ユメハミ

ユメハミ

 警視庁・特別相談室。上層部からのやっかみにあった新入りが編入させられる部署であり、他所から回ってきた書類整理などが主な業務である。だが、半年前に時幸村での集団失踪事件を解決したとして、警察内外問わず注目を集め始めていた。とはいっても、彼らの待遇に何かしらの改善がなされるわけではない。これまでの書類整理という業務のほかに、他所の警察が解決する気もない面倒事を押し付けられるようになっただけである。


「……それで、私どもへの依頼というのは?」


 彼は坂本一輝。先月の時幸村集団失踪事件解決の立役者の一人だ。彼がその事件を解決に導いた所以は、上層部が彼を嫌う理由の一つである『情熱』だった。彼らが毛嫌いするものこそが警察に求められているものとは、何とも皮肉なものだろう。


「……あなた方にはとある病院を調査してもらいたいんです。私の娘を救うために」


 そう話すのは40歳ほどの男性だ。今は十二月、真冬である。しかし、彼の額には汗が光っていた。


「理由を説明してもらえませんか?我々は何でも屋ではなく警察です。罪の疑惑がないものを調べることはできません」


 坂本がそう言うと、依頼人の男は悲痛な顔で話し始めた。


「……一週間前、娘はとある病気にかかりました。といっても、特に大層なものではなくて。ただのマイコプラズマ肺炎だったんです。咳が止まらず、夢福病院に連れていくとそう診断されました。そこまで重症化していなかったはずなのですが、なぜか入院が必要ということになり、いきなりその日のうちに入院させられてしまいまして。一か月ほど入院する必要があると言いだしたので、娘の着替えを用意して持っていったんです。でも、なぜか着替えの受け取りを拒否されたんです。感染する可能性を考えて面会謝絶というのはまだわかりますが、着替えすら受け取りを拒否されたんです。どうにもおかしいじゃないですか。そしてその三日後、急にその病院から連絡がありまして、『完治したから迎えに来てください』と。迎えに行くと、娘は寝ていました。咳をする様子もなく、熱があるわけでもなさそうなので、ひとまずは完治したという彼らの言葉を信じていたのですが。……なぜか娘の目が覚めないんです。退院してからもう四日目になりますが、一向に起きる気配がありません。病院に問い合わせても知らぬ存ぜぬと話にならず……。どうか助けていただけませんか?」


「……これは我々の仕事ではありません。病院側の業務上過失として民事裁判を起こしてください」


 坂本は冷たく突き放す。だが、彼の言うとおりなのだ。確かに病院には何か法的に怪しそうな部分はある。だからと言ってみだりに立ち入り調べ上げると言ったことはできないのだ。もっとはっきりした証拠が必要になる。それがない場合、警察はまともに動けないのだ。坂本の目の前にいる男は坂本のこの物言いすら予想していたようだった。


「……却下されたんです。今朝、裁判所に申込をしに行ったのですが、三十分もしないうちに却下されました。……理由は教えてくれませんでした。もう頼れる人はいないんです。どうか、お願いします」


 坂本はため息を我慢し、頭を抱えた。あの一件以降、捜査行為を超越した話がどんどんと流れ込んでくる。その大抵はその場で突き返して終わりなのだが、これはそうもいかなかった。何故なら二人のお節介焼きが隣の部屋にいたからだ。


「先輩、この仕事受けましょうよ。この人と娘さんがかわいそうじゃないですか」


 山崎凛。坂本の一個下の後輩であり、極度の人見知りのせいで上司に嫌われ、特別相談室に左遷。ただ、彼女自身は捜査二課よりもこの警視庁の端に作られた特別相談室の方が居心地がいいようだ。


「そうだぞ、坂本。それに、警察の職務倫理を忘れたか?」


 今、坂本に対し小言を言い始めたのは松本智康。鑑識課の最年長として、後輩たちを導いていた。しかし、年齢と時幸村事件での監督責任を理由に一線を退き、今ではお茶くみ係兼、ご意見番として特別相談室に居座っている。


「……すいません、あの二人と少し相談してきますので少々お待ちください」


 坂本はそう言って席を立ち、二人がいる資料室へと向かった。そして、開口一番。


「二人とも、余計なことは言わないでって言いましたよね?」


「何?あの助言が無駄とでも?」


「ええ。……今回の問題は正直手に負えません。捜査らしき行為ができないんです」


「監査はどうです?」


「あれは行政が行う定期的なものだ。警察がいきなり乗り込めば怪しがられるし、最悪門前払いを受けたのち上層部に報告されるだろう。そして、俺たちはクビだろうな」


「坂本、お前どうしてそんなにその病院に詳しいんだ?」


「いえ。その病院は名前も知りませんよ。ただ、三十分で訴えをなかったことにできるのなら、それほどの力を持っていたとしても不思議ではないです」


 もはや八方ふさがりだった。いかなる手段を取ろうとしたところで、相手がいるということ自体が最も行動を不可能にしている行為だった。前回はただの失踪事件から始まったおかげで捜査に不自然な点はなかった。だが、今回は違う。警察が介入すべき点はないのだ。確かに、娘が目を覚まさないというのは困るだろう。だが、それが一体何の罪に当たるのか。医療行為にミスがあったかどうかすらわからない状態で、警察が捜査のため介入するといったことはできない。裁判を取り付けて初めて行われる行為なのだ。松本もそれは分かりきっていたのだろう。彼もどこか諦めているようだったが、山崎に諦めの様子はなかった。


「……通報があったことにしましょう。そして中を調べるんです。これなら、病院側も口を出せません」


「……わかった。とりあえずそれで行ってみよう」


 坂本はついに折れた。彼とて、もとより警官の心意気は上層部などとは違いまだ生きている。困っている市民がいるなら解決したいと思うのも当然のことだった。あまり事が大きくならない手段を取ることができるなら、それに越したことはない。坂本は相談室へと戻った。


「加藤さん、今回の依頼受けさせていただきます」


「……あ、ありがとうございます!どうか、よろしくお願いいたします!」


「ではまず、その病院について詳しく教えてもらえませんか?」


「はい。……夢福病院は埼玉の山間部、緑王山にある大きな総合病院です。代々、福嶋家が院長を継いでおり、そろそろ七代目にでもなるかと。大きな特徴は、全くと言っていいほど患者の受け入れを拒否しないところにあります。少し前だと、世界中で病人を生んだウイルスがあったじゃないですか。あの時、いろんな病院が病床が足りないって言って、追加の病人の受け入れを拒否していたじゃないですか。その時、夢福病院が名乗りを上げて『患者はすべてウチに連れてきてくれ』と。……もともと終焉病棟として、ガン末期の方など助かる見込みのない方を受け入れていたそうなのですが、この件で一気に有名になりまして。それ以降、夢福病院は『患者を拒まない真の病院』と評価されているらしいです」


「じゃあ、かなり広い病院なんですか?」


「ええ。山間部と言いましたが、麓の駅に降りた時点で分かるほどですよ。山の一面を切り開いて病院と、入院病棟にしているんです」


「娘さんが入院させられた部屋などは分かりますか?」


「……いいえ。勝手に手続きが進められたあげく、病院を追い出されるように出口まで案内されたので。娘の着替えを持っていった時も、受付で門前払いを喰らったので、娘の部屋がどこかは分かりません」


「娘さんの入院を無理やり決めたのは?」


「副院長の夢野という男です。まあ、彼は手続きをしただけで最終決定権は福嶋にあると思うんですが……」


「なるほど、わかりました。……では、あとはこちらで調査しておきます。明日からでも調査に移りますので、お待ちいただければ」


「はい、わかりました。どうか、よろしくお願いいたします」


 加藤は頭を下げて相談室を出ていった。坂本は奥にしまわれていたホワイトボートを引っ張り出しながら呟いた。


「これから忙しくなりそうだ」


 


 特別相談室の三人は、まず部屋の中でできる範囲としてスマホで夢福病院について調べ始めた。


「うーん……。今のところは普通の病院ですねえ。特に目立った事件もないし……」


「ああ。評判を調べてみても、悪い評判は全く書かれていない。医療体制も問題ないようだ」


「ほんとにあの病院が問題なのか?さっきの加藤とかいう奴の家に問題があるかもしれないぞ」


 夢福病院について軽く調べたところで、少しでも問題になり得そうな怪しい動きは見られない。かなり真面目な病院のようだ。ただ、病院のホームページに興味を引くことが書いてあるのを坂本が見つけた。


「……病床拡大は六年前か……。あのパンデミックのちょうど一年前……」


「なんだか都合がよすぎるな。それであれだろ、増えた病人を受け入れまくって知名度を上げたんじゃなかったか?」


「松本さんの言うとおりです。夢福病院はもともと地域に根差した病院という立ち位置が強かったようです。それに、この病院があるのは山間部。もっと言えば田舎に近いところです。病院にかかる人が増える見込みはないと言っていいでしょう。あまりにもタイミングが出来すぎています」


 坂本がはなから病院を疑っているのに対し、山崎はあくまで偶然ではないかとたしなめる。


「……考えすぎじゃないですか?もともと地域から範囲を拡大するつもりだったとかで、ちょうどパンデミックにぶつかったとかかもしれませんよ」


「いや、そうでもなさそうだ」


 坂本はとある一件の記事を見つけた。それは夢福病院の株主総会についてだった。本来、病院に株主総会は無縁だが、夢福病院はかつて別の会社から出資を受けていた影響で株主総会があったらしい。そこには夢福病院の経営悪化と、具体的な改善案が提示されていない危機感が記されていた。この記事が正しいのならば、夢福病院にあのタイミングで病床拡大をする理由はない。坂本は山崎にも記事を見せる。


「……なるほど。これが本当なら……」


「ああ。夢福病院にそんな余裕はなかった。医療設備の導入ですら赤字になっていたんだ。山を切り開くなんて余裕はあの病院にはなかった」


「だが、実際は違う。病院は最も望まれるタイミングに拡大を間に合わせ、一躍医療施設の最前線に躍り出た。……きなくせえな」


「ええ。……とはいっても、これ以上ここで調べられることは何もないでしょう。ここから先は、直接聞いてみるしかなさそうですね」


 坂本はそう言ってホワイトボードに目線を向けた。そこには、夢福病院の住所が記されていた。




 翌日、三人は夢福病院前にいた。事前に加藤に通報させておき、その通報を受け、出動したという体を装っている。話の通り、夢福病院はかなりの大きさだった。もはや周囲一帯を牛耳っていると言われても頷けるほどで、この地域の中心は間違いなく夢福病院だろう。病院へと入ると、広大なエントランスが三人を出迎えた。三階まで吹き抜けになっており、エントランスの中央部には上へと上がるためのエレベーターが設置されている。その周囲はかなり大きな割合を占める売店だったり、車いすの貸し出しエリアだったりと、設備にも余念がない。三人は呆気にとられながらも、気を取り直して受付へと向かった。受付には三人の女性が立っている。あの中で一番偉いのは真ん中の女性だろう。名札に記された事務係長という役職がそう思わせた。


「失礼、ちょっといいですか?」


「まずは、保険証をこちらに……」


「いえ、診察ではないんです。……我々は、こんな者でして」


 坂本は胸ポケットから出した警察手帳を見せる。受付の女はあからさまにうろたえていた。


「な、何の用で……?」


「ここでは何ですし、他の人に聞かれないように話せる場所ってありませんかね?」


「……わ、わかりました。こちらへ」


 半ば脅すようであったが仕方あるまい。病院側としても、真実がどうあれ自分の不評を垂れ流されては困るに違いない。三人は事務係長の案内で、使われていない診察室へと案内された。


「それで、一体何の用なのでしょうか?それも、いきなり……」


「とある通報がありまして。……ここの病院で入院すると、目覚めなくなるという話でして。その真偽を確かめに来たんです」


「……それは、警察の仕事なのですか?」


 何かかかわりがあるのか、それともただ警察が嫌いなだけなのか。彼女は捜査に協力できないという姿勢を見せている。


「ええ、もちろん。もし、それが事実だと認められた場合、この病院に重大な過失があったということになりますので。業務上過失傷害などに引っ掛かる可能性もあるでしょうね」


「……わかりました。それで、私は一体何をすればいいのですか」


 覚悟を決めたのか、ずいぶんと協力的になってくれた。ありがたい話だ。


「では、院長か副院長のどちらかと少し話をさせていただきたいのですが、よろしいですか?」


「……少々お待ちください、予定を確認してまいりますので」


 事務係長はそそくさと部屋から出ていった。山崎はしてやったりとしたり顔である。


「やりましたね、先輩。何とか調査できそうですよ」


「正直、こんなやり方はあんまり好ましくないんだが、背に腹は代えられないか」


「別にこれで人をだまして、金をもらおうってわけじゃねえんだ。シャキッとしろ」


 坂本と山崎はうなずいた。ちょうどその時、診察室のドアが開かれる。事務係長が戻ってきたのだ。後ろには見たことがない男が立っている。


「副院長をお連れしました。院長は忙しいので、話は副院長に……」


 事務係長は副院長に「それではよろしくお願いします」と小声で言うと、仕事に戻っていった。副院長の男は目の前の椅子に座る。


「……夢野栄介と言います。夢福病院で副院長を務めています」


 坂本たちも夢野に対し、自己紹介をする。彼はどうやらあまり無駄話が好きではない性質のようで、すぐにでも本題に入るようにと急かして来た。


「加藤恵を御存知ですか?」


「……確か、つい最近退院した女の子の名前ではないですか?彼女がどうかしたのですか?」


「ええ。恵さんはこの病院から退院したのち、一度も目を覚まさないそうなんです」


「……それが一体何なのですか?」


「恵さんが目覚めなくなった原因などに心当たりはないでしょうか」


「いえ、全く。私はカルテで彼女の容態を見ていただけですので、実際に処置を施していたのは院長の福嶋なんですよ」


「……恵さんの父親の話では入院を即決したのはあなたという話でしたが」


「……恵さんの診察をした後、院長が彼女のカルテを見られましてね。すると院長がいきなり、『彼女には入院が必要だ』と。ただのマイコプラズマ肺炎だし、症状は咳だけと非常に軽いものでした。はっきり言えば、ほぼただの風邪と変わりません。彼女の身体に適した量の薬を処方して、家で安静にすれば治るはずのものだったのです」


「院長がいきなり入院を決めた理由は、何か知りませんか?」


「いえ、特には。……でも、予想でいいなら一つだけ」


「なんですか、それは」


「病床稼働率を上げたいんでしょうね。そうすれば今まで以上に、『患者を拒まない真の病院』としての存在感をアピールできる。……刑事さんたちが知っているかどうかは分かりませんが、六年前まではここの病院、倒産が目の前まで迫っていたんですよ。何とかパンデミック前に増築を済ませたおかげで知名度を稼ぐことができて、経営も落ち着いてきたんです」


 彼の話を信用するなら、院長がかなり怪しい。しかし、今日は院長に会えないだろう。それならば、せめて院内を調べまわりたいところだが。


「……恵さんが生活していた部屋を見せてもらえませんか?」


「いえ、無理です。すでに、別の患者が入っているので」


「では、院内を調べさせていただくというのは……」


「やめていただきたい。病院内は清潔にしなければなりませんから。一般人が立ち入り可能なエリアであれば何か言うことなどはありませんが、関係者以外立ち入り禁止の所には入らないでいただきたいのです」


「しかし……」


「『問題は、その奥にある可能性が高い』のでしょう?もし、奥まで調べたいというのなら、令状を持ってくるなりすればよろしいかと」


「……いや、全くその通りで」


「……聞きたいことはこれで終わりですか?申し訳ないですが、私もそれほど暇ではないんです。患者は日を追うごとに増えていますから、医者の手は1つでも多い方がいい。……では失礼します」


 夢野は部屋から出ると、廊下を歩いていた看護師を捕まえ、「おい君。彼らを出口まで見送ってくれ」と坂本たちに見張りまでつけた。それなりに丁寧な物腰ではあったが、彼の拒絶の精神はひしひしと感じられる。坂本たちは監視がついた以上、病院内を勝手に見て回ることを諦め、看護師の案内に従って病院から出ることにした。


「……きなくせえったらありゃしねえ。なんかあるぜ、ここ」


「松本さん、そうは言いますけどこれからどうします?病院の調査は無理そうですよ」


「……どうしようか。坂本、なんかねえか?」


「……株主の方に当たってみましょうか。ここは珍しく株主が経営に口出ししている病院ですし、何か知っているかも」


 夢福病院の経営権を握っている会社は調べればすぐに出てくる。坂本は病院から少し離れたところでスマホを取り出し、病院にかかわりの深い会社を調べ始めた。それは、二分足らずで見つかった。所在地が東京の、株式会社ドリーミア。経営顧問には夢野栄介の名が記してあった。


「夢野栄介?あいつ、副院長もやっておきながら別の会社の経営顧問までやってんのか」


「二足の草鞋ですねえ」


「忙しそうにしていたのも納得だな。……なら、なおさら怪しいなあいつ」


「……そうですね。副院長でありながら、病院よりも強い権限を持つ会社のトップ。実質彼が病院の経営方針に口出ししているといっても過言ではないかと」


「病床拡大を提案したのはどっちだったか。書いてたりしねえか?」


「……いや、書いてないですね。聞いてみるしかないかと」


「なら、早くいくぞ。依頼人の娘を少しでも早く目覚めさせてやらないとな」


 坂本たちは病院から歩いて駅へ向かっていった。その後ろ姿を病院の屋上から誰かが眺めていたことに、彼らは気づいていない。




 一時間後。坂本たちは株式会社ドリーミアの前にいた。ドリーミアへと取引に来たであろうスーツ姿のサラリーマンたちは、まず警備員に足止めされる。そして簡易的な身体検査を受けたのち、ようやく中へ入ることができるようだ。この光景を眺めていた三人は、あまりの警備の厳重さに怪しいものを感じるのだった。


「……こりゃ過剰だな。ただの会社だろ?それが何で大使館レベルの警備体制なんだ?」


「前にここで何か事件があったんですかね?」


「いや、この会社を調べてみても、特に事件に巻き込まれたって話は見なかったな」


「なら、反社ですかね?」


「……もしそうだったら洒落にならねえな。まあ、今の俺たちにゃ関係ねえ。行くぞ」


 松本が先陣を切り、それに坂本と山崎が続く。予想通り、警備員に止められた。


「本日は、どのようなご用事で?」


 どうやら警備員が受付の仕事も担っているらしい。反社疑惑が強まる。


「いやなに。今、夢福病院について調べててよ。すると、お宅んところがその病院に口出ししてるって話じゃねえか。なら、ここも調べるのが筋だよな」


 松本は強気に攻める。「やましいところがないなら、中に入ってもいいよな」という松本の意思がにじみ出ていた。しかし、警備員は意に介さず冷静に言葉を返す。


「いえ、筋を通したいのなら捜査令状の一枚でも持ってきてください。それもないのに、中を見せろとは非常識ではありませんか。……あなたは、相手が怪しいと決めつければ自分の家の中も簡単に見せるような人なのですか?」


「……何だ。その質問に『はい』って答えたら、中に入れてくれんのかよ」


「それとこれは別です。それに、もし『はい』と答えたところで、あなたのような非常識な人間を中に入れるわけありません。どうぞ、お引き取りを」


「……ああ。帰るよ。……お前ら、帰るぞ」


 まさにけんもほろろと言ったところだ。全く取り付く島もない。確かに警備員の彼らの言うとおり令状を持ってくればいいのだが、それは彼らにとってほぼ不可能に近いことだった。上層部から嫌われた末、特別相談室などという都合の良い左遷先に閉じ込められている若手が、令状の発行を要求したところで結果は目に見えていた。坂本たちに残された手は少ない。




 坂本たちは警視庁に戻っていた。特別相談室へと向かう途中、警視総監の腰ぎんちゃくをしている向井が行く手を遮った。


「……何の用です?向井さん」


「……まるで被害者みたいにふるまうのはやめたまえ。仕事を放ってどこに行っていた?」


「加藤さんからの依頼で、夢福病院を調べに行っていました」


「……知らないのか?その加藤という男から連絡が来ていたぞ。『もう調査はしなくていい』とな」


「本当ですか!?」


「うむ、本当だとも。……それとも、私の言葉が信用できんかね?」


「ええ。あなたの言葉を信じたことは今までに一度もありません」


「……とにかく、部屋に戻って確かめてみると良い。留守電が残っているはずだ」


 向井はそう言うと、大げさに肩をふって去っていく。残された彼らは向かいの言葉が信じられず、その真偽を確かめるため急いで相談室へと向かった。相談室に入るやいなや部屋の電気をつけるよりも早く、受話器に飛びつく。確かに留守電のランプがついている。ただ、まだ信じられない。坂本は再生のボタンを押した。


『もしもし、加藤です。……今朝の一件なのですが、調査は打ち切りでお願いします。もう、問題なくなったので……。それでは、そのようにお願いします』


「……なんの冗談だ、これは」


「……希望的観測をするなら、娘さんの目が覚めたからどうでもよくなったってところでしょうね」


「それなら、娘の目が覚めたって話を必ずするはずだ」


「そうですね。なら……。もう調査する理由がないとか?」


「……どういうこった?」


「私たちが騒いだおかげで加藤さんと病院側で何かしら話し合いをした結果、解決に向かったとか」


「……いずれにしろ、問題が解決したのなら話してくれないと困る。解決したからもう終わり、で投げ出されてもな……」


「ですよねえ。……それに、声を聴く限りだとそこまでいい報告のようには聞こえないんですよねえ」


 坂本は加藤に電話を掛けるが、通話中か、それとも圏外のようでつながらない。


「……駄目だ。つながらねえ」


「もう、直接会いに行くしかねえか?」


「……でも、加藤さんの家知りませんよ?」


「名刺もらってたろ、なんか書いてねえか?」


 松本にそう言われ、坂本は胸ポケットにしまっていた警察手帳に挟んでいた名刺を取り出す。『株式会社ドリーミア・加藤清』と書かれている。


「……ドリーミアだ」


「え?」


「何?」


「加藤が働いている会社も、株式会社ドリーミアです。……どういうことだ?」


「自作自演ってことですか?」


「いや、そうだとして、今朝のあの態度は何だったんだ。演技だとでも言いたいのか?」


「……いえ、それは……。じゃあ、会社側から申し出を取り下げるように脅されたとかどうですか」


「ならやっぱり加藤さんに話を聞かなきゃいけないんだが……。家の場所がわからねえし、電話もつながらねえ」


 坂本は何度も電話をかけなおしているが、全くつながる素振りもない。もう十分ほど経っているのにまだ通話中のようだ。


「かなりの長電話だ。今日は諦めた方がいいかもな」


「諦めるのか?」


「……ええ。加藤さんの家を知らない以上、直接話を聞く手段は電話しかありません。その電話も今は通話中でつながらないし、我々もそろそろ退勤時間です。別に残業でもいいんですが、遅い時間に電話をかけるのは失礼でしょう」


「だが、加藤さんの娘が大変な目にあっているんだぞ」


「加藤さんはその大事な娘の一件についてこんな雑な留守電を残していったんです。何かあったのは確実と言っていいでしょう。でも、今の俺たちには動くためのきっかけがないんです。……こんなこと言いたくはありませんが、何か事件が起きないことには……」


 絞り出すようにして出された坂本の弱音を松本は咎める。


「坂本!警官たる身分でなんてことを!……事件が起きることを望むだと!?」


 彼の怒りはもっともだ。だが、彼自身ももう打つ手がないということをうっすらと感じ取っていた。おそらくそのせいだろう、その意見に少し同意しかけた自分に言い聞かせるように、声を荒らげる。


「山崎!お前も何とか言ってくれ。……警官として、事件が起きるのを望むのは間違っている。そうだろう?」


「……正直、それしか方法はありません。私たちがこの一件を調べるためには」


 松本は山材が自分の味方と思っていたのだろう。だが、その期待を裏切られ、崩れ落ちるようにパイプ椅子に座り込む。


「今、私たちが行っている調査は、はっきり言えば警官の仕事ではありません。探偵の仕事です。向井さんに釘を刺されたのが、その証拠でしょう。……我々が動くためには、『事件の捜査』という大義名分が必要なんです」


 二人の説得を受け、松本はどうにか落ち着いたようだ。


「……すまない。……わかってはいたんだ。あの警備員共に、令状を要求されたときから。これが本当に警察としてすべき捜査なら、すぐにでも令状が取れるだろうし、俺が取りに行っていた。……だが、この事件は駄目だった。はなから令状は取れないと諦めていた。……すまなかった、大きな声を出して」


「いえ、俺も松本さんの気持ちは分かります。でも、今回は相手が悪かった。加藤さんの話が本当だったなら、ドリーミアは司法相手に口利きができるほど、大きい組織だということです」


 彼らは失意のまま、特別相談室を出て、それぞれ帰路に就いた。




 それから三日間、加藤の音沙汰はなかった。何度も電話をかけなおしたが、通話中を伝える音が帰ってくるばかりである。それに、ダメもとで株式会社ドリーミアに対しての捜査令状の発行を申請したが、当然のごとく却下された。事件はまさに静まった波のごとくだ。何かあるはずだが、眼に見えることもなく手も出せない。だが四日目、事態は急変を見せる。


 加藤清が埼玉県の山中で発見されたのだ。しかし、遺体となって。……通話がつながらなかったのは、通話中だからではなく圏外だったからなのだ。彼が現場に残していたスマホには、坂本からの複数の着信履歴があり、坂本のもとに警察官が来ていた。


 午前十一時、特別相談室内。


「おい、ニュース見たか?」


「ええ。加藤さんが山の中で死んでいたって……」


「……とんでもねえことになっちまったな。死因はまだ発表されてねえらしいが、現場にそれらしいものは残っていないそうだ」


「詳しいですね、松本さん」


「……年の功よ。教えたがりの奴がいるのさ」


 その時、相談室の扉が乱暴に叩かれる。


「はい、どうぞ」


 中に入ってきたのは、見たこともない警官たち。警視庁の職員ではない。腕章には埼玉県警の文字が記されていた。


「坂本は誰だ?」


 入ってきた男は開口一番、高圧的に坂本を探す。


「……俺だ。だが、一体何の用だ?」


「加藤清殺害の重要参考人として、連行する。ついて来い」


 彼らの言葉に、坂本以上に山崎と松本が食って掛かる。


「坂本さんが何をしたって言うんですか!?」


「事件に関わる。お前らには話せない」


「訳も話せないのに連れて行こうだなんて随分と虫がいいな。普段もそうやって一般人に接しているのか?そもそも坂本はまだ容疑者だと決まったわけではないんだろう。なんでも上に従うんじゃなくて、ちったあ自分の頭で考えろ」


「……加藤清に何度も電話をかけていた訳を話せ。内容次第では事件の概要を伝えてやる」


 高圧的な男は話したくなさそうだったが、その後ろに控えていた男が代わりに話してくれた。


「俺が代わりに話してやる。……坂本一輝、お前は四日前から執拗に加藤清に電話をかけていたな。我々はそれが何か事件に関係していると考えているのだ。……今、ここでもいい。話してくれ」


「わかった。……じゃあ、とりあえず、座れよ」


 坂本は彼らを相談室内へと招き入れる。警察同士、彼らも仕事で精神が削られているというのは坂本も理解していた。同業であるなら、厳しく当たる必要もないだろう。彼らは五人ほどの大所帯だったが、高圧的な男と代わりに主導権を握った男の二人だけが入ってきた。残りの三人は部屋の外で待機のようだ。二人が席に着いたことを確認し、坂本が話を本題へと進める。


「それで、聞きたいことは俺がなんで加藤清のスマホに何度も電話していたか、だよな」


「ああ。簡単に加藤の交友関係を洗ったが、お前の名前は出てこなかった。一体どこで加藤と知り合った?」


「ここでだ」


「……ここだと?」


「ああ。この『警視庁・特別相談室』でだ」


「加藤はここに何をしに来たんだ」


「とある事件の相談にな。……今から二週間ほど前、加藤の娘が病気にかかった」


 坂本は自分が加藤の電話番号を知り得た理由を明かすため、加藤が持ちこんだ事件について話し始めた。埼玉県警の彼らは夢福病院を知っていたようで、その名前が出た途端、表情を変えた。


「それで、加藤の娘はまだ目覚めてないのか?」


「……それを確かめるための、電話だったんだ。この留守電を聞いてくれ」


 坂本はそう言って、加藤が遺していった留守電を聞かせる。彼らは顔をしかめるばかりだが、それはすでに坂本たちが通ってきたものだ。


「……そうか。あんたはこの留守電を聞いて、どうにも怪しいと思い、電話を繰り返した。そんなところか」


「ご理解感謝するよ。……それじゃあ、情報を話してやったんだからこっちもいろいろ教えてもらおうか。……まずは、あんたらの名前から」


 坂本がそう言うと、二人は思い出したように背筋を伸ばす。


「悪い、まだ言ってなかったな。俺は古賀。よろしく」


「……阿部だ」


 話が通じる方は古賀、高圧的な方は阿部というようだ。古賀は話を続ける。


「それで、坂本が知りたいことってのは何だ?」


「この事件に関して、今わかっていることすべて。……加藤は俺の依頼主でもある。知る権利はあるはずだ」


 坂本の物言いに、古賀は悩んでいるようだ。事件の概要を第三者に話すことには抵抗があるのだろう。ただ、坂本が同業者であることに決意を固め、話す気になったようだ。


「いいだろう、わかってる範囲で話してやる。……まず、加藤の死体が見つかったのは、埼玉県の山中。発見者は不明」


「不明?」


 警察は大抵、通報者の氏名や生年月日をデータベースに登録するため、通報者の氏名を聞いている。普通は特に抵抗もなく教えてくれるものだが、まれに教えてくれない者もいる。


「ああ。名前を聞いたんだが、その瞬間に電話を切られてな。名前は分からなかった」


「……加藤の死体はどこにあったんだ?」


「埼玉県の山中。詳しく言うと、山道から50メートル以上も離れたところだ。周りには目印になるようなものもないし、見通しも悪い。……通行人が偶然見つけるような場所じゃない」


「……通報者が犯人か?」


「今のところ、捜査本部もそっち方面で考えてるようだ」


「死因は?」


「まだ、解剖が終わってない。ただ、見たところ目立つ外傷も流血痕もなかったことから、死因は物理的なものではないと思われる。あり得るのは、毒殺だろうな」


「わざわざ山の中で毒を?」


「いや、毒で殺した後、山の中に捨てたという可能性がある。今、他の刑事がそこら周辺の監視カメラをあたって、怪しい車を洗い出しているところだ」


 事件の概要に関してはこの程度だろう。坂本は事件とはあまり関係ないが、ずっと気になっていたことを聞くことにした。


「……加藤の娘は、どうなってる?」


「今の所、その子供についての情報はない。そろそろウチの刑事が加藤が住んでいた家に着くころだろう。……噂をすれば、なんとやらだ」


 その時、ちょうど古賀のスマホが着信を知らせた。古賀は「失礼」と言って、電話に出る。彼の予想通り、加藤の家に向かっていた刑事からの連絡だったようだ。古賀は電話からの報告を聞くたびに、顔をしかめ機嫌が悪くなっていく。そして最後には「……ああ、わかった」とだけ言って乱暴に電話を切った。


「……何があった?」


 坂本はおそるおそる聞いてみる。


「『加藤の家には誰もいなかった』とさ。……交友関係を洗った時に、妻とはすでに離婚済みで娘とは二人暮らしだということは知っていた。……だが、家には娘すらいなかった。……お前の話では、加藤の娘は寝たきりのはずだろ。どういうことだ?」


「どういうことだと言われてもな。俺らだって、四日前にいきなり加藤が調査をやめろと言い出したんだ。無視して連絡を取ろうとしていたんだがな。……だいぶ、面倒なことになっちまったみたいだな」


「……わかった。俺は捜査本部に戻る。何かわかったら、お前にも教えてやる。……俺の電話番号だ」


 古賀は立ち上がると、メモ用紙を机の上に置き、ドアへと向かった。阿部は不服そうだったが、立場は古賀の方が上なのだろう、何も言わず古賀の後を追って部屋から出て行った。部屋に残ったのは、坂本たちと古賀が置いて行ったメモ用紙。そして、困惑であった。


「……ずいぶんと騒がしかったな、あいつら」


「ええ。でも、だいぶ大事な情報を置いて行ってくれましたよ。ね、先輩?」


「……ああ。とりあえず、あいつらには感謝しないとな。……それにしても、夢福病院か、ドリーミアか。どっちから手を付けるべきだろうな」


「ドリーミアから行こうじゃないか。社員が死んだとなれば、多少なりとも捜査はできるだろうよ。……人の死を利用しているようで、気が引けるがな」


 話し合いの結果、午後にドリーミアへと向かうことに決まった。坂本は話し合いの最中、加藤の娘が気がかりであった。




 午後一時、株式会社ドリーミア前。昼食を済ませた坂本たちは、事情聴取のためドリーミアに来ていた。しかし、四日前とは様子が全く異なっている。人の気配が全くないのだ。四日前は、ガラス張りになっている一階エントランスの様子がよく見え、せわしなく歩き回っている人がかなり多かった。だが、今はどうだ。中を覗いても人がいる様子はないし、それどころか坂本たちの調査を退けた警備員すらいない。一夜のうちに、中にいた人が消え失せたようだ。不気味なほど静まり返っているせいか、周りの通行人もドリーミアの前を通ることを避けており、なおさら人の気配が減っている。たかが四日足らずで廃墟となってしまったようだ。坂本たちは車から降り、入り口前まで寄るがその異常さが変わることはない。松本がドアに手を伸ばす。電気すら通っていないのか、自動ドアが開くことはない。松本は持っていた警察手帳をドアの隙間にねじ込み、隙間を広げる。次は持っていた長財布をその隙間にねじ込み、さらに広げる。十分に広がった時、自分の手を隙間に滑り込ませ、力尽くでドアを開けてしまった。


「ちょっと、松本さん。これはさすがに捜査の範疇を超えてますよ。誰かに見られたら……」


「構いやしねえよ、人通りなんてねえんだから、見られる心配もねえ。それに、ドリーミアの今の状況はどう考えたって普通じゃねえ。たった四日だけで、こんなに寂れたりするかよ」


「……それもそうですね。加藤が勤めていた会社がここである以上、こんな状況になっていれば何かしら関与を疑うのが普通です。……俺も手伝います」


 坂本と松本。その二人によって、自動ドアはこじ開けられた。中からはいかなる者の侵入を良しとしない拒絶の雰囲気が流れ出ていた。彼らはそれを振り払うように、ドリーミアの中へと侵入した。


 一階エントランス部分は外からも見えていたが、やはり薄暗い。電気すら止まっているのだ。もしや定休日だったりするのかと以前調べた会社のホームページを検索するが、そのようなサイトはヒットしない。つまり、消されているのだ。


「……これを見てください」


「ん?……『該当のサイトは削除されました』……。こりゃ何だ?」


「株式会社ドリーミアの公式ホームページです。気になって調べてみたんですが、消されていました」


 坂本が見せたスマホの画面に松本は困惑の声をあげる。山崎は腕を組んで何か考え事をしているようだ。


「……怪しいですね。このサイトがいつ削除されたかはわかりませんが、我々が加藤さんから調査依頼を受けてからだということは確実です。……何かが隠されている可能性が高いですね」


「ああ。ひとまずは、加藤さんが働いていたという営業部を探すとしよう。……エレベーターの前に、部署の割り当てが書いてあるな」


 営業部は三階のようだ。エレベーターは動かないため、彼らは階段で三階へと向かう。三階には、営業部と商品開発部の二部署があり、営業部の方が大きな部屋を使っていたようだ。そのせいか力関係も営業部の方が強かったらしく、先に立ち入った商品開発部の部屋には一目ではわからないところに営業部への悪口がしたためられていた。営業部の部屋は商品開発部の二倍以上の広さを誇り、部屋内も清掃が行き届いている。それに、部屋後方の壁に掛けられたホワイトボードには先月の成績がランキング付けされていた。それを興味深そうに見ていた山崎は「あれ?」と声をあげる。


「どうした、そんなもの見て」


「いや、ドラマとかで見るものが本当にあるんだなあと。……そんなことより、ここ見てください」


 山崎が指し示した部分は一番右、ランキングで言えば最下位の位置だ。言われるままに見てみるが、時に気になるような点は見当たらない。


「……これがどうしたんだ?ただのランキングだろ?」


「加藤さんの名前がないんです。このボードのどこにも」


 確かに、順位の下には名前も記されてはいるが、いくら見返しても加藤の名前はなかった。ただ、坂本も松本もそこまで不思議には思っていなかったようだ。


「言われてみれば、どこにもないが……。営業部の部長だったんじゃないか?だから、ランキングにはのってないんだろ」


「いえ、そうでもなさそうですよ。……ここです、このペンの跡、『加藤』に見えませんか?」


 山崎はそう言って最下位部分を指さす。確かに、長時間消されなかったホワイトボードはペンのインクが残ってしまうということがよくある。坂本は置かれていたペンを手に取り、ボードに残った跡をなぞった。そこに現れた文字は『加藤』であった。山崎は得心が言ったような顔で言う。


「ほら、私の言った通り『加藤』の文字が出てきましたよ」


「じゃあ、加藤さんは営業部内では最下位の成績だったのか」


「それも、ペンの跡がよく残っていたことから考えると、相当長い期間ですね」


「だが、最下位だからなんだって言うんだ?山の中で死ぬことと何か関係でもあるのか?」


 坂本が提起する問いに、二人は答えられない。そもそも、加藤の死自体が謎に包まれているのだ。適当なことは言えない。山崎が話を変える。


「とにかく、加藤さんがここで働いていたっていう証拠は得られましたし、加藤さんのデスクを探しませんか?」


「……それもそうだな。何か死のきっかけになるような何かが入ってるかもしれないしな」


 そして彼らは加藤のデスクを探し始めた。いくら営業部室が広いとはいえ、手分けもできるうえ机ごとに名札が置かれている。加藤の字を探すのは簡単なはずだった。だが、彼らは五分かけても、十分かけても加藤の字を探し出すことはできなかった。


「……どこにもない。どういうことだ、加藤さんはここで働いていたんじゃなかったのか?」


「そうですよね。加藤さんからもらった名刺にもしっかり『営業部』書いてあったはずなんですが……」


「……いや、待て。お前ら空席のデスクは見なかったか?」


「いえ、見てませんけど」


「私、見ましたよ。あっちの一番端の席です」


「……それが、加藤のデスクだ」


 松本は何かの確信をもとに、山崎が指さしたデスクへと駆け寄った。いくつか引き出しを開け、中に入っていた資料をデスクの上に並べている。その資料には加藤の名前が記されているとともに、名前の上に赤ペンで「作り直し」と書かれていた。


「これは、企画書か」


「でも、どれも採用されなかったみたいですね。全部に作り直しって書いてありますよ」


「……ゴミ箱を見てくれ。それ以上だ」


 坂本がそう言いながらゴミ箱をひっくり返す。中からは丸められた紙だけがコロコロと転がり出ていた。二人は適当に一つ、手に取り開いてみる。それも加藤が作ったであろう企画書であった。「作り直し」の文字もしっかり記されている。


「……相当作り直しさせられてたみたいだな」


「でも、見た感じそこまで悪い企画内容には見えませんよ?」


「なんだ、詳しいのか?こういうの」


「はい、父が同じような仕事をやっていたので、持ち帰ってきた資料を読んだことが何回か。父が企画書を持って帰ってくる時は大抵うまく行った時なので、その時の記憶と比べて考えても、これはそこまで悪くないのかと。……まあ、父の会社とこの会社は違いますから、一概に比べる訳にもいかないと思いますけど」


「いや、あながち間違いでもないかもな。……この二枚を見てくれ」


 坂本はそう言って丸められた紙の中から二枚を机の上に置いた。二人はじっくりと見比べていたようだが、やがてあることに気づいた。


「……これ、一言一句同じ内容じゃねえか」


「ええ。タイトルから内容、グラフにいたるまですべて同じです。これは一体?」


「加藤さんが手抜きで同じ資料を何度も提出したか、それとも資料を審査する側が内容を見ずに、『加藤が持ってきたものだから』という理由で作り直しをさせていたか」


「……加藤は職場でいじめられていたから、それを苦に自殺を選んだ。そう言うことか?」


「ええ。……もし、加藤さんが独身なら、それで話は終わっていたと思います」


「そうです、加藤さんには娘の恵ちゃんがいます。それに、妻とはすでに離婚しており、親権を争い、勝ち取っています。母側が親権をとれないということはよほど妻の素性は劣悪な物と言えるでしょう。自分が死んだとして、そんな者に子供を預けることになる選択をよしとするでしょうか?」


「……よしとしないだろうな。あんだけ必死になってウチに頼み込んできたんだ。もし職場でいじめられるようなら、すぐにでも転職を考えるほどの行動力はあるだろう」


「つまり、加藤さんは自らの意思で死を選んだのではない。そう考えられるわけです」


「じゃあ、やっぱり誰かに殺されたってことだよな……。いったい誰がそんなことを」


「それに、恵ちゃんのことも心配です。先ほど聞いた話では、恵ちゃんはいなくなっていたと。誰かに連れ去られたと考えるべきでしょうか?」


「その線が強いだろう。仮に彼女の目が覚めていたとして、三歳程度の子供が一人でどこに行くんだ」


「まあとりあえず、こっから出ようぜ。それなりに情報はつかめた。これ以上は俺たちの手に余る。坂本、古賀に連絡しろ」


「わかりました」


 彼らは会社から出て、車の中で古賀に電話をかけた。仕事中ですぐに出ないかと思われたが、予想よりも早くつながった。


『どうした、何か見つけたか?』


『ああ。加藤の死に関してなんだが、あれはおそらく他殺だ』


 坂本は加藤が他殺だと思われる理由を話していく。古賀は話を遮らず、相槌だけを打っていた。そして坂本からの話が終わると、一度ため息をついてからこういった。


『なかなかいい情報だな。……悪いが、その情報は全部無駄だ。ちょうど五分前、加藤清は事故死として処理することが決まって、捜査本部も解体された。もう、加藤清に関しての情報は必要ないんだ』


『解体だと?どういうことだ』


『さあな。何度も理由を聞いても答えられないってな。……ずいぶんとでかい何かが警視庁に圧をかけてるらしい。そのしわ寄せが俺たち県警に来てるってことだ。これ以上は俺も動けん。……すまない』


 古賀は悔しそうに謝る。坂本はどう言葉をかけていいかわからず、何も言えなかった。古賀は気を取り直したように、話を続ける。


『その代わりと言っちゃあなんだが、お前らにこの事件の話をしてやる。……まず、加藤の死因だが、衰弱死だ。外傷は見たところなく、解剖の結果でも毒を飲まされたといった証拠もない。だが、脳や内臓などが異常に老化していた。彼の持っていた免許証から、年齢は32だと分かっている。ただ、内臓に関しては八十歳とほぼ同じ、脳にいたっては百歳を超えるレベルだった。……もう、この時点で意味が分からねえな』


 脳や内臓が急激に老化するなど、実際にあることなのだろうか。解剖がミスをしていたり、嘘をついているということは考えづらい。人の身体を老化させる薬のようなものでもあるのか。そんな眉唾な物、あるわけないと切り捨てたいところだが、彼らの半年前の異様な経験がそれを許さない。


『おい、聞こえてるか?』


『あ、ああ。すまない、少し考え事をしていて……』


 返事がない坂本が気になったのか、古賀が返事を催促してきた。少しぼうっとしていた坂本はすぐに返事をした。


『ふうん?まあ、別にいいが。話を続けるぞ。次は、加藤が山中で死んでいた経緯についてだ。……とはいったが、これに関してはさっぱりだ。周辺を捜索したが車は見つからなかったし、近くのコンビニに停められていたりしないかとも思ったが、不審な車は見つからなかった。自転車も同様だな』


『監視カメラはどうなった?』


 いつまでも会社の前で車を停めているのは景観的にもルール的にもよろしくない。普段は坂本がハンドルを握るが、今回は松本が代わり、車を発進させた。


『周辺二キロ範囲の監視カメラは全部洗った。で、加藤清が歩いて山の中に向かっている様子が映っていたんだ』


『山の中に、歩きで?』


『ああ。午後6時の監視カメラに映ってた。ゆっくりヨタヨタ歩いててな。見てて寝ぼけてるんじゃねえかと思ったぜ』


『その時間なら、他の目撃者もいるんじゃないのか?』


『いや、残念だがそうでもねえ。店員は客が来ないからってスタッフルームでさぼってやがった。それに、わざわざあそこを通る理由もない。他にもいくつか山の中を通る道があるんだ。そっちの方が大通りに面していて使いやすいんだとさ』


『そう言えば、加藤の死亡推定時刻は何時なんだ?』


『ああ、言ってなかったか。死亡推定時刻は、午前0時半頃だな』


『午後6時から午前0時までの間、加藤は何をしていたんだ?』


『さあな。……それに、そもそも論でいえば、加藤があの山を目指す理由もわかりやしねえ。すべてが謎だよ。唯一わかってるのは、加藤以外にあの日あの道を通って山に向かったものはいないということだけだ。……本部はここまで聞いて自殺か事故死だろうと判断したようだな』


『だが、こっちで調べた結果は、加藤清は誰かに殺された可能性を示唆している』


『歪だな。明らかに第三者が何か嚙んでやがるのは間違いねえ。ドリーミアがいきなり風呂敷畳んだのがいい証拠だ。……そろそろ切るぞ、俺から話せることはもうない。お前らも引き際はわきまえろ、今回のヤマはやばそうだ』


『最後に一個だけ良いか?』


『何だ?』


『加藤清が死んでいた山の名前、聞いてなかったと思ってな。山の名前はなんだ?』


『……緑王山、あの夢福病院がある山だよ』




 坂本たちは警視庁へと戻った。これからの動きを考えるため、古賀からもらった情報を整理するためである。廊下を歩いていると、またもや向井に行く先を遮られた。


「お前ら、どこに行ってた?お前ら雑用係がいないせいで、他の科でも書類仕事が滞っているんだが」


「……加藤清の死について調べていました。そのため、株式会社ドリーミアへと」


 坂本がそう言うと、向井はただ鼻で笑った。


「もうやめるんだな。無駄なことをしている暇があるなら、特別相談室の職員として書類仕事に従事しろ」


 上から目線で人を馬鹿にしたような物言い。彼は立場こそがすべてなのだ。その態度には坂本以上に松本が腹を立てている。


「向井。てめえ一体いつからそんなに偉くなった?警視総監の腰ぎんちゃくに過ぎないお前が、人様に指図をしていいとでも本気で思ってるのか?」


「……そう言う松本君は、年上だからって指図しているように見えるがね」


「いや、年上だからじゃねえ。『人』としてお前より上だから、下のお前に指図してんだ。『ちったあ真面目に生きろ』ってな」


 松本からの挑発が相当効いたのか、向井は握り拳を震わせている。しかし、二度ほど深呼吸をするとすぐにいつもの調子を取り戻してしまった。


「……まあ、左遷された人間に何を言われたところで私には全く響かんよ、無駄な言説ご苦労。徒労だったな。……そんなことより、私は君たちに通達を持ってきたのだよ」


「通達?油売り以外に何のとりえもない腰ぎんちゃくにはもってこいの仕事だな」


 松本に続いて、坂本も挑発をやめない。向井はそれを無視して話を続ける。


「『これ以上加藤清の事故死を捜査するのなら、警察としての資格を剥奪する』。これは私の言葉じゃなく、警視総監からの言葉だ。……己の身の振り方、今一度よく考えておくんだな」


「……反面教師が目の前にいるから心配は結構だ」


 向井は彼らを強くにらみつけると大きな足音を立てて去っていった。坂本たちは向井の言葉を意に介することもなく、部屋に戻るや否やホワイトボードを引っ張り出し、事件の概要を書き出した。自分たちが集めた情報では、『加藤清には自殺の動機なし』というものだったが、古賀たちが集めてきた情報では『加藤清は山の中で自殺を選んだ可能性がある』という食い違いがあった。坂本たちはこの食い違いが気になってしょうがない。そして考えられた結果が、『加藤清は自殺に見せかけて誰かが殺したのではないか』という結論だった。加藤の娘がいなくなっているのがよい証拠だ。坂本たちは娘の行方を追うため、まずは加藤清の元妻である田畑美幸に会うことを決めた。しかし、ただの一般人の住所を警察が知っているわけがない。早くも手詰まりかと頭を悩ませたとき、坂本は一か八か、警視庁のデータベースにアクセスした。親権を得られなかった母親であるため、それなりに問題があることは間違いない。不倫などでは親権の移譲を決定づけるほどの力はない。だが、犯罪歴ならどうだ。


「あった……」


 田畑美幸、二十歳。これはおそらく登録当時の年齢だろう。表示された犯罪歴には「強盗致死」と書かれていた。今から五年前、田畑は遊ぶ金欲しさに老人一人が住む家に訪問介護を装って立ち入り、金品を物色。その後本当の訪問介護が家に来たため鉢合わせた。警察に通報しようとした老人、赤羽浩二八十五歳を、ステンレス製一リットル容量の水筒で殴り殺害。逃亡を阻止しようとした訪問介護の、堤幸恵三十二歳ともみ合った挙句突き飛ばし、石段に頭をぶつけさせ殺害。田畑はその後逃亡し、赤羽宅から盗んだ金品を換金した。スマホで調べてみると、その後裁判でどうなったかも見つかった。検察は身勝手極まりない犯行であると断定し、死刑を求刑。だが弁護士側は田畑美幸は当時、心神喪失状態にあったため責任能力がないと主張し、無罪を要求。結果、弁護士の言い分が聞き入れられ、田畑美幸は無罪となった。


「これは、ひどいですね。何と言ったらいいのか……」


「……なんで加藤はこんな女と結婚したんだ?」


「それは、彼女自身に聞いてみるとしましょう。それと、恵ちゃんの居場所も」


 坂本はデータベースに乗っていた田畑の住所をメモに書き込んだ。すでに引っ越しをしているかもしれないが、始点さえわかれば存外何とかなるのではないかと坂本は考えていた。早速今から赴こうかと立ち上がり、時計を見上げる。時刻は午後二時、まだ余裕だ。坂本は山崎と松本の二人を伴い、駐車場へと向かった。


 彼女の住所として登録されていたのは、埼玉県郊外、ビルよりも畑が目立ち始めるところであった。外観は古くとも、家の大きさはそれなりに立派である。インターホンを鳴らすと、年老いた女性の声が聞こえて来た。


「はい、どちら様ですか?」


「私、警視庁の坂本と申します。田畑美幸さんはご在宅ですか?」


「また、美幸が何かしたんですか?」


「……その疑いがあります。ですので、少しお話させていただきたいなと思いまして」


「わかりました、ただいま参ります」


 そう言って、インターホン越しの会話は切られた。少しして、中から齢七十を越していそうな老婆が現れた。物腰は柔らかで、あまり怒るのが得意ではなさそうな顔をしている。彼女はこちらと目を合わせると丁寧に自己紹介を始めた。


「美幸の母の千代子と申します。美幸は部屋にいますので、どうぞ中へ」


「……それでは、お言葉に甘えて、失礼いたします」


 田畑千代子の案内もあり、坂本たちは田畑家にあがらせてもらうことになった。家の中は外観同様古いのだが、丁寧な掃除と整理整頓のおかげかすっきりして見える。リビングへと通されると、田畑千代子が茶を出してくれた。


「ソファにでも座ってお待ちください。娘を呼んでまいります」


 彼女はそう言うと、リビングから姿を消した。田畑美幸は実家から出ていなかったのか。偶然ながらも一回目であたりを引いたことに坂本は少なからず驚いていた。ソファに座って茶をすすっていると、田畑千代子が戻ってきた。


「ほら、美幸。あまりお客様を待たせるものじゃないですよ」


「わかったって……。どうも、私が田畑美幸。あんた達私に一体何の用?」


 田畑美幸は姿を現した。気怠そうにこちらを睨みつけている。


「……加藤清を覚えていますね?」


 坂本はまどろっこしい会話が嫌いだった。そしてそれは田畑美幸も同じだろうと考え、単刀直入に行くことにした。田畑美幸は坂本たちの向かいのソファに乱暴に座り込むと、心底不快であることを示すため、大きく舌打ちをした。


「その反応、覚えているということでよろしいですか?」


「……母さん。ちょっとあっち行っててくれない?あんまり聞かせたくない話だから」


「……わかったわ。それでは刑事さん、娘のことよろしくお願いします」


 田畑千代子は娘の頼みを聞き入れ、隣の和室へと入っていった。それを見届けた田畑美幸は一度ため息をついたのち、話し始めた。


「……覚えてる。けど今さら何の用?もうあいつにはかかわらないって誓約書も書いたし、何もしてないけど」


 坂本は彼女の質問に答えることはせず、ただ淡々と事実を口にする。


「先日、加藤清さんが緑王山で亡くなっているのが発見されました。死因は不明で、自殺か他殺かどうかも不明です」


 田畑美幸は何度もうなずき、妙に納得したような顔を見せる。そして次の瞬間、坂本に食って掛かった。


「私が殺したとでも言いたいの!?なんで私があんな男殺さなくちゃいけないのよ!」


「かつて婚姻関係だった割には、ずいぶんと冷たい反応ですね」


「そりゃそうでしょ!私はあんな男に興味なんかなかった。それでも、今超有名なドリーミアって会社に勤めてるって知って、これなら私のこれからの人生安泰に過ごせるなと思って近づいたの。結婚してしばらく、悠々自適に暮らしてたのに、あいつはなんて言ったと思う?……『金を使いすぎ』だって!私はそのために結婚したのに、意味不明すぎるでしょ!だから離婚してやったの。世間体を保つため娘も作ってやったけど、親権なんかいらないからあいつに押し付けたわ。それからずっとウダウダしてたけど、あいつ死んだんだって?……ケッサク。超笑える、サイコー。わざわざそんなこと教えに来てくれたんだ。暇だね、警察の人って」


「……加藤清とはどうやって結婚したんだ?お前の名前は嫌な意味で有名だ、まともな人間ならまず結婚しようとは思えない」


「偽名に決まってるでしょ。離婚する時まで気づかれてなかったんじゃない?離婚の理由は『私の金遣いの荒さ』だしね。……ほんと腹立つ」


「……娘には興味ないのか?」


「ないない!むしろあると思う?ただでさえ泣き喚いて鬱陶しいっていうのに、母乳まであげなきゃいけないっておかしくない!?睡眠時間削られるし好きなこと我慢しなきゃいけないしで大変だったわ。……まあそのせいで、余計お金使っちゃったんだけどね。あれは完全に失敗だったな、もし過去に戻れるなら『絶対に子供は作るな』って言いに行きたいな」


 田畑美幸は、まごうことなきクズだった。坂本だけでなく、松本、山崎もあまりの劣悪さに閉口してしまっている。坂本はあまりに無駄話が多い田畑美幸の話を何とか要約する。


「つまり、娘には興味がない、ということでいいか?親権も欲しくはないのか?」


「そう言ったでしょ。加藤清が死んで娘が一人になろうと、私には関係ない。どうでもいいわ、失敗作だもの。いつもぎゃあぎゃあ喚いて、本当に鬱陶しかった」


 いつまでたっても他者への侮辱をやめようとはしない田畑美幸に対し、松本の堪忍袋はついに限界を迎えた。


「……そりゃあな。失敗作がもの産んだりすればそうなるだろ」


「……喧嘩売ってんの?」


「お前がさっきまで売り散らかしてた喧嘩、買ってやるって言ってんだ失敗作。お前が自分の娘をどれだけ失敗作と言おうがな、あの子は人を殺してねえ。人を二人も殺したお前の方がよっぽど人として失敗だよ」


「……なんで私が年寄りなんぞに説教されなきゃいけないの!?」


「それもそうだな。お前みたいなやつ、これからどんな人生を歩もうが知ったこっちゃねえや。……坂本、山崎、出るぞ」


 松本は田畑美幸を見捨てるように立ち上がる。そして彼女の「待てよジジイ!」という罵言を無視し、和室にいるであろう田畑千代子へ「騒がしくして申し訳ない、我々はこれで失礼いたします」とあいさつしていった。坂本、山崎も同様に田畑千代子に対してのみ、あいさつをして田畑家を後にした。坂本たちは表に止めていた車へと乗り込み、警視庁へと帰路をたどる。車中は田畑美幸の話題で持ちきりであった。


「……思ってたより、乱暴な奴だったな」


「ええ。正直、同じ女性とはどうにも思えません」


「思わなくてもいいさ。あれは失敗作だからな」


「それにしても、彼女は娘については本当に何も知らなさそうでしたね」


「ああ。娘のことすらあれほどまでに毛嫌いするとはずいぶん珍しいが。……それじゃあ、恵ちゃんは一体どこに行ったんだろうな?」


「ひとりでどこかをさまよっている可能性もあります。埼玉県警に頼んで捜索してもらうべきでは?」


「……どうだろうな。加藤清の件を事故死で片づけた奴らだぞ、加藤関係の何かにはもう手を出さないだろ」


「おい、坂本。あいつはどうだ、古賀。あいつなら動いてくれんじゃねえか?」


「……今は猫の手すら借りたい状況ですし、試してみるだけありですね。山崎、俺今手が離せねえから代わりに電話かけてくれ」


「わかりました」


 山崎は坂本のポケットに手を突っ込み、スマホを取り出す。そして古賀へと電話をかけた。


『もしもし、こちら古賀。坂本、いったい何の用だ?』


 古賀はすぐに電話に出た。今はだいぶ余裕がありそうだ。


『少し頼みたいことがあるんだが、いいか?』


『……加藤の娘を探してくれってか?』


 言おうとしていた言葉を先に言われ、坂本だけでなく山崎、松本までもが息をのむ。


『な、なんでそれを……』


『お前らだけじゃできないこと、埼玉県警である俺に頼みたいこと。これら二つを満たすのはその程度だろ。それに、加藤清の情報に関してはほとんど話したからな』


『……それで、頼まれてくれるか?』


『悪いが、そりゃ無理だ。……加藤恵は死んだからな』


 坂本はいきなり告げられた信じがたい情報に呆気にとられ、ハンドルを握る手が無駄に力む。ちょうど赤信号でよかった。その代わり、信号が変わった後も動けず、後ろにいた車から「早くしろ」と言わんばかりにクラクションを鳴らされたが、坂本の耳には届いていなかった。




 あれから五分後、坂本たちは警視庁のいつもの部屋ではなく、公園にいた。


『……調子はどうだ?』


 古賀は心配そうに言う。加藤恵の死を知った坂本はかなり動転していたのだ。何とか切り替え、詳しく話を聞くために近くの公園で車を停めた。


『ああ、問題ない。だいぶショックだったがな』


 坂本は少しだけ笑いながらそう答えた。机の上に置いたスマホに向け、松本が問いかける。


『古賀、さっきの話は本当か?加藤恵が死んだというのは……』


『ああ、マジもマジ。大マジだ。……ただし、今のところはな』


 古賀はなぜか含みを持たせたような言い方をする。当然引っ掛かるものであり、山崎が問いただした。


『今のところはって、どういうことです?恵ちゃんが生き返るとでも?』


『いや、そう言うことじゃない。ただ、見つかった遺体が加藤恵だという確証がないんだ。……顔面どころか頭が砕け散っててな、照会に時間がかかりそうだ。今、加藤の家からとってきた加藤恵のDNAを照らし合わせてる途中らしい』


『……通報者は誰だ?』


『これまた匿名でな、「崖の下に人の形をした何かがある。大きさ的には子供だと思われる」通報があった。……現場となった崖はまたもや緑王山の中で、遺体は道路に面した茂みに落ちていたよ。その真上にはちょうど崖になっていて、どうもそこから転落したらしい』


『五歳の少女が一人でそんなところを出歩くか?』


『……そのことなんだが、どうやら加藤恵は三日前、夢福病院に入院していたようだ。いつまでたっても起きないのは病気が原因かもしれないか精密検査をするためにってな』


 今から三日前、つまり、加藤清と連絡が取れなくなった翌日ということだ。だから加藤清は夢福病院への調査を打ち切るよう電話してきていたのか。考え込む坂本をよそに、古賀は話を続ける。


『で、結果まだ世界に例がない難病だから、治療と研究のために入院させるってことになったらしい。……ところが、加藤恵はなぜか目覚めた。そして父に会うため、病院内から脱走した。職員が追いかけてこないか気にして、前方をよく見ていなかったことが原因の事故死と上は見ている』


『夢福病院に取り調べはしたのか?』


『いや、できなかった。加藤恵が入院していたっていうウラを取ることまでは受付でできたんだが、それ以上がな。加藤恵の担当医に会わせてくれって言っても、全く聞いてくれやしねえ。「担当医は忙しいのです」の一点張りで、しまいには副院長に追い返されたぜ。……大事な患者が死んじまったのに、随分と薄情だよな。アレが本当に「日本最高の病院」の姿か?』


 副院長……。夢野栄介だ。坂本たちも調査に向かった際、こっぴどく追い返されている。彼は警察そのものが嫌いなのだろうか。


『まあ、今の俺から話せるのはこの程度だな。後でDNA検査の結果が出たら教えてやるよ。……加藤清の事件の捜査本部が畳まれるとき、噛み付きまくったせいで監視がついてんだ。あまり長電話は出来ん。じゃあな』


 古賀はそう言って電話を切った。屋根がついた公園の休憩所には画面が暗くなったスマホを見つめる三人の成人がいた。




 あの後、坂本たちは警視庁への帰路を急いだ。これ以上部屋を開けているとまたもや向井に小言を言われてしまう。彼自体には特になんとも思わないが、彼によって時間が奪われてしまうのはどうしても避けたかった。その願いが通じたのか、駐車場にも、特別相談室までの廊下にも向井の姿はない。一同胸をなでおろし、部屋の扉を開ける。しかし、そこには向井の姿があった。


「……また許可もなく外出か」


「申請したところで許可なんか下りる訳ねえからな、するだけ時間の無駄だろ。……それより、どうやって入った?」


「なに、マスターキーの管理を警視総監殿から任されていてね。それを使っただけさ」


「……帰ってくれませんか?私たち、これから大事なことを話し合うんです。向井さんに使いたい時間は一秒もありません」


 普段、人見知りを発揮して特に何も言わない山崎が珍しく意見する。向井はそれにひどく腹を立てているようだった。


「……私だって、警視総監からの頼みでもなければ、一秒でもこんなところにいるものか。……まあ、残念なお知らせだ。昼あたりに忠告しただろう?『これ以上加藤清の死について調べるのなら、警察としての資格を剥奪する』と。……だが、君たちはその忠告を無視した。だから、その言葉の通りになる。……午後四時四十八分。現時刻をもって、坂本一輝・山崎凛・松本智康の三名を警視庁から除名する。即刻荷物をまとめること。……いい気味だな、ざまあみやがれ」


 向井は言うだけ言って部屋から出て行った。部屋に残された坂本たちは何も言わず、椅子へと座り込む。最初に口を開いたのは坂本だった。


「……いい機会じゃないか?これで上層部とのしがらみはなくなったんだし、これからは好きに調査できるぞ」


 他の二人には、それが坂本の精いっぱいの強がりであるように見えた。もとより人一倍の正義感はある。今の日本警察には適していないほどの奉仕精神、国民のために何かをしようという気持ちも。だからこそ、半年前の事件も今回の事件も調査を請け負うことに決め、そこら中を調べまわっているのだ。


「先輩、本当にそれでいいんですか?」


「……俺はもう年だからどうでもいい。だが、坂本と山崎にはまだこれからがある。……今からでも遅くはない。腹は立つがあの向井に頭を下げて、なかったことにしてもらうべきだ」


 そのことを誰よりも知っていた二人は、警察をやめようとする坂本を引き留める。彼ら自身に警察への未練はない。片方は職種の不適合で、もう片方は年齢で。しかし、坂本には警察をやめるべき理由はない。二人から引き留められた坂本はどうでもよさそうに笑っていた。


「いや、つくづく思っていたんですよ。俺にこの仕事は合わないなって。いつまでたっても上層部のご機嫌窺ってばかりで、国民のためになることは何一つしようとしない。税金泥棒と言われても仕方ないでしょう。……俺は、そんな悪の片棒を担ぎたくないんです」


「……もう決めたのか?」


「もともとそのつもりでした。先にあいつに切り出されたのは少し気に食わないですけど、最後にちょうど良い言い訳を用意してもらったということで納得しておきます」


「……じゃあ、お部屋の片づけ、始めましょうか?」


 彼らは一斉に立ち上がると、それぞれの荷物を片付け始めた。もともと持ち込んでいたものは少ないうえに、業務も他所から回される書類整理だけ。部屋にあった資料をしまい込んでいる段ボールを拝借し、何とかそれに収めていく。


「先輩、これ勝手に使っていいんですか?」


「大丈夫さ、まだここの管理人は俺たちだからな。段ボールぐらい好きに使っていいだろ」


「資料はそこらへんに放置か?」


「ええ。俺たちはここを出たらここの管理人じゃなくなりますから、知ったことではありません」


「……随分と割り切ってるな。憂さ晴らしか?」


「はい」


 大体の片付けも終わり、終業時間まで休憩として談笑していると、坂本のスマホが着信を知らせる。電話の主は古賀だ。


『もしもし?』


『ああ、坂本か?こちら古賀。時間は大丈夫か?』


『ああ、大丈夫だ。……それで、電話をよこした理由はあれか?あの崖の死体が誰なのかわかったのか?』


『そうだ。本部長から通達された情報では、あの死体は加藤恵本人で間違いないとのことだ』


 坂本は古賀の言葉に違和感を持った。何故解剖の結果を本部長が通達する必要があるのだ。普通は解剖班が結果を報告するものだ。同じような役割である松本もその違和感に気づき、問いただしていた。


『おい、ちょっと待て。なんで本部長からの情報なんだ?解剖班はなんて言ってる?』


『……機密情報のため、公開できないってさ』


 彼らはここで確信した。死んだのは加藤恵ではない。周りを嗅ぎまわられることを嫌がった犯人が圧力をかけ、本部長に一芝居うたせたといったところだろう。


『こうなると、俄然怪しいのは夢福病院だろうな。加藤恵が入院しているとも言っていたし、加藤清が勤めていた株式会社ドリーミアとも関係がある。だが、今やあそこは国内トップの医療組織、利権なんかも絡みまくってるだろうな。素人どころか本業の警察すら手を出せん。……そろそろ引き時なんじゃないか?』


『……ああ、そうかもな』


『そりゃよかった。じゃあ、明日からは普通に警官としての職務を全うするんだな。……じゃな、もう電話しないだろうけど』


 古賀はそう言うと電話を切った。特別相談室内には時計の針の音だけが響いている。その静寂に耐えきれなかったのか、山崎が口を開いた。


「先輩、本当に手を引くつもりですか?」


 坂本は当たり前のように言う。


「そんなわけないだろ。……そこまでして隠すってことは、絶対に人に見せらんねえ悪意があるってことだ。正直それはどうでもいい。だけどな、人が死んでんだ。それ見て捜査を諦めろって言われて引き下がれるかよ。……それに、わからないことだらけで終われるか」


 もはや意地でしかない坂本の決意表明に松本は大きく賛同した。


「よく言った坂本。そうだ、今の警官には職務に対する責任が足りんのだ」


「でも、私たちもう警察じゃなくなるんですよ。それなのに病院を調査なんてできっこないですよ」


 山崎は先の不安を口にする。彼女の言うことはもっともだった。しかし、ここで諦める程度の覚悟を決めたわけではない。


「……もう一度、ドリーミアの方に行ってみよう。次は、夢野栄介の資料を探すんだ」


「……夢野はドリーミアの経営顧問でありながら、夢福病院の副院長でもある。何かわかることがあるかもしれませんね」


「ああ。だが、行くとしても明日だな。あそこはもう電気が通ってない。今行っても真っ暗で何も見えないし、中でライトを照らしていれば通報されるかもしれない」


「よし。じゃあ明日、九時に駅前で待ち合わせでいいな?」


「はい」


「わかりました」


 明日からどう動くかを決めたところで、終業時間となった。普段はここから書類整理の残業時間に入るが、今日に限っては問題ない。先ほど片付けた荷物を持ち、三人は仕事の書類が来ないうちに部屋を出た。




 翌日、駅前。


「時間通りだな。坂本、山崎」


 九時、すでに待ち合わせ場所にいた坂本と山崎のもとに松本がやってきた。


「そりゃ、社会人として当然ですから」


「……もう社会人じゃありませんけどね」


 軽い冗談もそこそこに、三人は坂本が用意した車へと乗り込む。車はほどなくして出発した。車内は昨日古賀からもらった新たな情報のおかげでにぎやかになっていた。


「あの遺体は加藤恵だという本部長通達、その上解剖班に問い合わせると機密情報として追い返される……。素人でも何か隠されていると考えるのが自然ですね」


「最初っから夢福病院は怪しいとは思っていたが……。加藤恵を死んだと思わせるために、一人同年代の女児を殺すとはな。……何ともまあ、大層な病院だな」


「この情報を夢福病院にぶつけたらどうなるんでしょうね」


「さあな。でまかせ並べて逃げ回るのがオチだろう」


 夢福病院への愚痴を垂れ流していると、ドリーミアの跡地についていた。前まではなかった進入禁止という看板と、警察が普段使っている規制線が貼られている。しかし周りにそれを見張るような人はいない。坂本は規制線を手にぼやく。


「昨日、ここに入ったのを見られたか?」


「もし俺たちが見られたのなら、規制線じゃなくて見張りの人を立てるだろう。規制線を貼ったところで、俺たちは警察だ。こんなもので諦める訳がない」


「誰かが立ち入ったのは把握しているけど、私たちが入ったことは知られていない。……そんなところですかね?」


「ああ。……それに、規制線が貼られているなら、俺たちが出入りしてもいいわけがしやすくなる。……警察手帳は持ってきたか?」


 坂本の問いに、二人は胸ポケットから手帳を取り出すことで答える。これで、今から行う行為は『警察が規制線内を調査する』という行為にとどまることになる。彼らは規制線を押し上げ、昨日と同じ方法でドリーミア内へと侵入した。するとすぐに異変に気付く。先ほど入り口にあった規制線が社内のエレベーター前にも貼られているのだ。まるでここには入っていけないと強く主張しているように見える。


「……おい、コレ昨日はなかったよな」


「はい、私の記憶が正しければそうかと」


「エレベーターを使うなって言いたいんだろうが、そもそもここに電気は通ってねえぞ。使いたくても使えねえよ」


「やはり昨日、俺たち以外にも誰かがここに入って何かしらのトラブルを起こしたと考えた方がいいのかもしれません。使えないエレベーターに無理やり入り込んで何かしたとか」


「まあとにかく、事件と関係あるかどうかわからねえから保留にしとくか。夢野が使ってた部屋を探しに行こう」


 彼らはしばしエレベーターの前で立ち止まっていたが、夢野が仕事場としていたであろう事業部がある階を見つけ、階段を使ってその階へと向かった。四階には事業部の部屋と、大きな会議室。そして夢野栄介が使っていたであろう経営顧問室があった。彼らは早速その部屋へと立ち入ろうとするが、鍵のかかったドアに阻まれてしまう。


「ここだけ鍵がかかってるのか?」


 坂本はすぐ近くにあった会議室のドアに手をかけた。そのドアは侵入者を拒むことなく開く。昨日の記憶の限りでも鍵がかかっていた部屋などはなかった。すなわち、この部屋にのみ、鍵がかかっていると考えられる。彼らは確信に近いものを得ていた。


「まだ、この建物は必要らしい。そして、ここには大事な何かがしまってある。そんなところか?」


「おそらくそうかと。でも、鍵がかかってますよ、ここの鍵はさすがに会社内にはなさそうです」


「なら、こじ開けるしかねえよな。……坂本、行くぞ」


「了解」


 松本の呼びかけに坂本も答え、二人はドアの前で右肩を前に構えた。そして。


「せーのっ、おら!」


 二人同時にドアへと体当たりした。この場にはかなり大きな音が響いているが、ここは会社の中でも奥まった場所にある。少々騒がしくしたところで気づかれることもあるまい。それに気づかれたとて、彼らは警察のふりができる。その場しのぎさえできればあとは問題ない。二人の体当たりが五回目に達したとき、ついにその時が訪れた。二人の体当たりと同時にドアも壊れ、二人は部屋へと転がり込むような姿勢になった。


「あ、二人とも大丈夫ですか?」


「ああ。大丈夫だ」


「こっちもだ。俺もまだまだ若者には負けておらんな」


 こじ開けた部屋は絢爛が尽くされた部屋であった。床はすべて赤いカーペットで包まれ、来客用のソファなどはどこぞのブランドものとでも言えるであろうものだった。そのほかにも壁に掛けられた絵画や、埋め込まれた金庫。飾られた巨大な掛け軸など、目についたものすべてが高額なものに見える。


「……夢野は、思ってたよりもセンスが悪かったようだな」


 そんな光景を見た坂本は、そうつぶやいた。負け犬の遠吠えと思われるかもしれなかったが、そう言わずにはいられなかった。


「仕事場にこんな高いものを置いておくとは、随分と自分の会社のセキュリティに自信があるらしいな」


「まあ、入り口にあれだけ警備員置いてりゃセキュリティに自信をもって当然だろうけどな。……それにしても、なぜこれらをそのままにしていったんだ」


「いえ、それを言うなら『社内を一切片づけないで会社だけなかったことにしようとしたのはなぜか』の方がいいでしょう」


 山崎の言うとおりだった。昨日もそうだったが、なぜ働いていた時のまま、人だけがいなくなっているのだろうか。普通は少しずつ片付けたりして空きビルにするのではないか。まだここに何か利用価値があるということなのだろうか。三人は手分けして部屋の中を漁り始めた。絵画が飾られている壁の反対側には大きな本棚が置いてあるが、半分以上がどこかで聞いたような名前が作者の欄に書かれていた。ぱらぱらとめくって読んでみると、坂本はあまり読まない自己啓発系だということが分かる。それらの背表紙を眺めていると、夢野栄介自身が執筆したであろう本が棚にしまわれていた。タイトルは『夢をかなえる夢』というこれまた自己啓発らしい、気に食わない内容が書かれていることがよくわかるタイトルだった。こんなものに興味はないし、何か事件につながる手がかりを探す時間に読むものではない。適当に床に放り投げ、資料がしまわれているであろう鍵付きの棚へと移動した。こちらには南京錠で鍵がかかっているが、資料をしまっている扉はまさかのガラス製。少々衝撃に強くできているようだが、躊躇のない彼にとっては意味のないものだった。


「申し訳ないが、今から大きな音を鳴らします」


 坂本はそう前置きすると、リュックから軍手を出して身に着け、思いきりガラス戸を殴りつけた。三度ほど繰り返すと、いともたやすくガラスが砕かれ、中の物が取り出せるようになる。近場から引っ張り出し適当に開いてみると、どうやら帳簿のようだった。どことどのような取引をしたかが詳細に記されている。一見すればただの帳簿だ。動いている額は大きいが会社ならこんなものだろう。とある一人の名前を見つけるまで、坂本はそう思っていた。


「……北野、勇一。こいつも取引してたのか」


 北野勇一。昨日までの坂本たちの上司にして、警視庁のトップである警視総監の名でもある。取引はただ一度だったようだが、かなりの多額をドリーミアに対して支払っていたようだ。坂本は二人にもこの帳簿を見せる。


「あの野郎、一枚噛んでやがったのか。だからあんなに躍起になって圧力をかけてたってわけか」


「しかし、これ一体何の取引でしょうね。帳簿には『第一次予約』としか書かれていませんよ」


『第一次予約』という単語は、この帳簿内にいくつも登場している。この取引を行ったものはすべて企業名ではなく個人名であるのが彼らには引っ掛かった。


「『予約』か……。何か新商品でも売るつもりだったのかも知れないな」


 坂本が『予約』に対しての推測をしているとき、松本が思い出したように言った。


「……今さらで悪いんだが、ドリーミアって何の会社なんだ?ここは何を作ってるんだ?」


「……そう言えばなんでしょう。先輩、わかります?」


「いや、調べてなかったな。前にここのことをネットで調べた時、夢野の名前が出てきた時点で調べるのを切り上げてた気がする。……いや待て、ここはドリーミアだ。確か下の階に商品開発部があったはずだ。そこへ行けば何かわかるだろう」


「ここの資料はどうします?」


「……持って帰れるだけ持って帰るか。後で誰かが隠しちまうかもしれんぞ?」


「確かに、言うとおりになりそうですね。とりあえず帳簿と、何か情報になりそうなものは鞄に詰めていきましょう」


 そうして彼らは棚にしまわれていた帳簿類をすべて引っ張り出し、鞄の中へと詰め込んだ。紙束が詰め込まれた鞄は想像以上に重く、坂本がそれを背負おうとしたとき、少しよろめいた。その時、踏ん張るためとっさに踏み出した足が、先ほど床に投げていた本を蹴飛ばした。その本は蹴られた衝撃で床を転がり、表紙などが外れてくしゃくしゃになっていく。


「あ、先輩。本蹴飛ばしてますよ」


「ああ、さっき床に投げ捨ててたやつだ。悪いことしちまったかな」


「おい、勢いよく蹴りすぎだろ。表紙ぐしゃぐしゃだぞ」


 松本がそう言って表紙を手に取ったとき、呆れた笑いが一瞬で消え去った。


「……坂本、この本は蹴飛ばして正解だったぞ」


 松本はそう言うと表紙から一つの封筒をはがしとった。表紙の裏に貼り付けて隠していたようだ。


「な、なんですかその封筒。一体だれが、そんなところに」


「さあな。だが、これを隠した奴は相当これを見られたくなかったらしい。ここまで手の込んだ隠し方をするんだからな。それに、人の本の表紙をはがそうとする奴なんて滅多にいないだろうし、そんな粗暴な奴は今まで警備員がはじいてきたんだろう」


 動揺する山崎に対し、松本はやけに落ち着いていた。まるでこの手口を知っていたかのようだ。


「松本さん、もしかして予想でもしてました?」


「……ああ、一度だけ友人の代わりでな。刑務所の差し入れを調べる業務をしたことがあるんだ。その時、そこの所長さんからそう言う話は聞いてたよ。そん時は見つからなかったが、今思い出してな」


 松本は昔話をしながらゆっくりと、封筒を開ける。中に入っていたのは二枚の紙だった。松本は一枚目を音読する。


「……『貴社が開発予定であるドリーマー(仮称)について。政府より非公式に支援を行うことが決定された旨を通達する。ただしこれは、貴社が以下の要件を受諾した際にのみである。①同封した書類に記載された人名の者を、『第一次予約者』に繰り上げること。②開発完了後、直ちに全権利を政府へと移譲すること。③この件が表沙汰になった際、政府はいかなる責任も取らないこと。以上の要件を飲む場合、返信は不要。同意できない場合、7月31日までにその旨を記した書面を送付すること』……」


 三人は何も言わなかった。もはやこれは一個人の理解を超えたものだ。警視総監の名前が出てきた時点で随分とでかいヤマだとは思っていたが、まさか政府まで出てくるとは。三人は少しの間茫然としていた中、坂本が場をとりなす。


「……この会社はドリーマーってやつを作ってるってことでいいんですか?」


「あ、ああ。おそらくな。ただ、名前の横に括弧つきで仮称と書いてある。名前はまだ決まっていなかったようだな」


「それがどういうものかも書かれていませんよね。なら、今すべきはやっぱり商品開発部で調べ物をすることです。……そもそもこれは本当に政府から送られてきたものなのか、それが定かではない今これに振り回されるのは時間の無駄です」


「……ええ、そうですね。これが事実だろうと何だろうと、私たちがすることは変わりません。ただ、隠された真実を暴き出すだけですよね」


 あまりの規模にあっけにとられてはいたものの、何とか気を取り直してくれた。


「よし、商品開発部に行こうか。このドリーマーってやつが何なのか、調べに行くぞ」


「はい!」


 松本と山崎が一足先に部屋を出て行ったが、坂本は追いかけることなく本棚をじっと見つめている。そして、一冊の本を手に取った。タイトルは『獏』である。坂本は獏について少しだけ知っていた。確か人の夢を食べる妖怪の名だ。それがなぜこの自己啓発とビジネス書しか詰め込まれていない本棚にしまわれているのか。


「おい、坂本。何やってんだ?早くしろよ」


 部屋の外から松本の呼ぶ声が聞こえる。坂本は手に取った『獏』の本を鞄にしまい、部屋を出た。




 ドリーミアの商品開発部は、昨日訪れた営業部と同じ階にある。階段を降り、見覚えがある階層に出る。この階の七割ほどの面積を営業部が有しており、商品開発部は残りの三割、場所で言えば階段から最も近く、エレベーターから最も遠い位置に部署を構えていた。ここもやはり当然のように施錠されておらず、部屋に侵入者を拒むような気配もない。部屋の中は営業部以上に資料に埋もれていた。棚は当然、その周りの床にいたるまで適当に紙束が積まれており、最後まで緊迫した業務状態だったことが察せられる。坂本は適当に一枚手に取ってみた。そこには新開発の枕の情報が書かれている。反発性がどうだの、繊維の素材がどうだの価格がどうだの。専門的なことはあまりわからないが、この会社が何を作っているかはすぐに理解できた。


「……この会社は寝具を作っていたのか」


「どうやら、そうらしいな」


 そう言う松本の手にはマットレスの資料が握られていた。山崎は熱心にベッドフレームの資料を読み込んでいる。


「……これは、ディフューザーってやつか」


 睡眠の質を高めるため、リラックスできる香りを拡散させるための器具。どうやら睡眠に関するものは大抵手掛けているらしい。資料を漁るうち、新たな寝間着の開発や睡眠に適した音楽を収録したCDの販売計画もあったようだ。とりあえず床に築かれた五つの資料の山の内、一つは崩し終えた。中にドリーマーの名を冠したものはない。残り四つの資料の山に埋まっている。そう願って手を伸ばした時、山崎が止めた。


「どうした、山崎。何故止める?」


「私気づいたんですけど……。ドリーマーって仮称なんですよね。この資料に乗る時ってすでに正式名称になってたりしません?もしそうなら、私たちだけじゃわからなくないですか?」


「……大丈夫なはずだ。仮称から正式名称に変わる時、それの決定をした資料が残ってるはずだ。それが見つかれば、何とかなるはず……」


「それがなかったら?」


「……怪しそうなものをいくつかピックするしかないな。……もしあの手紙が本当なら、政府が金を出してまで欲しいものってことだ。生半可な物じゃねえ。超高額の新しいベッドとかがそれかもな」


 坂本はそう言いながら新たな資料に手を伸ばす。それを見た山崎も意を決したように資料を手に取った。


「……それにしても、ここはずいぶんといろんな商品を作ってるな」


 資料を見ているだけでは飽きたのか、松本が他愛ない雑談を始めた。


「これとかすごいぞ、睡眠の質を上げるチョコだとよ。……こういうの信じた事ねえな」


「どれも実用性が十分で、あればほしくなるものばかりですよねえ。なんでこんなに雑に置いてあるんでしょう?」


「さあな。どれも商品化済みだから、もう企画書に興味はないってことかもな」


「へえ~、そう言うもんなんですかねえ……。あっ!これ見てください!」


 その雑談の最中、山崎が声をあげ、持っていた紙を机の上に叩きつけた。資料のタイトルは『新商品の開発案⑮』となっている。まっさに目に入るのは資料に添えられた設計図である。三メートル近くもある巨大なカプセルであり、この中で睡眠をとることでこれまでにない休息ができると記されている。その商品の名はドリーマーであった。


「見つけましたよ、ドリーマー。これが、政府が欲しがったものなんですかね?」


「きっとそうだ。帳簿に書かれていた『第一次予約者』を押しのけてまで欲しいと願ったもののはずなんだが……」


「……思ってたよりも普通だな。あんな手紙書いてまで欲しがるものか?コレ」


 三人の疑問の種はドリーマーの機能だった。資料によると、動作中のカプセル内で睡眠をとると、中に搭載されているAIが使用者の睡眠を学習し、より寝やすい姿勢、環境へと整えてくれるという代物らしい。確かに、高性能で機能的だということはよくわかる。欲しいかと聞かれればすぐさま欲しいと答えるだろう。だが、これ以上の機能は何もないのだ。ただ、睡眠が改善されるだけなのである。政府の連中が他人を押しのけてまで欲しがるとは考えづらかった。


「でも、これは初期版ですよ。もしかすると改良版の資料がどこかにあるかもしれません。それなら、もっとすごい機能が搭載されているはずです」


「……そうだな。じゃあ、結局やることは変わらねえか」


 坂本はそう言って、また資料の山に向き合った。何枚もの資料を手にとっては流し読みして、机の上に積んでいく。そうしているうち、とあることに気が付いた。すでに目を通した資料の内、実に半分以上が夢福病院を取引先に設定されていたのだ。自分の会社で商品を開発して、自分の病院でそれを買い取る。病院が一度有名になってしまえば、二度と崩れることのない関係性だ。あの夢野とかいう男、これをつつかれるのを恐れていたから、警察のことを嫌っていたのだろう。確かにこれはあまり人に言えるような行為ではない。坂本は手に握った資料を見つめながら、そう納得していた。




 その後、山になっていた資料をすべて調べ上げても、棚にしまわれていた資料をすべて引っ張り出してもドリーマーに関するものは見つけられなかった。


「どうしてどこにもないんでしょう?あれには初期構想と書かれていたのに」


「改良の試案程度で止まったから資料を作る暇もなかったんじゃないか?」


「それか、計画がとん挫してそのままって可能性もありますね。……先輩、何見てるんです?」


 松本と山崎が資料がないことへの不満を話している途中、坂本はとある一枚の紙に釘付けになっていた。山崎からの問いかけも聞こえていないようだ。何を熱心に見ているか気になった松本は坂本の手元をのぞき込む。


「……これは、『獏』か」


 坂本が見ていた資料、それは『獏』と名付けられた機械だった。説明によれば、寝る前に枕もとで『獏』を起動させておくと悪夢を見なくなるという代物らしい。これを先に見つけていた松本は半笑いで言った。


「これ最初に見つけた時はちょっと笑っちまったぜ。たったこの程度のことで悪夢を見なくて済むとかそんなわけないだろ?」


「いえ、それは今どうでもいいです。……問題はこれです」


 坂本はそう言って資料の一部分、小さく書かれた言葉を指さした。松本はこの資料を先に呼んでいたはずだが、「悪い、小さすぎて読めなかった」と悪びれる様子もない。坂本は自身が指さした箇所を読み上げる。


「『試運転時にトラブル発生。上層部に報告したところ、予想外な効果を得たとのこと。よって獏の開発は上層部主導となる』……。この機械を作るのに、相当苦戦していたようですね」


「それが何だってんだ?ドリーマーと何か関係があるのか?」


「いえ、それはまだ何とも。ですが、夢野栄介は獏にかなり関心を持っていたようです」


 坂本は鞄の中から一冊の本を取り出した。


「それは?」


「『獏』というタイトルの本です。先ほどの部屋で偶然見つけて、なんだか気になったので持ってきました」


「これも獏か。獏と言えば夢を喰らう妖怪だよな……」


「ええ。それにそんな本があの部屋にあったということは夢野の獏への興味というのはかなり強かったのかと」


「だから何だと言われるとそれまでですが。……何がどうつながっているかはわかりません。ただ、何となく気になった程度ですから」


「……とりあえず、その『獏』とやらの設計資料も持って行こう。夢野の関心と上層部の興味を引いているんだ、何かの役に立つかもな」


 松本は『獏』の資料を四つ折りにして、坂本に手渡した。


「さて、ここでできることはもうねえだろうし、一回出るか。これ以上ここにいると見回りに来た誰かと鉢合わせるかもしれんしな」


 松本は椅子から立ち上がりながらそう言った。二人はその言葉に従い荷物をまとめると足早に会社を出る。会社前に止めていた車に乗り込んだ瞬間、ドリーミアの建物から何かが落ちて来た。それはものすごい音を立てて落ちて来たのだが、周囲の人はそれに気を取られることもなく通り過ぎていく。坂本は車の窓から何かが落ちて来た場所を探すが、それらしいものはどこにもない。もしや何かの音を聞き間違えたかとも思ったが、他の二人もその落下音を聞いていたようで、しきりに窓の外を覗いては、首をかしげている。


「そっちはどうだ?何もないか?」


「はい。何かが落ちて来たような気がするんですけど、それらしいものはどこにも……」


「俺、ちょっと出て探してみます」


 坂本はどうしてもその落下物が気になり、車から降りた。自分たちが会社から出たのを見計らったかのようなタイミングで降ってきた物を気にしないものはいないだろう。坂本は車から降りて会社前の道路や、向かいの道路のほか車の屋根の上にいたるまで探したが、落ちて来たであろう物はどこにも見つからない。あれだけの音を出すのだ、眼に見えないほど小さなものではないはず。そう思い熱心に探しても、それらしい傷跡すら見つけられなかった。坂本は結局気のせいだったのかと思い直し、車へと乗り込んだ。車内で待っていた二人には何もなかったということを伝え、ハンドルを握る。その瞬間、目の前に子供が落ちて来た。子供はボンネットにぶつかりすさまじい音を出した。坂本たちはすぐさま車を降り、子供の安否を確かめようとしたが子供の姿はどこにもなかった。


 


 同僚二人を自宅に送ったのち、坂本は帰路へ着いていた。頭の中はドリーミア前で起きた謎の落下音事件で埋め尽くされている。二階も謎の落下音が響いたが、どちらにも落下してきたものの正体がつかめていない。一回目にいたっては何が落ちて来たのかすらわかっていないし、二回目に関しても落ちて来た子供は誰だったのか、子供はどこへ行ったのかと疑問は尽きない。いたずら好きの子供の仕業であったとしても、はたしてここまでするだろうか。それに、もし子供のいたずらだったとして、どうやってボンネットの上に落ちるというのだ。


「俺が目を離した隙に車の屋根によじ登った……。いや、ありえねえな。もしそうなら少しでも車は揺れるはず、それで気づける」


 赤信号を前にして、坂本は独り言をつぶやいていた。彼は冷静に考えられる可能性をつぶしていく。坂本の目線は信号から目の前のボンネットへと移った。子供が落ちてきていたはずだが、それを示す凹みはどこにもついていない。それもまた、坂本が頭を悩ませる原因でもあった。そうして悩んでいるうち、信号が青へと変わる。前の車が動き出したのを見て、坂本もゆっくりとアクセルを踏んだ。だが、車の列はすぐに止まる。


「だ、誰か!救急車呼んで!」


 少し先の路地裏からそう聞こえる。窓から顔を出してみた先には女性が二人、助けを求めて叫んでいた。その助けに応えるためか、人手が集まった。まずは路地裏でどうにかなっているらしい誰かを動かすことにしたようだ。六人ほどで慎重に誰かを持ち上げ、道路わきへと運んでいく。その時、坂本は見た。運ばれて行っているのは田畑美幸だったのだ。坂本は急いで車を脇に止め、道路わきに寝かされた田畑のもとへと急ぐ。彼女は誰かが持ってきたAEDでマッサージを受けていた。何度も心臓マッサージが繰り返されるが田畑の意識が戻ることはない。そのうち、救急車が到着した。彼らはその場ですでに田畑美幸が死亡していると判断を下した。救急隊員は周囲に誰か関係者がいないかと探し回るが、坂本は名乗り上げる気にはならなかった。任意の取り調べで話した程度だ、知り合いという間柄でもない。田畑美幸は担架に乗せられ、病院へと運ばれていった。救急車に乗せられる時、子供が一人、田畑美幸の近くに座っていたように見えた。




 多少のトラブルはあれど無事に家に着いた坂本は、今日手に入れた資料の整理をしていた。じっくり読み込めなかった帳簿だったり、適当に引っ張り出して来た紙束だったりに目を通していく。偶然ではあったが、おそらく夢野の部屋であっただろうあの鍵のかかっていた部屋。あそこで手に入れた資料には『獏』の開発の過程が記されているものがあった。


『先月の8日、商品開発部より報告を受けた。『獏』の挙動が安定していないとのことだ。『獏』の元々の役割は対象者の悪夢を吸い取り、快適な睡眠をサポートすること。しかし、今回確認された挙動では『獏』が吸収した悪夢を消化し削除するといった機能が作動しておらず、次の対象者に取り込んだ悪夢を流し込んだとのことだ。対象者はそれにより、前の対象者の夢を続きから体験することになっていたようだ。これでは本来の役割とは違う、どうにかして問題を取り除かねばならない。上層部に通達の上、これからは上層部管理下で『獏』の開発を進める。夢野』


「……夢を移せるのか。どんな原理かはわからないが、おそらく碌なものではないな」


 坂本は資料の続きを読んだが、どうやら脳波が関係しているらしいということしかわからなかった。まとめられた紙束を一枚めくると、夢野の経営者方針らしき文が残されていた。


『あれから、『獏』の改良実験を開始した。しかし、期待された効果は今のところ得られていない。一度吸収された夢を削除する方法、これが見つからない限り『獏』の完成はない。いかなる方法を用いても必ず完成させる必要がある。各員総力を挙げ、『獏』の完成に努めてほしい。夢野』


 これを見る限り、夢野は相当『獏』に固執していたようだ。理由は今の所わからないが、相当獏に思い入れがあることは間違いないだろう。坂本はまたページをめくる。


『『獏』完成の効果的な案が提示された。避雷針だ。雷を避けるため用意される、言いかえれば生贄。生贄に悪夢を流し込めば『獏』が吸い取った悪夢はなくなる。手間はかかるが確実に悪夢を『獏』から吐き出させることができる。しかし、これには人道的な問題が付きまとう。これは最終手段にしたいものだ。夢野』


 この手記を読んだ坂本に、とある説が浮かんだ。それは夢野達ドリーミアの上層部が『獏』が吸い取った悪夢の吐き出し先として加藤恵を選んだのではないかという説である。まだ二枚、資料が残っているがこの中で効果的な解決法が提示されていなかった場合、この説の有力さは増す。


「だが、そうだった場合。どうして夢野達は加藤恵を選んだんだ?」


 おそらくこの説を確定させるため、最も重要なのがこの問題だろう。悪夢を見させるというのにわざわざ精神的に未熟な子供を用意する必要はない。その上、加藤恵をめぐっては加藤清と田畑美幸の死亡が発生している。これらの死亡も偶然とは思い難い。さらに、加藤恵自身は夢福病院に入院しているらしいが、その真偽すらあやふやだ。残りの二枚に答えが記されていることを祈りながら、坂本はページをめくった。


『やはり無理だ。誰かを悪夢の生贄にするというのは非人道的行為が過ぎる。贄となる者は悪夢を見るために眠らなければならない。それは、我々の想像をはるかに超える苦痛だろう。いくら金を積んだとてやりたがるような者などいない。……『獏』は、失敗だ。夢野』


「……諦めていたのか。『獏』を作ることを」


 夢野は思いとどまっていた。自らの成果よりも人としての尊厳を守ることを選んでいたのだ。


「じゃあ、加藤恵はどこに行ったんだ?」


 坂本の説は一瞬にして瓦解した。もとよりそこまで筋が通ったものではなかったが、何より調査のきっかえのようなものが欲しかった。何もわからぬ手探りの中、手掛かりすら間違っているとなればこれからどうすべきかの方針すら定まらない。しかし、『獏』に関するであろう書類はあと一枚、残っている。これに何か記されていれば。坂本は縋りつくように最後の一枚に目を通した。


『思いがけないことが起こった。まさか福嶋院長が『獏』を欲しがるとは。……もとより取引先である福嶋院長には、『獏』のことを逐一報告していた。その途中、予定されていた効果が得られないことを伝えると「それでも構わない」とおっしゃった。彼が『獏』をどう使うのかはわからない。けれど、我々が持っていたところで無用の長物。予定通り福嶋院長へと『獏』を引き渡すこととなった。夢野』


「福嶋院長……。夢福病院の院長か。なるほど、曲がりなりにも院長なだけある」


 それが加藤恵の失踪と関連しているかどうかはまだ確定していない。だが、あの病院は加藤恵が入院しているとのたまった挙句崖から落ちて死んだという嘘までついた。関係していないと判断するほうが不自然だろう。やはり調べるなら夢福病院か。……これからの方針が定まり、じっと資料を見ていた坂本は大きく伸びをした。凝り固まった関節が悲鳴を上げる最中、坂本の目にとあるものが止まる。それは、夢野の部屋から持ってきた『獏』の本であった。獏の伝承や生態、当時は獏がどのような捉え方をされていたかなどが記されている。これも、もしかしたら事件に関係あるかもしれない。坂本は本を手に取り、開いた。読み進めていくと、とある記述が目を留める。『獏が食べた夢を他の者が見る方法』と記されていた。


「夢野はこれを参考にしたのか……」


 どうやら獏は人から吸い取った悪夢を消化した際、それを小さな玉にして体から排出するようだ。それを御香にして焚き、その煙が充満した部屋で寝ることで夢を共有できるとのことだ。夢野はこの小さな玉という部分を寝ているときの脳波に置き換えたということだろう。


「問題は福嶋がこれをどうしたかってところだろうな」


 夢野が手掛けた獏は失敗に終わった。しかし、福嶋はそれが失敗してしまったことを知ったうえで取引通り引き渡すことを要求した。何か彼の頭の中で獏をどうするかの計画が進行していたことは間違いなさそうだが、確かめる術はあまりない。……坂本は時計を見上げた。


「……十一時か。もう寝よう」


 資料の読み込みに加えて本を一冊読んだからか、すでに深夜となっていた。すでに風呂は済ませている。夕食はとっていないがそこまで腹はすいておらず、そのまま眠ることにした。




「坂本君、居眠りとはずいぶんと大層な仕草ではないかね?」


 坂本は聞き覚えのある声に目を覚ました。目の前には警視総監の北野勇一が立っていた。ブクブクと太っているおかげで横の体格だけは立派だ。彼はそれを貫禄だと信じてやまないらしいが。


「坂本君は退屈なのでしょう、警視総監殿のお話も耳に入っていない様子ですし。全く困った新人ですな」


 横から口をはさむのは向井英二。警視総監の腰ぎんちゃくで飯を食っている情けない男で、仕事内容は北野のご機嫌取り。そのためなら三回回ってワンと鳴くことすらやりかねない恥を知らない男だ。


「……何の話だ、俺はもう警察の人間じゃない。向井、あんたがそう言ったんだろ?」


 坂本が見渡す限り、彼らがいる部屋は警視総監の部屋だ。三人はソファに座り何かを話していたようだが坂本にその記憶はない。ただ、昨日自分が警察の人間でなくなったことははっきりと理解している。ならばこんなところにいるのはおかしい。面と向かってそう言うと二人は困ったように顔を見合わせた。


「向井君、この新人を採用したのは誰だね?全く教育がなっていないじゃないか?」


「申し訳ございません。こいつは松本からの推薦で決まったので、私としても拒否できず……」


「松本か……。仕事はできるし部下からの信頼も厚いが、人を見る目はないようだな」


 坂本は困惑していた。警視庁へは推薦なんかで入った覚えはない。必死で試験を受け、合格をつかみ取った。……この時点で坂本はこれが夢だということを理解した。いきなりあり得ない状況に、普通では考えられない話の展開。どれも夢ならば説明がつく。坂本は深くため息をついた。


「おい、坂本。北野総監の前でため息なんて失礼だとは思わないのか?」


「どうでもいい。さっさと本題に入ってくれ。なんで俺はここにいるんだ?」


 彼が選んだのは事態の進展であった。夢ならばキリのいいところで勝手に目が覚めるだろう、そう考えたのである。


「おいおい、自分が話を聞いていなかったくせになんだその態度は。少しは反省したらどうなんだね?」


「小言を言うために俺を呼んだわけじゃないだろう。人の時間を奪っている暇があるなら、少しでも早く本題に入るのが賢い人間の行動なんじゃないのか?」


「……そうだな、すぐに本題に入るとしよう。……坂本君、君は近頃許可も取らず部下を連れまわしてどこに行っているんだ?」


「加藤清の事件について調べている。そのためにドリーミアに行っていた」


「それは、やめるように言ったはずだが?」


「わかりました、なんて一言も言ってない。どうするかは俺次第だ」


「……そうか。なら、問題児の対処をどうするかは私次第ということでいいね。……こちらへどうぞ」


 北野がそう言うと、ドアが開いた。白衣に身を包んだ者がぞろぞろと入ってくる。坂本は彼らに見覚えなどなかったが、最後に入ってきた人物だけは別だった。


「……夢野。何故ここに……」


「警視総監殿から連絡を頂いてな。夢福病院の周りを嗅ぎまわっている厄介者がいるらしいとな」


「夢野さん、こいつは実験台にでもするか内臓を取り出して売りさばくか、お好きなようになさってください」


「ええ、ありがたく頂戴しますよ。……押さえろ」


 その言葉を聞いた瞬間、坂本は部屋から飛び出していた。夢野の部下は反応が少し遅れ、坂本を間一髪で取り逃がしている。坂本が部屋から飛び出すと、右の曲がり角から山崎が顔を出していた。彼女は坂本が外へ出てきたところを見つけると、「先輩、こっちです!」と逃げ道を示した。追手はまだ坂本を見失っていない。角を曲がり、山崎の案内に従って階段を駆け下りる。追手の研究員たちも必死に追いかけるが、『医者の不養生』というのは正しいのだろう、すぐに息をあげていた。


 坂本たちはその勢いのまま、階段を駆け下りる。このままいけば駐車場に出るはずだ。見張りの者などはおらず、簡単に駐車場に出られた。


「先輩、こっちです。松本さんが車を用意しています」


 山崎の案内に従って歩いていると、一台だけエンジンがかかった車があった。車の主は窓から顔を出し、二人の無事を喜んでいる。


「山崎、よくやった!坂本、早く乗れ。さっさとずらかるぞ」


 山崎は助手席に座り、坂本は後部座席に転がり込んだ。松本は急いで車を発進させる。追手は車を見つけられることなく、無事に警視庁から離れられた。松本はそのまま車を走らせる。カーナビにどこか目的地を設定しているのか、逐一道案内の音声が流れる。


「松本さん、どこに向かっているんですか?」


 返事はない。いつの間にか車内は静かになっていた。坂本は松本が運転で忙しいのだと判断し、助手席にいるはずの山崎に尋ねた。


「山崎、目的地をどこに設定したんだ?」


 しかし、返事はない。それどころか山崎、松本の姿すらどこにもなかった。まるでその代わりのようにある人物がハンドルを握っていた。


「加藤、清……」


 ハンドルを握っていたのは加藤清だった。助手席には田畑美幸が座っている。虚ろな目でひたすら前を目指している。車は山道へと入った。急な坂道でも一切スピードを緩めることなく駆け上っている。いつの間にか坂本の隣には小さな女の子が座っていた。顔はぼんやりとしており、これといった特徴がなく記憶に残りづらい顔だ。そして山道に入っていた車は森の中へと進路を変えていく。凄まじく揺れる車内では、ただカーナビだけが声を発していた。


「この先、崖です。この先、崖です。この先、崖ですこの先崖ですこの先崖で」


 車が宙を舞った。坂本はこれが夢だということをすでに忘れており、衝撃に備えて目を瞑って歯を食いしばった。そして、車が地面へと衝突するその瞬間。


「……はあ……。変な夢だった」


 目が覚めた。車と地面の衝突から逃げるように跳ね起きた坂本はベッドの上で大きくため息をついていた。今までにない寝汗で寝具がぐっしょりと濡れてしまっている。疲れも全く取れておらず、体にだるさが残っている。時間を確認するため、ベッドわきのテーブルに手を伸ばし、気づいた。昨日リビングに置いていたはずの獏の本がここに置かれていた。坂本は何も言わず、ただ獏の本を手に取って表紙を眺めていた。




「先輩、なんか調子悪いですか?」


 午前八時半。今までは警視庁の特別相談室に集まっていたが、もうそこは使えない。そこで仕方なくだが、資料を保管している坂本の家に集まっているのだ。坂本は起床後シャワーを浴びて気分転換を図った。多少さっぱりしたとはいえ、一晩休めなかった疲労感というものは容易くごまかせるものではない。山崎と松本が用意した朝食を食べているとき、山崎が心配そうに言った。


「……昨日、よく眠れなくてな。夢見が悪かった」


 隠すこともない。そう判断した坂本は素直にそう返事した。山崎と松本は驚いたように目を合わせると、夢の詳細を知りたがりはじめた。


「先輩、それどんな夢でした?」


「覚えてる限りでいい。話してくれないか?」


 たかが夢の話だというのになぜそこまで躍起になるのか、坂本にはさっぱりわからないが、正直に答えた。坂本の夢の話に、二人は異常なほど興味深く一言も聞き逃せないといった様子である。そうして黙って聞いていた二人は坂本の夢の顛末を聞き終わったとき、普通ではありえないことを言い出した。


「……これが、今日俺が見た悪夢だ。いや、悪夢ってほどじゃないが……。まあとにかく今日見た夢は、今話した通りだ。……二人とも、どうかしたか?」


「……同じです」


「何が?」


「先輩が今日見た夢、私と松本さんと同じなんです」


「……何だと?」


「先輩の家に向かっている途中の交差点で松本さんと会いまして、朝食の調達がてら話をしていたんです」


「そん時に俺が『今日変な夢見て寝れなかった』ってぼやいたら、山崎が『私もです』ってな」


「はい。そこで二人が見た夢を照らし合わせていくと、途中まで全く一緒だったんです」


「途中まで?いったいどこまでだ?」


「車の行き先に疑問を感じ始めた段階だ。坂本もそうだっただろう、俺が運転手で山崎が助手席。で、お前が後部座席だった。そうだな?」


 何だか話してはいけないことを話している気になった。それでも、この異常な一致を偶然で片づけられるほど鈍感ではない。


「はい、そうでした。……車の行き先が気になって、運転手に声を掛けたら……」


「そう、運転手が変わっていた。私もそうでした、運転手は加藤清に変わっていました」


「俺は違った。助手席に座っていたのがいつの間にか田畑美幸に変わっていた。……だが、坂本の言う謎の少女は出てきていない」


 坂本はその言葉を聞き「え?」と口から驚きが滑り落ちた。


「私もです。後部座席に乗っていた先輩も姿を消していまして、車には加藤清と二人きりでした」


 坂本は腕を組んで考え始めた。何故二人と同じような内容の夢を見たのか、なぜ二人とは違って謎の少女が夢に出てきているのか。『獏』からの影響とはいえ、あれは昔の伝承。今もまだ獏が生きているとは考えづらい。いや、そもそも獏は誰かに決まった夢を見せる動物ではない。考え込む坂本を前に松本は自分の推測を話す。


「まあ、詳しいことはよくわからないが……。よくあるだろ、『夢でのお告げ』っていうのがな。資料を持って帰ったのは坂本だ、それが引き金になって坂本にだけお告げが降ってきたのかもな」


「そんなことあるんですか?ちょっと非現実的過ぎません?」


「何言ってんだ、半年前に何があったか忘れたか?あんときは……」


 松本と山崎の言い合いはすでに坂本の耳に入っていなかった。彼の頭にあったのは、知らずのうちに寝室に現れていた『獏』の本だった。




 朝食を取り終えた三人は、昨日手に入れた資料の整理をしていた。必要そうなものと、そうでないものを仕分けるだけでもそれなりに時間がかかる。気づけばあっという間に十二時を過ぎていた。昼食の最中、山崎が疑問を口にする。


「私たち、これからどう動きましょうか?」


「そりゃ、夢福病院に殴り込みよ」


 松本は意気揚々と答えるが、坂本は案外乗り気ではない。


「前回は、まだ合理的な理由をでっちあげていられたから乗り込むのも可能でした。しかし、今回はそうもいきません。俺たちは『病院内を調べさせてほしい』と言わなければいけないんです。向こうがそれに応じると思いますか?」


「……なら、また誰かから通報があったことにして……」


「それも難しいかと。株式会社ドリーミアは警視総監である北野とも何かしらの取引をしていた。そのことからパイプがつながっていると考えるのが自然です。俺たちがとっくのとうに警官の資格を剥奪されていることも知っているでしょう」


「じゃあどうするんだよ、ここで終わりって言いてえのか?」


「……忍び込みます。夜、闇に紛れて」


 坂本が思いついた唯一の手段、それが夜に忍び込むことだった。


「夜間中なら、人の目も少なくなります。その間に、病院内を調べつくすんです」


「……先輩、それは無茶では?それなら、誰かが入院して調べる方がまだ立ち入りやすいですよ」


「加藤清の話を忘れたか?彼は加藤恵が入院させられたとき、一度も病室に立ち入っていない。受付で追い返されているんだ。そもそも俺たちの顔・名前はとっくにマークされてるだろう。入院しようとしたところで怪しまれて終わりだろうな」


「……いつ決行だ?」


「準備が要ります。目立たないための服、あとは鍵を開けるための針金と、ガラスを割る用の金づちとガムテープ。これぐらいでしょうか。それさえ準備出来れば、今日にでも」


 提案者である坂本と、もとより血の気が若干多い松本の二名は忍び込むことに乗り気なようだが、山崎だけはそうではなかった。


「先輩、考え直しましょうよ。見つかったらとんでもないことになっちゃいますよ?もっと別のやり方で……」


「……俺は、卑怯な手段はあまり好きじゃない。できれば正々堂々、それが信条だった。けどな、今それすら馬鹿にされてんだ。正々堂々真面目に裁判で勝負しようとした加藤清は裁判を拒否されたあげく謎の死を遂げた。あいつらがズルをするってんなら、俺だってやってやる。真面目な奴を馬鹿にする奴がいるなら、俺がそいつを馬鹿にするんだ。……警察を目指したのも、これが理由だ。子供みたいだろ?……嫌なら来なくていい、俺だってわかってる。これがあぶないことだってことはな」


「……いえ、私も行きます。ここでやめたら、警察として働いていた間の私の意味がなくなってしまいます」


 山崎は坂本の独白を受け、意を決したように返した。口を出さず眺めていた松本は満足そうにうなずいていた。


 


 午後八時、埼玉県緑王山山中。坂本は暗い山道の中、車を走らせていた。同乗者には山崎と松本、そしてもう一人。


「いきなり呼ばれたから何をするかはさっぱりわからなかったが、病院に忍び込むとは。いい度胸してるじゃねえか」


 埼玉県警の所属、古賀刑事だった。病院に忍び込むと決まったとき、坂本が連絡を取っていた。坂本は彼に見張りをさせるつもりでいる。その旨を伝えると古賀は楽しそうに笑った。


「いい作戦だな。……前に『病院内から脱走者が出た』って話があったろ?お上があれを真に受けてウチの所から警備を派遣しようと考えていたらしい。で、坂本から連絡をもらった俺が名乗り出たってわけだ」


「相当怪しまれたんじゃないか?解剖の結果も嗅ぎまわっただろ?」


 古賀の行動に松本は心配そうに尋ねる。彼はそれをへでもないことだと強調した。


「なに、『反省してるんで任せてください』って一回頭下げればこの通りですよ。お上の人ってのは頭を下げることができませんからね。頭を下げれば済むことなのに、下げないでいるから面倒なことになる。いつまでたっても学習しねえもんですな」


「いやまったく、その通りだ。お前、まだまだ若いのに見どころがあるじゃねえか」


「『目利きの松さん』にそう言われるなんて、ありがたい限りです」


 古賀はずいぶんと松本と気が合うらしい。本格的な顔合わせは先ほどだというのに、十分足らずですっかり打ち解けている。後部座席で豪快に笑う二人から目をそらした山崎は運転中の坂本へ話しかけた。


「それで、先輩。病院に着いたらどう動きます?」


「……まずは、古賀だけで動いてもらう。病院の周りにはすでに部下がいるんだよな?」


「ああ、一足先にいって話を通してくるって言ってたぜ。それと、九時から警備開始が決まったってこともついさっき連絡が来た」


「よし。……古賀には目立たないように出入りできる入り口を探してもらう。おそらく関係者用の裏口あたりがねらい目だ。『警備の穴を探してくる』とか何とかいって探して、見つけたら連絡をくれ」


「そのあとはどうする?」


「俺たちが茂みの中から直接その地点を目指す。だから古賀は具体的な場所の説明を頼む」


「ああ、任せてくれ」


「そこから無事侵入出来たら、俺たちの番だ。なるべく音を立てないように夢野、または福嶋が使っているであろう部屋、院長室と副院長室を目指す」


「加藤恵は探さなくていいのか?」


「……個人的な予想だが、そう簡単には見つからないだろう。わざわざ他人の命を使ってまで偽装しようとしたんだ、どこかに幽閉されている可能性も考えられる」


「もしそうだとして、どうしてそこまでする必要があるんですかね?」


「それを今から調べるんだ。……さあ、ついたぞ」


 午後八時半、坂本たちは夢福病院へと到着した。普段は清潔さの象徴として扱われているであろう外壁の白さも、今では不気味な無機質さを醸し出す要因になっている。ところどころ光っている非常口や火災報知機のランプが、まるで目のようにこちらを照らしている。この病院はまるで巨大な生き物のように見えた。


「じゃあ、古賀。頼むぞ」


「ああ、任せとけ」


 古賀は意気揚々と車を降りて病院へと入っていった。どうやらまだ玄関前の施錠はされていないらしい。ガラス張りになった入り口からは古賀が受付と話しているのが見えた。


「大丈夫ですかね?」


 山崎は心配そうにつぶやく。自分たちだけならまだしも、古賀という他人まで巻き込んでいるからかいつもより気弱そうだ。


「きっと大丈夫だ。……何の根拠もないが、そう思っておくのはただ怖気づいているよりも幾分マシだろう」


「……そうですね、ありがとうございます。先輩」


 何とか山崎をなだめていると、古賀が病院から出て来た。遠くから手招きで「こちらに来い」と伝えている。


「……行くぞ」


 三人は車から降りた。夜の山は季節の関係もありよく冷える。坂本は一度身震いすると、寒さにやられないうちに古賀のもとへ歩き始めた。予定ではすでに古賀の部下たちが警備についているはずだったが、どこにも人の姿はない。古賀の案内に従って病院裏まで来た坂本は古賀にそのことを問いただした。


「古賀、部下はどこ行ったんだ?」


「……まだ来てねえってよ。今は八時四十分、警備開始は九時からだ。俺はすっかりもういるもんだと思ってたが、見通しが甘かったらしいな。まあ、20分前だからな、当然と言えば当然だろう」


「早めに来たおかげで楽ができるんなら、それに越したことはねえな」


「ああ、ここなら今の風向き的にもそこまで冷えないだろう。俺は今のうちに部下に『俺が裏を回る』って送っとくから、お前らは出入り口の確保でもして来い」


「ああ、そうするよ。ありが……」


 坂本が礼を言おうとしたその時、古賀が手のひらを向け、それを制止する。


「待て。礼はすべてが終わった後、お前のおごりで飯を食いに行った時だ」


 彼はどうやらハナから失敗するとは考えていないらしい。その楽観的な考え方が今の坂本たちにはありがたかった。


「……わかった。じゃあ、行ってくる」


「おう。無事に加藤恵を連れ出してきてくれよな」


 古賀は手を振って坂本たちを見送った。彼は自らの上司や部下といった仲間をほぼすべて裏切ったうえで、真実を求める彼らに協力してくれている。その期待を、台無しにすることは許されない。今一度決意を固めた彼らは、目的地である関係者用の裏口だ。まだ古賀の部下が来ていないおかげでそこまで人目を気にせず歩き回れる。そして、正面玄関の真反対側にようやく『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたドアを見つけることができた。だがその瞬間、彼らを最大級の誤算が襲う。


「……パスコード式、だと……?」


 関係者以外立ち入りできないこのドア、防犯意識が行き届いているせいかまさかのパスコード式なのである。このドアを開けるためには、ドアノブの上に設置されたテンキーから正しい数字を正しい順番で押さなくてはならない。彼らにとってはただの断崖絶壁よりも難攻不落だといえよう。暗証番号が四桁だとしても、総当たりで一万通り。今から始めた場合、日を跨ぐどころか明るくなってしまうだろう。そもそも暗唱番号が四桁とも限らない。三桁かもしれないし、五桁以上かもしれない。それすらわからぬ状態でパスコードを前にするのはもはや絶望とそう変わらない。ドア前で固まっていると、遠くから声が聞こえてくる。


「古賀さん、ただいま到着しました。お待たせして申し訳ありません」


「ああ、構いやしねえ。俺は責任者だからな、一足先にいるのは当然ってなもんだ。……じゃあ、先に言った通り、俺は裏の警護に回るぜ」


「はい、よろしくお願いいたします!」


 どうやら古賀の部下が到着したらしい。それを受け、古賀もこっちへとやってくる。ドアの前で立ち尽くす彼らを見て、古賀は何を思うだろうか。そう焦ったところでこのドアが開くわけでもない。結局何をどうすることもできず、古賀に見つかってしまった。彼は坂本たちの姿を見つけると、足早に寄ってきて小声で話した。


「おい、お前ら何やってんだ?あれだけ時間があったのになんでまだここにいるんだよ」


「ドアが開けられねえ。パスワードがいるんだ」


「パスワード?……他に出入り口は?」


「ねえ。あとは正面玄関だけだ」


 古賀にとってもパスワードをどうにかすることはほぼ不可能だ。唯一の手段として受付などの職員に尋ねるという手段があるが、怪しまれて当然だろう。都合の良い言い訳など思いついていないが、彼はそれに賭けることにしたようだ。


「……今から、受付に聞いてみる。もしかしたら教えてくれるかもな」


 古賀はそう言って正面玄関を目指して一歩足を出した。その瞬間、そのドアから鍵が開く音が聞こえて来た。彼らは瞬時に理解した。「誰か出てくる」と。古賀を除いた三人は急いで茂みに身を隠し、古賀は壁に寄りかかって警備している体を装う。何かあれば身を挺して彼らを逃がす心構えを作っていた。だが、中から出てくるはずの誰かは一向に出てこない。古賀はそのことをいぶかしみつつ、ドアへと近づき聞き耳を立てる。その後すぐ坂本たちに向けて、首を振って何も聞こえないということをジェスチャーした。


「……誰もいないのか?」


 ドアの方まで寄ってきた坂本が古賀に問う。


「ああ。鍵の開く音はしたんだがな。誰も出てこねえし、近くで足音も聞こえねえ」


 彼はそう言うとロックがかかっているはずのドアノブに手を伸ばす。音を立てないようゆっくりと回して、ドアを引き開けた。


「……誰かが俺たちのためにドアを開けてくれたってことか」


「その誰かって?」


「さあな。……とにかく、俺たちはここから病院内に侵入する。見張りを頼んだぞ、古賀」


「ああ、任せとけ」


 彼ら三人は見張りを古賀に任せ、病院内へと足を踏み入れた。どうやらここはちょうど受付の裏あたりで、この病院で働く職員たちが使っているロッカー室や、看護師達用の仮眠室が備えられていた。廊下の突き当り、受付へと続くドアからは明かりが漏れ出している。彼らは足音を立てないよう、慎重に歩き始めた。最初の目的地は、ロッカー室である。


「あった、これならちょうどいいだろ」


 彼らの目的、それは変装用の衣服を調達することだった。一般人の私服で歩き回っていれば当然怪しまれる。だが、白衣や看護服を着て歩いていれば、患者から怪しまれることはほとんどないし、職員たちにもバレづらい。夜間のため照明がほとんど消されているのも、彼らにとっては有利な状況だった。三人はそれぞれ身の丈に合った白衣に身を包み、職員用の階段を使って二階へと向かった。


 二階も先ほど外から少し確認した通り、ほとんど明かりはない。まともに見えないため明かりを持ち出そうかとも思ったが、ここの医者が夜の巡回でライトをつけて周っているかどうかはわからない。万が一の時、闇に紛れることも考えて、スマホのライトはつけないことにした。真っ暗な病院内はそれだけでも雰囲気がある。それに加えて彼らには、『扉を開けてくれた誰か』という存在が頭を離れない。そのせいか普段では一笑に付しているであろう言葉がつい口から飛び出てしまう。


「先輩、恵ちゃんは一体どうなっていると思いますか?」


「……さあな。死んでないことを祈るだけだ」


「お前にしちゃ随分と弱気だな、坂本。何か思う所でも?」


「……俺たちは、埼玉県警が出した加藤恵と思われる死体の解剖結果を信じずにここまで来ました。……ただそれを、信じないでいるに足る証拠を俺たちは持ち合わせていないんです」


「どういうことだ?」


「あの死体は本当に加藤恵のもので、この病院や埼玉県警の上層部が言っていることは正しかった。俺たちは冤罪を作りに行っているんじゃないかということです」


 二階中央、雑誌などが置かれる憩いの場で坂本はそう語った。松本は顎に手を添え、頷くことしかしていない。今彼らは自分たちの行いが本当に正しいのか、まさに闇にとらわれているのだ。


「……いえ、私たちは正しいですよ」


 そう言ったのは山崎だ。彼女には何か確たる証拠でもあるというのだろうか。


「先輩方、私たちは先ほど、ここにどうやって侵入しましたか?」


「……そりゃあ、関係者用のドアを通って、だが」


「そのドアは誰が開けたんでしょう?」


「……わからないな。病院の関係者であることは間違いなさそうだが」


「あのタイミングで、ドアだけ開けて去るということは私たちが動いていることを知った何者かによるものと考えるべきではありませんか?その協力者が手引きしてくれるということは、この病院内には何か胡散臭いものがある、そのはずです」


「……その協力者って誰だよ、この計画を知ってる奴は俺たちのほかには古賀しかいない。そんな奴がいるとは」


「では、なぜあのドアは開いたんです?」


「誰かが使おうとしたんだろ?」


「五分待っても誰も出てきませんでしたよ。忘れ物を取りに行ったとしても遅すぎますし、私たちがロッカー室に立ち入った時点で鉢合わせになるはずです。そもそも外に行く用事がなくなったとして、一度開けたドアをそのままにする人はいるでしょうか。ましてや職場で」


 彼女の目は真剣そのものだ。彼女は本気で、『協力者』の存在を信じている。その正体はいまだ不明だが、そうでも考えない限り、ドアが開いた理由を説明できなくなる。山崎からの説得に、二人もようやく納得したようだ。


「……わかった。もう迷うのはやめる、切り替えていくか」


「そうだな。ここまでわき目もふらず来たんだ、今さら足踏みする理由なんかねえ。……ありがとうな、山崎」


 そう言って。ベンチに座り込んでいた坂本は腰をあげる。その時、彼の目の端に何かが映った。


「誰だ?」


 坂本はそう言って何かの方を見ると、五歳程度の少女がこちらを見ている。二人もその子供に気づいたようだ。


「……バレましたかね?」


 山崎は心配そうに小声で言うが、子供はこちらをじっと見ていたかと思えば、階段を上がっていった。腕だけを精いっぱい伸ばして、手招きしている。


「『こっちに来い』……ってことか。どうする、坂本」


 その時坂本はひどく頭が痛んでいた。あの少女のせいなのかは定かではない。だが、あの少女を目にした途端、頭の中がかき回されている感覚を覚えた。何かを思い出しそうだが、痛みの成果考えがまとまらない。


「おい、坂本。大丈夫か?」


 松本に肩を揺さぶられ、坂本は意識を取り戻す。茫然としながらも、あの少女が何かを知っているということを感じ取った彼は着いて行くことを決めた。


「……着いて行ってみましょう。わざわざ手招きするってことは、何かがあるかもしれません」


 彼らは足音を立てぬよう、少女の後を追う。少女の身なりは患者用の服に素足といった出で立ちだ。今の時期は相当冷えるだろう。しかし、少しも寒そうなそぶりを見せることはない。坂本はその少女に、どこか常世離れしたような雰囲気を感じていた。少女は迷うことなく歩みを進め、彼らを最上階まで導いた。彼らが最上階へと続く階段を上りきるといつの間にか少女の姿は消えていた。


「あれ?あの子はどこに行ったんでしょう?」


「自分の病室に戻ったんじゃないか?」


 しかし、最上階に病室のような部屋はない。左端が副院長である夢野の部屋、右端が院長の福嶋の部屋。そして中央の部屋は病院にはあまり似つかわしくない会議室だった。おそらく株主総会などはここで行われていたのだろう。どちらへ行くか迷っていると、先ほど姿を消した少女が再び現れ、夢野の部屋へと手招きした。彼らはここで、あの少女が普通ではないことを確信した。しかし、どうやら彼女に敵対する意図はないと判断し、彼女の言うことに従ってみることにした。


 夢野の部屋はドリーミアより豪華さに拍車をかけていた。壺や絵画ならまだかわいい方で、部屋にはなぜか福嶋の名がついた胸像が飾られている。この男がこの病院の院長である福嶋のようだ。胸像でもわかる不健康とすら言えるほどの太り具合に、こいつは本当に医者かと疑わしくなる。


「……随分いい趣味してるようだな」


「暗い中で見ると、普通に不気味ですね」


「ブランケットでもかけとくか。何か見られてる気がしてならん」


「あ、助かります」


 福嶋の胸像にかかずらっている間に、少女は姿を消していた。まさに神出鬼没とも言うべき少女に、彼らはもう驚かなくなっていた。ドアとカーテンを閉め切り、部屋の明かりをつける。これなら外から気づかれることはないだろう。彼らは音をなるべく立てないよう、部屋を調べて回った。やはり何かあるとすれば本棚か。それとも資料をしまい込んでいそうな机の鍵付き引き出しとも考えられる。坂本は本棚を調べていた。こちらの本棚には医術書が多く、彼も医師として真面目に働いているということを感じさせる。しかし、その中に一冊だけ、背表紙のない小さな冊子を見つけた。どうやら相当力まかせに押し込んでいるようで取り出すのに少々苦労した。取り出した冊子は黒い皮を表紙に使った手帳だった。表紙をめくると、日付と共に夢野の日記らしきものが書かれている。そのほとんどはあまり坂本が求めているような情報ではない。日々の愚痴や患者に対する文句などが記されている。ただ、とある日付に、ドリーマーについて記されていた。


『福嶋院長が何を考えているか、私にはさっぱりわからない。なぜ『獏』との互換性を求める?あれは失敗作だ。失敗作とつなげて何になるというんだ。……ただ、頼まれたからにはやるしかない。契約を切られれば社員達の生活も危うい』


 どうやら夢野は福嶋の言いなりになっているようだ。確か、株主であるドリーミアの提案で経営方針の助言を受けてから夢福病院は相当の地位を得たはずだったが、いつの間にか立場が逆転していたらしい。今や夢福病院は日本一の病院として様々な組織から援助を受けており、ドリーミアは夢福病院以外に取引先を見つけられていない。それが災いし、すっかりパワーバランスが覆ったということだろう。夢野があれだけ必死に新製品の開発に務めていたのもこれが理由か。坂本は夢野の境遇に同情しながら、ページをめくった。


『やはり彼はおかしい。実験台が欲しいだと?何の実験をするつもりだと問い詰めても答えはなかった。ただ、実験台を用意するのがお前の仕事だとでも言いたいらしい。……ふざけた話だ。その場で断ったが、彼は笑っていた。……何をするつもりなのか、見張っている必要がある』


「福嶋は一体何をするつもりだ?」


 坂本はまたページをめくる。


『今日、警視庁の連中が病院を訪ねて来た。どうやら加藤恵について調べて回っているらしい。その時に初めて聞いたが、加藤恵が常時睡眠状態に陥っているらしい。これが、福嶋が先導した実験の成果なのか?……小さな子を犠牲にしてまで何をするつもりなのか、問い詰める必要がある』


「これは、俺たちのことか」


 ここに書かれていることは事実なら、夢野は加藤恵の事件には一切関与していないということになる。すべての元凶は福嶋なのか、それが続きに記されているかもしれない。坂本はさらにページをめくる。


『彼は、世界を変えるつもりだ。寿命をなくし、永遠に生き続けることができる医療を開発しようとしているのだ。……医療の最終目的は不老不死だと、どこかで聞いたような気がする。彼は、真剣にそれを現実のものにしようとしている。それは、許されない行為だ』


 いつの間にか、坂本の周りに二人も寄っており、ともに夢野の手記を読んでいた。


「……不老不死か。ジジイが考えそうなことだな」


 松本はそう言って福嶋の野望を吐き捨てた。


「松本さんは、そう言うの興味ないんですか?」


「さあな。ただ、今言えることとして、今の技術じゃ絶対無理だろうな。できたとしても碌な方法じゃねえ。実験台を要求してるし、何かを犠牲にすることは確実だろ」


「……この実験台が加藤恵かもしれないですね」


「ああ。もしそうだとした場合、なぜ加藤恵が選ばれたのかを考えなきゃな」


 彼らは続きを読もうとしたが、手記はここで終わっていた。これ以上は書く余裕がなかったのか定かではない。手帳から顔をあげると、部屋の外から少女がこちらを覗いている。彼女はこちらが気づいたと知ると、小さく手招きして消えて行った。


「……あの子のことも、考えないとな」


 彼らは少女の後を追う。彼女が向かったのは右端の福嶋の部屋だ。夢野の手記から諸悪の根源が奴だと分かっている以上、この部屋は入念に調べねばならない。坂本たちがちょうど中央の会議室前を通り過ぎた時、階段に誰かの姿が見えた。見えたのは白衣だ、つまり少女ではない。それに気づいた坂本は急いで後を追ったが、一足先に階段を降りて行ったようで、どこにもその人物の姿はなかった。


「先輩、どうしました?」


「いや……。誰かがいた気がしたんだが……」


「さっきの女の子じゃないんですか?」


「白衣を着ていたように見えたんだが……。今気にしてもしょうがないな。先に福嶋の部屋を見せてもらおう」


 福島の部屋は先ほど立ち入った夢野の部屋よりも趣味が悪化していた。胸像だけでは飽き足らず、自分の絵画なども描かせていたようである。この男、相当自己顕示欲が高かったようだ。夢野の部屋に自分の胸像を置かせていたのだから、当然と言えば当然かもしれない。


「先輩、これ見てください!」


 山崎が手に取った資料、それは福嶋院長の全身像建設の計画だった。自らの権威を誇示することに駆けては他の追随を許さぬほどだ。


「……この名前は、現総理大臣か」


 この全身像建設の計画、その支援者の名前に現総理大臣の名前が記されている。つまり、この像を作るのは政府主導の事業と言ってもいい。


「冗談だろ?税金でこれを作る気か?」


「どうやらそのつもりらしいですね。ドリーマーの成果が確認され次第建設に取り掛かるようです」


 建設予定地はこの病院の正面らしい。窓から下を見ても、工事を行うための準備などはまだ進んでいない。


「おい、お前ら。そんなことより、こっちの方が重要じゃねえか」


 福島の全身像にかかりきりになっている間に、松本が別の資料を引っ張り出していた。


「『地下の増築計画』だとよ。すでに着手済みらしいし、何かあるならやっぱり地下じゃないか?」


 この資料の通りならこの病院には地下があるようだ。どこから行くことができるのかは定かではないが、探してみる価値はあるだろう。それに、重役御用達の装置を人目に付くような場所に置きはしないはず。やはり何かあるとすれば地下だ。


 彼らが病院に地下があるということを知ったとき、部屋に何かが投げ込まれた。それは軽い金属のような音を出して、カーペットに転がった。


「誰だ!?」


 坂本がすぐに部屋のドアを開けると、白衣を着た何者かが走って曲がり角を曲がっていくのが見えた。すぐに後を追ったが、坂本が曲がり角を曲がる頃にはエレベーターが一階まで動いていた。一階に出ると古賀の部下に見つかる可能性がある。一階には行けない。坂本は謎の白衣の人物の追跡を諦め、部屋へと戻った。部屋では二人が投げ込まれた何かを拾って、こちらに向かっている途中だった。


「先輩、さっきの人は誰でした?」


「いや、さっぱりわからなかった。先にエレベーターで逃げられた」


「だが、こちらを排除するつもりではないようだな。この鍵を投げつけて来たのもどこか協力的じゃないか?」


 暗い廊下の中で話し合っていると、いつの間にかあの少女がまた現れていた。彼女はエレベーターを指さしている。これに乗れということだろう。促されるまま乗り込むと、少女は姿を消していた。


「あの子は一体俺たちに何をさせたいんだ?」


「この病院は何がどうなってるのやら……。ひとまず、エレベーターを調べましょう。あの子が導く先には必ず何かがあります」


 とはいっても四方を鉄に囲まれた小さな箱の中に調べられるものなどほとんどない。あの少女は何を伝えたかったのか。わからぬままぼんやり眺めていると、とあるものが目に入った。それはエレベーターの階数指定を行うボタンの下部にある、鍵穴がついた蓋のようなものだ。坂本はマンションに住んでいるため、何度か見たことがある。しかし、この病院においては絶大な違和感があった。坂本はそれを確かめるべく、山崎を呼ぶ。


「さっき拾った鍵、貸してくれ」


「どうするつもりです?」


「ちょっと試してみるだけだ」


 山崎から鍵を受け取った坂本はその鍵穴に差し込む。彼が抱いていた違和感、それは管理者用の操作パネルにしては鍵穴が大きすぎるということである。大抵パネルの鍵穴は自転車の鍵穴とそれほど大きさは変わらない。だが、この鍵穴は一般家庭のドアの鍵穴ほどの大きさがある。それが彼にとっては怪しく思えたのだ。差し込んだ鍵は、回った。ここの鍵で正しかったようだ。開いたパネルは管理者用の操作ボタンのほか『B1』と書かれたボタンがあった。


「……あった。これだ」


 坂本はボタンを押した。エレベーターがゆっくりと動き始める。


「先輩、何を……?」


「さっきの鍵、エレベーターで使うためのものだったんだ。……俺たちはこれから地下に行くことになる」


 エレベーター内のランプは一階を照らしているが、止まることはない。階数を示すランプが完全に消えた時、エレベーターのドアが開かれた。奥までまっすぐ廊下が続いている。左右にあるのは窓のみで、正面に大きな両開きの扉があるだけだ。彼らはゆっくりとエレベーターから降りる。廊下に証明はなかったが、両側の窓から漏れ出ている明かりのおかげで真っ暗なわけではなかった。


「ここ、なんでしょう……?」


 窓の先に見えるのは巨大なカプセル。彼らはそれに見覚えがあった。


「さあな。……ドリーマーがあるってことは、それに関係した実験場ってところかもな。……とにかく、中に入ってみればわかるだろ」


 坂本は廊下の一番奥にある両扉を押し開けた。地下は想像よりもはるかに広いようで、向かいの壁が見えない。部屋には等間隔にドリーマーが設置されているが、中に人は入っていない。床に埋め込まれた電灯がぼんやりと部屋を照らしている。彼らはただ適当に奥を進んで歩いていた。


「福嶋はここで実験をしていたんだったよな。何の実験をしてたんだろうな」


「夢野の手記によれば不老不死だったか……。コールドスリープの実験でもしていたのか?」


「違う。そんなことじゃない」


 彼らの背後からそう聞こえて来た。驚いて振り向くと、見知った顔がそこにはあった。


「夢野……。何故ここに?」


「福嶋を止めるため、協力者が必要だった。そのために、俺はずっと待ち続けていたんだ」


「待ってた?」


「お前たちがこの病院を調べに来ることを。……ドリーミアも調べただろう?もし、諦めていないんだったら、来るはずだ。そう信じて待っていた」


 夢野は白衣を着ている。坂本はその白衣を見て、声をあげた。


「さっき、福嶋の部屋で鍵を投げつけたのは……」


「俺だ。俺の部屋から出てきたときも、俺が様子を見ていた。お前は俺に気づいていたようだったがな」


「……あの時の白衣は見間違いじゃなかったんだな」


 思いがけない協力者。それを知った山崎は思い出したかのように夢野に問いかけた。


「じゃあ、関係者用の扉を開けたのも?」


「ああ、俺だ。俺にはどうしても協力者が必要だった」


「じゃあ、あの女の子も協力者なのか?いくら何でも子供を使うのはどうかと思うぞ」


 松本は夢野があの少女を顎で使っていると思ったらしい。だが、夢野は疑問符を浮かべるばかりだ。


「女の子?何の話だ。協力者がいないからこそ、俺はお前たちを病院内に引き込んだんだ。お前たちのあまりの手際の良さにこっちが驚いているぐらいだ。お前たちの方こそ、古賀以外にも協力者が病院内にいるんじゃないか?」


 互いの間には困惑が生まれる。あの少女は一体何なのか。それも重要だが、今考えたところで答えは出ないだろう。それよりも夢野が知っているであろう福嶋が行っていた実験について聞くべきだ。


「……そんなこと、今はどうでもいい。福嶋の実験について何か知っているんだろう、教えてくれないか?奴は一体どうやって不老不死を実現する気なんだ?」


「その前に……。『獏』が失敗作だったことは覚えているな?」


「ああ。確か吸収した悪夢の処理がうまくいかなかったとか」


「よく覚えているな。……福嶋はそれに目を付けた。『獏』は悪夢の処理ができないのではなく、吸収した夢自体の処理が不可能だった。悪夢であれ、吉夢であれ。他にも明晰夢や正夢などいろいろあるが、そのいずれも廃棄は叶わなかった。誰かに夢を見させることでしか『獏』の中身を空にできない。その代わり、いかなる夢であっても移し替えが可能。……いや、『共有』すら可能なのだ」


「それがどうなるんだ?」


「夢を与える者と受け取る者、その二人を繋ぐことで同じ夢を見ることができる。互いの夢の中での行動が夢に影響を与える。……わかりやすく言えば、脳みそが夢でつながるのだ」


「それが何で不老不死なんかにつながるんだ?夢を共有するだけだろ?」


「簡単な話だ。肉体が滅びようとも、脳みそさえ保存できれば、その者は夢で永遠を生き続ける。その世界を本物だと思い込み始める」


「……だが、そのためには『夢を与える者』が未来永劫、必要になる」


「そうだ。だから奴は子供を選んだ。大人よりも寿命が長く、交換の期間を空けることができる。さらに、夢を見るということは脳を使うことと同じ。常に夢を見続けていれば脳の損傷は激しい。そのため、大人よりも物を知らぬ子供を選ぶことで、与える者の負担を最小限にできる」


「……勝手に子供をさらっておいて、負担が最小限!?あまりにも自分勝手よ!」


 山崎が怒りを露わにするが、夢野は冷めた目でそれを眺めていた。


「それは俺ではなく福嶋に言ってくれ」


 顎に手を添え何かを考えていたらしい坂本は、思いついたように顔をあげた。


「そうか……。だから福嶋は加藤恵を選んだんだ。他の子どもより『母親』の情報が少ないから、より負担が減らせる」


 夢野は片眉を釣り上げ、驚きを隠すことをしなかった。


「だから福嶋は加藤清に目を付けた。社員を買収し、社内でいじめを行う。そうなればそのうち病院なり労基なり、どこかに相談しに行くはず。その隙に子供をさらおうと考えていたらしい。ちょうどお前らに相談に行っている間にさらわれたんだろう。……さすが元警察だな。次は科学者なんてどうだ?」


「冗談はやめてくれ。……福嶋はどこにいる?」


「下だ。ここよりさらに下に、福嶋はいる。加藤恵も同じところだろうな。……このまままっすぐ進め。下に降りるエレベーターが見つかるはずだ」


「お前はどうする気だ?」


「上に警察がいるだろう。……福嶋を逃がさぬよう、話を通しておく。加藤恵はお前たちに任せた」


「……言われなくても」


 夢野は何も言わずエレベーターを使って上へと戻っていった。それを見届けた彼らは踵を返し、部屋の奥へと向かう。その途中、部屋に無数にあるカプセルの内、名札がついているものをいくつか見つけた。


「柴田、宮本、西村……。どれも政治家の名だ。奴ら、子供が犠牲になっていることを知ってなお、この装置を使おうとしているのか?」


「おそらくそうでしょうね。夢野の部屋にあった政府からの手紙、あれは本気だったということでしょう」


「悪人は福嶋だけじゃない、そう言うことかもな」


 彼らはカプセルのもとから離れると、部屋の奥へと進んでいく。どれほど歩いただろうか、ようやく薄暗い照明がエレベーターの扉を照らした。ボタンを押して、中へと乗り込む。中はシンプルだ。階層を示すランプもなければ非常時連絡用のボタンすらない。ただ上下のボタンがあるだけだ。下を押すと、少しの揺れの後動き始めた。どうやらモグリの設計士に作らせたらしく、安全性は二の次といったところだ。下へ着いた時も何かにぶつかったかのように大きく揺れる。壊れはしないか不安になるが、今のところはまだ大丈夫そうだ。エレベーターの扉が開くと、白衣を着た肥満体系の男が大きなカプセルの前に立っていた。どうやら何か端末を操作しているのか、こちらに見向きもしない。彼らが一歩踏み出してエレベーターから降りると、いきなり話しかけてきた。


「不老不死には興味がないか?」


「誰かを不幸にしなきゃならないんなら必要ない」


「……つまらん人間だな。どうせ私の邪魔をしに来たのだろう。夢野も私を裏切りおって……。所詮小物よな」


「お前の下らん実験はここまでだ。さっさと加藤恵を解放しろ」


 坂本は福嶋を前にすごむが、彼はそれをみて笑っているだけである。


「何で笑っていられるんだ?」


「加藤恵を解放してどうする?両親はもういない。ここから出したところで彼女はもうまともな人生を歩むことは出来ん。それなら、ここで夢を見続ける方が幸せだと思わんか?」


「……なぜ加藤恵の両親が死んでいることを知ってるんだ。あれはまだ報道されていない」


「実験の結果だ。……この装置には一つ、まだ欠点があってな。夢を共有した場合、受け取る者の脳が過負荷を起こす。無理やり情報を流し込んでいるせいか、受け取る側の脳の老化が著しいのだ。それは心臓や筋肉などの体の機能にも影響を及ぼす。そのせいで受け取る側が脳みそだけになったとしても、すぐに限界が来る。死んでしまうのだ。……そこで私はある仮説を立てた。『血縁者間なら脳の負担が軽くなるのではないか』とな。家族というのは同じ環境で生活する以上、状況さえそろえれば同じ選択をしやすい。お前らにわかりやすく言うと『考え方が似る』のだ。それならば情報を効率的に処理できるかもしれないと考えてな」


「それで、繋げたのか。この装置に」


「ああ。男の方は簡単だった。娘のこととなればやけに必死になってな。すぐにでも病院に乗り込んできたよ。で、話を聞けばお前らに調査を依頼したとかいうじゃないか。だから、娘を返してほしければ調査をやめさせろと言ったんだ。……あいつはすぐに従ったよ。あとは隙を見て睡眠薬でも飲ませれば終わりだ。装置につないで実験したが、結果は駄目だった。他の奴らと同じようにすぐに駄目になったから病院内で死なれる前に、帰してやった。すぐ近くで死なれるとは思ってなかったがな」


 福嶋はなぜか薄ら笑いを浮かべながら話す。まるで、自由研究に虫の観察を選んだ子供のように、他人事だ。誰とも話す機会がなかったのか、息をつく間もなく話し続ける。


「女の方も単純だったな。ある日いきなり病院に来て、『娘を返してほしい』って言いだしたんだ。俺は男の方から離婚した話を聞いていた。だから『離婚して子供を捨てたくせに今さらか?』と問い詰めたのさ。そうしたらあの女、『娘は失敗作なんかじゃない』とか言い出してな。そんなことを言われれば実験に協力してもらうほかないだろう?……あの女は失敗作だったよ。すぐに脳がボロボロになった。今度は病院の関与を疑われないように近くの街に捨てたつもりだったが……。どうやら見られていたようだな」


「……お前は人の命を何だと思ってるんだ!」


「なんとも思っておらんよ。私の実験が成功すれば、人の命は永劫の物となる。それまでに発生した人命の損失など、大事を成すための犠牲としか思えんな。……死んでいった彼らも誇りに思うだろう。『自分たちの命が人類の繁栄に使われる』とな。そう考えれば、彼らの犠牲も致し方のないものだと思えんか?」


「……その言葉はいつも『犠牲にする側』の言葉だ!お前は結局、『犠牲にされる側』の気持ちなんて一度も考えたことがない卑怯者だ!」


 坂本はそう言って福嶋を突き飛ばす。『獏』の操作端末に頭をぶつけた福嶋は床に座り込んで唸っている。坂本はその隙に端末を操作し、加藤恵が入れられていたカプセルを開けることに成功した。どうやら彼女は寝ているようだ。外傷などは特に見受けられない。坂本は彼女に繋がっていた管を適当に引きちぎり、カプセルから引っ張り出した。


「何をしているんだ!これは、人類の希望が詰まっていたのだぞ!?お前は今、世界中の人間を殺したといっても過言ではない!」


「喋るな!すでに二人も殺した人殺しに何かを言われる筋合いはねえ!……不老不死なんて言う眉唾は諦めるんだな」


 坂本は加藤恵を山崎に預けると、松本との二人掛かりで福嶋を脇の下から担ぎ上げた。


「……お前、ちゃんと自分の足で立てよ。重すぎるんだが」


「……おい、聞いてんのか?俺の腰がいかれる前に、ちゃんとてめえの足で……」


 福嶋は二人の話を全く聞いておらず、放心してしまっている。坂本が彼の身体を揺さぶり、声を開ける。


「おい、被害者ぶってんじゃねえ。お前はこれから捕まるんだ。降らん実験で人を殺した罪でな。……聞いてんのか?」


『罪』という言葉を聞いた瞬間、福嶋が目を見開く。そして両腕を振り回し、脇を担いでいた二人をはねのけた。


「何故私が捕まらなくてはならないんだ!私はただ、人類の存続のために研究を続けて来ただけだ!」


 彼はそう言ってエレベーターへと走っていく。坂本は追いかけながら叫んだ。


「嘘をつけ!だったらあの銅像の設計案は何だ!人類の研究のために働く者がそんな銅像を求める訳がない!」


「黙れ!成果を称えられて何が悪い!……世界に知らしめてやるのだよ、誰もたどり着けなかった命の極み、『不老不死』へとたどり着いたものが誰かをな!……私自身で、私が間違っていないことを証明してやる!」


 彼はそう言ってエレベーターへと乗り込んで行った。坂本は間一髪間に合わず、何度もボタンを連打している。


「う、ん……。ここ、どこ?」


 先ほどの騒ぎのせいか、加藤恵が目覚めた。意識も問題ないようだ。


「自分のお名前、わかる?」


「うん、私、恵。お姉さん、誰?」


「私はね、警察なの。あなたのお父さんに頼まれて、あなたを捜しに来たのよ」


「……そうなんだ。……ここは、どこなの?」


「病院の地下。覚えてないの?」


「うん。ずっと夢を見てたから……」


 山崎が加藤恵から事情聴取をしている間に、坂本が呼び戻していたエレベーターが到着した。


「……上に行くぞ。早くこんなところから出よう」


 坂本は二人の様子を眺めていたが、いつまでもこんなところにいるのは子供に酷だろうと思い、彼らを急かした。エレベーターで上の階に到着した彼らは、ある光景を目にした。


「……そうだ、私は間違っていないんだ。あいつらの脳みそが弱かっただけだ。この私の頭脳なら……。何故気づかなかったんだ」


 福嶋は1つのカプセルの前で立ち止まっており、何やら操作を行っている。操作を終えたのか顔をあげると同時にカプセルのふたが開いた。彼はこちらに気づくと勝ち誇ったように笑う。


「残念だったな!夢野から説明を受けていただろうが、奴は1つ間違えている!夢の『共有』は与える側がいなくとも作動するのだよ。『獏』に夢が残り続けるからな!……私は夢の中で生き続ける。この私の存在こそが、不老不死の証明になるのだ!」


 福嶋はそう言いながらカプセルへと入っていく。ふたは自動でしまり、下部についている端末は管理者権限でのみ操作を受け付けている。つまり、奴をそこから出す手段はない。何もできず眺めていると、次第にカプセルの中が煙に包まれていく。どうやらあれが『夢の共有』の方法らしい。下から満ちて行った煙はカプセルの中で五分ほど漂ったのち、上に繋がっているパイプに吸い取られていった。これを使いまわすことで大量の人間に夢の共有を可能にしているようだ。煙が晴れた後、福嶋は安らかな顔で眠っているように見えた。坂本は何度も端末の操作を試みるが、どうすることもできない。何かカプセルの破壊に使えるものはないかとあたりを見渡していると、松本が何かに気づいたようだ。


「あいつ、息してないんじゃないか?」


 カプセル越しに福嶋の様子を見る。彼の言うとおり、寝息を立てている様子はなく、いびきなどもかいていない。これでは、寝ているというより……。


「まさか、死んでいるんじゃ……」


 そう考えた坂本は、何度もカプセルを叩き、中の福嶋に呼びかけるが返事はない。騒がしさに身じろぎもせず、静かに目を瞑っているだけだ。


「……山崎、上に行って古賀たちを呼んできてくれ。ついでに加藤恵も保護してもらえ」


「わかりました」


 山崎は眠る加藤恵を背負って、エレベーターで上の階へと上がっていった。


「坂本、このカプセルは開けられねえのか?」


「はい。どうも、管理者権限が必要なようで。具体的には、福嶋の指紋が要ります」


「……どうすることもできねえのか」


 二人はただ、カプセルの中で動かない福嶋を見つめるしかできなかった。彼はまだ何かの夢を見ているのだろうか。




『続いてのニュースです。先日、夢福病院の院長である福嶋洋一が死亡していた事件について、捜査に進展があった模様です。彼は……』


 家でテレビを見ていた坂本は乱暴にリモコンを掴み上げ、テレビの電源を切った。


「……あの子はどうなった?」


「恵ちゃんですか?田畑美幸の祖母の方が引き取ることに決まりました。私もたまに様子を見に行こうかなと」


「……結局福嶋は逃げやがったな」


 あの日、古賀たちが持ってきた道具で何とかカプセルを破壊し、福嶋を引きずりだしたのだが、彼はすでに絶命していた。のちの検視により、彼の体内にもまた、急激な老化の症状が現れていた。加藤清と田畑美幸の殺人については、被疑者死亡のまま裁判が進むらしい。


「でも、これ見てくださいよ。……今の政府はもう駄目みたいですね」


 山崎が見せて来たのは夢野の記事だった。福嶋の死後、彼は夢福病院で行われていたすべてを公表した。政治家各位は子供を眉唾物の実験で犠牲にしようとしたという悪評を免れることはできず、連日臨時国会で言い訳を繰り返しているが、彼らの失脚も近いだろう。一応、悪人はそれなりの形で裁かれることになるようだ。……それは、警察組織も例外ではない。


「……古賀から聞いたぞ。次の年度から警視総監が変わるらしいな」


「そうみたいですね。……まあ、警察も裏で繋がっていて、悪事を見逃していたということですから。信頼回復のためってことなんでしょうかね」


「どうせどっかに天下りして、利権にしがみつき続けるさ」


「……いや、そうもいかないみたいですよ」


 山崎はそう言って動画を再生する。流れた声は夢野と、もう一人はどこぞの記者だろう。


『では、夢野副院長は彼らも告発するということですか?』


『はい。彼らは自らだけがいい思いをするために国民を裏切った悪人たちです。それらが責任ある立場を追われるだけというのは、あまりにも罪が軽すぎます。よって私は彼らを福嶋院長の共犯として、検察に告発しました』


 山崎はここで動画を止めた。


「こういうことです。……夢野さん、なんだか吹っ切れてますね」


「確かにな。ドリーミアもなくなったし、夢福病院も畳むつもりらしいしな」


「何?そうなのか?」


「ええ。あの人、『自分に医療へ携わる資格はない』って言ってましたよ。どこか田舎で静かに暮らすんですかねえ」


「あの病院の跡地はどうなっちまうんだろうなあ……」


 三人とも、ぼんやり天井を見上げて、先日収束を見た事件を思い出している。そのうち、山崎が声をあげた。


「そう言えば、結局あの女の子って何だったんですかね?」


 病院に侵入した彼らを導いてくれた謎の少女。彼らを地下へと導いたのちに姿を消し、その後いくら探しても見つかることはなかった。


「……あの病院に入院していた患者は全員移動を完了したんだったな」


「ええ。その時にあの女の子を探しましたが、姿を見つけることはできませんでした。……あの子は入院していたわけじゃないんでしょうか?」


「いや、そもそもの話なんだが……。あの子の顔を覚えているか?」


 松本の問いに二人は唸ってしまう。見た覚えはあるのだ。遠くで見たから覚えていないという訳ではない。夢野の部屋の外から手招きをされたときなどは相当距離が近いうえ、部屋に明かりをつけていたこともあり、顔が見えなかったということはない。しかし、二人はあの少女の顔を思い出せない。


「……駄目です、思い出せません。先輩はどうですか?」


「いや、俺も駄目だ。顔は見たような気がするんだが、どうにも……」


 雰囲気を何となく覚えているだけで、具体的な所は一切思い出せない。今、ここで彼らがその少女の似顔絵を描いたとしても、バラバラになってしまうことは間違いない。


「……恵ちゃんにちょっと似ていたような気はするんだがなあ」


 松本がそうぼやくが、すぐに坂本が反論する。


「あの子はずっとカプセルで寝かされていたじゃないですか。俺たちを助けるようなことなんて……。いや、あの子じゃないかも知れませんね」


 坂本はあの事を思い出していた。加藤恵の死を誤魔化すため、崖から落ちたことにされた少女。顔をぐちゃぐちゃにされ、判別されぬように殺された少女。


「恵ちゃんでもなければ誰なんです?」


 坂本以外の二人は思い出せていないようだ。だが、彼女の無念はすでに晴れているだろう。彼一人だけでも、覚えていればいいのだ。


「……いや、何でもない。あの子はずっと誰かに助けてほしかったんだろうなって」


「それはそうでしょう。……どういうことです?」


 坂本の言葉の真意が読めず、山崎は彼に詰め寄る。


「さあな。……さて、そろそろ時間だ」


 坂本は山崎に取り合わずにソファから立ちあがり、コートを手に取った。


「あれ?どこか行くんですか?」


 彼女はこれからの予定をすっかり忘れているようだ。約束をしてから暫く経っているため、致し方ないともいえる。


「……忘れたのか?古賀と飲みに行くんだよ」


「ああ……。そう言えばそんなことも言ってましたね。もうそんな時間ですか」


「ああ。ほら、さっさと上着着て、待ち合わせ場所に行くぞ。……今日は俺が予約を取ったところだからな、いつもより断然……」


「太っ腹じゃないですか、松本さん!私そういう所一回も行ったことなくて……」


 彼らが盛り上がっている間、坂本だけ先に玄関から出ていた。もう季節は冬で、空には白い雪が舞っている。彼が外に手を出すと、手のひらに雪が降ってきた。


「……今日は、いい夢が見れそうだ」

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ユメハミ @ookido

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