星月夜にて

三藤遼侍

親不孝が始まる

 7月7日、つまり七夕。

 町に架かる伝統的な木造橋には三尺ごとに提灯がつられ、その両端には短冊がつるされもう見えないが、間違いなく笹だろうものが2つずつ。赤い仄明るい光に照らされた河では時々アユたちの腹がギラリと輝く。町民はほぼ全員が参加するほど大きい、人気の祭りであり、大人は飲み語り、子供は川辺でアユをとったり鬼ごっこしたり。酔狂な町は一種の催眠にかけられているような異質な雰囲気で、裸踊りをするおじさん、カラオケをする町長、川への飛び込み大会まで始まった。

 そんな魔法は22時まで、律儀な大人たちはその日が日曜日だったことを再認識し、栓が抜けた風呂の水のように帰っていった。体力無限の子供はまだ遊びたいとか言って泣きじゃくっているが、親たちはその手をつかんで無理やりに引き戻し、またいつもの夜が始まった。


 町に架かる伝統的な木造橋につられていた提灯はなくなり、静寂と群青の世界が広がる。ラピスラズリのような空ではたまに星が瞬く、朧雲が月を隠し、それが銀水晶のような明度で輝いていた。

 その星の夜の中、橋には影が一人分出てきた。重い足取りで歩いている。約一時間前にはあふれんばかりの人が右から左へ流れていた橋を、その人はゆっくりと左から右へ進む。馬の歩みのように早歩きで、大きなその橋も3分ほどのうちに彼の後ろのものになった。


 この町唯一の駅だ。無人の改札、改札機があるので、通ることはできるその改札に8月7日に切れるSUICAをあてる。うまくあたらなかったのか、ピンポーンという音が無人の空間に鳴り響き、彼はびくっと肩を震わせた。彼は、すぐにまたあてて、足早にホームへと向かった。

 ほとんど錆付いていて、赤茶色になってしまった階段がある。行先も決まっているのだろうか、その階段を上って2番線に行くことに決めたらしい。カンッ、カンッ、という音もまた無人駅に響いた。真夜中にこの階段を歩いていると、不思議なことで、自分ともう一人の足音も聞こえてくる、という階段がここにはあるのだが、自明だ。誰もいないのだから、音がよく響くのだ。

 2番線に降り立つと、線路の先は少し見える程度だ。白色の街灯が道路を照らしており、そこの半径2メートルほどがかろうじて見える。遠くから見るとわかりずらいのだが、この季節、カブトムシやオオムラサキが光によっては落ちてを繰り返す姿が見えている。彼は娯楽がないのか、そこを注視し続けていたが、瞼がぱちぱちと勝手に動き始めると、おもむろにカバンから何かの参考書を取り出した。


 三時を過ぎたころ、ふとクワガタのメスが参考書に留まってきた。彼がとても驚き、参考書を投げてしまうと、そのクワガタも飛んで行ったが、参考書は線路に落ちた。しょうがないので、その参考書を取りに線路に降りてみた、意外と一つ一つの意思が大きく、重心を崩して転びそうになった。転んだらたぶん足をくじいて上がることができなくなるので、転ばなくて本当に良かった。真ん中にきれいに安置されているようなその参考書を取り出し、また普通にホームに上がる。これがよかった。いろいろ紛らわし続けていた眠気はそれでさっていったらしい。参考書についた小さな礫たちを払い、また元の35ページ、大問68番を開き、シャーペンを走らせ始めた。

 それにしてもどうして彼は眠かったのだろうか、家出というものをしたことがあるような人にはわかってもらえるのだが、これはなかなか興奮するもので、私は浮足立ってしまう。

 4時57分、もう空は明け始め、赤らんでいる。月は西のほうにあるらしいが、もう建物に覆われているらしく見ることができなかった。そうしてついに始発らしい電車が来た。これまた白色の蛍光灯に照らされた車内に人はおらず、彼は広々と3号車を使うことができた。といっても席は二つずつ分けられているあれで、彼は真ん中の二席を使って寝始めた。金があるのか知らないがどこまで行く気だろう。

 その無人電車は静かに揺れながら、その町、隣町、大都会ではない町々を抜けていく。田のコメが朝日に照らされオレンジ色に染まっている中、大きな杉がうっそうと生い茂る樹海の中を通っていく。とてもきれいで、そこは一人一人の人生というものそのものが孕んでいるんじゃないか、変に感傷的にさえなる。結局彼は4つほど街をまたいで7つ先の駅で降りた。

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