第20話 封筒

 玄関の扉を開けて外に出れば、空気は澄んでいて、深呼吸すると胸の奥まで新鮮な風が入り込んだ。

 季節は移ろいを感じさせるものの、特別な色は帯びていない。日常の延長線上にある、普通の朝。


 隣の屋敷の門から、小鳥が姿を現す。

 制服のリボンを結び直しながら、明るく手を振ってきた。


 「おはよ、拓海」

 「おはよう、小鳥」


 二人並んで歩き始める。花音は生徒会の会議で既に学校へ。実月はきっと寝坊。執事が車で送っていくのだろう。


 「そういえば今日、英語の小テストあるんだよね」

 「……ああ、そうだったな」

 「ちゃんと勉強したんでしょう?顔に書いてあるよ」

 「バレてるな」


 小鳥がクスクス笑う。

 朝の光景は変わらないはずなのに、その笑顔を見ると普通の一日の始まりが特別に思えた。


 教室に入ると、いつものざわめきに包まれていた。けれど数週間前とは違う。小鳥の周りに自然と人が集まり、そこに明るい笑い声が生まれている。


 「小鳥、昨日のノート見せてもらっていい?」

 「うん、どうぞ」

 「ありがとう! やっぱり字がきれいだよね」


 クラスの女子達が話しかけ、その中心で小鳥は柔らかく受け答えをしていた。


 (よかったな、小鳥……)


 以前はどこか壁があって孤立しかけていた。それが今は、彼女の笑顔を慕って集まる友人がいる。

 拓海は席からその様子を眺め、静かに胸をなでおろした。


 昼休みになると、やはり小鳥は拓海の机に歩み寄ってきた。


 「拓海、一緒に食べよう?」

 「友達と食べないのか?」

 「うん。やっぱり拓海とも食べたいから」


 言葉の端に迷いはなく、素直な笑顔があった。拓海は照れくささを隠しながら弁当を広げた。周囲の視線が少し気になったが、小鳥の笑顔を前にするとそれもどうでもよくなる。


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 放課後、図書室へ向かう途中、拓海は何気なく生徒会室の前を通りかかった。

扉の隙間からは、紙をめくる音やペンの走る音がかすかに漏れてくる。立ち止まり、中の様子を覗き込んだ。


 長机の上には書類の束やノートパソコンが所狭しと並べられ、役員たちが真剣な顔で作業に取り組んでいる。その中心に座るのは花音だった。彼女はいつものように姿勢を正し、資料を一枚一枚確認していた。


 「ここの入力、項目を増やした方がいいかもしれません」

 副会長が声をかけると花音はすぐに手を止めた。


 「気づいてくれてありがとう。訂正をお願い。項目内容は任せていい?」

 「……はい!任せてください」


 その返事は、どこか誇らしげで、自信を持っているように聞こえた。


 「会長、この部分、説明文が少し堅いかもしれません」

 書記がそう問いかけると、花音は嬉しそうにに目を瞬かせた。以前なら花音が自分で考えて即決していたところだ。


「貴女ならどうする?」

花音が問いかける。

「えっと……例えば、こういう表現にすれば生徒たちも読みやすいかなって思います」

「いいわね、それ。じゃあ、その方向でまとめてみてくれる?」

「……はい!」


 彼女の声には緊張と同時に、小さな誇らしさがにじんでいた。


 かつての生徒会室には「花音に任せれば安心」という空気が漂っていた。それは一見、彼女への信頼の表れのように思えたが、実際は依存に近いものだった。

 役員たちは指示を待つばかりで、主体性を持とうとしなかった。


 けれど今は違う。以前よりもずっと多様で力強い。意見が交わされるたびに、部屋の空気が少しずつ明るくなっていく。


 花音と生徒会役員たちとの距離は一気に縮まった気がする。


「……本当に、変わったな」

 扉の外からその様子を見ていた拓海は、心の中で呟いた。花音が変わったからこそ、周りも変わった。いや、周りが変わろうとしたからこそ、花音も肩の力を抜けるようになったのかもしれない。


 ――花音だけの生徒会じゃない。みんなの生徒会になったんだ。


 拓海の胸に、じんわりとした安堵が広がった。



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 その日の夕食は久々に三姉妹と拓海、四人揃っての食卓だった。最近まで生徒会の業務で遅くなりがちだった花音も帰宅している。


 「今日も早かったね、花音お姉ちゃん」

 「生徒会の皆が頼もしくて助かってるの」


 テーブルには色鮮やかな料理が並び、会話が途切れることはなかった。小鳥は学校での友人との出来事を、花音は生徒会の進展を、実月は絵画の新しい挑戦を、楽しげに語った。


 夕食を終え、食器の片づけの音が静かに響くころだった。


「実月お嬢様、こちらが本日お屋敷に届いております」

執事が実月に一通の封筒を差し出した。


『インターナショナル・ユースアート協会(IYAA)』


 実月は封筒を両手で受け取り、中を開いた。厚手の便箋には、洗練された字体でこう記されていた。


 ―― ――「あなたの自由で生き生きとした筆致は、これからの若い世代を代表するにふさわしい。我々が主催する『アンダー18アートセレクション』に、ぜひ出品していただきたい」


 読み進めるうちに、実月の頬は紅潮し、胸の鼓動が高鳴っていくのが分かった。

 「……すごい。本当に私に?」


 彼女の声は震えていた。インターナショナル・ユースアート協会は日本だけではなく世界的規模の芸術団体だ。そこから指名を受けるのはとても名誉なことなのだろう。


 花音は驚きながらも誇らしげに微笑み、小鳥は椅子から飛び上がるようにして実月の肩を抱いた。

 「やったね実月! 本当にすごいよ!」


 拓海も、心からの言葉を絞り出した。

 「……実月の絵は、見る人の心を動かすから。選ばれるのも当然だと思う」


 実月は恥ずかしそうに笑いながらも、便箋を胸に抱きしめる。その無邪気な姿に、三姉妹も拓海も、同じ笑顔を浮かべていた。


 これから実月の物語が始まる。拓海は心の奥でそう確信していた。

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