関東 その2

 征南大将軍岑彭は、建義けんぎ大将軍朱祐しゅゆう執金吾しっきんご賈復かふく建威けんい大将軍耿弇こうえん、漢忠将軍王常、武威ぶい将軍郭守かくしゅ越騎えっき将軍劉宏りゅうこう、偏将軍劉嘉・耿植こうしょくの八将を率いて鄧奉を攻める。まず堵陽しゃよう董訢とうきんを撃つも、鄧奉は南陽の精鋭万余人で、董訢を救う。岑彭、これを攻めるも勝てぬ。一方、南西の淯陽いくようを攻めた朱祐は逆に敗れて生け捕られる。よって宛までの兵站へいたんも閉ざされたまま長期戦となる。劉秀、戦線が硬直したと見るや、岑彭にるいを固めさせて、賈復・耿弇を河南にかえす。

 太中大夫伏隆は、せい州・じょ州を撫循ぶじゅんし、郡国をまねくださせる。伏隆、至る所で檄を読み上げて曰く「先代、狡猾こうかつの臣王莽おうもう、帝を殺して位を盗む。宗室は挙兵し、国乱を除き王莽をちゅうし、軍はりゅう聖公せいこう擁立ようりつして以て宗廟そうびょうに主とならせる。しかるに劉聖公、賊臣を任用し、賢者良人を殺戮し、立てた三王は乱を起こして、盗賊は蔓延はびこり、天の心にたがえ逆らい遂に赤眉の害する所と為る。天佑てんゆうかんに至り、聖者哲人は期に応じ、陛下は神武しんぶもてふるい発し、寡兵かへいを以て衆兵を制す。故に王邑おうゆう王尋おうじんは百万の軍を以て昆陽こんようついえ散じ、王郎おうろうちょうの全軍を以て邯鄲かんたんに土の如く崩れ、大肜だいゆう高胡こうこは旗を立てるも消え去り、鉄脛てつけい五校ごこうは破れ終らざるは無し。梁王劉永、幸いに宗室の属籍ぞくせきを以てしゃくは王侯と為るも、足ることを知らずして、災禍さいか自棄じきを求めて遂にぼくしゅ封爵ほうしゃくし、詐称さしょうし反逆す。今、虎牙大将軍蓋巨卿の陣営十万は既に睢陽を落とし、劉永は遁走とんそうし家属は既に族滅ぞくめつされる。これ諸君の聞くところなり。先に自らはからざれば、後に悔やむといえど何ぞ及ばん」

 青州・徐州の群盗、これを聞いて恐荒し、獲索かくさくの賊のろう等の六将校、即時に降る。張歩、使いを遣って伏隆にしたがい漢宮に上書し、またあわびを献じさせる。


 関西からは劉秀に異変を告げる檄が届く。銅馬どうば青犢せいとく尤来ゆうらいの残党が、『しゅんじゅうけん』という図讖としんに基づいて、孫登そんとうという者を立て、じょう郡において天子と為した。上郡は北地ほくち安定あんていと供に三輔の北西に位置し、それ故に鄧禹が降して劉秀陣営に組み込んだ所である。劉秀、嘗て隗囂かいごう名代みょうだい馬員ばうんを元の上郡太守に還した。馬員は病を得て亡くなった。その矢先である。しかし、伝者は続けて言うに、孫登の将の楽玄がくげん、孫登を殺して、その衆五万余人を持って降ると。

 劉秀、事態に安堵あんどする。劉秀、将兵を貼りつけることになったが、鄧奉・劉永を釘付けとし、彭寵にも大きな動きがないと見定めていた。関西から伝者の報を受けて、一時は鄧禹に代えて自ら前線に立とうとするも、思い止まったことを幸いに思った。どんなに思慮しりょめぐらせど不意を突かれるだけは避けられず、ただ常に備えるのみ。


 劉秀、ついに大司徒鄧禹を召して還らせようと、ちょくして曰く「赤眉は穀無ければ、おのずから当に東に来るべし。兵を整え堅く守り、窮寇きゅうこうほうを交え無いようつつしむべし。老賊ろうぞくは疲弊し、必ず手をつかねる事に成ろう。ほうを以てを待ち、いつを以てろうを撃つ。吾は折れんばかりにむちをくれてやろう。諸将軍がうれえるには当たらず。またみだりに兵を進めること無かれ」

 劉秀、後の守りを行大司徒伏湛・大司農だいしのう李通りつうらに任せ、車駕しゃがに乗り、自ら大司馬だいしば呉漢ごかん驍騎ぎょうき将軍劉喜りゅうきらを率いて洛陽を出る。まず西の河南かなん県に到れば、ここに駐屯ちゅうとんさせた偏将軍馮異ふういいたる。皇帝劉秀、馮異に天子の七尺のぎょく剣をたまう。つまり皇帝代行の兵権を与え、大司徒鄧禹をもぎょするを許すということである。劉秀、馮異に勅して曰く「三輔は王莽と劉玄の乱にい、重ねるに赤眉と延岑のむごきを以てし、万民は塗炭に暮れ、って訴える所無し、このたび征伐せいばつ、必ずしも地を攻略し、城下をほふるには非ず。要はこれを平らげ定め、安んずるに在るのみ。諸将軍は健闘せざるに非ざるも、しかれども掠奪を好む。けいは本より良く吏士りしを御す。自ら修身し、郡県の苦しむ所と為ること無かれ」

 馮異、頓首とんしゅして命を受け、軍を率いて西行さいこうし、関都尉かんとい陰識いんしきの守っている函谷関かんこくかんを抜け、至る所全てに威信いしんく。弘農の群盗の将軍と称するもの十余、皆衆を率いて馮異に降った。


 一方、劉秀は南下し、賈復・耿弇の軍を収め、陸渾関りくこんかんに向う。赤眉は関中に入るに際し、河南に面した陸渾関と南陽に面した武関ぶかんから入った。劉秀、復漢ふっかん将軍鄧曄とうよう輔漢ほかん将軍于匡うきょうをその出自であるせき県、武関の東南に置いている。しかし、今、武関への道には延岑があれば、赤眉が関中から出るなら、おそらく陸渾関。陸渾関が閉ざされれば函谷関に向うしかない。函谷関も閉ざされれば、黄河を渡って河東郡の箕関きかんとなるが、徒歩かちの軍勢が黄河を渡るは至難、対岸の河東郡は劉秀が完全に掌握し、箕関も押さえている。となれば箕関へ赤眉本隊が行くことはまずない。

 劉秀の本軍、新城しんじょうに到れば、耿弇が南陽の鄧奉を討つために陸渾関を守るのを空けた隙に、外へ出ていた赤眉の前衛ぜんえいに出会う。賈復がこれを破り、そのまま陸渾関から弘農郡に入る。

 十二月、劉秀はいん麗華れいかを伴って親征する故、時には夕餉ゆうげにこれと語らう。いん貴人きじんは事あるごとに身に余る光栄と言い、このような寵愛ちょうあいを賜ってよろしいのでしょうかと問う。劉秀、きょ美人びじんはらんでいることへの嫌味でないのは分かっている。こういう女性にょしょうなのである。

 劉秀は西楚せいそ覇王はおう項籍こうせき美人を伴って戦線を動いたことを言い、これは天子の車駕であり、夫人を伴うも問題が無いことを告げる。城を持てば女子供は城に残すが、流浪るろうの軍なら女子供をも連れる。陰麗華、虞美人・項籍は戦場に消えたのを知る故に、可哀相かわいそうだと言う。

 劉秀、不味まずい例を引いたかと思うが、陰貴人の続ける言葉に目が丸くなる。陰貴人は虞美人・項籍、子を為さぬ故に今となってはまつってくれる子孫も無い、と言う。祖先を祭るために宗廟はあるが、子孫がなければ宗廟も無い。項籍・虞美人を祀る子孫無ければ、これらは祀られることは無い。

 劉秀、それを言えばと言いかけてまる。王莽によって、次々に高祖から分かれた王侯は廃絶された。彼らはまともに高祖や父祖の王侯を祀ることが出来ぬ。陰貴人が、陛下如何されましたと問えば、劉秀、にこりと笑って、麗華、礼を言うぞと答える。陰貴人、ただ首を傾げる。

 翌三十日戊午ぼご、皇帝劉秀、みことのりして曰く「かんがみるに、宗室の列侯、王莽の廃するところと為り、祖先の霊はる所無し。ちんはなはだこれをあわれむ。列侯れつこう並びに故国をふくせ。し、侯の身没したれば、その子孫の属する郡県は、その現在名を尚書に奉れ。封拝ほうはいしよう」

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