(未完成)虚無への憧景
@GeoFuruko
虚無への憧憬 前編
ねはん【涅槃】 一切の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)した、不生不滅の高い境地。転じて、釈迦(しゃか)や聖者の―…
人里離れた、山岳地帯である。空気は乾き、生き物の気配は感じられない。天空の砂漠と形容すべきか、巨大な山容の中腹に、ここは平地かと見紛うほど広大な高原があった。風吹けば砂埃が舞い上がり、容赦なく麻でできた粗末な服に砂埃が入ってくる。遠くで赤く、高熱の鉄がしたたり落ちているような太陽が、沈もうとしていた。しどけなく結った髪がなびく、髪に油気はなかった。
ぴた、ひた、ひた、と響くのは溶けた太陽が地平線と見間違えるような、遠く連なっている山脈へ零れ落ちる音ではない。私の背後にある洞穴の奥から響いてくるのだ。
「導師様、いつまでそうしておられるのですか。」
わたしは洞穴のほうへそう叫んだが、うわんうわんと、私の声の余韻が反響するだけだった。
ここ数か月、導師様は一言も言葉を発せられていない。食べ物も、手を付けようとしないので、私がお椀を尊士様の口元へやると、ようやく口を動かすのだ。
太陽が険しい山々の間に飲み込まれていくさまを私は眺めた。空気が急に冷気を含んできている、群青色に色を落としていく天空のかなたに、一つ輝く星を見つけた。あれは、金星といったか。いつかの導師様が教えてくれたのだ。その時は婆も生きていた。
今日のような空気の澄んだ夕暮れ時、私は、婆と尊師様と手をつないで、草むらを歩いていた。あの頃は、導師様はまだお悟りになられていなくて、いまよりずっと笑ったり泣いたりしていた。この乾いた土地も美しい草原で、裸足で歩くと、さわさわと、つややかな草が足を撫でるのだ。
導師様も婆も裸足であった。このほうが大地の鼓動を直にきけるのだよと導師様は言っていた。
導師様と手をつないで歩いていると、「大地の鼓動」は確かに聞こえた。静かにであるが地球全体が大きく大きくうごめいているのが分かった。三千里先の、活火山の様子などは手に取るように分かった。そのことを導師様にお伝えすると、導師様は驚き、婆はそれは本当かと何度も聞いてきた。
そのうち、導師様と手をつないでいなくても、聞こうと思えば「大地の鼓動」は聞けるようになった。
それだけではなかった、私は年を重ねるごとに、生命の声、季節の変遷、気候の変動、太陽の息吹を受容できるようになる。それに気づき導師様に伝えると、導師様は悲しそうに笑い、
「私がそれをできるようになるまで、一体私はいくつの歳月を費やしたのだろうか」
と言った。
いつか婆が、導師様は村の子の中でも極めて聡く、この世のあらゆることに敏感でいらっしゃったので、悟りを得るために、この地まで連れてこられたのです。と言っていた。
場面はあの頃の夕暮れに戻る。導師様はその夕暮れ、天で一番輝く星を寂しげに見つめていたので、
「あの一番輝く星は何ですか、導師様」
と私が聞くと
「金星という」
と尊師様はお答えになった。そして、
「村の中で、私だけがあの金星が叫んでいるのに気づいた。村の祭祀が、きっとわたしがこの世の行く末を悟るのだと言って、私をこの聖地へつれてきた。古い伝説にそうあるそうだ。」
とおっしゃり、
「もっとも、その伝説の真偽はよくわからないのだが。」
と呟くように言ったので、婆が、
「本当のことです。わたしはあなたの引き起こした不思議な出来事を忘れてはいませぬ。あなたが悟りを開くまで婆は生きますよ。」
と強い意志をもっていったので、尊師様はうなずき、そのまま静かになってしまわれた。
婆は、その夕暮れから数年して、息を引き取った。静かな死であった。
導師様は、婆の骸の前に呆然と立ち尽くし、
「私はいつ悟りを開くのか、おまえにはわかるか?」
と憔悴しきった声で私にお聞きになった。私は、
「わかりませぬ。」
と正直に言った。導師様は、
「寂しい」
と嗚咽交じりに言った。私はしゃがんでしまわれた導師様の、いつもよりずっと小さく儚い背中をさすり、導師様と一緒に婆の骸を抱き上げ、埋葬した。
埋葬からの帰り道、導師様はずっと涙を流しておられた。わたしは導師様の手をそっと握って、黙って隣を歩いた。
ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、という砂上を歩む二人の足音と、導師様の嗚咽だけが、あたりを支配しているのを私は感じた。
「お前は悲しくないのか?」
導師様は私に尋ねた。
「悲しいけれど、人はいつか死んでしまうものです。わたしもあなたも…」
と感じたままのことを答えると、
導師様は、立ち止まって、うめき声をあげながら崩れ落ちた。小さく肩を震わせ、うわ、うわ、あ、あ、と苦しそうに息をし、うわごとのように、こうおっしゃった。
「そして、俺もいつか死ぬのだ、怖い、怖い、怖い、悟りなどひらけずに、哀れに死ぬのだ。俺は、きっと、伝説にいるような尊師ではないのだ。お前もそう思わないか?いや、尊師になるべくして生まれたのは、お前なのかもしれない。」
導師様は、遠くを見ておられます。私は導師様をうしろから抱き、
「大丈夫、尊師様は聡く、なにより、優しい…」
と、涙をただただ流し、うずくまってしまった尊師様と一緒に、婆を想った。
婆のいない洞穴はさびしく、おおきな獣が泣いているような風音が虚しく響いている。
導師様は私の腕の中で小さくなっておられた。導師様の手が、私の乳房を触った、驚き抵抗したが,導師様の哀れな小さな姿に,すでに情けのような感情を感じているのに私は気づいていた.
―オカアサン…
いつか婆が、導師様は早くから母を亡くした、あわれなお子なのだと言っていた。私は、両親を知らない。だけれど、導師様のさみしさは私になだれ込んできた。導師様は私の腕の中で稚児と私より十ばかり上の青年を行き来していた。
―オカアサン…オカアサン…
婆は、尊師様の世話をするために、尊師様のおそばにいた。わたしはその二代目という役割を持っていると思っていたが、もしかしたら、本当は…
尊師様、悲しいのね。私の腕の中にあなたはいるけれど、あなたはどこか遠くで漂っていらっしゃる。性愛と母への愛も、まじりあって、境がなくなってしまっているのでしょう。
虚無に包まれていた洞窟はいつしか、ぬるま湯の中にとっぷり包まれているような、完全なる安心の中にあった。どく、どく、と互いの心臓の音を頼りに闇の中ですがりあう。それはまるで、母親の胎内のようであった。互いの記憶の片隅に眠っていた、「母親」という偶像を融合しあい、この空間を導師様と私は作り上げている。きっと導師様もそれに気づいている。だけど今はこの中で眠っていたい。そんな強い願いが、幼子のような青年のような見た目に変容した不安定な導師さまから伝わってくる。
―コノママズット、ネムッテイラレタラ、コウフクナノニナ…スジャータモ、ソウオモウデショウ?コノママ、ネムロウヨ…
―ボクハ、スジャータヨリ、オトッテイル、ムラノミンナカラ、ソンケイサレテ、ジシンモッタ。
―ケド、バァガ、ツレテキタ、キミヲ、ミテイルト、トテモコワクナル
―ホントウハ、ボクハ、スゴクナイ、シツボウサレテ、シヌ…
―導師様、あなたは生きていることに意味がある、私より、尊いお方…今は、お眠り下さい…
尊師様の唇が、静かに私に触れた。尊師様は冷たかったが、まどろみの中で、やがて同じ体温へ溶け合っていく。
―大丈夫、怖くない…
私は尊師様に身を任せた。
そんな日々が続いたある夜、わたしは夢の中で一頭の白い巨大な像に出会った。白い像は、長い鼻を静かにわたしの胸元にあて、静かな目をして何かを訴えていた。
―どうしたの?
像は微動だにしない。ただただ、いつか、ずっと昔に嗅いだ、春の香りをまとい、私を見つめている。
―あなたは…春…?この聖地にやっと、春が来るのですか。
白い像はゆらゆらと空間へ滲み輪郭がぼやけてった。そして、哀しそうに鳴いた。
―ツチヘ…
白い像がそう言った刹那、柔らかな光に包まれ、私は自分の身体の所在がわからなくなった。
その日の朝、尊師様にその夢の話をすると、尊師様も、白い像が自分の方へ歩いてくる夢を見たと言って、恐る恐るわたしの腹に耳をあてた。
…が、尊師様は静かに首を振った。
「俺には不相応ということか…」
「別の知らせかもしれないですよ」
「別の…」
「この聖地に何か、変化が来るのかもしれない」
「お前はなにか、感じたか…?俺は、なにか、恐ろしいようなものを覚える」
「いえ、恐ろしいものは感じませぬ」
導師様は、深刻そうな顔をして、洞穴の奥に鎮座し、目を閉じた。このような尊師様を見たのは、婆が亡くなる前以来だった。
その時から、導師様はなにも自主的に食べようとはせず、身動きせず、話しかけても答えなくなってしまった。
婆が死んでから、導師様はよく「虚無」と言う言葉を口にした。私の知らない言葉だったので、意味を問うと、
「なにもないことだよ」
とおっしゃった。
「この世がない事ですか?」
と私が尋ねると、導師様はどこを見るでもなく、何かを考えているようでした。きっと、私のわからないような、難しいことを、一人で抱えていらっしゃるのでしょう。
導師様はなんだか、虚無にとりつかれているように見えた。
そうして、話は冒頭に戻る。
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