追放された公爵令嬢が眼鏡をくいっとしたら世界が変わった件

国府宮清音

追放された公爵令嬢が眼鏡をくいっとしたら世界が変わった件

「あなたは、悪役令嬢なの」


 その言葉が、ずっと耳を離れない。

 あの雨の日に言われてから、ずっと私の心を蝕んでいる。

 寝ても覚めても、繰り返し、繰り返し聞こえる。

 その言葉はまるで、勝ち誇った嘲笑のようで、罪人の頭上へと石を投げつけるかのごとく私に降り注ぐ。


 何も言い返せなかった。

 彼女の書いたシナリオ通りに演じた私は、さぞかし一流の女優だったのだろう。きっと、笑いが止まらなかったに違いない。

 筋書きがあるとは知らず、自らの意思で、崇高な義務感に駆られたつもりで動いてしまった。

 殿下の過ちを正すために、婚約者の私こそが動くべきだと、使命感の下、私は彼女の指揮通りに踊ったのだ。

 

 なんて滑稽。

 なんて愚か。

 これほど間抜けで愚かな話は、どんな書物にも記されていないだろう。


 悔しさ、怒り、憎しみ、苦しみ、悲しみ。

 たくさんの感情が、よってたかって私を打ちのめす。

 誰もが遠巻きに、にやにやと嘲笑っているように見ている。

「もっとやれ、いい気味だ、ざまあみろ」

 そんな言葉が聞こえてくるようだった。


 耳を塞いでも聞こえてくる。

 周りには誰もいないのに、はっきりと聞こえてくる。

 大きな声だったり、ささやき声だったり。

 男性だったり、女性だったり。

 大人だったり、老人だったり。


 みんなが私を責める。

 私のせいで、国が滅びるのだと。

 愚かにも他国の謀略に乗せられた、哀れな悪役令嬢。

 王子や平民の娘を正すため、という名の酒は、よき酔いをもたらしてくれたか?


 彼女がいつしか目の前にいた。

 完全なる勝者の顔だ。惨めな敗北者を、冷酷に見下ろしていた。

 にぃ、と三日月形に広がった口元が、ひどく恐ろしかった。

「本当にありがとう。セリーヌ・ド・ラヴェル様。あなたのおかげよ」

 私は、一生感謝され、苛まれるのだろう。


 でも、それは仕方がない。

 どんなに取り繕っても、変わりようのない事実なのだから。

 この先、国は滅びるだろう。

 全て私の責任だ。

 私の傲慢さが国を傾けたのだ。

 その日が来るのを恐れながら、これからの日々を過ごす。

 公爵邸の奥、光も届かぬ狭い部屋に閉じ込められ、私は一生を震えながら過ごすのだ。



◆◆◆



 わあっ、と歓声が起こった。

 何の騒ぎかと馬車の窓から外を見ると、農具を持つ手を止め、笑顔でこちらに手を振る老婆がいた。

 小さな子どもが泥だらけの手を振り上げて馬車に並走し、道端の花を抱える若い娘がぱっと笑顔を咲かせた。

 驚いたことに、その全てが私に向けられたものだった。


「ふぅ……」

 ため息を漏らして浮かせた腰を下ろす。

 彼らは、知らないのだ。

 私が、王都でどんな風に笑われ、どんな風に蔑まれ、どんな風にすべてを失ったのか。

 この人たちは知らないのだ。

 私が、どんな失敗をしてしまったのかを。


 知ればきっと、嘲笑する。

 馬鹿な悪役令嬢だと、後ろ指をさす。

 私は、どこに行っても安らぐことはない。

 一生、針の筵だ。


 馬車がゆっくりと止まり、扉がノックされた。

「到着いたしました」

 扉が開くと、従者の向こうに大きな屋敷が見えた。王都の公爵邸と同じくらい、いや、それ以上の壮麗な屋敷だった。美しく、輝いている。

 昔は、それが誇らしくて、今はそれが眩しかった。

 荘厳な門扉の前でずらりと人が並び、私の方を向いている。恐怖を感じて、ごくりと生唾を飲む。

 彼らがどんな顔をしているのか、距離があって判別できない。どうせ、分かったところで悲しくなるだけだろう。


 侍女が私の荷物を持とうとするのに気が付き、急いで旅行鞄を手に取った。

 従者が差し出そうとした手にも気づかぬふりをして、俯いたまま馬車を降りた。

 顔を上げると、ひとりの老僕が扉前の列から離れ、こちらに近付いてきた。

 近付くにつれ、顔つきがはっきりする。私よりも頭ふたつ分は大きく、がっしりとした体つき。ああ、我が家の家令、ガスパールだ。見覚えがある。年を取ってもやたらにごつく、厳しい顔つきは変わっていない。皺が増えた程度だ。


「長旅お疲れ様でございます。十年ほどぶりですかな。大きくなられた」

 私は八歳までこの地で暮らし、その後は王都で過ごしているので、彼の言う通り十年ぶりだ。

 笑顔で差し出されるガスパールの手に、思わず身構えてしまう。

 改めて確認して、それが手だと認識し、思わず安堵のため息が漏れた。


「ナイフでも見えましたかな?」

 彼は明るい笑い声で場を和ませようとしたのだろう。だが、私はどきりとして、背筋が凍りついた。

 なぜなら、それは本当だったから。

 本当に、彼がナイフを持ち、私を突き刺そうとしているように見えたのだ。

 一歩、後ずさる。

 なぜ、分かったのだろう。先ほどの光景は幻ではなかったのか。でなければ、彼がナイフという言葉を口にするはずがない。

 怖い……。やはり、ここでも怖い。


「お嬢様」

 背後の従者が声を上げた。

「しばし、お時間を頂戴したく」

 彼らも、一体何をしようというのか。拒否できるはずもない。ただ、恐怖が私を縛り付けた。

 恐る恐る頷く。


「お嬢様。我々一同は、お嬢様の旅立ちに随行できて、光栄に思っております」

 従者が深く礼をするのを合図に、馬車の前に並んでいた侍女や御者、護衛の騎士が一斉に礼をした。

「なにを……」

 なんのつもりだろう。この都落ちに付き従うことが光栄? 意味が分からない。これは、遠回しの嫌味だろうか?

「この旅は必ず、お嬢様の栄光の始まりとなります」

 何を言っているのか。

 まさか、お父様が私を元気づけようとして、こんな芝居を打たせたのだろうか。


 だとしたら、逆効果だ。

 こんな嘘を、大袈裟に、わざとらしく言うなんて。演技が下手すぎる。

 誰が信じるものか。国を傾け、追放された私が、栄光などと。

 この旅は始まりなんかじゃなくて、終わりだ。別れ際にこんな嫌味を言い残して去るなんてひどすぎる。

 ただ後ろ指を指すだけでなく、本当に私を刺しに来るなんて。


 従者は続ける。

「今はまだ、我々の言葉がお嬢様には届かないかも知れません。ですが、届いたときこそが、その時こそ本当の、お嬢様の栄光の始まりとなるでしょう」

「まだそんなことを……」

 充分届いている。彼らがその裏側に秘めた、冷たい意味も。

「その時が早く来ることを、お嬢様の心が少しでも早く、報われ、癒やされることを我らは祈って止みません」

 侍従を始め、ついてきた者たちが合わせて深く、頭を下げる。そんな日など、来るわけがないのに。

「そんな日など」

「来ますとも」

 ガスパールが口を挟んできた。妙に息が合っている。二人は示し合わせているのだろうか。どちらにせよ無駄なことだけれど。


 どちらを見ても、笑顔であふれていた。逆にそれが恐ろしかった。

 笑顔は、彼らが私を嘲笑うための、たった一種類の表情でしかない。王都の人々と同じように。

 それは、私が一生甘んじて受け入れるべき罪なのかもしれない。だが、新たな場所で、再び同じ屈辱を味わうのは、さすがに耐え難かった。

 すれ違う人々は皆、私の心に鋭い刃を突き立ててくるようだった。


「我々が引き上げて見せましょう。どのような奈落の底からでも、必ずやお嬢様を見つけ出し、日の当たる場所へと引き上げてみせましょう。」

「結構です」

 自信に満ちたその言葉に、私は無表情を装って否定した。そんなものは必要ない。

「……左様で」

 少しの間はあったが、ガスパールの表情は変わらないままだった。私に何をさせたいのか。

「私に、関わらないでください……迷惑です」

 その瞬間、空気が凍りついた。ああ、また、言ってはいけないことを言ってしまった。

 思わず下を向いてしまう。


 自分でも分かっている。

 でも、痛いのだ。

 突き立てられるナイフが痛すぎて、初めから寄ってこられないようにするのは、悪い事だろうか。

 新たな傷をこれ以上増やしたくないと願うのは、そんなに悪いことなのだろうか。

 強いつもりでいたけれど、私は弱い。これ以上刺されると、壊れてしまう。


 でも私は壊れたくない。

 例え世界中から厭われたとしても、壊れたくはない。

 だから、自ら人を避ける。

 もう、何もしないからそっとしておいて欲しい。


「これは困りましたな。お嬢様には、日の当たる場所を歩んでいただきたいのですが」

「日陰で結構です」

「いやいや。お嬢様におかれましては、みなを照らす太陽になっていただきたいのです。ご覧になりましたか、街道の民を。みながお嬢様を歓迎しておりました」

「それは、誰も、私がやってしまったことを知らないからです。知れば、みな、怒りの目を向けます。嘲笑します」

「それはどうでしょうなぁ……少なくとも我々は、存じております」

「え……」

 知ってなお、こんな対応をしているのか。やはり笑顔は一種類なのだ。


「もう……やめてください。これ以上私を、鞭打たないでください」

 下を向き、絞り出すように声を出す。最後はかすれてしまった。本当にこれ以上は無理だ。

「お嬢様……」

「どうか、屋敷の隅にでも捨て置いてください。お願いですから……」

 私を“お嬢様”と呼ぶのなら、せめてこれくらいは叶えて欲しい。それくらいは赦されると考えても、傲慢ではないはずだ。

 それすら傲慢だというならもう、私は本当に、立っていられない。


「お嬢様」

 ふと、優しく、包み込むような声が耳に滑り込んできた。顔を上げると、いかめしい顔ではなく、穏やかな顔があった。

「お部屋に参りましょうか。お望みの部屋がご用意できるまで、少しご不便をおかけしますが」

 垂れた目が記憶にあった。十年前と変わらぬ穏やかな笑顔を向けられ、ふと彼女の名前が脳裏に浮かんだ。

「確か、ブランシュだったわね」

「まぁ、覚えていて下さったのですね。ありがとうございます」


 灰色がかった青い瞳に喜びの色が宿った。彼女は柔らかな笑みを浮かべ、自然に私の鞄を手に取る。そこまで重くはないが、軽々と持ち上げたことに、私は驚きを隠せなかった。

 驚いている間に、先に進み、こちらを振り返る。長く伸ばされ、腰のあたりでゆるくひとつにまとめられたアッシュブロンドの髪が、ふわりと揺れる。微かに良い香りが漂ってきそうな、清潔感に満ちた女性だった。

「ご案内します。さぁ、どうぞ」

「あ、はい」

 油断していたつもりはないけれど……。

 私の物は誰にも触らせるつもりはなかったのに、やすやすと持って行かれてしまったことを驚きながら、私は後に続いた。



◆◆◆



 私に宛がわれた部屋は、子どもがひとり、走り回ってもまだ余裕があるほどの広さだった。

 もちろん私は抗議したが、新しい部屋を準備するまでとそのままそこに押し込められてしまった。

 緑を基調とした部屋だった。

 壁紙も、カーテンも、椅子やソファの布地部分にテーブルクロス。濃淡や模様の違いはあるものの、そのほとんどが緑色で統一されていた。

 そしてそこに混じる、茶色系統が使われた布団と化粧台に、木製の床。


「森……?」

 木々に囲まれ、足元は土。

 金糸の縁取りは、差し込む木漏れ日か。

 こんな配色は見たことがない。

 王都の公爵邸や殿下のお部屋では、赤や白、金や銀といった色がよく使われていたはずだ。珍しいと思ったのは青一色の部屋くらいか……。

 どちらにせよ、緑色主体の部屋は見たことがなかったように思うし、広すぎるので、私にとっては居心地が悪い。


「狭い部屋でいいの。ベッドと、テーブルと椅子があればいいわ」

「ガスパール様とも相談しているのですが、お屋敷には狭い部屋がなくて……」

 当然のことだった。広大な領地を統べる公爵家なのだから、広い敷地に広い屋敷。部屋も広くなる。

 では物置か使用人の住居を、と提案しても、やはり断られるのは目に見えている。

 結局私は、この分不相応の部屋を使うしかないのだ。

 嵌められた気分だったが、嵌められたことにもう、何も考えられなくなった。ただの事実として、そう思うだけだった。


 にこにこと笑みを浮かべるブランシュは、やはり、してやったりと思っているのだろう。

 門前で抵抗した私を、うまく部屋まで招き入れたとでもいう達成感で、笑顔なのだろうか。

 そうでなければ、いつもあんな風に笑顔でいられるはずがない。

 それとも侍女たちを指導する立場だからだろうか。実務に当たっていれば、忙しさで、眉をひそめることも多いはずだ。

 私のお付きなどをしているから、楽なのだろう。私は、この部屋から出ることはないし、彼女にリクエストすることも日に数えるほどだから、余裕があるのだろう。

 余裕があるからこそ、わざわざ真面目ぶった表情でいるのもつまらないと、嘲笑っているのだろう。


 笑っているのは、彼女だけではない。ときおり彼女に裁可を求める侍女や、家令のガスパール、使用人など、誰もが私に笑顔を投げかけ、色々な話をしてくる。

 そのほとんどは雑談に分類できるものであり、私の興味を引くものではなかった。

 私は、ブランシュやガスパールに何度も伝えた。別に、使用人たちと話したいわけではない。私が素っ気ない態度を取って、それを恨みに思われても困るから、話しかけないように徹底してほしいとまで伝えたのだ。

 それでも、彼らは変わらず私に今日の天気やら料理の出来具合などをにやにやと笑いながら話し、私に意見を求めてきた。

 まるで試すように。

 最初こそ真面目に答えていたが、すぐに嫌になった。どんな風に評価されているか、分かったものではないからだ。

 陰で「あんなことを言っていた、こんなことを言っていた」「見識が浅い」などと、あれやこれや言われているのだと思うと、一言たりとも返したくなかった。


 だから、口を開かず、頷くか、首を傾げるだけにした。

 すると今度は、麦の出来具合や商人がどこから来てどこへ行くのかなどを、まるで新聞を読み聞かせるかのようにひとりで喋り、立ち去っていった。

「南の国では麦が高く売れるそうです。今年は豊作ですので、商人がこぞって南に向かっていると聞きます。では、また」

 こんな感じだ。私を試さないのか? もう試す必要がなくなったのか? それとも、他に評価基準があるのだろうか?

 それとも、単に話したいだけだったのか?

 でも、そこまでして話す必要などない。そこまでされる価値など、私にはないのだ。


 今度は、話すら聞かなくなった。会いたくないと言ってもブランシュが通してしまうのなら、私は熱心に読書をしているふりをして、誰の言葉も耳に入らないと装った。

 さすがにこれは効果があった。

 部屋を訪ねる人の数が著しく減った。

 一日に十人以上だったのが、五人以下になった。

 一人、二人の日もあった。

 食事を運ぶ従者やシーツを整える侍女も、私のしかめ面にこちらを見ようともしなくなった。

 これでいい。これでようやく、私に安穏な日々が訪れるはずだ。


 しばらくした頃、ブランシュが残念そうに呟いた。

「最近は、誰も来なくなりましたねぇ」

「……私が、静かに暮らしたいと思っているのを知ってくれたのね。ありがたいわ」

 白々しい、と内心思いながらも、私はその言葉に乗ってしまった。今から思えば、どうして答えてしまったのか、不思議でならない。

 私も、心のどこかで、本当に残念に思っていたのだろうか。

 あれだけ一人にしてくれと願っていたのに。

 これ以上刺さないでと懇願していたのに。


 得たりとばかりにブランシュが懐から取り出したのは、ひとつの眼鏡だった。

 大きくて、分厚いレンズの眼鏡。まさか、と私は息を呑んだ。

「これを、かけてください」

「ええ……」

 目が悪いのは私自身、知っている。実は目を細めないと扉の側に立つブランシュの顔もよく見えない。

 だけど、これはこれでちょうどよいと思っていた。くっきり見えて、いいことなんてないのだ。

 

 とはいえ、にじり寄るブランシュから逃げ回るのも限界がある。

 しぶしぶ受け取り、かけてみた。

「あら……」

 不思議なことに、二人の声が重なる。

 私は、世界の明るさに。ブランシュは、知らない。あまり知りたくない雰囲気がそこにあった。

 胸の前で両手を組み、こちらをきらきらと見つめている。森の中で、偶然にも食べられるキノコを見付けたときのような、そんな喜びが全身から溢れていた。

 普段からこんな顔もしていたのだろうか。私が見えなかっただけで。だとすると、いつも笑っているわけではなかったのか。もしかすると深刻な顔もしていたのかもしれない。

 私は、望んでいたこととはいえ、見えていなかった。

 見えていなかったのに、そう、思い込んでいた、のか……。


「お嬢様」

 キョロキョロする私に、ブランシュが三歩ほど離れた場所まで近付いてきた。

「な、なに?」

 私が、こうして後ずさるからだったのかな、と思った。そういえばブランシュは少なくとも彼女の手が届く範囲に私を入れなかった。

 柔和な表情で私を見守っていたのだと。もしかするとずっと。

 もちろん、彼女に尋ねても否定するのだろう。これから確かめていけばいい。


「少し、お屋敷の中を歩きませんか?」

「え、どうして?」

「こちらへお越しになってから、ずっと部屋に籠もりきりではありませんか。お嬢様はこのお屋敷の主人です。主人として、お屋敷の者たちに時折お顔を見せるべきではないでしょうか」

 この屋敷の主人は私ではなく、お父様だ。でも、お父様から多くの権限を頂いているので、仮の主人とは言えるだろう。

 本当はそんな権限なんて欲しくなかった。だって、こんな風に言われると断れないから。

 でも、お父様は、こういう時のために、私に権限をくれたように思う。何か行動するための、正当な理由が持てるようにと。


「ブランシュが先導してくれるなら……」

 照れ臭さで、少し声が小さくなったけれど、彼女は喜んで承知してくれた。

「と、その前に」

 髪を整えましょうと彼女が言った。朝、起きてから寝室付きの侍女が髪をとかしてくれたきりだ。さすがに、屋敷内であっても部屋の外へ出るなら、多少なりとも身だしなみを整えるべきだろう。

 化粧台へと私を促し、ブランシュが後ろに回る。身の回りをする役目ではないが、わざわざ専用の侍女を呼ぶことなく、彼女が櫛を手にした。

 手慣れているな、と思った。彼女は寝室付きの経験があるのだろうか。

「相変わらず、お美しい御髪です」

 とても丁寧に私の髪を扱いながら、柔らかな笑みを浮かべる。

「そう? よく分からないわ」

「太陽の下で、すくすくと元気に伸びるタンポポのようです」

「タンポポ……」


 ちょっと、庶民的だなと思った。私は、ブランシュがそう言いたいのであればそれで構わないけれど、公爵令嬢に対して使う比喩としては、あまり適当ではないようにも思えた。

「タンポポは、強さの証。どれだけ厳しい環境であっても、深く根を伸ばし、可憐な花を咲かせます」

「っ!」

「どんな逆境でも、最後には必ず花が咲くのです。幸せが約束されているのですよ」

 そういう……こと。不適切な例えではなく、配慮の現れであり、優しさの表現だった。本心がどうであれ、その言葉は自分にとって意味のあるものだった。

「ありがとう……」

「いえいえ。さ、できましたよ。ひとつにまとめてみました」

 いわゆるシニョンの形は、首筋を覆うものがなくなり、この季節にはありがたい。歩くだけでも涼やかだろう。

 うきうきとしてくるのが、自分でも分かった。


 とはいえ、部屋から出るには少し足りなかったのか、足が重かった。

 ブランシュの後に続こうとしたのだが、部屋の扉をくぐろうとすると、どうにも足が前に出ない。

 視界ははっきりしている。前を遮るものはなにもない。躓くものもない。

 なのに、足が重い。足全体が石になってしまったような、引き摺るのも力が必要だった。

 そして私は情けないことに運動不足でそんな重いものを引き摺れない。


「ブランシュ……」

 眉を寄せ、呼ぶ。扉の内側で泣きそうな私を見て、ブランシュは初めてと言っていいほどに距離を詰め、私の目の前へ立った。

「さ。お手をどうぞ」

 にこりとして、私に手のひらを向ける。

「あ、うん……え?」

 驚いた。糸で操られたのかと思った。動かそうと思う間もなく、勝手に右手が動き、四本の指をブランシュの手のひらに掛けたのだ。

 あれほど、誰にも触れられたくないと思っていたのに。まるで、当然のことのように彼女に手を預けてしまったのだ。


「ほう。そんな年相応のお顔も実に愛らしいですね。これからもぜひ、そのような表情をたくさん見せていただけると、嬉しいのですが」

 私の手を引きながら彼女は笑った。少し強く引かれ、たたらを踏んだところを彼女に抱き留められる。私にはないふくよかな柔らかさに顔を埋め、ふぅ、と長い息をついた。

「あらあら。セリーヌ様は甘えん坊さんですね」

「……そうみたい。もう少しこのままでもいい?」

「もちろん。存分にどうぞ」


 いつ以来だろう。こんな落ち着いた気分になったのは。

 思えば、誰かに抱きしめられた覚えがない。

 たぶん、だが幼い頃、ここで過ごしていたときによく抱っこをしてくれる侍女がいたような気はする。

 記憶にある母は病床にあり、抱きしめられることはなかったはずだ。

 母を亡くした私は、その時点で自分の両足だけで立たねばならないと思った。


「ねぇ、ブランシュ」

「はい」

「母様のお部屋って……」

「いま、お嬢様がご利用中のお部屋ですよ」

「そう……」

 私は、ブランシュの胸の中で、小さく「ありがとう」と呟いた。


 公爵邸は、思った以上に広く、長かった。全て回っていると半日くらいかかるんじゃないかって思うのは、私が運動不足だからだろうか。

 少しぷよっとしたお腹には見ないふりをして、ゆっくりと歩く。別に床が抜けることを心配しているわけではない――そこまでいってしまったわけではない、名誉のために言っておく――。ただ、誰かに会うのがまだ少し、怖かったからだ。

 誰かに会って、蔑むような顔を向けられたら。嘲笑されたら。

 これほどはっきりとした視界で、それを認めてしまえば、もう目が悪い、ではごまかせない。れっきとした事実として、私が、私の家の使用人たちにも、そう思われているのだと認めなければならない。そうなるのが怖かった。


「大丈夫ですよ。きっと」

 ブランシュはそう言ってくれるが、信じられない。ブランシュが信じられないのではなく、彼女が信じる他の人々を、私が信じられなかった。

 人が変わるのに時間はいらない。

 ここの人たちは、私がどんな大失敗をしてここに来たのか知っていると聞いた。それでも身構えないというのは、嘘ではないだろうか。

 だって私は国賊なのだから。

 どれだけブランシュが否定しようと、それは事実だから。そこは認めなければならないと思う。


 誰にも会わず、最初に向かったのは、お父様の執務室。そこでは、家令のガスパールがお父様の代わりに領地の決裁をしている。

「おお……」

 ブランシュが扉を開け、招き入れられた私を見てガスパールは驚きで腰を浮かせた。

「ようこそ、執務室へ。まずはお部屋から出られたこと、心よりお喜び申し上げます」

 私は、どう答えていいか分からず、ぎこちない笑みを浮かべて頷いた。部屋を出られただけなのに、どうして喜ばしいのだろう。

「今まで、お部屋から出られなかったのです。その安全な場所より外に踏み出せた。これほど嬉しいことはございませんよ」

 今夜はご馳走だと、ブランシュと顔を見合わせて頷きあっていた。よく分からない。


「お嬢様はよく分かっているはずですよ」

 首を捻っていると、ブランシュが笑いかけてきた。これまでできなかったことができたのは、大人であっても子どもであっても、喜ばしいことだ、と。

 そうであるなら、きっとそうなのだろう。私はそれまで、私にあてがわれた部屋から一歩も出なかった。出ようなんて思わなかったけれど、たぶん、出ようとしたところで、きっと出られなかっただろう。

 それは、外が怖かったから。また誰かに何かを言われ、思われるかもしれないと考えていたから。

 その、怖いと思っていた外に出られたのだから、確かに喜ぶべきことなのかも知れない。

「でも、ブランシュがいないとまだ無理だと思うけれど」

 一人で歩くのはまだ無理だと思った。足がすくむだろう。ブランシュがいてくれるから、ひとまず安心して歩けるのだ。


「それでよいと思います。時間はいくらでもあるのですから。どうぞ、ゆるりと」

 公爵領に急かす人はいない。ガスパールは断言した。急かす者がいれば、討ち取るとまで。これは……過保護、というやつだろうか?

 隣を見ると、ブランシュも力強く頷いてた。この屋敷、大丈夫かしら。

 でも、この屋敷で力を持つであろう二人が率先してくれた態度をとってくれているのは、たぶん私のためだ。本当にありがたい。


「しかし、その眼鏡」

「あっ……おかしいでしょうか」

 似合わないのだとしたら、それは私が悪いせいで眼鏡のせいじゃない。

 ブランシュからもらったものを、悪くは言われたくないなと思ったけれど、彼の表情を見るにどうやらそうではなさそうだった。細められた目には、優しさが灯る。

「奥様も眼鏡をされていました……よくお似合いです」

「母様、ですか」

 四十代で早世した母様は、眼鏡を掛けていたらしい。あまりはっきりと容姿を思い出せないけれど、そう言われるとそんな気もする。

 物心ついた時にはすでに病床にあったので、ほとんど会えなかったのだ。


「覚えがなくて当然ですので、お気になさらず」

 気を遣わせてしまった。何か、母様を思い出せる肖像画などがあれば。あとでブランシュに聞いてみよう。

「ガスパールさんは奥様がお好きですもんね」

「三十年近くお仕えしたからな。そりゃあ、ひいきにもなる。お前だってそうだろう」

「いまはセリーヌ様ひとすじですよ」

 ぽんぽんと言葉が行き交う。実に良い関係なのだと思った。

 私には、こういう関係の人がいない。うらやましいなと思う。これからできるだろうか。そんな関係。


「さ、こんなおじいちゃんは放っておいて、次に行きましょう」

「はっはっは。それがよろしい。年寄りはここで書類と仲良くしておりますゆえ、またお顔を見せにいらしてください」

「ありがとうございます……次は、母様のお話など、聞かせていただければ」

「もちろんです」


 老いてますます盛んなガスパールに見送られ、私たちは屋敷の探検を再開する。

 ちらほらと、侍女や従者の姿が見える。私の姿を認めた彼らは一様にぽかんと口を開け、その後に続くように、楽しそうに話し始めた。

 それはまるで堰を切ったように激しくて、私は何度もその勢いに押され、流されそうになった。しかし、そのたびにブランシュが助けてくれた。

 彼らの嬉しいという気持ちが、溢れて洪水になっているようだった。私を責める言葉など、流れてくる物の中にはひとつもない。

 それがとても解る。皆が笑顔だった。

 待ちわびた人がやっと目の前に現れてくれた。そんな気持ちが強く表れていて、それはきっと、すごく嬉しいのだ。だから、がぶり寄ってひたすら話し続けるのだ。

 彼らの喜びの元が私だというのは面映ゆく、こんな私が、本当に彼らの喜びでいいのだろうかと少し不安だった。


 料理人は、今夜は豪勢な料理を作ると言ってくれた。

 出入りの商人は、町の人に知らせると飛び出していった。

 礼拝堂の僧侶は、私を前にして跪き、祈った。

 馬丁は、危うく放馬させるところだった。

 庭師は、花束をくれた。

 みんな、喜んでくれた。涙を流してくれた人もいた。


 好意を向けられるのは嬉しいけれど、戸惑ってしまう。

 自分が、好意を向けられて良いような人間ではないというのはもちろん前提にある。しかし、それよりなにより、彼らは私が冷たく接した相手ではないか。

「怒ってないのかな?」

 普通なら、あんな素っ気ない態度を取ったら怒るはずだ。謝れと掴みかかられてもおかしくはない。それくらいのことをした自覚は、私にもあった。

 だけど、ブランシュはあっさりと否定した。


「怒らないですよ」

「どうして?」

「眼鏡の女の子を嫌いな人なんていませんから」

「ちょっ」

 思わず吹き出しそうになった。私を気遣って、なんて面白いことを言う人だろう。

「それはまぁ置いておきまして」

「置くのね」

 もしかして、気遣いじゃなくて本気……?


「みな、お嬢様とお話がしたかったからです」

「お話……」

 そこが分からないのだ。結局、元に戻ってしまうが私は、国を傾ける原因を作った罪人なのだ。

 殿下の婚約者でありながら、人柄に問題ありと婚約を破棄されたような人間なのだ。

 そんな人間を愛するのは、おかしい。


 ブランシュは少し考えた後、えいと小さく声を出し、私を優しく抱き寄せた。

 ほのかに、石鹸の香りがする。この心の汚れを、きれいさっぱり洗い流してくれたらいいのに。ぼんやりとそう思った。

「私たちは、別の考えを持っております」

「……別?」

 イサベルに良いように操られたことに、別の解釈があるというのか?


「お嬢様は、正しいことをなさいました」

「えっ、でも」

 何を言い出すかと思えば。正しくなかったからこそ、私は婚約破棄され、王都を去る目に遭っているのだ。

「結果的にはそうなりましたが、婚約者を正すのは、婚約者の役目ですよ」

「それは……そうだけど」

「この前提を利用されて、責める方がおかしいのです」

「んん……」


「何度でも言います。お嬢様は、正しいことをなさいました。これが、事実です」

「いいのかな」

「いいんです」

「でも」

「いいんです」

「泣いても?」

「どうぞどうぞ」

「どうぞ」なんだ。なんて。私はそのまま、ブランシュの胸に顔を埋めた。


「大きな声を出してもいいですよ。誰も、笑う人はいません」

 私の頭を撫でながら、優しく囁くように。

 たくさんの感情が溶けてゆく。溶けて、安堵という名の川に注ぎ込み、涙となって外に出た。

 私を苛む幻聴は、もう聞こえない。

 ブランシュが、ガスパールが、討ち取ってくれたのだ。

 きれいさっぱり、洗い流してくれたのだ。

 私は思いきり泣いた。

 でも、許してくれるのでしょう?

 もし誰かに怒られたら、それは全部、ブランシュのせいだから。



◆◆◆



 ガスパールから相談を受けた。

 この町から少し離れたところにある村で、盗難事件が多発しているらしい。村共有の種子袋が、少しずつ減っているという。

 村では自警団が組織され、見回りを行っているものの、未だ犯人は見つからず、犯行も断続的に続いているという。

 村長は解決を半ば諦め、解決を領主に申し出たらしい。

 お父様に報告するまでもない一件だ。ガスパールが差配すべき問題だった。


「……これを私に見せて、どうしろと?」

 眼鏡をくい、と押し上げ、詳細が書かれた紙を机に戻した。この場で意見を述べるなら、永続的な見回りの強化が良さそうに思える。

「それが妥当とは思いますが、それでは村人に負担となります」

 村人が輪番で夜回りを行えば、翌日、誰がその当番の代わりに畑仕事をするのか。

 人を雇うとなれば、どれほどの出費になるのか。村の支出として、果たして収入と釣り合うのか。

 公爵家から兵を出すとなれば、その余裕はあるのだろうか。警備兵も無限にいるわけではないのだ。


「解決いただきたいと言うわけではなく、そのアイデア、切っ掛けを何かいただければと」

「アイデア、ねぇ……」

 夜回りをした者の畑くらい、村全体で手伝ってやればいいと思うのだが、それぞれのやり方があるから、迂闊に口出しできないらしい。

 かといって村なのだから、そんなに裕福ではないだろう。支出を増やすのは危険だ。

 我が家から警備兵を出すのが、やはり一番良策だろうか。しかし、色々と問題も出てきそうだ。


 例えば、兵士の人柄。真面目だったり優しかったら良いのだけど、そんな者ばかりではない場合、村人とのトラブルを起こさないか。

 さらに言えば、村人はある程度、兵士に便宜を図るだろうから、それが村の負担になりかねない。

 また、村への赴任が左遷など、懲罰的な意味、あるいは閑職的な意味を持つようになる可能性もある。


 色々と懸念すべきことが多く、考えるのが億劫になった。ならばいっそのこと、さっさと解決してしまった方が良いのではないか?

「あー……」

 そこで、気付いた。彼が私を招いた理由を。

「だから私に相談、なのですね?」

 単なる世間話や昔話を聞かせるためでもなければ、眼鏡をかけた私を見たいわけでもない。

「さすがはお嬢様でございます」

 ガスパールはその通りと頭を下げた。


「人は、たくさんいるでしょうに」

 なぜ、私でなければならないのだろう。

 この事件は、実際に現地へ赴き、数日寝ずの番をすれば解決する問題のように思える。

 それができる人物は彼の配下にいくらでもいるはずだ。そこから適当に選んで派遣すれば良いだけなのに、わざわざ主の娘である私を指名する狙いが分からなかった。

「もしかして、他国の陰謀の可能性がある? だとしたら私には荷が重いわ」

 色々な意味で。

 能力にも自信がないし、心情的にも、これ以上“他国の陰謀”には関わりたくなかった。


 しかし、ガスパールは慌ててそれを否定した。犯人次第ではあるものの、少なくとも現時点でそのような気配は感じられない。本当に、好きにして良い案件だと。

「なら、それを私がする意味は?」

「ちょっとしたピクニックを楽しんでいただこうかと。ずっと部屋に閉じこもっていては、体が鈍りましょう」

「……戻ったら、種明かししてね?」

 何としてでも私にやらせたい、という彼の強い意志を感じた。

 本を読んだり、ブランシュと話したりするだけの毎日だ。何もしていないことへの罪悪感も募っていたため、タイミングを見計らったガスパールの提案に乗ることにした。


 馬車でゆっくり三日ほどかけて、その村に到着した。

 公爵領は王国の中でも大きな領地を誇っているが、当然、こんな小さな村も存在する。

 人口はおよそ五十人ほど。そのほとんどが小麦を栽培して生計を立てており、残りは畜産や商売に従事していた。

 専門的な警備人はおらず、村の出入り口を守る者もいない。当然、倉庫にも誰もいない。鍵がかかっているだけだった。

 村全体を囲む柵も人の腰くらいの高さだ。


「この辺は野生動物もこないのね」

 周囲を見回しながら呟く。山も少し遠く、見渡す限り平原が広がっていた。一方では黄金色に波打つ麦畑が、今か今かと収穫の時を待ちわびている。野生動物がいるならその対策として畑を柵で囲んだり、村や畑の柵は高いものになるだろう。

「平和そうな村ですねぇ」

 ブランシュが頬に手を当て、私と同じようにきょろきょろする。犯罪など、しようという考え自体、生まれそうにもないほどにのどかな村だった。


「オリヴィエ」

 私は、隣に控える物静な騎士の名を呼んだ。

「は」

 そのまま、沈黙が訪れる。慣れていないだけなのだろうか。彼はこの道中、ずっとこうだった。

 問いかければ、騎士に似合わぬほどしっかりとした答えが返ってくるので、嫌われてはいないのだろうが、もう少し愛想よくしてもいいのではないかと思った。

 この騎士も、私の遠い記憶の中に存在していた。ガスパールとブランシュ、そしてオリヴィエ。

 具体的なエピソードを記憶しているわけではないが、この三人は特に信頼して良い人物だと、過去の私が教えている。


「今晩からの方針なのだけれど」

「はっ」

「騎士が四人だから、二人組にして、交互に夜番をすればいいかしら」

「よろしいかと」

「オリヴィエも二日に一度でいいわよ」

「いえ、私は毎晩出ます」

 指揮を執る者がいない日を作るのはまずい、と彼は言う。だが、そんなことありえない。なぜなら、私が毎晩出るからだ。

「お嬢様?!」

 ブランシュが血相を変えたが、オリヴィエは冷静だった。むしろ、そうすべきであると力説し、ブランシュに詰め寄られていた。

 むずがゆくて、嬉しかった。

 ブランシュは、私のことを心配してくれている。夜間の行動は危険が多いこと、美容に影響することなど、私から危険を遠ざけようと、傷つけまいと、必死になっているのだ。

 ここ数日で私の心をすっかり溶かしてしまったブランシュだから、その言葉を疑いはしない。だが、素直に受け取って良いものか迷ってしまう。

 私は、賞賛を受けたことはあるけれど、心配を受けたことがない。だから、どのように受け取れば良いのか、分からなかった。

 やり直しは、手探りだ。

「ブランシュ。ありがとう。でも、私が決めたことだから」

「お嬢様……」

「いざとなれば、オリヴィエが守ってくれるから平気よ」

「このペテン師が、ですか?」

「ペテン師……」

 彼を嫌っているのではなく、気の置けない相手とのじゃれ合いなのだ。そう、出発前に彼女がガスパールとやり合っていたのと同じことをオリヴィエともやっているのだ。

 本当に、羨ましい。私は、二人をまぶしく思う。


「お嬢様も」

「?」

 不意にこちらを向いたブランシュが私の手を引いた。

「お嬢様も一緒に、この口先男を退治しましょう」

「えぇ……」

「ほう……劣勢を跳ね返してこそ騎士というもの。受けて立つ」

「オリヴィエまで……」

 何やら唐突に始まる、低レベルな言い争い。四人の下級騎士たちは、驚きと慌てで混乱していたが、オリヴィエに一喝されて無理やり納得させられた。なんなら、オリヴィエの補佐を手伝わされた挙げ句、一気に私たちは不利な状況に追い込まれた。

 なんてひどい話だ。


 しかし、これはこれで楽しい時間だった。

 気が付けば胸のうちにあったもやもやが、すっかり打ち払われ、空が晴れ渡るように、心が軽くなった。

 もやもやした気持ちは、いずれまた湧いてくるのかもしれないけれど、こうして下らない話をしていると、案外これからもやっていけそうな気がする。

 そんな風に、考えてもいいのだろうか、と私は思った。


「……決まりですな」

 ウェーブがかった漆黒の髪をかきあげ、オリヴィエが勝利宣言をする。

 結局、私は報告を待つ身となった。あれ?

 責任者とはいえ、些事にまで首を突っ込む必要はないこと、最終的に解決したという実績は私のものになるのだから、犯人捕縛の名誉くらいは部下にくれてやってほしいと言われ、それもそうかと納得してしまったのが敗北宣言だった。

「あれ? オリヴィエは最初、私と一緒の意見だったような……」

「戦況は刻一刻と変わるもの。今日と明日では、陣地の場所が変わることもございます」

「はぁ……」

「ようございました。これで、お嬢様のお肌は守られました!」

 ブランシュは心の底から笑顔を見せ、私を抱きしめる。私は、彼女の胸の間で窒息しそうになりながら、まぁいいかと思った。

 念のために言うが、窒息することが、ではない。


 そして、犯人か捕縛されたのは三日後の夜だった。

 予想通り、犯人は容易く捕まった。

 村長から中央広場を借り受け、午後から裁判を行う。

 話を聞くと、麦の収穫までに食料をつい、食べ尽くしてしまった迂闊な男だった。


「呆れてものが言えないわ……」

「村で一番だらしがない男なのです」

 申し訳なさそうに村長が言う。

 畑仕事は真面目にする。しかし、農閑期にやらかしてしまう。ならば。

「労役を与え、対価としてその日の食料を与えるのはどうでしょう」

 やることがないとろくでもないことをするのであれば、やることを与えてやれば良い。

「そんなに働きたくないべよ……」

「こりゃ、なんちゅうことを言うんじゃ」

 犯人の頭を村長がコツンとやった。でもなるほど、確かに。ならば。


 私は、眼鏡をくい、と押し上げて言った。

「あなたの麦畑を私が買い取るわ。あなたは別の仕事をしなさい」

「そんなひどい」

 犯人の男はすぐさま不満を述べた。麦畑を取り上げられてしまって、こんな村で何をすればいいのか。

 仕事など、この村にはないと彼が泣きそうになる。側にいる村長も、周囲で遠巻きにしている村人も頷いていた。

 私は、首を横に振った。

「この村は、あまりにも不用心です。せめて門番だけでも置きなさい。そしてそれを、彼の仕事に」

「しかしそれでは……」

 村長が言い淀む。それはそうだろう。彼の給料をどこから出せば良いのか。村には余分な支出をする余裕はないのだ。なんて、私に直接言えるはずがないだろう。

 だから、私はひとつの提案をする。

「私が買い上げる麦畑。これを貴方たちに預けます。委託料を支払いますから、それを彼への給金として下さい」

「っ!」

 力技ではあるが、これなら私以外のお財布は痛まないから、誰もが受け入れられる、はずだ。

 一部渋っている者もいたけれど、皆、頷いてくれた。



「まぁまぁ、といったところですな」

 領都に帰った私は、執務室でガスパールからそんな評価を受けた。発想は良かったが、資財を投じることになったので、まぁまぁだと。

 私は、思わずどうすればよかったかを尋ねてしまった。個人的には、わりと良い判断を下したと思っていたのだ。

「私めでしたら、彼の麦畑を村の物にしましたな。収穫物に少し色を付けて、公爵家で買い取る。そうすればお嬢様の懐は痛みませんでした」

「それはちょっと申し訳ないというか……」

 家の財布を使うのはちょっと図々しくないかしらと首を捻ると、ガスパールが雷のように大きな声で笑った。

「高潔なのはよいことですが、それではあちこちから吸い取られて、干からびてしまいますぞ?」


 ちなみに、今回の依頼は、私を政治的な舞台に上がらせるためのものだった。

 どうせそんなところだろうとは思っていたけれど、これで私は公的な場所にデビューを果たしたことになる。

 責任を取るために、いつかはこの場所に上がらなければならなかったから、その手法は問わないでおこう。


「予算は限られておりますゆえ、こちらが出すべきか否かの判断力や、どれだけ出すか、いかに相手に出させるかの交渉力が必要なのです」

「むぅ……」

 いきなり目の前にとてつもなく高い壁が現れたようだった。どれだけ角度を変えて見上げても、てっぺんは雲の上だ。

「なにごとも経験でございますよ。お嬢様なら、容易いことでございます」

 そんなものだろうか。先だっての件だって、“まぁまぁ”だった私が、うまくやれるようになるのだろうか。

「私めがおります。オリヴィエの見識も、お役に立ちましょう」


「私も、及ばずながらお支えいたします」

 ブランシュが優雅に一礼する。

「あれ……?」

 私は、ブランシュの礼に見覚えがあった。

 上から糸で引っ張られているのではと思うほどにぴんと伸びた背筋。前側の足をやや深めに曲げるところなど、脚の筋力がすごいと、見るたびに感心した覚えがあった。



 ばあっ、と、遠い日の景色が脳裏に広がった。

 晴れた日。少し肌寒い、朝だ。

 この屋敷の門を背にして、中年の執事と、青年の騎士、若い侍女が並んでいる。

 彼らは、目の前に立つ一人の少女を見送るために並んでいるのだ。


 優しく、温かな空気がゆっくりと流れていた。

 彼らは、心からこの少女を愛しているのだろう。泣きじゃくる少女を、今すぐ抱きしめて、慰めてやりたい。語らずとも、彼らの表情が雄弁に語っていた。

「行きたくっ、ない……よぉ」

 少女が、私が、最後の抵抗を試みる。

 彼らが私を大事に思ってくれているのだから、翻意してくれないか。好きだと言うのなら、ここにとどめ置くようお父様に頼んで欲しい。

 解っている。叶わぬ願いと知りながらも、それでも奇跡を願った。それほどまでに、この地は慣れ親しんだ、離れがたい土地だったのだ。

 お母様の記憶や、彼らとの楽しい思い出を残してこの地を離れるなんて、嫌だ。

 いつここに帰ってこれるかも分からない。この記憶を、この思い出を忘れてしまうのではないかと、ひどく恐ろしかった。


 嫌だという気持ちを押し通せない自分が、あまりにも無力で、悲しかった。

 お母様が亡くなったときも、私は何もできなかった。

「お時間でございます……」

 気の毒そうな顔をして、私の背後から声を掛ける侍従だってお父様の言いなりだし、目の前に並ぶ私の大好きな人たちもお父様に逆らって私を助けることができないのだ。

 どうあっても、私は言うことを聞かなければならない。かくあれと言われたら、そうあるしかないのだ。

 ああ……私は、無力だ。

 

 こうして私は、王都に呼ばれ、王太子妃として相応しい人物になれと言われたから、そうあるべくひたすら研鑽を積んだ。

 そして、王子たる姿を見せられない彼を、正さねばならないと思った。

 そうでないと、私が惨めだから。

 彼は思い通りに生きているのに、私はどうして許されないのか。

 夫婦となるのだから、せめて私と同じところまで降りてきなさいよ、と。


 なんと醜い心なのだろう。

「王子としてあるべき姿を取り戻してもらうためよ」

 それは、義務感などではなかった。

 ドロドロとした、真っ黒な感情を用いて義務感という鎧を創り出し、私の本性を覆い隠していたのだ。


 

 つつ、と、一筋の涙が頬を伝った。

 私は、眼鏡を外して涙を拭った。

「あらあら」

 ブランシュがまた、頭を抱いてくれた。じわりと、また涙が溢れてきた。

 そうだ。小さい頃も、私が泣いていたらこうやって抱きしめてくれたものだ。様々な遊びにも付き合ってくれた。私にとって彼女は、母であり、姉であったのだ。

「役得ですな」

「そりゃあ、もちろん。ガスパール様がされては、変態様と言われましょう」

「まさに」

 楽しそうに笑うガスパールは、私にとってさしずめ祖父のような存在だった。


「別に構いませんけど?」

 ブランシュの胸から顔を上げ、ガスパールに微笑みかける。涙はほとんど乾いていた。

 昔から、抱きしめて背中をポンポンと叩くだけで私をすぐに泣き止ませるのだから、彼女はきっと、魔法使いなのだろう。

「ほぅ、許可をいただきましたぞ」

 楽しそうに声を上げ、どうだと言わんばかりにブランシュを見ると、彼女は口を“への字”にしていた。


「ですがまぁ」

 とガスパールは実務机から私を見る。優しくも、厳しさがひとつまみ混じった目だった。完全な肯定はしない、と彼の目が語っていた。

「そういう役目は、ブランシュひとりで充分でしょう」

「もちろんです」

 まるで本当の家族のようだった。皆がしっかりと役割を自覚し、私を盛り立てようとしているのだ。

 この場にはいないオリヴィエは、兄かな。少し離れた場所から私を見守ってくれている。そこからは、私に迫る悪意や、あるいは善意までもが、よく見えることだろう。


 こうして私は、政治の表舞台へと立つことになり、彼らの助けを得ながら、この公爵領を治めていくことになったのだ。



◆◆◆



 ……お父様に許可を得ずに領地を治めていたけれど、本当に良かったのだろうか? という疑問は、すぐに解決した。

 ガスパールたちに尋ねても、良いのです、としか言わなかったが、お父様が王都から帰っていらしたのだ。

 お出迎えをして共に執務室に入った私が、お父様に執務机の椅子を勧めたところ、座るようにと促されたのは私の方だった。


 お父様は慣れた様子で応接用のソファに腰掛け、ガスパールが淹れた紅茶を受け取ると、その香りを楽しまれた。

 どうしよう。私は、椅子の前で立ち尽くしてしまった。座れと言われたものの、素直に従って良いのだろうか。父娘とはいえ、現公爵であるお父様を前に、失礼にあたるのではないか。

 例えばお父様に隠し子がいて、その子に跡を継がせたいと思っているとしたら、格好の理由にされてしまうのではないだろうか。


 頭の中を、そんなおかしな考えがぐるぐると巡った。

 考えすぎだと分かっているのに、頭から離れない。どうしたら良いのか分からない。困惑した。

 すると、横から柔らかな声がかかる。

「お座りにならないのですか?」

 やはり、ブランシュは魔法使いだ。いとも容易く私を動かす。私のためのティーセットを机に置きながら、優しく私を促した。


「あ、そ、そうね……良いのかしら?」

「そこはお嬢様の席ですよ」

「あ、うん」

 悩んでいたのが馬鹿らしくなって、私は素直に椅子に腰掛けた。

 お父様とガスパールは、微笑ましそうに私を見ていた。試されていたのだろうか?


「セリーヌ」

 ひと息ついたところで、お父様は私の名前を呼んだ。そういえば自分の名前を誰かに呼ばれるのは、久しぶりかもしれない。

 ここでは皆が私のことを“お嬢様”と呼ぶ。目上の者を名前で呼ぶのは、失礼にあたるからだ。

 私は、目上ではないけれど、一応、雇用主であるという判断なのだろう。

「はい」

 何やら複雑な気分だった。私を名前と呼ぶひとは、みんな、怖かった。

「私の留守をよく守ってくれた」


 おそらく私は、目を丸くしていたことだろう。私には、守っていた、などという感覚はなかった。ガスパールから押し付けら……いや、頼まれたことをこなしていたにすぎないのだ。

 それが結果的に領地を守ることに繋がったのなら、そうなのかもしれない。だが、やはり私は、領地を守った多くの者の中の一人だと思っている。領地経営に関わった皆の功績だ。

 だがお父様は、その代表が私なのだから、私が守ったことになると仰った。

 統治者とはそういうものであり、しかし私が今、抱いているその気持ちもまた大切なものなので、忘れないようにと教えてくださった。

「部下を正しく評価し、厚く報いてください。そうすることで部下は主に尽くすのです」

 オリヴィエの言葉に、私は深く頷いた。知らないことばかりだった。


「馬鹿どもがな、火遊びを始めおった」

 お父様は、言葉通り苦虫を噛み潰したような顔で、吐き捨てるように仰った。これほどまでに嫌悪感を示すなど、一体何が起こったのだろう。

 王都の屋敷に仕える者たちを多く引き連れ、荷物も大量に持ち帰った。まるで引っ越しでもするかのようだった。

「引っ越しは間違いではない。そのつもりだ」

「えっ……ですが、王都はどうなさるのですか?」

「どうもきな臭い。王子が、平民にたぶらかされて迷惑を振りまいておる。やはりお前は正しかった」

 自然と体が硬直した。今はまだ聞きたくない名前が出てきた。


 王都を中心として、麦がよく売れているらしい。王子の進言により、国庫からも麦を売っているという。

 麦を売却した金で、色々と手を広げているようだ。

 そういえばこちらでも、麦が高く売れると聞いたことがある。

「備蓄用の麦を売るのは、亡国の兆しです」

 斜め後ろに控えているオリヴィエが、静かに呟いた。


 市場から麦が姿を消し、パンが高騰した。それこそ、かつて三つ買えていた値段で一つしか買えなくなったらしい。

 救済の名目で、王子が国庫から麦を放出したのだ。国民は深く感謝しているという。

「ここで災害が起きればどうなるでしょう。不作だったり、出来が悪かったりすれば?」

「みんなが飢えてしまうわね……」

 背筋が寒くなった。王家ですら、食料に困窮することとなるだろう。

「他国から見れば、戦を仕掛ける好機だな」

「っ!」

 もしかして。

 イサベルを派遣した隣国が、ついに動くのだろうか。

 ついに……。


 胸の奥がざわめいた。これまでにない感覚だった。

 遠くで、何かが燃え始めるような気配を感じる。こことは離れた北の方では反乱が起きたと聞いた。

 私はそっと、自分の手を握りしめた。

 この手で、果たしてどれだけ守れるのだろうか。


 それでも。

 皆がいれば頑張れる。

 きっと、やっていける。

 必ず責任を果たす。そして、皆を守るのだ。

 私は、眼鏡を押し上げ、外を見た。

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追放された公爵令嬢が眼鏡をくいっとしたら世界が変わった件 国府宮清音 @kohnomiya

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