深海の霧笛

@GeoFuruko

深海の霧笛

 シルレア紀の地層はとほきそのかみを海のさそりの我も棲みけむ


                                明石海人


「へぇ…こんな歌が」


「そう、あ、シルレア紀はシルル紀の事ね。古生代の」


 夕刻の哀愁、秋の到来にふさわしい、黄金色の斜陽が、病室を黄金色に染めている。自分は病室の窓ぎわによっかかり、明石海人の歌集をぱらぱらとめくって読んでいた。自分には文学をたしなむ趣味はないので、この句がいいものかどうかはさっぱりだ。


 ぱたん。と本を閉じ、僕は目の前で横たわる少女に訊いた。


「どのくらい見えるのか、目は」


 少女はしばらく黙っていたが、しばらくして「全然だめ」


 と小さく呟いた。


「そうか」


 会話が続かない。話題を探して、病室に目を泳がせるが、話題はやはり見つからなかった。


 困ったなあ…普段放課後だべっていたというものの、今は目に病を患った病人相手だ。病気が病気だけに、話しづらい。


 沈黙を破ったのは、彼女だった。


「ごめんね、本持ってきてくれだなんて頼んで。すぐみつかった?ほら、地学室物で溢れているでしょ…」


 いつもよりぎこちない話し方だ。少女――ゆきも、緊張しているのだろう。


「ああ、本は一か所にまとめてあるからな。すぐ見つかった。」


 そしてまた数秒の沈黙。話題をかえてみることにした。


「ところで、なんでこの歌集を置いておいたんだ?星座の本とか鉱物の本の中に置くにはミスマッチな気もするが…」


 ゆきは、ああ、と呟いたあと、おもむろに口を開いた。目の焦点はあっていない。どこか遠くを見ているようにも見える。


「私その歌人とても好きなの。沼津出身で、ハンセン病にかかってしまったために差別されて、家族のもとを離されて隔離病棟で生涯を終えたのね。それで…」


 少し迷っているような表情をしてゆきは、


 「発声困難になる前に、その、失明したの。」


 と言った。さすがに僕は言葉に詰まった。


 「だからね、海人は自分を深海にいる生物に例えたんだよ。ほら、深海って真っ暗でしょう…。」


 はあ。と一息つくと、序文を音読してくれと、僕に頼んできた。もちろん断るわけにはいかなかった。


 


 深海に生きる魚族のように、


        自らが燃えなければ


            何処にも光はない





 「この文章を知っていたから、私運命だと思ったの。海人みたいに強くあろうと思った。手術も頑張ろうってね…三十四ページを読んでみて。題名は【さる手術に】だったと思う」


 ゆきは興奮しているようだった。きっとこの気持ちをずっと心の中に秘めていたのだろう。気持ちは伝染するものだ。自分の心拍数が上がっていることに気づいた。三十四ページを読み上げる。




 さる手術に


 目隠しの 布おほふとき 看護婦の


  眼鏡の玉に 見えし青き空



  


「この歌を思い出した時、とても怖くなった。次布が外された時、その先に見える光景が暗闇だったらどうしよう。って…」


 ネガティブな空気が僕は苦手だ。これは女特有の励ましてくれ。というサインであることに気づいていたが、どうしたらいいのかわからなかったので、自分の好きな灯台の話をすることにした。


 「ゆきは霧笛って知っているか?」


 「ムテキ・・・?」


 ゆきは首を振った。まあそりゃそうだな。


 僕はiPodをポケットから出すと、ちょっと失礼。とゆきの耳にイヤホンをあてた。ゆきはびっくりした様子だったが、黙っていた。


 霧笛は船舶や灯台が、霧で視界きかない時に、他の船舶との衝突を避けるために鳴らすものだ。音は低いサイレンの音が、牛の鳴き声のように響いている感じだ。


 「不気味な音だね…でも、底知れない安心感がある…。流石、無類の灯台好き。音源を持っているだなんて、控えめに言って変態趣味だね。」


 口減らずらしい、いつものゆきが顔を出したな。


 「好きな声優のCDを持っているお前も人のこと言えたものじゃないぞ。」


 ゆきは、ばかやろう。と言って笑った。


「霧の中でも、嵐でも、夜、一人で海にそびえたって、あたりを照らしているだなんて、かっこいいだろう。」


 ゆきはまた笑った。何がおかしい。と聞いてもゆきは答えなかった。


 「深海と霧ってなんだか似ているね…」


 そう呟くと、ゆきは僕にもう帰るように促した。


 気づけばもう外は真っ暗だ。窓に病室と自分の姿がうつっている。


 初冬を思わせる冷たい風が、哀しく窓を鳴らした。


  


 失明


 拭へども拭へども 去らぬ眼のくもり 


  物言ひさして こえを呑みたり





 目が覚めると、そこは冷たい病室だった。気味の悪い、低いボイラーのような音が、低く、低く唸っている。


 なんだか漠然とした不安はあったが、不思議と怖くはなかった。ぺたり、ぺたりと歩いて、ボイラーの音が大きくなる方へ進んでいった。足元の冷たい感触が、妙に生々しかった。


 


 ―――く、カッキョク、各局、こちら深海、深海、深海、海上保安庁が、深海の気象状況をお伝えします。ジコク、十四時三十分、北北東の風、十メートル、気圧――――





 船舶気象通報だ。と思った。頭の中に訴えかけるように、わんわんと、人工音声で読み上げられている。


 船舶気象通報の音は、一つではなかった。音声をはっきりと聞き取ることはできなかったが、無数の音が、そこかしこから、わたしの頭の中へ、次から次へとなだれ込んでくる。不規則に思えたそれらの音声は、次第に大きく。そう大きくなり、やがて一つの合唱のようになった。


  



 気管切開


 二十億の他人の息のかよふとも


  ただるる喉に わが息は





 合唱に応答するように、あたりからもやが立ち込め、ゆらめき、ふるえ、私の足もとまで振動させた。


 そこで急に怖くなって、駆けだした。


 駆けだすと同時に、廊下がぐにゃりぐるぐると回転しているように感じた。


 もう自分は今、さかさまになって走っているのか、横倒れに走っているのか、わけがわからなかった。合唱の声はめいめいの思うように、しかし一つの流れを維持して、私を追った。濁流のように、勢いとどまることなく、ぐるぐる反響していた。


 刹那。鉄扉のようなものに激突した。丸いハンドル状のものを激突した衝撃でまわし、私は外に放り投げだされた。


 自分を抱擁したのは、暖かい水であった。くるくると激しく回転していた自分の身体の動きは次第に速度を落とし、ゆらゆらとわたしは深海へと堕ちていくのを感じた。


 眼下に広がるのは、黒々とうごめく海と、灯台。水平線が紺色に明るく膨らんでいた。自分がどこにいるのか、全く見当もつかなかったが、ただ一つ確かだったのは。静かに回転する灯台の光だった。ただ一つのプリズム。凸レンズ―――





 深海に生きる魚族のように、


        自らが燃えなければ


            何処にも光は――


 光よ――――。私を―――。


 何処かで、何処かで誰かが私を呼んでいる。


 何処かで――――?


 どうか―――――あなたをお助け下さい。





 灯


  


 今朝は我に箸も添へし


   君が往きし重病室に


        灯りともる頃か






 荒い息が部屋に響く。なにか大変な夢を見ていたようだったが、焦点がずれた写真みたいに、思い出すことができない。


 ゆきの手術は、うまくいったろうか…?





 ▼プロローグ すべては夢に収束する





 するすると、目にまかれた包帯がほどかれてゆく。手術から一週間。待ちに待った一瞬だ。


 この先に見える光景は、何色だろうか。


 手術中に見ていた、あの夢。灯台で私を呼んでいたのはきっとあの人であろう。そう思いたい。


 私は誰かの、灯台で、深海で輝くものになれるだろうか―――。


 包帯の隙間から、朝日が深海をかき分けて差し込むのを感じた。








 霧笛音源


 https://www.youtube.com/watch?v=L4LgDMosfxE&t=63s


 灯台放送


 https://www.youtube.com/watch?v=510U95Cox1w

 

 引用歌:明石海人「白描」より

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

深海の霧笛 @GeoFuruko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る