第36話

 翌朝、私は思ったよりも穏やかな気持ちで目覚めた。

 夢と現実のあいだに漂うまどろみの中で、強い幸福感が私を包み込んでいた。

 ――この世界が好きだ。

 ずっと望んでいたことが叶った感覚。ずっと探していた居場所がやっと見つかった感覚。

 ふわふわとした多幸感に身をゆだねながら目を開けると、現実の重みが少しずつ押し寄せてくる。

 

 ……いやいやいやいや、待て待て。


 昨日の夜の記憶が、じわじわと蘇ってくる。

 

「あああああーーー!!」


 思わず声になって漏れた。

 ――あれは夢かもしれない。私も相当酔っていたし。そう、夢だ!


「杏ちゃーん!起きたー?早番でしょ?早く準備しなよー?」

 キッチンから翔子さんの明るい声がした。


 私は重い身体を引きずって、ドアを開ける。


「おはよう……」


「ん?昨日飲みすぎた? てか隼くんに会った? あの子さ、杏のこと待ってたんだけど、実家のシャワー壊れたんだって。かわいそうだから、うちのシャワー貸したの〜」


「へ、へぇ……」


 翔子さんはコーヒーを淹れながら、私の顔をじっと見つめる。


「なに? 二日酔い? 顔色、悪くない?」


「……うん、ちょっと……」


 ――やっぱり夢じゃなかった。

 昨日、隼はここにいたのだ。


 酔っていたとはいえ、私はあんなことをベラベラ喋って、

 勝手に隼を“ゲイ”だと思い込んでたことがバレて、

 しかも──


 キスまでされた。

 告白までされた。


 もう、どう考えても今までの「幼馴染」には戻れない。


 私はコーヒーカップを両手で包みながらソファに腰を下ろした。

 震えているのは手ではなく、心のほうだった。


 ――――――――――――


 その日のバイト終わり。

 遅番で神とはっしが出勤してきた。


 スマホでシフトを確認すると、よりによって明日の遅番は私と隼と翔子さん。

 ……顔を合わせられる気がしない。


「ねえ、神……明日の遅番、代わってくれん? 翔子さんもおるし!」


「ん……?明日ならさっき隼から連絡あって、もう俺と代わることになったけど」


「あ!そう!じゃあいいや!!」


「ん?予定とか大丈夫なん?」


「あーうん、大丈夫大丈夫!」


「ふーん」神は目を細めて、意味ありげに笑った。


――――――――――――


 翌日。

 私は部屋でエントリーシートや作品のポートフォリオをまとめて過ごしていた。

 そろそろ14時、バイトの準備をしようと階下へ降りると――隼がいた。

 

「うわっ……」小さな声が勝手に漏れた。


 神とシフト代わったはずじゃ……。

 慌てて神にLINEを送る。


「隼とシフト変わってるよね?」


 すぐに既読がつき、返事が返ってきた。

「隼から全部聞いた!逃げるな、向き合え!」


 ……この野郎、最初から知ってて嘘をついたな。

 ていうか、隼は神に相談してたのか。


 ――万事休す。


 とんでもなく気まずい気持ちで、その日のバイトは幕を開けた。


 カウンターの奥で、翔子さんがカップを磨いている。

 BGMは小さな音量のジャズ。ガラス越しに街灯の光がぼんやり差し込んでいた。


 私はエプロンの紐を結びながら、隼の横顔を意識しすぎて、呼吸の仕方すらぎこちない。

 あの告白。キス。忘れられるはずがない。

 青さんのキスはもう記憶が薄いし、ドキドキもしなかった。

 でも隼のキスを思い出すと、胸の奥がきゅっと縮まってしまう。


 隼は何事もなかったような顔で、コーヒー豆を量っていた。


「……なんか、空気重くない?」

 翔子さんが笑い混じりに言った。

 ――きっと全部知っている。神から聞いたのかもしれない。


 隼は答えず、ただ静かにお湯を注ぐ。その横顔は普段の無邪気さとは違い、少し大人びて見えた。


 やがてお客が一人、また一人と帰っていき、閉店時間が近づく。

 翔子さんは「在庫確認してくるね」と奥へ下がった。


 カウンターに、私と隼だけが残る。


 沈黙が、痛いほど耳に残る。

 先に口を開いたのは隼だった。


「おとといは随分酔っ払っとったな」

 呆れたような、でもいつも通り優しい口ぶり。


「う、うん……ごめん。うるさかったよね……?」


 隼の手が一瞬止まる。

 そして、ゆっくりと私の方へ顔を向けた。


「……覚えとる?」


 低く落ち着いた声。

 心臓を握られるみたいに息が詰まった。


 答えられない。

 覚えてないと言えば、すべてをなかったことにできるのかもしれない。

 また幼馴染に戻れるのかもしれない。


「杏。俺、本気やから」


 静かなカフェに、その言葉だけが落ちた。

 照明の下で、隼の影が長く伸びる。

 どうしていいかわからず、私はただ指先でカウンターの木目をなぞった。


 「お前が覚えとらんのなら、もう一回伝える。……ずっとお前が好きやった。

 俺が好きなんは、はっしでも、この前お前が見た女でもない。杏だけや。ずっと昔から」


 まっすぐな黒い瞳。

 私は泣きそうで、目を逸らせなかった。


「キスなんてして悪かった。でも……お前は鈍感すぎて、ずっと伝わらんかったから」


「ごめん!!!」

 咄嗟に言葉が飛び出した。


「私は隼とは親友でいたいの! 幼馴染と恋愛はしたくない!」

 ――自分でも何を言っているかわからない。


 本当の気持ちは違うのに、そんな言葉しか出てこない。涙が止まらなかった。


 隼の顔が影を帯びていく。

 もう、親友にさえ戻れないと悟った。


「……じゃあさ。お前の気持ちが変わるまで待っとるから」

 隼は下を向き、寂しそうに呟いた。


「急がんよ。俺は。……十年も好きやったんやから」


 ――なんでこの人はこんなに優しくて、かっこいいんだろう。


 息を整えきれず、私は2階の自室へ逃げるように駆け上がった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る