第16話 森の奥の遺産

 森での生活が始まってから、もう何日が経ったのか正確には分からない。街の鐘もなければ、日付を記すカレンダーもない。代わりに、朝に差し込む光と夜の冷え込みが、この世界での一日の流れを教えてくれる。


 最初は本当に厳しかった。

 コンビニで温めた弁当を片手にアパートへ戻っていた生活から、いきなり森の中での自給自足だ。火の起こし方も知らなかったし、寝床だって落ち葉を敷いただけの粗末なものだった。正直、あのままではすぐに倒れていただろう。


 だが――魔法があった。


 イメージするだけで火を生み、水を出せる。土を動かして好きな形に変えられる。最初は力加減が分からず暴発したり、余計に消耗して寝込んだりもした。だが、使い続けるうちに体が覚え、発動の速度も精度も格段に上がっていった。


 火は指先を軽く弾くだけで小さな火花が散り、乾いた枝に移る。そこからは現代知識を使って火を育て、調理や暖房に利用できるようになった。

 水は両手をすくうように構えれば、ぽたりと滴が落ち、集中すれば一定の流れを生み出せる。桶にためて風呂を作り、トイレも簡易的に流せるようになった。

 土は足元を少し掘ってくぼみを作ったり、壁を盛り上げて風除けを作ったり。寝床の下を平らに均すこともできるようになった。


 こうして少しずつ「人としての生活」に近づけていくうちに、俺は自分の魔力を以前より自在に操れるようになっていた。


 狩りも同じだ。最初は小動物の血を見るだけで吐きそうになった。ナイフを握る手は震え、皮を剥ぐ段階で何度も顔を背けた。だが、母狼やルナと一緒に狩りを重ねるうちに、命をいただく重さを理解し、ようやく「仕留め、解体し、食べる」という流れを受け入れられるようになった。今では、喉が詰まることも少なくなった。


 ――人間、慣れるもんだな。


 焚き火の前で串に刺した肉を炙りながら、そんなことを思った夜もあった。

 この世界に来てから、俺は間違いなく変わっている。


 そんな生活が続いたある日、狩りの帰り道のことだった。


 母狼がふと足を止めた。耳をぴんと立て、森の奥をじっと見つめる。

 「どうした?」

 声をかけると、母狼は一度だけこちらを振り返り、目を合わせる。言葉はないが、その仕草は明らかに「ついてこい」と告げていた。


 俺とルナは顔を見合わせ、無言で頷く。母狼の導きに逆らう理由はない。


 普段なら近づかない方向だった。木々はどれも黒ずみ、葉は落ち、地面には乾いた枝葉が折り重なっていた。生気が薄れ、まるで森そのものが枯れているように見える。


 歩を進めるごとに、空気は重く、濃くなっていった。魔力が空間に溜まり、肌を刺すような圧がある。呼吸すらしにくい。

 「……なんだ、この場所」

 思わずつぶやくと、母狼は振り返りもせず、ただ黙って先へ進んだ。


 やがて木々が開け、ぽっかりとした空間に出る。

 その中央に、それはあった。


 苔むし、崩れかけた石造りの祠のような建物。周囲の荒れ果てた景色の中で、そこだけが異質に見えた。


 「……ただの遺跡じゃないのか?」


 口に出してみても、自分でもその言葉に確信がないことが分かる。

 祠はただの石の塊に見えるのに、そこから発せられる何かが、全身をぞわりと震わせる。まるで見えない視線に全身をなぞられているような、不快でいて抗いがたい感覚。


 母狼はためらうことなく祠の前に立ち、俺とルナを待った。

 恐る恐る近づくと、足元の石畳に刻まれた文様が微かに光を帯び――重厚な扉が「ゴウン」と低い音を立てて開いた。


 「……俺の魔力に反応した……?」


 誰かが内側から押し開けたわけではない。俺が近づいた瞬間に反応したのは間違いなかった。

 その時、ふと脳裏に違和感がよぎる。


 ――そういえば。


 街で、ギルドで、俺は普通に会話していた。

 受付嬢の言葉も、アルヴェンの言葉も、全部理解できていた。

 ギルドの掲示板に貼られた文字も、当たり前のように読めていた。


 「……なんでだ?」


 俺は日本語しか知らない。英語だってろくにできないのに、この世界の言葉を聞いて理解し、文字を読んで意味が分かる。

 今さら気づいた事実に、背筋が冷たくなる。


 ――異世界人だから、か。


 そう結論づけるしかなかった。召喚だか転移だか知らないが、俺はこの世界に来た時点で「どんな言葉も理解できる」ようにされていたのだろう。

 理由は分からない。けれど、そうでなければ説明がつかない。


 「……便利っちゃ便利だけどさ」


 苦笑を漏らし、俺は扉の向こうを覗き込む。


 中は真っ暗――だが、ただの暗闇ではない。

 石造りと金属の板が融合したような、奇妙な廊下が奥へと伸びていた。

 壁には古代文字が刻まれ、ところどころに埋め込まれた装置が淡い光を放っている。


 「……なんだここ。街の建物とは全然違う」


 声が反響し、廊下に吸い込まれていく。

 ファンタジー的な森の中に、不釣り合いなまでの人工的で無機質な空間。

 背筋に寒気が走る。


 母狼は一瞥だけ俺を見て、ゆっくりと中に踏み込んでいった。

 ルナも続く。


 俺は一度深呼吸をして、最後に祠の外の森を振り返る。

 そして意を決して、暗い廊下へと足を踏み入れた。


 廊下はひたすら真っすぐだった。

 石でも金属でもない、何かの板が継ぎ目なく床を覆っている。踏むたびに硬いのに、わずかに弾むような感触が足裏に返ってきた。

 壁には文字。丸や線を組み合わせた図形が連なり、意味を持つ記号になっている。目で追うだけで、頭に内容が入る。


 ――「外部魔力の持ち込み禁止」……?

 ――「危険区域。許可なき人員は侵入を控えること」……?


 読める。やっぱり読める。

 自分の脳みそが勝手に解釈している感覚は、少し気味が悪かった。


 母狼は先を歩き、要所で立ち止まってこちらを見る。ルナは落ち着きなく尻尾を振り、床の匂いを嗅いだ。

 やがて廊下が開け、円形の広間に出た。天井が高い。中心に台座。上には黒い箱。


 箱は棺のように長く、蓋の縁に細い溝が走っている。装飾はない。ただ、表面に刻まれた細い線が、まるで回路図のように複雑に絡み合っていた。

 近づく。手を伸ばし、そっと触れる。


 ――カチ。


 乾いた音とともに、蓋のロックが外れた。

 ゆっくりと開いていく。空気が動く。冷たい匂い。

 中に収まっていたのは――銃だった。


 見覚えのある形状。レバーのついた長い銃身、太い胴。

 だけど、現代日本で映像越しに見たそれより、わずかに短く、細い。無駄のない線で引き締められた、簡素で美しい輪郭。


 「……ショットガン、か……いや、違う」


 一目で分かるのに、まるで別物に見える。

 両手で持ち上げる。驚いた。軽い。

 金属の冷たさ。なのに、指に吸い付くように馴染む表面。重心が手前寄りで、構えると銃口が自然に上がりすぎない。

 素材は金属に見えるのに、金属じゃない。そんな矛盾した感触。


 台座の縁に、小さな板がはめ込まれていた。そこにも文字。


 ――直入力式魔力発射器。

 ――使用者の魔力を弾体として射出する。

――過充填禁止。反動注意。

――属性変換機構:手動。選択子=レバー。


 「……弾を装填しない、銃」


 独り言に、母狼が低く喉を鳴らした。警告とも、黙認とも取れる声。

 ルナは前脚で床を掻き、尻尾を二度、振った。


 構えてみる。肩に当て、頬で銃床を軽く押さえる。

 引き金に指をかけ、ゆっくり息を吐く。

 魔力を――込める。

 胸の奥から、腕へ。手のひらを通して、銃に流し込むイメージ。


 ――ドン。


 空気がひしゃげるような衝撃音。

 目の前の壁が、円くえぐれた。

 同時に肩へ重い反動。足が半歩、勝手に下がる。腕が痺れる。


 「……っ、強い」


 実弾の破裂音ではない。けれど、確かに何かが飛んだ。

 今のは、属性なし――純粋な魔力をそのまま叩き付けた感覚。


 もう一度、今度は弱めに。

 魔力を細く、短く。引き金に軽く触れる。


 ――トン。


 乾いた音。壁に小さなくぼみ。反動は肩を小突かれた程度。

 威力は、込めた分だけ。理屈は単純だ。


 レバー。

 ゆっくり引く。手のひらに、目に見えない何かの流れが切り替わる感覚。

 同じように構え、思い描く。

 炎。

 火をつける最初の火花じゃない。薪を呑み込み、空気を舐める舌。

 引き金。


 ――ボウ。


 壁に焼け跡。黒い煤が花開く。熱が頬に触れた。

 火の匂い。焦げの匂い。

 レバーを戻して、もう一度。今度は、冷たさ。

 冬の朝、息が白くなる感覚。氷の表面を滑る刃。


 ――コツン。


 壁に白い霜が広がり、薄い氷の花が咲いた。

 触れると、ぱり、と砕ける。

 レバー。風。

 空気の塊をまとめ、一直線に押し出すイメージ。


 ――フッ。


 音は小さいのに、壁面の粉塵がぱっと舞い上がる。

 当たった部分の表面が、紙を剥ぐように削げ落ちた。

 最後にレバーを元に戻し、純粋な衝撃。

 分かりやすく、単純に。力そのもの。


 ――ドン。


 最初より少し強く。壁の穴が、さらに深くなる。

 肩にずしり。足首で重心を受け止める。

 息が荒い。胸の内側が熱い。

 魔力を動かし続けた疲れが、じわじわと腕から背中へ広がる。


 「やりすぎると、倒れるな……これは」


 台座の警告文は、嘘じゃない。

 ただの便利な道具じゃない。使えば、代償が来る。


 母狼が近づき、銃床を鼻先でつついた。

 その黄金の目は、まっすぐだった。

 ――それを持つなら、理解しろ。

 言葉にすれば、そんな視線。


 「分かってる。……試し撃ちはここで終わり」


 広間の壁にこれ以上穴を増やす気はない。

 俺は銃をおろし、肩の位置を小さく直した。じんわりと痣になりそうな痛み。

 銃は軽いのに、存在は重い。


 収めるべき場所を探して台座をもう一度見ると、箱の縁に、別の板が埋まっていた。

 文は短い。


 ――権限:携行許可。

 ――外部搬出:可。

 ――返還規約:不問。


 「持って行け、ってことか」


 あまりにも無造作な許可。

 罠かもしれない、という考えが一瞬よぎる。けれど――母狼は何も言わない。

 俺は銃を肩から下げる位置に構え直し、廊下へ戻った。


 来た道を引き返す。

 足音が広間に吸い込まれ、静けさがすぐ後ろから追いかけてくる。

 ルナは時々振り返って、壁の穴を不思議そうに見ていた。

 母狼は振り返らない。歩みはまっすぐだ。


 扉を抜け、祠の外へ。森の匂いが一気に濃くなる。

 湿った土。緑の気配。

 この空気の方が、やっぱり落ち着く。


 外で一度だけ、確認する。

 的は、倒木。

 距離を取り、構える。

 魔力を、ごく少量。

 引き金。


 ――トン。


 木の皮が小さく剥げた。反動は軽い。

 次。火を薄く通す。

 ――ボ。

 焦げ跡。煙が細く上がる。

 氷。

 ――コツ。

 霜が付く。

 風。

――ス。

 表皮が撫で取られる。

 衝撃。

 ――ド。

 中心がえぐれ、倒木がわずかにきしんだ。


 「……使い分ければ、狩りでも護身でもいける」


 全力でぶっ放す必要はない。

 牽制、威嚇、足止め。やりようはいくらでもある。

 魔力が尽きれば終わりだが、それは剣だって同じだ。体力が尽きれば振れない。


 大切なのは、選ぶこと。

 撃つか、撃たないか。どの強さで、どの属性で。

 自分の都合じゃなく、その場で生き残るために。


 母狼がこちらを見た。

 近づき、銃口ではなく銃身の横を軽く鼻で押す。

 それから俺の肩。

 ――持ち方。

 ――身の置き方。

 ――重さの受け方。

 押し方と視線で、伝えてくる。


 「こう、か」


 銃床を肩の内側に少し入れ、肘を下げる。

 足幅を半歩、広げる。

 撃つ前から、反動の逃がし先を作る。

 ――ド。

 今度は、足が後ろへ勝手に下がらない。肩の痛みも少ない。


 「ありがと」


 母狼は喉の奥で短く鳴き、背を向けた。

 ルナが俺の足に頭をこすりつけ、尻尾を振る。

 銃口を地面に向け、深呼吸。

 胸の奥の熱が、少し落ち着いた。


 祠をもう一度振り返る。

 扉は半開きのまま、森の影に溶けている。

 近づけば、また開くのだろう。

 けれど、今は十分だ。欲張りすぎれば、足を掬われる。


 森へ戻る道すがら、頭の中で使い方を繰り返し整理した。

 連射はできる。だが、魔力が続く限り、という前提。

 過充填は危険。反動で身体が壊れる。暴発の可能性もある。

 レバーは属性の「選択子」。撃つ直前に、ひと引き。

 イメージが甘いと、弾は弱い。

 逆に、鮮明すぎても、消耗が大きい。


 ――結局、俺次第ってことだ。


 森の匂いが、少し変わった気がした。

 ここに来たときより、風が軽い。

 空が広い。

 同じ景色なのに、違って見える。


 夜、焚き火の脇で銃を膝に横たえ、布で拭いた。

 金属のようで金属じゃない表面は、すぐに乾く。

 手汗の痕が残らない。

 銃身の文字列を指でなぞる。意味のない飾りに見える線と、明らかに意味を持つ記号が混ざっている。


 名前は、どこにもなかった。

 あるいは、こういうものにはそもそも名を刻まないのかもしれない。

 使う者が決める。必要なら、呼び名はあとからついてくる。


 「……任せろ。乱用はしない。使うべきときに、使う」


 声に出す。

 母狼は目を閉じたまま、耳だけこちらへ向けた。

 ルナは俺の膝に顔を乗せ、ふわ、と息を吐く。

 焚き火が、小さくはぜた。


 この世界で生きる。

 街の掟でも、誰かの正義でもなく、俺たちの生き方で。

 守るために、選ぶ。撃つか、撃たないか。どこまでやるか。

 その判断を、握りしめる。


 膝の上の銃は、軽い。

 だけど――重い。

 目を閉じると、森の夜気がすっと肺に落ちた。

 明日はまた、狩りだ。

 そして、練習も。

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