ期到来だよ潤しゃん!)
(姉様、からかわないの。……でも、よかった)
(家族の愛情は、護りの結び目です)
――僕にだけ見える三柱の神。天之御中主神=アメ、高御産巣日神=ムス、神産巣日神=カミ。
「神様たち、今は静かに……」小声が漏れ、澪が首を傾げる。「え、なに?」「いや、独り言」
2 港の情景
売店前で子どもがソフトクリームを落として泣き、親が笑いながら新しいのを買いに走る。その向こうで、兵士が金属ケースを開け、検査官が魔導スキャナを滑らせた。
「今日の魚は脂が乗ってるよー!」「焼き団子もう一本!」「観光クルーズはこちら!」――呼び込みの声と、ブーツが床を叩く音が同じ空間に同居している。
八名島の日常は、たしかに明るく、そして用心深い。
(笑顔と警戒が同じ画角にあるの、好き)
(アメお姉さま、食べ歩きの話しかしない顔をやめてください)
(焼きイカ……)
(はい、切替)
3 八名島の街並み
車に乗り込むと、窓の外にプロムナードが流れた。透明の風除けテントの中でカプチーノにラテアートが描かれ、隣の席では地図を広げた観光客がはしゃいでいる。一本裏通りへ入ると、景色は無言になる。厚い魔導障壁に囲われた兵舎、レーダーが薄い音で回転し、補給車列が交差点を抜けていく。上空では小型ドローンが群れを組んで軌道を巡り、遠くの砲塔が陽を白く跳ね返した。
「これが……八名島」思わず口をついて出る。「相変わらず“安全で前線”だ」
「その通りだ」琴乃が短く頷く。「楽園であり、砦でもある」
「でもね!」澪が窓に張り付く。「学園は普通だよ? 部活も文化祭も!」
「……試験は、すごく厳しいけど」詩音が小声で補足した。
(普通、か)僕は心の中で息を整える。(それを、どれだけ続けられるか)
(続けるために、わたしたちがいる)ムスの囁きはやわらかい。
(“時”が来るまではね)アメが珍しく真面目に言い、カミは静かに頷いた。
4 市場通り
露店の並ぶ通りで、干物が風に揺れ、スパイスの山が色の層を作っていた。焼きたてパンの匂いのすぐ背後で、兵士が無言でライフルの分解整備をしている。
「夜になると屋台が増えるんだよ!」澪の声は弾む。「たこ串、沖海苔うどん、あと――」
「友達と分け合うとおいしいよね」詩音は頬を染める。
「……守られてるんだな」僕は窓の外に言った。
(守られているから笑える。笑いがあるから守れる)ムスの言葉は、等速で胸に沈んだ。
5 祖母の横顔
信号待ち。祖母がぽつりと言う。
「この島を造る時、お前の父と母は随分と戦った。砦にするのか、楽園にするのか――どちらでもなく、両方にするのだと決めた」
「父さんと母さんが?」
瞼の裏で、断片が明滅する。大きな掌の温度、低い子守唄、柔らかい笑い声。繋ぎ止めようとすると、指の間から水みたいに零れた。
(忘れちゃいけないのに)拳が膝の上で小さく鳴る。
(思い出は必要な時に戻る)ムスの声がそっと添えられた。
6 祖母との会話
「潤。ここでのお前の立場は“生徒”だ。余計なことを悟らせるな」
「……わかってる」
「男子マギサズだと知られれば騒ぎだ。ましてや――」
「おばあちゃん!」澪が割って入り、頬をぷくっと膨らませる。「二人だけで秘密話ずるい!」
「意味深で怖い……」詩音が袖をつまむ。
「ただの大人の会話さ」僕は笑って手を振った。
(ナイスカバー)
(でも“軍人の目”はしまっておくこと)カミが諭し、アメが「はいはい」と肩をすくめた。
7 道中の風景
丘の裾に広がる訓練場。若い兵士が木の標的へ魔弾を放ち、乾いた破裂音が連なる。その隣のグラウンドでは、子どもたちがサッカーボールを追いかけていた。訓練の土煙に、歓声が重なる。
「すごい……」澪が目を丸くする。「うちの訓練より本格的」
「……本当に安全なんだよね、この島」詩音の声は小さい。
僕は答えず、障壁の向こうに目を凝らした。黒い影が、海霧の奥で一瞬だけ形を変えた気がする。
(兆しが増えている)
(空気の節がずれてる)
(アメ、比喩は詩的に)
(褒め言葉!)
8 学園の門
白亜の校舎群が視界いっぱいに立ち上がる。**更屋敷八名魔法学園**。巨大な門の紋章が光を返し、魔導障壁は心臓の鼓動みたいに薄く脈動している。
「ここが、お前の新しい居場所だ」琴乃は淡々と言った。「**生徒**として過ごせ。だが忘れるな――何かあれば、己が誰であるかを思い出せ」
「……うん」
「お兄ちゃん、意味深すぎ」「ちょっと怖い」――妹たちに、僕は笑って返す。「ただの大人の言い回し」
9 学園の内部
門をくぐると、石畳の中庭に噴水の水音。縁に刻まれた魔法陣が淡く点滅している。左手の訓練場では上級生が魔弾を撃ち合い、空中に残光が幾筋も走る。すぐ後ろで教師らしき人物が「遊びはそこまで」と声を張り、生徒たちは背筋を伸ばした。右手の研究棟では白衣の生徒が顕微鏡を覗き、窓辺には古い魔導器の金属光沢。廊下を通るたび、紙と革の匂いが鼻を撫でた。
「すごい……」澪と詩音が同時に息を漏らす。「先生怖そう」「優しい先生もいるよ」
(青春だねぇ! 屋台出るかな文化祭)
(アメお姉さま)
(この笑顔を守るために、私たちはいる)カミの声は静かだ。
10 寮と図書館
寮舎のロビーでは、新入生に鍵が手際よく配られていた。伝統の色彩を残した絨毯、磨き込まれた手すり。図書館前では委員の上級生が「古典魔導書閲覧のルール」を読み上げ、背後の高窓に黒い背表紙の列が影絵のように並ぶ。
――普通の学園の風景。その背骨に、非日常が太く通っている。
11 迫る影
風が一瞬、音を変えた。空に黒い群れが渦を巻く。鳥にしては速すぎ、不規則すぎる。兵士が無意識にホルスターへ手を伸ばし、観光客の親子が足を止める。
「ママ、あれなに?」「鳥よ、きっと」――笑顔の奥で、母親の瞳に薄い警戒が走った。
(……間隔が詰まってる)ムスが囁く。
(まだ“時”ではない。けれど近い)アメの声も低い。
(潤。表情を)カミ。
僕は呼吸を整え、握った拳を制服のポケットへ沈めた。妹たちは学食のメニュー表を覗き、祖母は表情を変えずに杖を進める。遠くのレーダーサイトが、一度だけ見えないまばたきをした。
音の粒が半歩、縮む。
**――八名島全域を揺るがす大襲撃が、もうそこまで迫っている。**
平穏な学園生活は、まだ始まっていない。けれど、その終わりは、もう足音を立てて近づいていた。
12 購買と掲示板
寮棟へ向かう途中、購買の前で足が止まった。新入生歓迎のポスター、限定パンの札、実技用の簡易護符まで売っている。
「これ、可愛い!」澪が猫耳柄の護符を手に取る。「ね、潤兄、似合う?」
「護符は似合う似合わないで選ぶものじゃ……」と言いかけて、やめた。
(いいんだよ、可愛いは正義!)アメが即答する。
(効能表示を読みなさい。……はい、ここ。『集中力微増(個人差)』)カミが指し示す。
「微増って正直だな」僕が笑うと、詩音も「……でも、試験前には欲しいかも」と呟いた。
掲示板には部活のビラが溢れていた。魔弓術部、結界工学研究会、救護班ボランティア。軽音のチラシの隅に、手書きで「ドラマー急募!」とある。
(潤しゃん、ドラマー! 叩こう!)
「叩くのは敵だけで十分だよ」
(物騒!)アメが頬を膨らませ、ムスが吹き出した。
13 祖母の釘
中庭のベンチに腰を下ろすと、琴乃も静かに座った。
「潤。ここでは規律が命だ。学内での武装、行使、介入。――お前が“何者であれ”、定めは守れ」
「わかってる」
「わかっていれば良い。非常時には必ず指示系統が敷かれる。勝手に前へ出るな。お前は**一人で全てを背負わない**」
最後の一文に、わずかな祈りが滲んでいた。
(……おばあちゃん)
(優しい)ムスが小さく囁く。(“背負い癖”を見抜いています)
(潤しゃん、約束できる?)
「努力する」僕は答え、空を見上げた。
14 非常放送
そのとき、島全域のスピーカーが柔らかく鳴った。
『――定時防災テストを開始します。担当者は持ち場を確認――』
ざわめきが一瞬、揺れに変わる。生徒たちはすぐに顔を見合わせ、「テストだって」と安堵の笑いに戻った。だが、兵士の一人は無線機に耳を当てたまま、顎だけで短く返事をする。
(テストのタイミングが、普段より半刻早い)カミが呟く。
(合わせてる。海側の“それ”に)アメの声が低くなる。
「それ?」僕が小さく問い返す。
(まだ輪郭は薄い。でも、線は同じ方向へ)ムスの言葉は静かだが、確信に触れていた。
15 潮目
校舎の影が少し伸びただけの、取るに足らない午後。
それでも、海の色はわずかに濃くなっていた。無風のはずの水面に、逆向きの皺が一本だけ走る。カモメが鳴きやみ、しばらく翼を畳んだまま漂う。
遠くの岸壁で、係留索がわずかに軋んだ。誰も気づかないほどの音量で。
(――潮目が変わる)カミの声は、祈りにも似ていた。
(大丈夫。来るなら受けて立つだけ)アメが笑う。
(だけど、まだ“時”じゃない)ムスは僕の横顔を見る。
僕は、制服のポケットの中で拳をほどき、また握った。
平穏の皮膚は薄い。けれど、薄いからこそ、守る価値がある。
鐘が鳴る。入寮の手続き時間を告げる澄んだ音だ。
「行こっ!」澪が弾み、詩音が頷く。
「うん。――行こう」
僕は立ち上がった。
この島で、“普通”を続けるために。
16 寮受付の小さな騒動
寮の受付は賑わっていた。新入生の列、緊張と期待の混ざった声、段ボールの山。
僕の番になったとき、係の女性が端末を覗いて首をかしげた。
「更屋敷潤くん……荷物タグが一つ、読み取りできてないみたい。念のため、中身の確認をお願いできます?」
「もちろん」
喉の奥で舌を一度だけ転がし、呼吸を四拍で整える。ケースのラッチを外し、衣類と本、洗面具――訓練された手つきが出そうになったのを、意図して遅くする。
(スロー。ゆっくり。普通に)カミが添える。
(表情はにこにこ!)アメが無責任に囁き、ムスが肩を震わせた。
「失礼します」隣で立ち会っていた警備の若い兵士が、中身を確認して頷く。「問題ありません」
「よかった」係の女性が安堵の笑みを浮かべ、タグを付け替えた。「ようこそ八名学園へ。楽しい学園生活を」
「はい」
列の向こうで澪が手を振り、詩音がほっと息を吐く。
――平穏は、努力して作るものだ。壊れるときは、一瞬なのに。
受付を抜けると、夕陽が校庭の芝に長く伸びていた。橙が白亜の壁を染め、窓のガラスに小さな光がいくつも灯る。
(綺麗)ムスが呟く。
(守ろう)アメが短く言う。
(はい)カミの返事は、祈りに近かった。
その美しさの下で、僕は知っている。潮は満ち、そして、必ず――返す。
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