第7話 謎の男
「おいおい。もうお出ましか?」
「思ったより早いな。そんな都合よく来るものか……」
仁慈の瞳孔が開き、夜の闇に適応する。彼の優れた眼は、暗闇に紛れた男の出立ちまで正確に把握していた。
「……あいつだ」
「こんだけ暗いのに、こっから見えんのか?」
「ああ、間違いない。背中に五刀……腰は左右に二刀ずつ携えた男など、そう多くはおらぬだろう」
こちらの人影を見て引き返されることを警戒し、二人は大木の茂みに身を潜める。男は橋を渡り切ると、一直線に道場へ足を進めた。
まだ与助の目では表情すら窺えない遠距離の中、ある一定を過ぎた辺りから二人は男の異質さを嗅ぎ取る。五感を超えた直感。武人の勘が電撃の如く体を駆け巡った。こちらは敵に注意を向けているからこそ気付けた感覚。対して相手は注意を払うまででもなく、二人の存在をとうに察知しているようだ。
その裏付けとして、男は道場ではなく二人が潜む茂みに近付いている。
(まずい、もう気付かれたか)
仁慈が視線と会釈でそれを伝えるも、与助は首を横に振り、茂みから豪快にその巨躯を現した。
「あっちがオレらを分かった上で来るんなら、もう隠れる必要はねえ。闇に紛れるたぁ悪人のやることだ。オレは正々堂々行かしてもらう」
仁王立ちで待ち構える与助を見据え、謎の男は事も無げに腰から二刀を抜いて更に近づく。白刃が冷たい月明かりを照り返し、闇に異様な男の顔が浮かび上がった。
「へー、随分と強面のおっさんじゃねえか。目がキマってんな」
結い上げられた総髪頭で黒装束に身を包んだ男は、目を大きく開いたまま瞬き一つしない。
仁慈はいざという時には茂みから奇襲を掛けようと思っていたが、もはや見破られている。彼も諦めて顔を出し、与助の隣に並んだ。
「二人は……。ちと心許ないのぉ。じゃが……骨はありそうじゃ」
声が聞こえた、と同時に男は間合いのすぐ側まで迫っていた。気配は霧の如く希薄、その速さは世に聞く縮地。
「今宵は良い空合いじゃ。霊魂までよぉ見える。……近頃は鼻が効かのぅて、助かるわい」
「なーんか爺くせえ敵だぜ。年寄り痛めつけんのは趣味じゃねえが……」
与助は身構えつつも、威勢は健在だ。
「待て与助。まずは下手人が本当にこの男かどうかを確かめなければ」
「十中八九コイツだろ。不気味すぎる」
二振りの抜身を持ったまま、男はずけずけと間合いに踏み入る。
「そなた、黄竜館や行商人を襲った辻斬りで相違ないか?」
男はだんまりを決め込んだまま、二人の足先から頭のてっぺんまでを撫でるように眺める。
間違いなくこいつが下手人だろう。下手人ではなかったとしても、捨ておけない目をしている。
「殺す前に、聞きてえことがある。黄竜館の伝家の宝刀、余程の業物だったはずだぜ? なんで折って捨てやがった」
「宝刀、とな……」
刀という単語のみに、男は僅かな反応を見せた。
「テメエ、道場襲った後に剣持ち出して、橋の下に捨てたろ!」
「……ぁぁ。あれは宝刀なぞではない。
言葉が耳に届くと同時に、胸の義憤が与助に撃てと吠えた。大地が揺れる程の踏み込み、大剣を迅速に抜き放ち必殺の大薙ぎを繰り出す。
「さぁて、いかばかりかの――」
微かに聞こえた男の声。
与助の大薙ぎは、攻撃範囲に確実に男を閉じ込めた完璧な体捌きもさることながら、大剣の初速は仁慈との戦いの比ではない。温まっていないはずの与助の肩は、亡き大将への侮辱に燃える怒りの烈火で、瞬時に最大限の
この技は初見で攻略することは不可能。必然的に後退を迫られる。だが後退したが最後、大剣の範囲の広さと尋常ならざる剣速を見誤った、無慈悲な結果となる。今回に至っては剣で受けることができたとしても、衝撃で骨が砕け、致命傷は避けられない。
男がやれることは当たり所が悪くないことを、神に願うのみだろう。
――並の人間であれば。
甲高い金属音と共に、大剣の軌道が完全に止まる。
「……嘘だろ畜生ッ!!」
男が持つ二振りの刀、その内、たった一振りで大剣を真正面から受け止めていた。与助は両手、男は片手である。単純な体躯を考慮すれば、誰が見ても与助の膂力が圧倒的に上回る。力を技で凌駕したというには、あまりに規格外の光景だった。
「ほぅ、やりおる。儂が常人であれば死んでいたわい」
想定を優に超えた技量に与助の怒りは冷め、前へ進めぬ大剣を渾身の力で引き戻した。
与助が驚きのあまり動きを止めている最中、空いている右剣で首を刎ねることは容易であろうに、男はそれをしなかった。それに気付くほど冷静になった与助は再び心底腹を立てる。血走った眼、皺の寄った眉間。
「そう血相を変えるな。片手ではあったが、こちらも全霊の一太刀を出さざるを得なかった。うぬは若造にしては中々の剛の者であるな」
「んだと……テメエ、何者だ」
「ほれ、もう刃こぼれしておる。これでは上様に何と報告すべきか」
「オレの本気の一撃がッ! 刃こぼれで済むわけねえだろッ!」
「人造とはいえ、〝霊剣〟であるからなぁ。気に病むことはない。ささ、次はどうじゃ? どう斬る?」
霊剣。治太郎の言葉を思い返して仁慈の体はすくみ、もし本当であるとすれば師範を呼ぶべき事態だと道場の方角を振り返る。見るからに与助を上回る剣技、だとしても与助に逃げるという選択肢はない。
――〝
与助は大剣を瞬く間に振りかざす。袈裟斬り、左一文字、逆袈裟、左袈裟。それをまた右一文字と、来た道をなぞる一連を幾度も繰り返す技。
次第に大剣が描く白銀の輝きは、「〆」の字を左に傾けたような線を成す。与助が体得した技の中で、最も破壊的かつ、大剣の持ち味が発揮される技。流れる動作を重ねる度に剣は加速し、斬り上げる動作さえも重力を忘れた風と化す。どこを切り取っても一撃必殺。一度その範囲に捕まれば、刹那の内に四方八方から迫る大剣に、文字通り打ち砕かれる。
これぞ、鉄の暴風雨。
(テメェだけは、確実に殺すッ)
ひと度軌道に乗れば、与助本人でさえすぐに止めるのは難しい。それでも構わないと粉骨砕身で振り回す。先刻同様、大剣の広範囲の間合いは逃げ場を封じており、必中。
「……骨のある奴じゃのぅ」
月影の織りなす死線は途切れることなく、まるで四方からの一撃が同時。その中心に、男が収まった。鉄の雨と呼んでもなお余りある凶暴、白刃は四本の稲妻となって迫る。
瞬間、男は二刀を構えて、舞うように体を翻した。
「「――当たらない!?」」
仁慈も、与助本人でさえも己の目を疑った数秒間。
全ての斬撃の軌道が、最初から見えていたかのように。男は、道理を履き違えた神業の剣捌きで攻撃をいなし、いなし尽くした。
そして男は大剣の軌道をじっくりと見極めては、回転する歯車の間に一本の楔を打ち込むが如く、絶妙な隙を突いて流れを止め、束の間に二刀で大剣を挟み込んだ。
あれだけ暴れ狂っていた大剣が、ぴくりとも動かない。それは地中深くに突き刺したような固定。時の止まるが如く不動。
「喝ッ!」
男が丹田に力を込めると、鉄が悲鳴を上げる音と共に、大剣には
与助は柄だけが残った無惨な剣をその場に落とし、仁慈は後方で呆然とする。
「うぬの全霊は、重いだけの鉄の板ではなかろう。ほれ、腰のを抜かんか」
屈辱。ここまで完膚無きまでに負けたことは一度もない。全てを理解した上で、与助の本能が攻撃を止めるなと騒ぐ。
「……大将は、テメエに負けたのか。……なるほどな」
刹那――。与助、正真正銘、全力の居合。
鬼に金棒とは即ちこのこと。仁慈が加勢に転じる暇さえ与えず、与助の真剣による神速の居合い斬りが、闇を裂いて炸裂した。
大剣の十分の一の軽さ、されど速度は十倍を遥かに上回る。夜風を駆ける轟轟たる斬撃音。
男は侮ることなく、退きながら二刀で防いだつもりだった。だがそれでも、与助の剣速が優り、切先は男の顎から頬を裂いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます