中国架空史
@Grad_BM21
第1話(日中戦争の無い中国の歴史 ?~1951)
長らく続いていた国共内戦は1937年に国民党勝利で終結した、毛沢東率いる中国共産党はは陝西省の山奥にて抵抗する弱小勢力へと成り果てた。
勝利した国民党は更なる敵である東北軍閥へ侵攻、しかし東北で体制を整えていた張作霖率いる東北軍閥との戦争は困難を極めていた、熱河省を制圧した、しかし東北軍による反撃は凄まじく結局1938年には戦線は膠着した
更に1938年、広州にて大事件が起こる、それは蔣介石による統治に反発する広州国民政府、新広西派が引き起こした広州戦争である、当初蔣介石はこれを鎮圧しようと余漢謀らを買収しようとした、しかし事が露見した事で双方の戦争は確実となり、東北軍閥という大敵の残るなかで広州との戦争が勃発する事となる
1939年、東北軍100万と両広軍100万という大軍は遂に国民党と戦火を交える、その大戦はなかなか終わらず、更に雲南にて独自の勢力を保持していた雲南派は蔣介石から離反した
1940年、中華民国の隙を見たチベットは西康省へと進軍、もちろん東北、広州にほぼ出払っていた中華民国軍は少数しかおらず結局壊滅してしまった
四川では劉湘と劉文恵が対立していたが劉文恵が追放される形で四川は安定した、しかし劉湘率いる四川軍は広州の戦いへと出向いていた、僅かに四川本土に残った劉湘の軍は国境警備に充てられており、チベットの侵攻で壊滅した、そうして四川は再び権力の空白地帯となった、そんな中で僅かな手勢を保持していた劉文恵は四川省支配を再び確実とするために四川省北部にて反乱を起こした、雅安を制圧した文恵派は遂に成都へと入城、しかし広州にてこの報を受けた劉湘は再び四川へ帰還、しかし広州の戦いで大きな被害を受けていた四川軍は劉文恵の軍を壊滅させる事はできず、四川は劉文恵と劉翔、そしてその他の豪族が争う泥沼な状態へ変貌した
東北戦争の補給拠点となった山西派の指導者閻錫山は悩んでいた、それは中原大戦にて蔣介石に負けた結果蔣介石の部下へと成り果てたものの、今の状況ならば再び独立勢力になれるのではと考えるようになる、1940年に閻錫山は家臣を集めて山西派の兵力を強化するように厳命した
陝西省の馮玉祥率いる西北軍は表向きには蔣介石に忠誠を誓っていた、しかし中原大戦にて負けた事を未だに根に持っており、陝西省にて再び権力を握ろうと暗躍していた、勿論ゲリラとして抵抗していた中国共産党とも手を組む事もあった、ある日馮玉祥は閻錫山と面会した際に閻錫山から対蔣介石で手を組む事を提案される、馮玉祥はそれを快諾し遂に東北戦争の裏で山陝同盟が締結された
そんな中で北伐で張作霖の元に亡命し、張作霖の庇護を受けた呉佩孚は東北、両広での戦争の最中に河南省に帰還、直隷派の残党に迎えられた呉佩孚は河南省にて直隷派残党の反乱を引き起こした、反乱は散発的に発生し時には大規模になるために兵力を割かねばならず、東北、両広に対して有利だった蔣介石軍の対処のために派遣された兵力は同程度まで衰退してしまった
更に1942年閻錫山と馮玉祥に率いられた華北軍が蔣介石に反乱を起こした、それには中国共産党も加わっていた、華北軍の離反により蔣介石は不利となり遂に北京を放棄し黄河と渭水を防衛線として華南へ撤退した
青海では馬麟と馬歩芳が対立し度々戦争が起きていた結果青海南部をチベットに攻められ奪われるという屈辱を受けてしまった、また寧夏では馬鴻逵と馬鴻賓が互いに戦争を行っていた、勿論馬家のそのような惨状を見ていられなかった馬仲英は1937年に暗殺をされかけるも死を免れ、1939年に馬鴻逵と馬鴻賓の和睦について、馬鴻逵に寧夏、馬鴻賓に新疆ハミを渡す事で和睦を成功させる、更に1941年には馬麟と馬歩芳に対しても和睦を持ちかけ馬歩芳に青海、馬麟に新疆ジュンガルを渡す事で合意した
新疆では金樹仁がクーデターで追放されると盛世才が新疆を統治した、しかし盛世才はホージャ・ニヤーズを引き込む事に失敗すると対立し、1936年よりお互いに争いあった、結果としては双方が衰退し、更には1938年の馬仲英による第三次新疆侵攻を招き、結果1938年夏に双方が滅亡する羽目になった
1943年華北軍は両広(新広西派と広州国民政府)の軍と協力し蔣介石率いる中華民国へ攻撃を開始した、そして華北での決戦となる済南の戦いが発生、長く続いた後に華北軍は遂に蔣介石率いる中華民国へ勝利した、その頃中国共産党は農村部の治安維持活動に尽力しつつも農村の支持を取り付けていた、しかしそんなことは知らぬ順風満帆な反蔣介石派は遂西安を陥落させた、両広軍も厦門を落としつつ、福州市近郊まで到達、中華民国は中原大戦以来となる滅亡の危機に瀕することとなった
その頃河南省では直隷派の残党が蜂起を続けていたものの度重なる鎮圧で勢力を失い、驚異ではなくなってしまった
新疆や甘粛、青海、寧夏では馬家軍がほぼ全土を支配していた、その結果馬家軍は西北五馬と呼ばれ西部最大の軍閥と呼ばれていた、遂に馬家軍頭領の馬仲英は1943年、チベットに奪われし南青海を取り返そうと遂に馬家軍10万はチベットへと侵攻した、しかしチベットは非常に奥深い山岳地帯であり新疆のように容易に侵略する事はできず、馬家軍は大損害を受けてしまった、しかしチベットも無事ではなく、チベット軍の精鋭もかなり損耗してしまった
雲南では竜雲が強く支配を継続していたが1940年より四川からの難民や国民党による介入に悩み続け、遂に竜雲は四川を征伐する事を決意、勿論四川には強大な軍がいる…わけではなかった、そう劉湘と劉文恵はお互いに拮抗しあった戦力で戦い続けた結果双方に存在した強力な軍は消耗し切っており、精鋭の揃った竜雲の軍に勝てるわけが無く、結局1941年に四川は雲南派の勢力圏となってしまった
その頃東北軍閥の指導者である張作霖は国家の近代化に勤しみ1941年には遼東半島に大規模な製鉄所を建設した、東北軍閥は占領地天津と北京も合わせればかなりの工業地帯を保持していた為に当時最も裕福な軍閥とも呼ばれた、しかしながら東北軍閥は先の蔣介石との戦争で人口のおおよそ10%にあたる350万人を徴兵していた、戦争中に350万人のうちの50万人が戦死、または行方不明となってしまい、150万人が負傷するという莫大な被害を被ってしまった
1943年の末の国民党は北部では鄭州市と洛陽市を失い、北部主要都市である周口市、襄陽市、漢中市の奪取奪還をめぐる戦が起き、更に南部では長沙市と温州市を失い、南部主要都市である常徳市、南昌市、台州市の奪取奪還をめぐる戦が発生していた、更に不運なのは西部の主要都市たる重慶市が竜雲に攻められているという事だった
1944年、華北軍は両広に先駆けて武漢を陥落させようと最精鋭の機械化師団を以てして信陽を突破しつつ武漢市へと突入、勿論そんなことを予想してなかった中華民国武漢駐留軍は壊滅した
武漢市にて指揮をとっていた蔣介石は危険が迫った為に南京へと逃れた、しかし南京も安全ではなく両広軍に落とされた杭州市、華北軍に落とされた臨沂市、その二つの都市から近くに存在した、結果蔣介石は現在は分が悪いと判断し1945年春に海外に亡命してしまい、1930年代に中国を席巻した雄はあっけない形で滅亡した
華北軍に属していた中国共産党は後方治安維持の名目の元で農村への支持の拡大工作を行い、結果としては山東省、河北省南部、山西省、陝西省、河南省、安徽省、江蘇省、湖北省にて圧倒的な支持ネットワークを確立していた、それは一部では馬家軍や東北軍閥、両広軍、雲南にまで延びていた
そんな中で両広と華北軍が対立する事件が起きる、それこそ武漢を擁する湖北省、南京を擁する江蘇省の帰属をめぐる対立であり、当初長江を境に分ける予定を両広軍は江蘇省と江西省、上海、湖北省の領有を主張した、勿論そのような要求を華北軍が飲むはずも無く、1945年夏、遂に両広軍の先制攻撃により南京にて軍事衝突が発生、南京事件と呼ばれた一連の戦では多くの死傷者が発生した、しかし両広軍が活躍できたのは最初の一時だけで南京と武漢を占領した両広軍は徐州市の戦いにて敗北、その後敗戦が続いてしまい、遂には広東省と広西省にまで押し戻されてしまった、その後1946年に両広は華北軍により制圧され両広軍は滅亡してしまった
更に馮玉祥と閻錫山に率いられた華北軍は西方安定化を掲げ1946年冬に竜雲と和議を結び、勢力圏を保証した後に馬家軍に対して攻撃を開始、馬仲英率いる馬家軍には馬鴻逵、馬鴻賓、馬麟、馬歩芳がいたものの連携の点では青海戦争で精鋭を失っていた馬家軍が不利となり、遂に馬家軍は甘粛、寧夏、青海から追い出されてしまった、その後新疆にて残党が抵抗したものの1947年までに馬家軍は壊滅した
東北ではようやく軍事力が回復してきた東北軍閥と華北軍で北京をめぐる戦闘が激化、その後華北軍は満州地域本土にまで侵攻するも張作霖とその息子張学良に率いられた東北軍閥の軍は軍閥の中ではトップクラスの質を持っていた為にこれまでの粗悪な装備しか持っていなかった軍閥との戦争と比べ非常に強く、戦争は長期間続いてしまい、東北軍閥が滅亡する事で戦争が終結したのは1948年であった
1947年の華北軍は閻錫山の軍が100万、馮玉祥の軍が150万、竜雲の軍が50万であり、それは主に対軍閥戦争用の部隊であった、一方で毛沢東の軍は正規兵こそ30万だったものの、民兵を合わせれば300万となっていた、毛沢東軍の任務は後方治安維持やゲリラ戦であり、結果として歴戦の兵士を損耗せずに済んでいた、一方の馮玉祥と閻錫山の軍は度重なる戦争で歴戦の兵士を失い弱体化していた、更に1948年に馮玉祥派と閻錫山派で中華民国大統領の座を巡る対立も起きつつあった
そんな中で大事件が起こる、それは馮玉祥と閻錫山が共同して竜雲の本拠地昆明を襲撃、竜雲を捕縛した後に満州へ左遷させた、突然の指導者の失踪に困惑したのは竜雲の配下達であり馮玉祥と閻錫山は竜雲の次の後継者に盧漢を据えたものの不満は燻り、遂に1948年11月に雲南事件が発生した、雲南事件は旧雲南派を主導としつつ更に両広軍や四川軍、馬家軍の残党も合流、計60万の兵力が成都と重慶を拠点に進軍を開始した
雲南事件と毛沢東の蜂起
雲南事件で馮玉祥軍と閻錫山軍合わせて250万は重慶を攻撃、しかし奥深い山、更に真冬とあって戦争は思うように上手くいかず、1949年までに馮玉祥軍と閻錫山軍は疲弊しつつあった、更に両軍は馮玉祥と閻錫山の対立もあり連携も上手くいかず、無駄に兵力を損耗し続けた
そんな中で毛沢東はとある疑念を抱いていた、それこそ独自の軍を持っていた竜雲が左遷させられた、戦争が終われば馮玉祥と閻錫山の政争の前に最も両名の脅威となる自分が左遷させられる番ではないかと
そして毛沢東は周恩来らに命令を発した、それは雲南にいる共産党軍20万を突然貴陽市へ撤退させ貴陽市に存在する雲南征伐軍本部を攻撃する事である
そして1949年4月、撤退し始めた中国共産党軍が貴陽の雲南征伐軍本部を攻撃、それにより中国内戦は開始した
当初は支配地域こそ民国側が多かったものの、馮玉祥と閻錫山は中国全土での地盤が弱かった事、更に度重なる戦費確保の為の増税、更に何度もの徴兵により民衆からの支持は壊滅的であった、更に民国は都市部での支持を重視しており、農村の支持を全く考えてなかった、一方で毛沢東率いる中国共産党は長征、更に陝西省での蜂起、華北軍との協力の中で農村支持を獲得、農村支持を重視していた、中国共産党は20年以上の時を掛けて中国の半数以上の農村の支持を取り付けていた
都市を支配していた為に工業力こそ民国側が高かったものの、人口、資源やインフラは農村側が有利であり、更に一部の都市は共産党支持に傾きつつあった
毛沢東の軍は当初の300万だったが共産党支持の義勇民兵の合流で1949年9月には軍質は低いものの兵数は600万となり、一方の民国は250万の兵力を保持していたものの、内半数の軍を雲南に割いていた為に対処は遅れたが、それは逆に幸運となった、なぜなら雲南は共産党の支持が弱く華北に残っていた65万の軍のように包囲され降伏する羽目にはならなかった、しかし雲南残党の攻撃で当初は125万だった雲南の民国軍は毛沢東軍と対峙した際の兵力は60万程度であった
毛沢東率いる本軍は200万の兵力を擁して中国中の農村や都市の民国拠点を破壊しつつ共産主義を広め、遂に武漢手前まで前線を押し上げ、華北中を支配下に置いていた
華南に取り残された民国は雲南での戦争を急いで終わらせ、貴陽、長沙の共産党軍を殲滅すると、遂に武漢に辿り着いた、250万の内125万が雲南に派遣されていたものの雲南部隊の内65万は脱走か負傷、戦死で使い物にならなくなり、毛沢東と戦った時には60万の兵士しか残っていなかった、残り民国の125万は華北に包囲され取り残されるか、頻繁に蜂起する農村に対処するため後方の治安維持を担わなければならなかった
そして両軍は長江を挟み睨み合い、遂に一発の砲撃音と共に武漢決戦が始まった
武漢決戦ではこのままでは負けると覚悟した民国軍の必死の抵抗で共産党軍は50万の兵力を失う大損害を被ったものの、数の少ない民国軍は10万の兵力を失い、残り50万となった民国軍はゲリラ戦をしながら撤退し遂には福建省と浙江省、江蘇省、上海市に追い詰められ、そこにて壊滅した
1950年2月、毛沢東の勝利で中国内戦は終結した
1950年3月には新疆の馬家軍残党、東北の奉天派の残党を攻め5月までにそれを撃滅、1950年6月にはチベットへと侵攻しチベットを併合、その後は1951年までに各地の残党を撃滅した
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