第1章
第1話 俺は東京で一人暮らしがしたい(前編)
4月の東京は、思っていたより湿っていた。
桐谷蓮、19歳。一浪して大学合格して、やっと掴んだ「東京での一人暮らし」の切符を胸ポケットにしまい、指定された住所のマンション前に立つ。ガラス張りのエントランスの自動ドアが滑るように開いて、外気より少し冷たい空気が肌を撫でた。
(ここから、俺の“東京彼女計画”も、起業の準備も……全部始まる)
深呼吸してからオートロックを抜け、エレベーターの鏡に自分を映す。慣れないジャケット、慣れない髪型。
11階、ピッという到着音。白い長い廊下の突き当たり、1105号室。長女・佳奈姉ちゃんに送られてきた鍵をポケットから出す。
鍵を回した瞬間、ふわり、と甘くて懐かしい匂いが頬を撫でた。醤油、生姜、みりん——煮含める香り。胸のどこかがきゅっとなる。
そして、次の瞬間、もっと強烈なものが視界に飛び込んできた。
「おかえりなさい。ごはん作って待ってたよ」
リビングの照明がぽっと灯って、キッチンカウンターの向こうで誰かが手を振る。
白いエプロン。ふんわりしたクリーム色のニットに、膝下までのフレアスカート。
黒髪はつやつやで、腰のあたりまである長さを低い位置でゆるくまとめている。色は、雪みたいに白い。頬に薄く灯った桜色。そして大きな瞳。
「……えっと、ど、どなた?」
思わず敬語になってしまう俺を見て、その子は肩をすくめ、指でこめかみにフレームを作る仕草をしてみせた。
「お兄ちゃん」
それは中学の頃、何度も聞いた声の調子。
山谷屋佃煮店の前で、夏祭りの夕立から一緒に走って、濡れた前髪を笑い合った——。
「……あかり?」
「うん。山谷屋あかり。コンタクトに変えたからわからなかった?」
嬉しそうに微笑むと、長い睫毛が影を作った。
俺は、靴も脱がないまま固まる。
(いや、だって一年会ってない。眼鏡で、髪はもっと短くて……。けど、雰囲気が大人っぽい。なんでだ、なんでこんな……)
ようやく現実に戻って靴を脱ぐと、彼女がすっと近づいてきた。距離が近い。
至近距離で見ると、瞳に薄いハイライトが浮かんでいるみたいに潤んで見える。
肌は本当に白い。首筋から鎖骨にかけての線がきれいで、淡い香水じゃない、シャンプーの匂いがふわっとした。
「重いでしょ。荷物、こっち置いて」
自然に俺のキャリーの持ち手に手を添え、ひょいと引いてくれる。そのままリビングへ。足元を見ると、スリッパが2足、並んでいる。同じデザインで、色違い。グレーとミント。
(あれ、佳奈姉ちゃんがお客様用に準備してくれたのかな)
「お腹、空いてるでしょ? 座って。今日は、“おかえりセット”」
言われるままローテーブルの前に腰を下ろすと、カウンターの向こうから温かい料理が運ばれてきた。
クリームシチュー。炊き立てのご飯。サラダ。小鉢には艶のあるちりめん山椒。
「……この香り、やっぱり」
「うん、ちょっとだけね。地元の味、持ってきた」
そう言って彼女はローテーブルの対面じゃなくて、隣に座った。あかりとの距離が近い。肩が、軽く触れ合う。ぎゅっと胸が鳴った。
「はい、熱いから気をつけて。あ、はい、あーん」
「ちょ、ちょっと待って、自分の手で食べるから!」
「そっか、いつでもフーフーしてあげるのに」
くすっと笑うと、俺の手をそっと包んで、スプーンを持たせてくる。指先が手の甲をかすめて、体温がそこだけ上がる。
シチューを口に入れる。優しい塩気とミルクの甘さ。緊張で固まった胃がほどけていく。
横であかりも一口。ほっと息を吐く。
その息の近さを感じて、心拍がさらに一段上がった。
「……ところでさ」
「うん」
「なんで、あかりがここに?」
「私、お兄ちゃんと同じ大学に受かったの。だから一緒にいられるね!」
「一緒に? いや、意味が——」
シンプルに言い切られて、言葉をなくす。
……俺の一人暮らし。俺の東京彼女計画は?
「も、もう一回確認するけど、ここ、俺の部屋で、だよな?」
「うん。お兄ちゃんの部屋はそっちのドア。そして——」
彼女は立ち上がると、リビングの別のドアを一つ開けた。
白いカーテン、明るい光。ベッドの上に薄いピンクのカバー。化粧品の並んだ小さなドレッサー。
次に向かい側のドアを開ける。こちらはシンプルで、机とシングルベッド、真新しいデスクライト。
「こっちが私の部屋だよ。このおうちは2LDK」
口の中で繰り返す。2LDK=居室2部屋+リビングダイニング。
部屋探しは東京に詳しい佳奈姉ちゃんにお願いした。
混乱した俺は、思わずスマホを取り出した。
発信先は——長女・佳奈姉ちゃん。
『はい、佳奈お姉様ですよ。新しい生活、最高でしょ?』
「最高って何だよ。いきなり——なんで、2LDKを借りているんだよ!」
『あら、やっと気づいた? あかりちゃん、すごく良い子だから一緒に住めてよかったわね』
「俺は東京でやりたいことがあるんだ!」
『あかりちゃん、とっても可愛くなっていたでしょ。こんなにあなたをお世話したいっていう子、東京にはいないわよ』
「お世話って、俺は……!」
ぷつり、と通話が切れた。
俺は頭を抱え、視線をリビングへ戻す。
そこには、にこにこと俺を見つめるあかり。
1年ぶりに会ったあかりとの同居。
夢に見た東京での一人暮らしは、はるか遠くに消えていったのだった。
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山谷屋あかりのイメージを近況ページにて共有中です
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