第3話


 列車を降り、バスに揺られてさらに山あいへ。

 そこから歩いて実家へ向かう道すがら、藤森沙耶は深呼吸を繰り返していた。


 都会の空気とは違う。

 ここには、湿り気を帯びた澄んだ風がある。

 田んぼの稲が一斉に揺れる音が、耳にさやさやと心地よく届く。

 川のせせらぎが重なり、遠くの蝉が夏を告げる。


 胸の奥で固くなっていたものが、少しずつほぐれていくのを感じた。


(あの会社のことなんて、今は忘れていたい……)


 都会では疲弊しきっていた。

 念願だった「地方特産品プロジェクト」に参加できたのは確かに誇らしかった。

 だが、部長のセクハラやパワハラ、女同僚の陰口、元カレの裏切り。

 夢に繋がるはずの舞台が、気づけば心をすり減らす場所になっていた。


 無理を押して休暇を取り、「取材を兼ねた帰省」と報告したときの同僚の冷ややかな視線も思い出す。

 けれど、今ここではどうでもよかった。


 小道の先、桃畑が広がる。

 青々とした葉の間から、ほんのりと色づいた実が顔を覗かせる。

 甘い香りが風に混じり、鼻をくすぐった。


(やっぱり……この匂い。この風景。私の原点はここだ)


 学生の頃から夢だった。

 故郷であるこの水無瀬村で育った桃を、全国に知ってもらうこと。

 都会で学んだ広告の力で、故郷を輝かせること。

 その思いは今も胸に灯っている。


 けれど、心が壊れそうな今は夢を追うことより、ただ立ち止まって休みたかった。


 視界に、見慣れた瓦屋根の家が現れる。

 畑の緑に囲まれ、どっしりと構えた二階建て。

 縁側には麦茶の入ったガラスのポットが置かれているのが遠目にも見え、胸がじんわり熱くなる。


 汗ばんだ手のひらをスカートで拭いながら、沙耶は小さく呟いた。

 

「……帰ってきたんだなぁ」


 その声は蝉の声にかき消されたが、彼女の心の中では確かな安堵として響いていた。


 実家の玄関を開けた瞬間、土間に漂う懐かしい匂いが沙耶を包み込んだ。

 干した藁の匂い、木の柱に沁み込んだ年月の香り、そして台所からは味噌と野菜を煮込む湯気の匂いがふわりと漂ってくる。

 胸の奥がじんわりと温かくなり、都会で擦り減った神経が一気に解きほぐされるようだった。


「ただいまー!」


 そう声をかけながら居間へ向かう。

 畳の居間では父の正一が新聞を広げ、のんびりと足を伸ばしている。

 彼は顔を上げると、目を細めて笑った。

 

「おぉ!おかえり!沙耶が帰ってくると、家が一気に賑やかになるな」


 その声に、台所から母の美智子が顔を出す。

 エプロン姿で手を拭きながら、元気そうな娘の顔を確認すると、安心したように微笑んだ。

 

「ほら、座って。疲れた顔してるわよ。都会で頑張るのはいいけど、体はひとつしかないんだから。ちゃんと寝れてるの?」


 軽い小言混じりの言葉に、沙耶は思わず苦笑する。

 母の世話焼きは昔から変わらない。


 そこへ妹の杏奈が階段から駆け下りてきた。

 制服姿のまま、好奇心に満ちた瞳を輝かせている。

 

「ねぇねぇ、都会の会社ってさ、やっぱりドラマみたいにドロドロしてるの? 社内恋愛とか修羅場とかあったりする?」


「……杏奈、人の顔見て開口一番それ?」

 

「だって気になるじゃん! 姉ちゃんの顔、いかにも“色々ありました”って書いてあるし」


 沙耶は額を押さえ、深いため息をついた。

 

(確かに色々あったけど……ここでまで蒸し返されたくないんだけどなぁ)


 しかし、父は「まぁまぁ」と笑い、母は「はいはい、余計な詮索はやめなさい」と妹を軽く叱る。

 家族のやり取りが、柔らかい風のように沙耶を包み込んだ。


 昼下がり、家族そろって桃園へ出る。

 葉の間から実を一つ摘み、日差しで温まった果皮を掌に感じながら、沙耶はそっとかじった。果汁が唇を濡らし、甘さが口いっぱいに広がる。


(あぁ……やっぱり、この味。この匂い。この風。この土地で育ったものに勝るものはない)


 家族の笑い声、風に揺れる桃の枝、遠くで鳴く鳥の声。

 都会で失った「呼吸の余裕」が、ここで少しずつ戻っていく。


 夕方、少しだけ涼しくなった山道を一人で歩いていた。

 畑の手伝いを終え、汗を拭きつつ気分転換に散歩へ出たのだ。

 西日が木々の隙間から差し込み、道の石ころを長く照らす。

 川のせせらぎと、草むらで鳴く虫の声が耳に心地よい。


 沙耶は肩の力を抜き、深く息を吸い込んだ。

 湿った土の匂いと青葉の香りが鼻腔に満ちる。

 胸の奥まで浄化されるようで、思わず「ふぅ」と声が漏れる。


(会社のことも、嫌な人間関係も、今だけは忘れていい……ここにいると、時間の流れが優しい)


 そう思った矢先だった。


 ガサガサ、と茂みが不自然に揺れた。

 鳥でも飛び立ったのかと思ったが、それにしては音が重すぎる。

 葉擦れの合間に、低い「ドスッ」という地響きのような音も混じっていた。


「……熊? いや、イノシシ? それとも……まさかイタチ?」


 この音でイタチはない、と自分で突っ込みつつも、背筋がじわりと冷える。

 思わず道端の長い枝を拾い上げ、両手で構える。

 心臓が早鐘を打ち、額に薄く汗が滲む。


 しん、と静寂が訪れた。

 風が止まり、蝉の声すら途切れた気がする。


 その瞬間、低い風切り音がした。

 何かが近づいてくる。


 枝を握る手が強張る。

 視線を茂みに注ぐと、そこから影がぬっと姿を現した。


 茂みをかき分けて現れたその青年を見た瞬間、沙耶は息を呑んだ。


 現れたのは、背丈も体格も均整のとれた人間の男。

 しかし「人間」と呼ぶのがためらわれるほど、常識を逸した存在感だった。


 夕陽を浴びる黒髪が柔らかく揺れ、輪郭を曖昧に照らし出す。

 光が頬や額に反射するたび、まるで映画のワンシーンを切り取ったように見える。

 布を無造作に巻き付けただけの装いなのに、安っぽさや滑稽さは一切なく、逆に古代の彫像のような荘厳さすら漂っていた。


 ——とんでもない美男子。


 沙耶は心の中でそう断じるしかなかった。

 具体的にどこが、などと説明できない。

 顔立ちが整っているとか、目鼻がどうこうという問題ではない。

 そこに立っているだけで、視線が引き寄せられ、言葉を奪われる。

 見ていると、自分の理想とする“美”が勝手に形を取って目の前に現れたかのような錯覚に陥るのだ。


(……え、なにこれ。俳優? モデル? いや、そもそも人? なんで山の中に? ていうか服どうなってるのよ……!)


 頭の中で次々とツッコミが生まれるが、口に出す余裕はない。

 背筋には冷たいものが走り、足が地面に縫いつけられたように動かない。


 青年は沙耶をじっと見つめた。

 視線が合った瞬間、体温が一気に上がったように感じる。

 声を発する前から、ただその瞳に射抜かれるだけで心臓が強く跳ねた。


 やがて、彼は低く響く声で言葉を紡ぐ。

 

「……人間の女か。ひれ伏せ」


 その一言で、現実感が音を立てて崩れていく。

 上がった体温が下がり一気に落ち着いてくる。

 

(ひ、ひれ伏せ!? いやいやいや、そんなRPGみたいなセリフ、現実で聞いたの初めてなんですけど!? っていうか怖い怖い怖い!)


 沙耶の全身に鳥肌が立ち、握っていた枝が小刻みに震えた。

 美男子である以前に、彼の放つ気配が危険すぎる。

 理性より先に本能が警鐘を鳴らしていた。


 夕陽は赤々と沈みかけ、山道は不思議なほど静まり返っている。

 自然の音すら遠のき、世界には自分と、この「とんでもない美男子」しかいないように感じられた。


 背筋に冷たいものが走った。

 理屈ではなく、本能が告げる。

 これはただならぬ“ヤバい相手”だ、と。


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