第2話 俺は東京で一人暮らしがしたい(後編)

夕飯を終えて片づけが一段落したころ、時計の針はもう9時を回っていた。


新品の二人掛けソファに腰を下ろし、俺はようやく一息つく。

その隣には、当たり前みたいな顔をしてあかりがぴたりと寄り添ってきていた。


「……なぁ、ちょっと近くないか」


「えへへ、二人掛けなんだから、くっついたほうが癒されるでしょ?」


彼女はそう言って肩をすり寄せ、俺の腕に頭を乗せてくる。


浪人時代、予備校の寮で過ごした夜の寂しさが脳裏によみがえった。

あの頃は、人の温もりが恋しくて仕方なかった。

だからこそ今、この距離感は危険すぎる。


(年下の幼なじみなのに……なんで、こんなに安心感があるんだ)


心臓が、勝手に早鐘を打つ。

 俺は咄嗟に立ち上がった。


「……あー、ちょっとシャワー浴びてくるわ」


「うん。バスマット、敷いてあるからね」


にこっと笑って送り出す顔に、妙に胸を突かれる。


少し気持ちを落ち着けたくて、俺は浴室へと逃げ込んだ。


熱いシャワーを浴び、タオルで髪を拭きながらソファに戻る。

次はあかりの番だ。


「お兄ちゃん、ゆっくりどうぞって言ったのに、もう上がってきたんだ」


「い、いや……別に」


照れ隠しの返事をしていると、あかりはシャワーに向かった。





数十分後——。


「……お兄ちゃん」


声に振り向いた俺は、思わず息を呑んだ。

 そこに立っていたのは、湯気をまとったパジャマ姿のあかりだった。


長い黒髪がしっとり濡れて、肩から水滴を伝わせている。


胸を包む薄手のパジャマは、大きな胸を隠しきれず柔らかいラインを描き、ショートパンツからは白い太ももがあらわになっていた。


湯上がりでほんのり赤みを帯びた肌に滴る水滴が、照明を反射して艶やかにきらめく。


「……な、なんでそんな格好で出てくるんだよ!」


「あれ、お兄ちゃん。私の胸が大きくなったから、動揺してるの?」


「……そ、そんなんじゃねぇよ」


「ふふっ、お兄ちゃんの好みはリサーチ済みだよ」


タオルで髪を押さえながら、彼女は俺の隣に腰を下ろす。


ソファのクッションが沈み、肩が触れる。

湿った髪先が頬をかすめ、そのたびに甘い香りが鼻腔をくすぐった。


さっきまでの夕飯の匂いはもう消えて、今は彼女の香りだけが際立っている。

甘い、けど不思議と落ち着く匂い。


耳まで熱くなるのを、どうしても隠せなかった。


「……近いって」


「同じ家に住むんだもん。1年間も会えなくて寂しかったし。」


そう言ってさらに体を預けてくる。

柔らかい感触が腕に押し当てられ、思考が真っ白になる。


「お兄ちゃん……いい匂い」


「なっ……!」


耳元で囁かれ、背筋が震えた。

反射的に肩を引こうとしたが、彼女の小さな手が俺の手をぎゅっと掴んで離さない。


「逃げちゃだめ」


瞳を見上げてくる。

眼鏡をしていないせいか、昔よりも強く、真っ直ぐな光がそこに宿っていた。


「お兄ちゃんも“大人”になったけど、私も“大人”になったんだよ」


湯上がりで火照った頬と潤んだ瞳。


年下の妹のような幼なじみだったはずなのに、今の彼女は、全然違う存在感を放っていた。


俺は息を詰めたまま、何も返せなかった。


ソファの上で肩を寄せ合ったまま、時計の針は静かに進む。

リビングの柔らかい照明に照らされるあかりの横顔は、まるで俺の隣にいるのがあたりまえのように穏やかだった。


俺の「東京で一人暮らしをする」という計画は、初日から大きく揺らぎ始めていた。

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