魔法男子は珍しい世界で!!
桃神かぐら
第1話 プロローグと八名島への船旅
プロローグ――マギサズと災厄の時代
僕が生まれる、ずっと前。
四十年前に世界は、音もなく“別の規則”へと滑り込んだ。
その朝、十代から四十代までの女性たちが一斉に目醒めた。目に見えない力が空気の粒子を鳴らし、街角の信号が震え、空は淡く歪んだ。火は指先で灯り、風は囁くだけで形を変え、光は思考と同じ速さで矢となって飛んだ。世界はそれを「魔法」と呼び、彼女たちをマギサズと名づけた。
混乱は当然のように起こった。各国の政府は鎮圧と保護のあいだで揺れ、日本では当時の東内閣が迅速に対応した。ベンゾジアゼピン系を百倍以上に濃縮した特殊鎮静剤――倫理をめぐる議論を押し切って、暴走を一気に鎮めたのだ。
鎮静は成功した。だが代償は、誰も予想しなかった方向から訪れた。猫耳、兎耳、細く尖った耳殻。肌理が光を弾く皮膚、夜でも淡く輝く虹彩――エルフのように美しくも“人ならざる”変化を、多くのマギサズが背負うことになった。
差別は必ず起きる。だから日本は立法で先回りした。マギサズ保護及び日常・社会生活総合支援法、そして障害を理由とする差別解消の推進に関する諸法の改正。保護と権利、教育と就労、医療と福祉の枠組みが、前例を踏み越えて整えられていった。学校にも職場にも、彼女たちの居場所が用意された。
――しかし、それでも世界は“原因”を掴めなかった。十年もの歳月を使って、科学も医学も生物学も、決定的な答えを出せなかった。
十年後、地震が来た。津波が来た。
そして、災害異世界生物群(ディザスターハザードクリーチャーズ)(Creatures)――通称ディザードが現れた。
八十か国同時出現。最初に膝をついたのは、皮肉にも当時の覇権国だった。通常兵器はほとんど通じず、ミサイルと砲火は薄皮を剥ぐだけ。追い込まれた幾つもの政府が大量破壊兵器の使用を検討し、あるいは踏み切った。
爆風と閃光、そして残滓。
人類は怪物だけでなく、自分たちの手でも自分たちを焼いた。
統計は冷酷だ。世界総人口約百六十六億三千百五十万人。その九割――約百五十・七億の死者と行方不明者。六つの大陸の大半が、ディザードの支配下へと奪われた。
日本本土も安全ではなかった。東内閣の下で核の開発・使用まで議論は及んだが、連立与党や最大野党、国民と有識者の猛反対によって退けられる。代わりに採られた施策は、実利の積み上げだった。自衛隊に対ディザード部隊を新設、**ディザード対策研究機構(DRO)**を設置。日本本土に危機が及ぶ最悪のシナリオに備え、本土から遠ざけた新基盤――八名島計画が動き出した。
時は流れる。
残存した日本、アラスカ、イギリス、オーストラリア、マダガスカル、ニュージーランド――幾つかの政府と地域は統合され、八名共和国が樹立された。更屋敷財閥とDROの主導で、幼小中高大の一貫教育を担う更屋敷八名魔法学園、そして普通科の更屋敷八名学院が八名島に設置される。
マギサズの多くは女性。男性はほぼ例外なく覚醒しない――それが三十年続いた“常識”だった。
だから、これは常識の外縁を歩く物語。
僕、更屋敷潤の物語である。
八名共和国に暮らす、ごく普通の――少なくとも、周囲がそう“信じている”男子中学生の、物語だ。
1 行き先は、懐かしい島
僕の名前は、更屋敷 潤(さらやしき・じゅん)。中学二年生。
日本本土で気ままな一人暮らしをしていたのに、おばあちゃんの一言で予定が全部ひっくり返った。
「八名島か……懐かしいな。何年ぶりだろう。……うーん、思い出せない」
潮の匂いとスクリューの低い唸りが、胸の奥の不安をゆっくりとかき混ぜていく。祖母に急に呼ばれて、ろくなことがあった試しはない。とはいえ、もう船に乗ってしまった以上、行き先は一つだ。
冬の終わりの海は、ガラスを何枚も重ねたみたいに薄く青く、空は透明な窓ガラスの向こう側で固まっている。デッキの端で風を受けていると、世界が塩味の音を立てた。
2 神は、案外よく喋る
「潤くーん! もしもーし、聞こえてますかっ!」
顔を上げる。――やっぱり来た。
目の前で手をぶんぶん振っているのは、日本神話の最高神であり創造神、天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)。愛称アメ。
隣で苦笑しているのは、天の創造神高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。愛称ムス。
袖をつまんで控えめに笑っているのが、地の創造神神産巣日神(かみむすひのかみ)。愛称カミ。
創世の神々が、なぜか僕にだけ見える。声も聞こえる。
他の乗客からすれば、僕は空中に向かって独り言を喋る危ない少年にしか見えないだろう。
「ね、潤しゃん。八名島に行くの、不安なんでしょ? ⊂グスン」
「両親が作った島ですもの。緊張するのは当然です」
「大丈夫。わたしたちがいる限り、変なことにはさせないわ」
「聞こえてるってば。ちょっと考え事してただけ。……不安もあるけど、楽しみでもあるよ」
「にひひ。じゃあ、つんつんして緊張ほぐそっか!」
「やめろ。中二男子の尊厳を大切にしてくれ」
「返事がない時は、つんつんが最適解――」
「あるから。返事、あるから」
アメが頬を膨らませ、ムスが肩をすくめ、カミが小さく手を振る。
神々の距離感は、いつも少し近すぎる。僕が笑って、風がその笑いを攫っていく。
3 夜と手紙と、悪夢の汗
その夜は、よく眠れるはずだった。
けれど朝、机の上に置手紙があった。
『おはよう、潤くん。私とムスちゃんは、最後の船からの景色を堪能しにデッキへ。安心してね。 by アメ
追伸:カミお姉しゃまが昨晩から悪夢を見ています。冷やしたお水を飲ませてあげてください。 by ムス』
ベッドの上でカミが小さくうなされていた。額には細い汗、握った拳は力の抜き方を忘れている。
「大丈夫? 悪夢でも見た?」
「……ありがとうございます。潤くんが来てくれて、ほっとしました。にひ」
紙コップの水が喉を通る音が、部屋の空気を静かに冷やす。
カミのワッフルガウンは、汗で色が変わっていた。下着まで濡れ、ベッドシーツには湿った痕がくっきりと――いや、ちょっと待て。
(これは……アメとムスの悪戯だな?)
呼び出しをかけると、二人はきまり悪そうに戻ってきた。
カミの笑顔が、音を立てずに温度を下げる。
「説明、してもらえますか?」
「ごめんなさい! アメお姉しゃまが提案して――」
「いや、その……てへっ?」
「天地開闢(てんちかいびゃく)の世界へどうぞ」
アメは首根っこを掴まれ、無言で引きずられていった。
戻ってきた時には、お尻が見事に真っ赤。ムスは視線を逸らし、カミは満足げに頷いた。
「とりあえず、被害状況の片付けを――」
「潤しゃん、優しい……」
「次からは、ほどほどにね?」
苦笑いで手打ちにする。神様相手に本気で怒って疲れるのは、たぶん僕も同じだから。
4 荷物と、手の癖
出入国の保安検査が近い。僕は自分の荷物を見直す。
服、下着、洗面具。問題は――
「AK-78M、9mm拳銃改、M12バヨネット、UMSC MarkⅥ……それに
黒いケースのラッチを指でなぞる。無意識のうちに、指先は特定の順番で金具を確かめ、肩と腰で重さのバランスを計算し、視界の端で出入口とカメラの位置を拾う。
――気づいたら、そういう“手の癖”が身体に染みついていた。
(ここでは目立てない。今は)
「潤くん?」
「大丈夫。ちょっと緊張してただけ」
神々は顔を見合わせ、何かを言いかけてやめた。
5 八名島第一ターミナル
港が見えてくる。防波堤は厚く、連続する閘門の向こうに白いターミナルビル。
空はよく晴れていた。
船が岸壁に寄るたび、ロープが鳴り、係船柱が礼儀正しく揺れる。
――なのに、静かだった。
観光客の笑い声はあるのに、音の粒がどこか逃げ腰だった。
僕は耳を澄ます。噂話は、いつだって真っ先に真実の影を引きずってくる。
「外海に“奴ら”が出たらしい」
「この一週間で三度目だってよ」
「アイランドパトロールが即応、鎮圧は早かったが……規模が違う。群れだ」
制服の胸ポケットに差した身分票を、係官がちらりと見る。微妙な間。二度目の視線。僕は穏やかな顔を続け、指定されたルートに沿って歩く。
ターミナルの天井を、細い影が滑った。ドローンだ。双胴型、ハードポイント増設、警戒は実戦寄り。
(薄い。薄いのに、増やしている)
港の整備員が油の匂いを身にまとい、兵士のブーツが床を乾いた音で叩く。笑いの合間に混じる短い無線の破裂音は、普段より一拍速い。
公園へ向かう坂道の途中、波除けの上のカモメが、翼を半分だけ上げた形で固まっていた。風の向きが、一瞬だけ変わる。
6 公園、青い風、白い空
祖母が迎えに来る予定の、公園。
海を一望できる芝地と、古い灯台。ベンチの白は少し剥げて、けれど磨かれている。
「静かだね」
「うん、静かすぎる」
神々も声を落とした。
遊ぶ子どもたちの声はあるのに、親たちの視線がいつもより遠い。ベビーカーの車輪が小石を拾い、母親が足を止める。その横を、島の警備員が二人組で通り過ぎる。彼らは顔を上げ、空を一度だけ確認した。
「アメお姉しゃま、感じませんか?」
「ええ。嫌な波動。……素直じゃない潮の匂い」
「ムスは?」
「揺れてます。線が、事前に撓(たわ)んでいる」
僕はベンチの端に腰を下ろし、掌を開いて、また閉じた。
掌には薄い古傷が走っている。どれも小さく、見なければ気づかない種類の痕。けれど僕には、その一本一本に結びついた光景が、閉じた瞼の裏で即座に立ち上がってくる。
(――この島は、最前線だ)
潮の匂いの層が、一枚分、濃くなる。
その濃さは、一般の人にはたぶん、わからない。
でも、僕にはわかる。身体が先に反応する。肩甲骨が呼吸の幅を少し狭め、視界の解像度が一段上がる。
7 兆し
港から少し離れた場所で、老人が煙草の箱を手の中で折り曲げた。
「またか。外海に“奴ら”が出たそうだ。今度は南東。……潮の噂だがな」
女子高生のグループが、笑っては顔を曇らせる。
「この島って、ほんと安全なんだよね?」
「うん、世界で一番安全。でも、世界で一番前線」
その言い回しは、八名島の教科書にも載っている。
安全で、前線。二つは矛盾しない。――守る者が、迷いなく最前に立っている限りは。
「潤くん」
「ん?」
「来ます。いつとは言えませんが、遠くありません」
カミの声は震えていない。
ムスは手を合わせ、アメは笑みを薄くする。
僕は、空を見上げた。
雲は薄く、太陽は白く、風はまだ柔らかい。
けれど、風紋の形がほんの少しだけ、海の約束から外れている。
(散発じゃない。連動している。噛み合う歯車みたいに)
島の外周で、レーダーサイトが一度だけ、目に見えないまばたきをした。
それは、気のせいと言われればそうかもしれない程度の、些細な瞬き。
けれど僕は、そういう瞬きを見逃さない訓練を、もう長いこと続けている。
8 平穏という名の、ブリーフィング
祖母はまだ来ない。
ベンチの背にもたれ、僕は呼吸を数える。四つ吸って、四つ止め、四つ吐く。
そのリズムは、単なる落ち着かせ方ではない。身体に眠る回路を必要最低限だけ温め、余計な火を点けないための準備だ。
「ねぇ潤しゃん」
「何」
「“もしも”が来た時、どうするの?」
「――今は、僕はただの中学生だよ」
アメは目を細め、にひひと笑った。
「そうだね。今は、ね」
風が芝を撫で、光がベンチの白を薄く弾く。
遠くで犬が吠え、波が一枚、遅れて岸壁に届く。
世界は平穏の顔をして、僕の顔色を覗きこむ。
9 嵐の前
空は晴れている。
海は穏やかに見える。
港の売店ではソフトクリームが売れて、子どもが口の周りを白くして笑っている。
――それでも、僕にはわかる。
この静けさは、嵐の前の静けさだ。
八名島全域を巻き込む、かつてない**大襲撃(インシデント)**が、ゆっくり、しかし確実に近づいていることを。
アメが小さく囁いた。
「潤しゃん、怖い?」
「怖いよ」
「それでも行く?」
「行くさ。僕は――」
言葉は、そこで止まる。
まだ、言ってはいけない。
まだ、名乗ってはいけない。
だから僕は、ただ拳を握った。
周囲から見れば、それは緊張する中二男子の仕草にしか見えないだろう。
それでいい。今はそれで、いい。
カモメが一羽、遅れて空へ跳び上がる。
白い翼が陽を掴み、影が芝に落ちて、風が背中を押した。
――嵐は、すぐそこだ。
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