修羅との邂逅

@GeoFuruko

修羅との邂逅

 ある時から、心が空白になる時間が増えた。悲しいわけでも、虚しいわけでもなく、空白は突然訪れる。


 寂しくて空白を埋めてしまいたい願望というものは湧いてこなく、ただただ、空白であった。


 むしろ、その空白が心地よかった。


 以前は、何かしらに苦しんでいた。起きているよりも、寝ている時間の方が幸せであると気づき、休日は布団から出なかった。そして、むさぼるように宮沢賢治の作品を読み漁った。寝ることが許されない日は、ただただ、一日が早く終わることを願った。夜眠れないときは、深海へきてしまう。辺りには無数の何かがうごめいて、こちらと交わろうとするのだ。





 大きな魚がすぐそばを滑空した。





 苦悩に満ち溢れた、葛藤と、この世界との大交信を経て完成された詩集に「春と修羅」というものがある。


 そこには、この世界というものを、体いっぱいに受容し、血反吐をまき散らしながら完成した、この世で最も美しい「この世界そのもの」と言う結晶構造が示されているように感ぜられた。





 頭がひっちゃかめっちゃかになるたびに、私は春と修羅の世界と通じていられるような。奇妙な幸福を感じた。自分は第二の宮沢賢治である。そのような錯覚をするのである。


 そんな毎日も、夏の訪れとともに、突然、消えてしまった




 わたくしといふ現象は


 假定された有機交流電燈の


 ひとつの青い照明です


(あらゆる透明な幽霊の複合体)


 風景やみんなといっしょに


 せはしくせはしく明滅しながら


 いかにもたしかにともりつづける


 因果交流電燈の


 ひとつの青い照明です


(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)


 


 空白、だ。


 湿り気をたっぷり含んだ熱風が、自分が生きていること、そして、夏の到来を心の底に伝えた刹那、苦しみや悲しみも、そぎ落としてしまったようだった。





 夏は加速的に通り過ぎ、私はその間、跳ねまわりながら精一杯楽しく暮らした。





 そしてとうとう、冬が来た。辺りはしんと静まり、ただただ私は立っていた。


 ぼんやり、深夜に座っていると、気づいたら朝がきている。





 寝て、いたのだろうか?





 空白の時間に何をしていたのか、思い出せなかった。寝ていた後のような、ぼんやりとした感覚はなく、変に頭が冴えていた。


 このままでは、きっと、冬のままだ。





「どこかへ行こう」





 最終バスから降りて、ざり、と固まりかけの


 新雪を踏んだ。目の前には木立と、テント場に続く道。なんの計画性もない空白からの逃避行に、ある種の非日常を感じ、少し胸が躍った。久々の事だ。





 テント場には誰もいなかった。平日だから当然のことである。一面の新雪。白いキャンバスだ。一歩踏みだすと、ぎゅうっと新雪を圧縮する音がして、足が三十センチほど沈んだ。


 ぎゅっぎゅっぎゅっぎゅっと、テンポよく進み、少し駆けようとしたら、足がうまくあがらず転んだ。冷たい。振り返ると、自分の足跡だけが、一面の白に描かれている。なるほど、空白は自分の足で軌跡を残していくのね。と格言のようなような言葉が頭をよぎったが、全く実感は湧かなかった。





 そんなもんか





 せっせとテントを設営し、入口を掘り終えたころにはすっかり夕方だった。今夜は雪らしい。辺りはどんどん色彩を失ってゆき、私はそれから逃げるようにテントへもぐりこんだ。





 夕飯の支度をし、ガスコンロに火をつける、ぐつぐつとお湯を沸かすのだ。


 ぐらぐらと音を立てるお湯を眺めながら、ぼんやりしたり、愛読書である「春と修羅」をつぶやいたりした。そうこうしているうちに、テントの中はすっかり温まった。




 これらは二十二箇月の


 過去とかんずる方角から


 紙と鑛質インクをつらね


(すべてわたくしと明滅し


 みんなが同時に感ずるもの)


 ここまでたもちつゞけられた


 かげとひかりのひとくさりづつ


 そのとほりの心象スケッチです

 


「ごめんください、ごめんください。私は猫の重太郎です。どうか中に入れていただけませんか。凍えて死にそうなのです」


 あたりはすっかり、琥珀の中ような、暖かく黄色いようになっていましたので、私は猫を中に入れました。


「ありがとうございます。お礼と言ってはなんですが、これを受け取ってください。」


 猫の重太郎は、ころり、と石をもそもそと毛の中から取り出しました。玉髄のようでした。そうして猫はつづけて言います。


「いやあ、あなた宮沢賢治のファンなのでしょう。テントの外に、あなたの朗読が聞こえたのですよ。私の飼い主も、好きでしてねえ…。黄色の時間となれば、いろいろ自由がきくのが、きまりのようなものですから…。」


 わたしは、黄色い時間だからあなたを入れるべきだと思ったのですよ。と言うと猫はにんまり笑って。


「あなたは、黄色い時間に驚いたりしないのですねえ。いいことです。いいことです。宮沢賢治の世界へ到達するにはそういうたいどが必要です。」


 と言うと、ごろんと横になりました。


「ちょうど今日は雪まつりでしょう。散歩がてらに見物しようと思っていたら、すっかり冷えてしまいましたよ。」


 大きくあくびをすると、猫はすっかり眠ってしまいました。琥珀のまどろみのなかで、自分も猫も、琥珀の中に閉じ込められてしまうような、けれども子宮の中のような安心感と心地よいものを、心の底で感じます。


 わたしはぼんやりと、ここは夢なのか、ついに私の頭がおかしくなったのか考えました。でも、不思議な黄色い世界に入り込めたのなら、素敵な事だなあ。と思い、考えるのをやめてしまいました。




 これらについて人や銀河や修羅や海膽は


 宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら


 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが


 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です


 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは


 記録されたそのとほりのこのけしきで


 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで


 ある程度まではみんなに共通いたします


(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに


 みんなのおのおののなかのすべてですから)  




 猫がくれた玉髄は不思議な模様をしていました。玉髄は同心円状に模様を広げますが、しっかりと三次元的な奥行きをもっていて、玉髄の丸みを帯びたうねりが奥の方で動いているのを見ると、夏の夕方の積乱雲を追いかけているような気分になるのです。


 ふと、ごーっっ…と飛行機が上空で飛んでいるような音が、心なしか、聞こえてきました。しばらく音のする方をさぐってみますと、どうやらそれは玉髄の方から聞こえてくるようなのです。


 わたしが玉髄を顔の方へぐいっと寄せた…と思ったら、視界がぐんにゃりと曲がり、玉髄がぐわんぐわんおとを立てながら大きく大きくふくらんでゆき、私は、琥珀の真空溶媒に飽和的に溶解し、、玉髄の三次元的な奥行きに吸い込まれてゆきました。




 けれどもこれら新世代沖積世の 巨大に明るい時間の集積のなかで 正しくうつされた筈のこれらのことばが わづかその一點にも均しい明暗のうちに    (あるひは修羅の十億年) すでにはやくもその組立や質を変じ しかもわたくしも印刷者も それを変らないとして感ずることは 傾向としてはあり得ます




 激しい風圧と、吹雪の中を、私は歩いていました。雪に紛れて遠くにうっすらと、尊く巨大で、赤い赤い積乱雲がそびえています。もうすでに成層圏に達しているようで、その巨大な頭頂部は、水平に広がっていました。下からどんどんどんどん、もくもくと新しい積乱雲が生まれてゆき、もとあった巨大な積乱雲は崩れ去り、新たな積乱雲が途方もなく巨大に台頭するのを繰り返しています。


 吹雪はぴしぴしと私の身体にあたり、プリズムのようになないろに光って砕けました。


 あしもとはおぼつかなく、わたしはどちらへ進んでいるのかが、はっきりしませんでした。


 しだいに体は重くなってゆき、だんだん動けなくなるにつれ、吹雪はやんできました。


 遠くの積乱雲は、吹雪の時よりずっと近く、燃え盛るような赤をして見えます。


 視界がゆらいで、二重にも三重にもみえるなあ、とうずくまりかけた刹那、身体が急に軽くなり、驚いてうしろにたおれてしまい、心臓辺りがきゅっと空白をあけ、広がり、そこに、生暖かい風が濁流の様に流れ込んできました。その流れはのど元を大蛇のようにうねり、かけあがり、口から何やら、どぼどぼと、激しく出て行きます。息苦しくて口をぱくぱくさせた先に、「私」が見えます。


「私」は微笑むと、さっそうと駆け出します。生暖かい風の渦に、花の香りがまざり、あたりはいっそう明るくなって、花弁が無秩序に地面から吹きだし、雪はいつの間にか、恐ろしいほど透明な、水の流れを形成しました。




 ああ諸君はいま この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る 透明な風を感じないのか

  


 私は必死に「私」を追い掛けました。


 あたりの凄まじいほどの変化について行けず、恐ろしいほど苦しく悲しくなりました。


 かけどもかけども、「私」の背中は近づきません。


 だって私は新しい空気に順応できず、停滞したままなのですから。




 新しい風のやうに爽やかな星雲のやうに 透明に愉快な明日は来る




「私」はすっかり遠くまで行ってしまいました。私はどうしたらよいのかわからなくて、おろおろ泣きました。そして、尊い春を恨みました。


 激しく叫びました。そうすることしか考えられませんでした。辺りの花だ蝶だの新芽を破壊できるだけ、しました、心臓の音はいよいよ激しく、尊い春への恨みは。いつしか獣に変貌していることを、どうしよもない。どうしよもない未来だの将来が、足元を流れる清らかな水の流れが、春は美しいのだとわたくしに伝え、そうほんたうに、うつくしかったのです、穢れの無い地球の無機質さは知っております、春を憎んでいる私は、わたくしはどうしたらよいのか、誰か、誰かわたくしを幸福へ、いや、わたくしが幸福へ、どうか、わたくしは、わたくしはそう、修羅へとなっていたのです。





 わたくしは、「私」は、私は、


  素直に春を愛せたらどんなによいか





 毎年、毎年、季節は巡るが、それについてゆけなくなるのは、なぜだろうか。


 科学の法則に従い、無機質に変貌しているだけだというのに、ひとはそれにひどい感激を覚えたり、泣いたりするのだ。。


 わたくしは地球の変遷を体いっぱいに感じ、そのさなかを駆け抜ける感受性を持っている。それを生きているうちに、受容出来ないことほどかなしいことはない。

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