ベルゼブブの幽鬱

カミュカ

第1話


  1


 ぼくは一歩前へ踏み出すと、銃口を、鯨原くじらはらの額に刻み込まれた、まるで渓谷のごとく深いしわの中央へ、そっと押し当てた。

「もうすぐ、お前はぼくに撃たれて死ぬかもしれない。それでも、そう思うか?」

 ──思い出した。ほんのちょっと前、鯨原──いや、蠅原はいばらの家の広間で一度、この台詞を口にしたことがあるという事実を。でも今現在のぼくは、バスの一番後ろの席に座り、目を閉じているはずだった。二人の女神たちの美しい声に耳を澄ませながら。

 ぼくは夢を見ているのだろうか?

 しかしここは正真正銘の現実で、紛れもなく蠅原の家だった。床の間の鶏の掛け軸も、閉じられた黒塗りの仏壇も、鴨居の上に並んだ遺影や賞状も、こうしてかまえている銃も。何もかもがさっきのままで、全てに夢などではないという確かな現実の感触があった。自分の呼吸音と庭で鳴いている蝉の声もちゃんと聞こえていて、どちらかと言うと今の方が現実味に溢れている。

 にっこりと微笑んだままで蠅原は言った。「どうやら、うまくいった模様です」

「……一体何が、どうなっている?」

 ぼくは言ったものの、いや、そんなことはどうでもいい、さっさと話せ、と即刻言い直した。実際そんなことはどうでもよくなっていて、一体蠅原の過去に何が起こったのかを、そして何がきっかけになって蠅原が奇妙な能力を身に付けたのかを、知りたいと思い始めていたからだ。ぼくは銃口を蠅原の額から外して下におろす。

 蠅原は微笑みを深めながら、大変よくできました、とでもいうように頷くと、おもむろに、しかしはっきりとした声で話し始めた。

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