第5話 越えなかった夜

あの駐車場でのキスは、甘くて、切なくて、胸をかき乱すものだった。

彼の腕の温もりがまだ残っているのに、心の中は嵐のように揺れていた。


「このまま休んで行こうか」

彼が軽く言ったその一言。


私の心臓は大きな音を立て、視界が滲んだ。

ほんの少し頷けば、あの夜は別の物語に変わっていたはずだ。


けれど私は首を横に振った。

迎えに来てくれる人がいた。

その人の存在を裏切ることはできなかった。

たとえ心の奥で、彼のことを強く望んでいたとしても。


──あの夜、越えなかった一線。


もし踏み込んでいたら、きっと忘れられない夜になっただろう。

けれど同時に、罪と後悔に塗りつぶされていたに違いない。

だからこそ、あのキスは私にとって永遠の宝物になった。


別れ際、彼は少し笑いながら「またな」と言った。

本当は、もう会うことはないと分かっていたのに。


夜風に吹かれながら歩き出すと、胸の奥で“もしも”が渦巻いた。

けれどそれは答えのない問い。


残されたのは、唇の温度と、涙の跡だけだった。


あの夜越えなかったからこそ、この想いは私の中で純粋なまま閉じ込められた。

時を重ねても色褪せない、遠い春の記憶として。

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