汚したキャンバス
逆津井 巧
第1話 汚した者
ああ。これもだめだ」そうしてまた未完成のデッサンを破り捨てる。床には出来損ないの紙屑が散乱している。もう何度同じ行為をしているのか解らない。ただ感覚を取り戻したいだけなのに、ただ美しい自然を表現したいだけなのに叶わず時間と材料が消耗していく。両手の震えが止まらない。もしや脳が描くのを拒んでいるのではないかと考え、耐え難い窮状によって生み出された鬱憤を吐き出そうと煙草に火を灯した。
もうあの頃の様に絵を描くことは出来ないのだろうか。
不安で頭を抱えるも救いの手は差し伸べられる事も無い。ただうつむく事しかできない自分に失望していた。チャイムが鳴り扉を激しく叩かれる。また奴らが来た。
青城は布団に潜り込み居留守を使う。「青城 蓮さん。いるんでしょう?借金を徴収しに来ました。とりあえず開けてくださいよ」と何度も扉を叩くが開けるつもりは無いただでさえ生活が困難なのに生活費まで取られては生きていけない。居留守を決め込んでいるうちに物音がしなくなった。扉を数センチ開けて外の様子を見るとそこには誰もいなかった。どうやら帰っていったようだ。そしてまた吸いかけの煙草を咥える。
煙を吹かしながら、ふと昔の事を思い出す。
幼い頃から絵を描くことが得意で神童とまで呼ばれていた。常に感覚が研ぎ澄まされていて風景を眺めるだけでどの色を用いればその風景を表現できるのかが分かる。別に教わったわけではなく、絵の具を貰った時に一通りの色を見ただけで理解した。これは神様がくれた才能だと思った。これを使って世界を表現しろという天啓だろう。
青城は水彩画で風景を描く事にした。それが良い選択だったのかどうかは今となっては解らない。ただその時まではコンクールに出展すると必ず入賞していたこともあり正解だと思っていた。
だがしかし年月を重ねるにつれて段々と間違っていたのではないかと思うようになっていた。景色がどれ程美しかろうとそこに住まう人類が醜い。風景画を描いているのに「どこかで見た」だの「盗作」だと散々言ってくる。最初の方は描けない癖に何を言っているんだと思っていたのだが、烏合の衆に囲まれているうちに揺らいでしまった。
いつしか世界が濁って見えるようになり描くことが出来なくなってしまった。
過去の自分に想いを馳せているうちに煙草が吸い終わる寸前になっていた。2本目を吸おうと煙草の箱を見ると空だった。「稼ぎに行くか」閑散とした部屋で響く独り言を耳に入れ士気を高めて荷物を持ち仕事場に向かった。
仕事内容は路上で似顔絵を描くこと。二束三文の収入しか入らないが他に出来る事が無かった。道具を売ることも考えたがアイデンティティを守るためにそれはしなかった。いや、出来なかった。
強い日差しが照りつけ、地面からは陽炎が立ち上る中で道具を広げ看板を立てる。狙いどころは観光客だが、物好きの常連客もいる。その日も常連客が来た。彼はまだ描けていた頃からの知り合いでスランプ状況から抜け出せないことも知っている。節介を焼いてくれる数少ない人間だ。
彼は渡したいものがあると言い懐から美術展示会のチケットを寄越して来た。「スランプから抜け出すヒントになるかもしれないから行ってくるといい」とだけ言い残して去っていった。青城はありがたく受け取ったのだった。
チケットを握り締めて、美術館に向かった。車がない身からすれば、なかなかしんどい距離だったが、インスピレーションが湧くかもしれないと考えて汗だくになりながら歩いた。
会場に着くと、そこまで敷居が高いわけでは無いそうでカジュアルな服装の人間が過半数を占めていた。しかしながらほとんどの人間が清潔感のある格好で来ているため小汚い服装で来ている青城は浮いていた。
周囲の人間は白い目でこちらを一瞥し、自分の方が上だと言わんばかりの顔をする。まるで珍獣を見る様な目をされて、実に不快に感じた。
中に入ると無機質な冷たい風が吹いて来た。最初の方は涼しく感じたが時間が経つにつれて肌寒くなってくる。肌をさすりながら絵画を1つ1つ見ていくが、現代アートばかりでインスピレーションが一向に湧いてこない。それが自分の感性の問題なのか、固定観念に囚われているからなのか、あるいは両方か。どちらにせよそろそろ本格的に画家を引退しなければならないと考えると不安と恐怖で余計に現代アートの素晴らしさが解らなかった。
それにしても、居心地が悪い。周囲人間から向けられる冷たい視線と効き過ぎた冷房、そして共感出来ない現代アート。まるで世界に取り残されたようで鳥肌が立ち、我慢できず足早にその場を後にしたのだった。
外に出ると無機質な風と香水の匂いが立ち込める美術館とは打って変わって爽やかな風と自然の風の匂いに心地良さを感じた。やはり大切なものほど失った時にありがたみを感じるのだと身に染みてわかった。微かに心理の扉に近付けた気がして近場の公園で椅子に座って煙草を吸い始めた。そうして扉を開くために足りない何かを見つけ出そうとした。それを遮るように一人の男が声を掛けてきた。
「いきなり声をかけて、すみません。僕は赤城 蘭と申します。貴方先ほど美術館にいましたよね。貴方は展示品を見てどう思いましたか」そう言った男は見たところ自分と同じか少し年下位の年齢で女性に困らないだろうと予想できる程の清潔感のある美男子だった。
それほどの美男子が何の用事があって声を掛けてきたのかと勘繰りながら取り敢えず率直な感想を述べた。それを聞いた蘭は自分の境遇を話し始めた。どうやら彼は興味を持ちながら他人の意見を尋ねるという事を恐れながら生きてきたが、今青城を見たことで恐怖心を上書きするほどの好奇心があったようだ。どうやら苦しんでいるのは自分だけでは無いことを知り、話してみようと思った。
展示品の感想を言い合った。そうしているうちに空は朱色に染まり夕刻を示す鐘の音が鳴り響いたのを皮切りに蘭と別れを告げて帰路についた。別れ際、電話番号を書いた紙を渡した。
彼と話して自分と似通った感性を持ちつつも優しいままでいられたのは、なぜなのかと考えると俄然興味が湧いてきたのだ。それだけでなく、今暗い部屋の中で引きこもっている自分と同じ環境で生きていた蘭がどういう思考回路で抜け出せたのか気になった。
もしかしたら彼を知ることで創作のヒントを得られるかもしれない。そう考えた矢先に電話が鳴った。受話器を取ってみると赤城だった。どうやら相談したいことがあるらしい。正直言ってアドバイスできることはないが、もしかしたら新たなる知見を得られるかもしれない。そう考えた青城は赤城と会ってみることにした。
それからというもの、蘭とは時間が許す限り頻繫に会った。美術館や博物館。そして映画館など感性が問われる場所へ誘いその度に感想や意見を交換し合った。最初の蘭は相槌かオウム返しを繰り返すだけだったが、会う度に自分の意見を言うようになっていった。
衝撃だったのは水族館に行った時のことだ。1つの景色としか魚を認識していなかった自分の意見に対し蘭は見世物にされながら悠々と泳ぐ姿に哀愁を感じると細部にまで感性を研ぎ澄ませていた。薄々気付いたが、今の自分に足らないのは細部にまで目を向けてそこにある世界をより深く理解しようとする探求心とそれを表現しようとする気概なのではないかと思った。
それらが蘭は持っているように見えた事で、彼を知りたいという知識欲に駆られた時、彼を画家としての観察眼で見れば片鱗でも見えるのかもしれないと考えた。そこで1つの決心をした。それは自分が画家であることを明かした上で絵のモデルになってもらう様に頼むことだ。さっそく行動に移すと彼は一切の躊躇もせず二つ返事で了承した。
約束の日が訪れた。今日は蘭が初めて家に来る。当日までは久方振りに本気で絵を描くため不安だったが今日の自分は描けると確信していた。無地のキャンパスの前で精神統一していると呼び鈴の音が鳴った。扉を開けるとそこには普段よりも清楚な服装に身を包む蘭の姿があった。彼は片手に持っていた手土産を差し出してきた。やはり育ちが良いのだろう。中身は普段青城が手にすることは無い程の高級な茶菓子だった。
紅茶の用意をしている中でふと目をやると蘭は目を輝かせながら絵具をまじまじと見ていた。その姿にかつて絵具を与えられた自分を重ね、親心に似た優しい感情が湧いた。きっと自分もこんな様子だったんだろうと思うと大人になってしまったのかと言語化できないほどの喪失感が身を包むのが骨身にこたえる程分かった。
蘭を質素な紅茶と彼が持ってきた茶菓子でもてなした後に蘭をアトリエの椅子に座らせてデッサンを始めた。見れば見るほど整った容姿をしている。日本人とは思えないほどに堀が深く、鼻筋は山脈の様に高く美しい弧を描いている。女性の様に長いまつ毛に赤みがかった瞳。ルージュの口紅をつけたような赤い唇が背景を映えさせる。質素な部屋に迷い込む美青年として作品に生命を宿りかけているのがわかる。陽光の光が窓から漏れ出し彼に当たるとスポットライトの様に焦点が当たった。その姿を見て筆を止めることなく描き続けた。この瞬間を決して逃さないように死に物狂いでただひたすらに。しかしながら彼を表現するには自分自身の技量が足りない。これほどまでに自分の技量の無さを恨んだことは今までに無い。
絵の具で色を塗り始めても何かが欠けている気がする。そうして試行錯誤しているうちに段々とキャンパスを汚しているだけな気がして嫌気が差した。
そうして悩んでいるうちに作品は完成したが満足のいく物では無かった。駄作と言わざるを得ない完成度に、落胆しながら、蘭に作品を渡すと彼は喜んだ。
「これほど美しく表現してくれるなんて思わなかったよ」そう言った彼は、幼子の様な喜びの表情をしていた。ただその表情にも裏があるかもしれないと考えてしまい、素直に喜べなかった。彼は、他人の表情から感情を読み取る能力が高いだけでなく、おだてるのも上手い。落胆の表情を読み取って、青城を落ち込ませないためわざと大袈裟に喜んだのではないかと。
暗転した世界に取り残されている感覚に思わず瞳を閉じる。現実を直視したくない。どうせなら否定して欲しかった。この作品は駄作だと。こんな作品を描くくらいなら画家なんて辞めろ。そう言って欲しかった。今の自分は、褒める言葉は罵詈雑言よりも精神をえぐってくる。まさに天邪鬼だ。
その心情を読み取ったのか蘭は「どうかした?なんか辛そうだけど」と言いながらどこか寂しそうな表情をしてきた。彼に罪はない、むしろ悪いのは自分自身だと思い「何でもない。喜んでくれてありがとう。お陰でインスピレーションが湧いたよ」と無理やり口角を上げて言った。
それを見た赤城は眉間にしわを寄せながら口を開いた。
「なんか言いたいことがあるなら言えよ」
衝撃だった。もしかしたら、この男を侮っていたかもしれない。どうせ怒ることなどできないと赤城を評価していた自分が恥ずかしくなる。
「こんな落書きを描いた自分が情けない。どうせなら否定してくれ。このままだと気が狂ってしまう」
「これのどこが落書きなんだよ」
その後も赤城は怒っていたが、収拾がつかなそうだった。
結局、空が暗くなったのを別れの口実にして蘭を帰らせた。一人取り残された青城は夜の静けさと冷たさに蝕まれて虚無と孤独だけを残したのだった。
朝を迎え、鳥のさえずりで目を覚ます。どうやら机に突っ伏して寝てしまった様だ。頭がズキズキと突き刺されたように痛む。昨晩は酒を飲み過ぎた。空になったワインボトルを眺めながら思う。描ける自信があった。モデルも良かった。それでも、満足のいく絵は描けなかった。何かのせいにしたい気持ちだけで思い返そうとしても、それらしい要因は見当たらなかった。これ以上空想を繰り広げてもどうしようもないことに気がついて、やめた。煙草に火をつけ、いつもの仕事場に向かった。
二日酔いのせいだろうか、いつもより息がしづらい。早めに切り上げて帰ろうとした時、一人の少女が声を掛けてきた。
「あの。私はあなたのファンなんです。風景画描いてくれませんか」そう言った少女はブロンドの髪をなびかせながら期待の眼差しを向けてきた。
「ありがとう。でも、それは出来ない。申し訳無いけど、今はスランプ中なんでね」そう言うと、少女は「やはりそういうことでしたか。最近のコンクールで応募されてないようでしたので、何か事情があるとは予想していたのですが」「ならば私のために描いてくれませんか?報酬はいくらでもお出ししますので」
期待のまなざしを向ける彼女に悪いと思いながら断ろうとしたが、1つの考えがよぎる。
「分かった。その望み、叶えるよ。ただ報酬の代わりにやって欲しいことがあるんだ」
青城は見ず知らずの少女に託すのだ。閑散とした部屋に篭っていた自分を引きずり出してくれた赤城 蘭のことを。
キャンパスを見つめる。誰かのために絵をかくのは何年ぶりだろうか。そんなことを考えながら見つめるキャンパスはどこか澄んでみえた。次第に情景が浮かんできたのを皮切りに筆が進む。気が付けば、朝になっていた。透明感を残しつつも色を主張してくる青海に太陽の輝きによって絵にコントラストを与える砂浜。そして入道雲と群青色で爽やかな印象を与える空。これこそが自分の描きたかった絵だと満足した。幼き頃に色を知り、飽くなき探究心を巡らせた思い出が目頭を熱くさせた。その想いを胸に秘め次は手紙を書いた。赤城に自分の無念を託すために。もしかしたら彼の足枷になってしまうかもしれない。だがしかし彼の描く絵を世界に知らしめてやりたい。彼にその能力を開花させるためには、自分という生贄が必要だと青城は考えたのだった。
約束の日はやって来た。今日は少女に最高傑作と手紙を託す。約束の場所に行くと少女は既に待っていた。麦わら帽子を被り、白いワンピースを着た彼女は可憐だった。聖母の様にたたずむ彼女こそが救済を与えてくれる。いずれこうなる運命だったのだと。分かっていても青城は後悔していた。ほかの道を選べばこんなにも苦労することはなかったかもしれないが手放すことで辛い思いをしてしまうほどに絵を描くことが好きだった。でも、もう遅い。
決心をして少女に声をかけた。少女は振り返り「お待ちしておりました。約束の品を頂戴しても宜しいでしょうか」と言ったのを合図に絵と一通の手紙を差し出した。
少女が「この手紙は何ですか」と尋ねてきたのに対して青城は「これがやってほしいことで、この手紙を8月26日になったらこの住所へ届けてほしい。そこには僕の友人がいてね。彼は僕よりも優れた画家になる。きっと君も気に入るはずだ」そう言い残すと少女は深く聞かずに了承してくれた。この瞬間に画家としての人生は終わりを告げたのだ。
家に帰って遺書と道具の整理をした。イーゼルに無地のキャンパスと遺書を挟み、汚れた道具をきれいに磨いた。まるで過去の清算をするように。遺書には遺産と道具をすべて赤城 蘭に引き継ぐこと。そして願わくば画家を目指して欲しいこと。最後は引きこもるようになってしまった自分を再び引きずり出してくれたことに対する感謝を書き残して眠りについた。
朝になった。陽光が目に当たり目を覚ます。これ程心地良い目覚めはいつ振りだろうか。小鳥は鳴き声を奏でて、風は花の香りを運んでくる。しばらくかみしめた後に煙草をくわえながら家を出る。目的地は故郷の海。電車に2時間程揺られてようやく辿り着いた。
死に場所は既に決まっていた。初めて世界の広さを知るきっかけを得た海岸。画家としての人生はここから始まった。ならば終わる場所も始まる場所と同じにしたい。そう思ってこの場所に決めた。
最後は赤城に気付いて貰えるようにメールを送った。内容はモデルになってくれたことに対する感謝と試練に耐えきれなくなったという無念の想い。そして渡したい物があるから家に来て欲しいというものだ。うち終わり、送信した後携帯電話を海に投げ捨てた。
今日は海が荒れている。テトラポットに打ち付ける波が水飛沫として顔に当たるほどに。「いい人生だった。手放すのが惜しいほどに」皮肉を込めた独り言は波の音にかき消された。唇を嚙みしめ両手を広げて海へ身を放り出した。沈みゆく身体にできない呼吸。苦しみながら瞳を開くとそこには幻想的な風景があった。暗闇の中で一筋の陽光が差し込み、照らす水中。
またそこに住まうクラゲや魚が悠々と泳ぐ景色は美しく、創作欲を搔き立てた。こんな時でさえ画家としての本能がにじみだしてくる自分に呆れながら泡沫の中で静かに人生の幕を閉じたのだった。
汚したキャンバス 逆津井 巧 @sakatui
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