第2話:四千の星を愛した男(※本人談ではない)

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息も絶え絶え、俺はオフィスの自動ドアに雪崩れ込むように滑り込んだ。背後で「うぉっ、消えた!」「あのビルが奴のアジトか…!」というヤンキーたちの声が聞こえた気がするが、もうどうでもいい。


「た、田中さん?大丈夫ですか、顔面蒼白ですよ」

「幽霊でも見たみたいな顔してるぞ」


受付嬢や同僚たちが、心配そうにこちらを見ている。しかし、その視線は俺の顔ではなく、なぜか頭上あたりに集中していた。やめてくれ、そこにはきっと、ろくでもないポエムが浮かんでいるんだ。


自席に倒れ込むように座り、大きく息を吐く。心臓がまだバクバク言っている。

なんだったんだ、今朝の出来事は。嵐?悪夢?


「田中くん、大丈夫?」


ふわりと、シャンプーのいい香りがした。顔を上げると、営業部のマドンナ、佐藤先輩が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。その優しい眼差しに、荒んだ心が少しだけ癒される。

…と思ったのも束の間、彼女の視線が俺の後方で固定され、頬がぽっと赤らんだ。


「えっ……」


何だ?今度は何が表示されたんだ?

周囲から「おい見ろよ、また出たぞ」「ポエム先輩、朝から飛ばすなぁ」「キザすぎるだろ…」というヒソヒソ声が聞こえてくる。


俺の背後にはきっと、こう表示されていたに違いない。

**【孤高を愛する一匹狼。だが、その瞳の奥には優しさが揺れている】**

とかなんとか。もう勘弁してほしい。



昼休み。俺はトイレの個室に立てこもっていた。ここが唯一の安息の地だ。

鏡で自分の姿を見ても、当然キャッチコピーは見えない。一体全体、俺は周りからどう見えているんだ。


ガチャリ、とトイレの入り口のドアが開く音がした。

入ってきたのは、営業部のエースでプレイボーイと噂の同期、高橋だった。


「よぉ、田中。いたのか」

高橋は手を洗いながら、鏡越しにニヤリと笑う。

「聞いてくれよ。昨日合コンでさー、また一人ゲットしちまったぜ。これで俺が関係を持った女の数も、ついに3桁の大台に乗ったってワケ。俺の伝説もまだまだ終わらねぇな!」


関係を持った女の数。3桁。百人。

…すごいな。俺なんて、人生で女性とまともに話した回数すら3桁に届くかどうか怪しいのに。

羨ましい。実に羨ましい。

その、どうしようもない羨望と敗北感が胸に渦巻いた、その時だった。


俺の頭上が、これまでで最も強く、黄金色に輝いたのを、高橋の驚愕の表情が教えてくれた。


「な……んだ、あれは……?」


高橋が、鏡に映る俺の頭上を指さし、わなわなと震えている。トイレにいた他の社員たちも、ポカンと口を開けて固まっていた。

その場の全員が、まるで神の啓示でも見るかのように、俺の頭上を――いや、そこに浮かぶ文字を凝視している。


高橋が、途切れ途切れにその文字を読み上げた。


「“かんけいした、じょせいの、かず……よんせんにん……?”」


……は?


「“かっこ、てんかいの、ようせい、かみ、せいれい、ふくむ……?”」


……はあああああっ!?


なんだその注釈は!レイヤさん、あんたの言う「関係」ってどういう意味だよ!

俺は天界の妖精とも神とも精霊ともお付き合いした覚えは一切ない!というか、そもそも天界に行ったことすらない!


高橋が膝から崩れ落ちた。

「よんせん……にん……だと……?俺の百人なんて……赤子の戯れにも等しいというのか……」

彼は床に両手をつき、悔し涙を流している。

「桁が……違いすぎる……!あんた、そんなとんでもない伝説を隠して……!」


違う!違うんだ高橋!それは俺の伝説じゃない!レイヤさんの暴走だ!


しかし、俺の心の叫びは届かない。高橋はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめると、深々と頭を下げた。


「師匠ッ!どうかこの俺に、ご指導ご鞭撻のほどをッ!」

「「「師匠ッ!!」」」


トイレにいた他の社員たちまで、なぜか俺に頭を下げ始めた。


その日一日、俺は社内で「四千人斬りの師匠」「ゴッド・オブ・田中」「歩く天界神話」など、数々の不名誉なあだ名で呼ばれ続けた。


夕方。俺はゾンビのようにふらつきながら、我が家(という名の女神の仮住まい)にたどり着いた。

ドアを開けると、リズがポテチ片手にテレビを見ており、レイヤが「お帰りなさいませ」と優雅にお茶を淹れていた。


俺は玄関にカバンを放り出し、そのまま土下座する勢いで叫んだ。


「レイヤさぁぁぁん!もうやめてください!僕の平凡な人生を返してくださいぃぃぃ!」


俺の悲痛な叫びに、レイヤは不思議そうに首を傾げた。


「おや、田中様。何か問題でも?街では伝説の男と噂され、会社では師匠と崇められていると報告が入っておりますが」

「それが最大の問題なんです!」

「さすがは400戦無敗のわたくしです。効果は抜群のようですね」


にこりと微笑むレイヤ。

その笑顔を見て、俺は悟った。ダメだ、この人には何を言っても通じない。


俺の人生は、もう、めちゃくちゃだ。

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