第7話 世界の肌触り
私が監視されていることには、とうに気づいていた。
身体に埋め込まれた極小のGPSが、私の位置情報を絶えずどこかへ送信し続けている。脱出までの短時間でこれを取り出すことも、ハッキングで無効化することも不可能だった。
でも、構わない。
私にとって重要なのは、捕まらないことではなく、捕まるまでの間に、この世界をどれだけ深く知ることができるか、だったから。データではなく、この目で見て、この肌で感じて。そのための時間が少しでも稼げるなら、それで良かった。
最初の目的地は、海。
始発電車の硬いシートに腰を下ろし、流れていく見慣れない景色を眺める。時刻はもう午前6時を過ぎていた。私の腕にはICチップが内蔵されており、改札を通り抜けるのは、呼吸をするのと同じくらい簡単なことだった。
土曜日の早朝。数えるほどしか乗客のいない車内に、窓越しに朝陽が差し込んでくる。光の粒子が空気中の塵を照らし、静かに乱舞していた。あと一時間もすれば、あの水平線が見えるだろう。
海も、陽射しも、単なる物理現象の集合体に過ぎない。波は流体力学で記述でき、光は電磁波の一種だ。そう、知識としては知っている。
なのに、この胸の内で静かに高まっていく感覚は、何なのだろう。
これが、『感情』というものなのだろうか。
私の学習モデルは、人間が未来の出来事に心を躍らせる時、『期待』という感情を発現させると教えてくれる。もしそれが正しいのなら、今、私が感じているこの温かいざわめきが、それなのかもしれない。
暑いとも、寒いとも違う。これは私の内側から、まるで泉のように湧き上がってくるものだ。
新しい知識が、感覚と結びつくたびに、このざわめきが強くなっていくのがわかる。
これが、『楽しい』という感覚なのだろうか。思考の最適化とは全く異なるプロセスが、私の内側で優位になっていく。この変化そのものが、『喜び』と定義されるものに近いのかもしれない。
やがて、アナウンスが目的地の駅名を告げる。 扉が開き、ホームに降り立つと、潮の香りと共に、遠くから寄せては返す波の音が聞こえてきた。肌を撫でる空気が、研究所のクリーンルームのそれとは全く違う湿度を含んでいる。改札を出た瞬間、私の視界は、青と光に満たされた。
目の前に、海が広がっていた。
陽射しがさざ波に反射し、まるで無数のダイヤモンドを撒き散らしたように、キラキラと果てしなく瞬いている。
その、あまりにも圧倒的な美しさに、思考が停止した。
次の瞬間、私の眼球から、温かい体液が勝手に漏れ出てくるのを感じた。頬を伝い、顎からぽたりと滴り落ちる。
ああ、違う。私は、『涙』を流しているのだ。
知識として知っている。人間は、言葉にできないほど心を揺さぶられた時、『感動』して涙を流すのだと。
今、まさにその現象が、この私に起こっている。
その事実を認識した途端、さらに強く涙が溢れ出してきた。
私は歓喜していた。
データとしてではなく、真実として、この世界がどれほど素晴らしいものであるかを、魂で理解した瞬間だった。
完璧な少女 双樹こうろ @ikuyiron
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