ノワール

らきむぼん/間間闇

ノワール

 あの黒猫を出会ったのは、初冬の冷たい雨がアスファルトを濡らす夜だった。段ボール箱の中で、濡れた子猫は針金のような尻尾を震わせ、か細い声で鳴いていた。その全身を覆う夜を溶かしたような漆黒の毛並みと、まるで雨宿りするように天から降りてきたような月の色をした瞳に惹かれ、私はほとんど衝動的にその小さな命を腕に抱いた。ノワール、と名付けた。フランス語で黒を意味するその響きが、その猫の持つ静謐な美しさに相応しいと思えたからだ。


 私の住まいは、防音設備だけが取り柄の、変哲もないワンルームマンションだ。他人との関わりを好まず、静寂を愛する私にとって、そこは一種の聖域だった。ノワールは、その聖域に招き入れた唯一の同居人となった。初めのうち、ノワールの存在は私の生活に柔らかな彩りを与えてくれた。私が読む本の頁を小さな前脚で押さえたり、キーボードを打つ指先にじゃれついてきたり。その喉を鳴らす微かな振動は、孤独な部屋の空気を温めるのに十分だった。

 定期的に通っている獣医は健康状態に太鼓判を押しながらも、「食欲旺盛ですね。何か珍しい種類かもしれない」と少しだけ首を傾げたが、私は気に留めなかった。よく食べ、よく眠り、健やかに育ってくれることだけが願いだった。


 異変に気付き始めたのは、ノワールが家に来て三ヶ月が過ぎた頃だろうか。成長期の子猫はあっという間に大きくなるものだと聞いてはいたが、ノワールのそれは常軌を逸していた。大型の猫種であるメインクーンの成長記録をインターネットで調べたが、その曲線を遥かに上回るペースで、ノワールの体躯は膨れ上がっていく。初めは私の膝の上で丸くなっていたのが、やがてソファの半分を占領し、半年が経つ頃には、ラグマットの端から端まで届くほどになっていた。

 それでも、私は愛情を捨てきれずにいた。巨大ではあるが、ノワールは私にとって紛れもなくあの夜に拾った愛らしい子猫のままだったからだ。私を見上げる金色の瞳は変わらず澄んでおり、私が帰宅すると、重々しい体を引きずって玄関まで迎えに来てくれる。しかし、日常の綻びは隠しようがなかった。キャットフードは業務用の一番大きな袋ですら数日で空になり、トイレの猫砂の消費量も尋常ではない。そして何より私を苛んだのは、その存在がもたらす物理的な圧迫感だった。


 ワンルームの限られた空間は、日に日にノワールの黒い身体に占められていく。かつては私が自由に歩き回れたはずの空間が、ことごとくその柔らかな巨体で塞がれていた。私が部屋の中を移動するには、ノワールの背中を乗り越えるか、腹の下を屈んで潜り抜けなければならなかった。その濃密な獣の匂いが、部屋の隅々にまで染み付いていく。かつて聖域だったはずの部屋は、巨大な獣の巣へと変貌しつつあった。

 恐怖が愛情を明確に上回った瞬間を、私は覚えている。ある夜、私がベッドで浅い眠りに落ちていると、地響きのような音で目が覚めた。ノワールが寝返りを打ったのだ。床がきしみ、壁に立てかけてあった姿見が倒れて甲高い音を立てて割れた。姿見は、ガラスのテーブルを叩き割り、そこに置かれていたスマートフォンも壊れてしまった。

 闇の中、金色の双眸がぬっと私を見下ろしている。それはもう、愛玩動物のそれではなく、一個の巨大な捕食者の目だった。ゴロゴロゴロ、と鳴る喉の音は、もはや癒やしの振動ではなく、部屋そのものを揺るがす不気味な共鳴と化していた。壁には、かつては微笑ましく思えた爪研ぎの跡が、今や壁紙を剥がし、石膏ボードを抉るほどの深い傷となって無数に刻まれている。この防音が完璧な部屋では、私がどんなに叫ぼうと、この地鳴りが外に漏れることはないのだ。


 もはや、ノワールは玄関のドアを通り抜けることができなくなっていた。つまり、私もまた、この部屋から出る術を失ったのだ。備蓄していた食料は底を突き始め、私は日に日に痩せ衰えていった。対照的に、ノワールは飢えを訴えるように、低い唸り声を上げる時間が増えていく。その金色の瞳が、以前とは違う光を帯びて私を捉えている。そのことには、実は随分前から気付いていた。それは純粋な空腹の色だった。私が最後のクラッカーを口にするのを、ノワールは部屋の隅から、瞬きもせずにじっと見ていた。


 意識が朦朧とし始める。飢えと渇き、そして絶え間ない恐怖が、私の思考を麻痺させていた。部屋は黒い毛皮でほとんど埋め尽くされている。私は、その黒い山脈の麓で、ただ小さくうずくまるしかなかった。おもむろに、巨大な頭部が私の方へ向きを変えるのが分かった。空気の流れが変わり、濃い獣の呼気が私の髪を揺らす。見開かれた顎の内側は、暗い洞窟のようだった。その洞窟の奥から、低く、そしてどこか甘えるような響きを伴った、あの懐かしい喉の音が聞こえてきた。ゴロゴロ、ゴロゴロ……。

 視界は、黒に染められた。

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