SCENE#76 夏蝉の声が途切れる頃
魚住 陸
夏蝉の声が途切れる頃
第一章:予兆
太陽がじりじりと照りつける、蒸し暑い夏の午後。アスファルトから立ち上る熱気が、逃げ場のない重苦しい空気を作り出していた。冷房の効いた部屋の中で、祐介 は一人、パソコンの画面を見つめていた。
画面には、数日後に迫った夏祭りのスケジュールが表示されている。賑やかな屋台の写真や、打ち上げ花火のイラストが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。祭りは、きっと大勢の人でごった返すだろう。
隣の部屋からは、母親が楽しそうに電話で話す声が聞こえてくる。
「ええ、今年も行くわよ、夏祭り!」
祐介の耳に届く「夏祭り」という言葉に、胸がざわついた。昔から、この家には人の笑い声が絶えなかった。特に、夏祭りの時期は、親戚や友人たちが集まり、賑やかで楽しい時間が流れていた。しかし、今年の夏は、どこか静かで、物足りない気がしていた。
スマートフォンの通知音が鳴った。美波からのメッセージ。
「元気?」
短い言葉だったけれど、久しぶりの連絡に、祐介の心は少しだけざわめいた。最後に言葉を交わしたのは、一体いつだっただろう。確か、梅雨が明ける少し前だったように思う。些細なことで言い争いになり、そのまま、僕たちは連絡を取らなくなってしまった。
美波とは、高校のクラスが一緒だった。明るく活発で、誰からも好かれる彼女のことが、いつしか祐介は特別な存在になっていた。卒業後も、同じ大学に進学した二人は、一緒に過ごす時間が増え、恋人同士になったのはごく自然な流れだった。
放課後、いつも立ち寄った喫茶店の少し色褪せた赤いソファー。窓から差し込む夕日を眺めながら、二人で分け合ったクリームソーダの甘い味。あの喫茶店は、二人だけの秘密の場所だった。美咲がいつも使っていた、ほんのり甘いシャンプーの香りが、記憶の中でふわりと蘇る。手を繋いだ時の、ひんやりとして、でもすぐに温かくなる彼女の掌の感触も。この街の景色には、いつも二人の思い出が重なっていた。
けれど、いつの頃からか、お互いの気持ちがすれ違うようになっていった。祐介は、将来のことや研究のことで頭がいっぱいになり、美波の話をちゃんと聞いてあげることができなかった。研究の資料に目を落としながら聞く電話の声は、きっとどこか上の空に聞こえたはずだ。「ごめん、今ちょっと忙しいんだ…」と、何度言ったか分からない。美波は、彼のそっけない態度に寂しさを感じ、自分の気持ちを伝えることを諦めてしまった。
夏祭りのポスターに描かれた、浴衣姿のカップルの笑顔が、祐介の胸に突き刺さる。
「あの頃の僕たちは、あんな風に笑い合っていたのだろうか…」
もう一度、美波の隣で、同じように夏祭りを楽しみたいという気持ちが、ふと湧き上がってきた。
「けど、今更、どうすればいいんだ…俺に、そんな資格があるのか…」
蒸し暑い午後の日差しが、カーテン越しに部屋の中をじりじりと照らしていた。彼の心の中にも、拭いきれない後悔の念が、重くのしかかっていた。
第二章:途切れた会話
美波のスマホの画面に、祐介 からの「元気?」という短いメッセージが表示されたとき、彼女の指は一瞬止まった。既読はつけたものの、返信の言葉がなかなか見つからない。
「元気…かな。どうなんだろう、私」
この数ヶ月、二人の間にはまるで霧がかかったように、明確な会話が途絶えていた。以前なら、彼からのメッセージにはすぐに返信し、次のデートの約束をしたり、些細な出来事を報告し合ったりしたものだ。
しかし、今は違う…祐介の研究が忙しくなってから、会う頻度は減り、電話の声もどこか上の空に聞こえるようになった。「ねえ、聞いてるの?」美波が何かを話そうとしても、「ああ、そう…」と言うだけで、深い返答は返ってこない。
「本当に聞いてる?…私の話、もうどうでもいいの?」
そう問いかけても、彼の声はいつも平坦だった。
「ごめん、ちょっと今集中してて…また後で連絡するから!ごめん…」
その「後で」が、何度あっただろう。初めは、彼の忙しさを気遣おうと努めた。「きっと、研究が忙しいんだ…」と自分に言い聞かせて。でも、次第に、「もしかして、私、重いのかな?」「彼の忙しさは、私から離れるための口実なのでは?」そんな疑念が胸に広がり、自分が大切にされていないような寂しさが募っていった。
ある日の夜、意を決して電話をかけた。どうしても伝えたいことがあったのだ。
「ねえ、今度の週末、会えないかな?大事な話があるの…」
彼の返事は、「ごめん、学会の準備で徹夜になりそうなんだ…」だった。その声に、疲労だけでなく、わずかな冷たさを感じたのは、彼女の気のせいだっただろうか。彼の声のトーンが、以前よりもずっと低く、感情がこもっていないように聞こえた。
「また、それ…?」
次の瞬間、美波の口から出た言葉は、後になって後悔することになる、衝動的なものだった。
「もういいよ。わかった。もう連絡しなくていい!」
彼は何も言わず、電話はそのまま切れた。受話器から聞こえるツーツーという音が、二人の関係の終わりを告げているかのようだった。それから、二人の間の連絡は途絶えたままだった。
街には、夏祭りの提灯が飾られ始めていた。鮮やかな赤や黄色が、彼女の心には重く映る。
「去年の夏祭り、祐介と一緒に食べたかき氷、美味しかったな…」
隣で浴衣姿の彼が、白い歯を見せて笑っていた光景が鮮やかに蘇る。あの時の温かい記憶が、今の冷たい現実を際立たせるかのようだった。
美波は、「あの時、もっと素直に『寂しい』って言うべきだったのかな…。それとも、彼にもっと歩み寄るべきだったの?」と自問自答した。答えは出ないまま、蒸し暑い午後の時間がただ過ぎていった。
第三章:交錯する想い
夏祭りの前日。祐介 は、研究室の机に突っ伏したまま、ぼんやりと天井を見上げていた。目の前には、まだ終わっていない論文の山がある。この数ヶ月、彼は寝る間も惜しんで研究に没頭してきた。それは、将来への不安と、何よりも 美波への引け目があったからだ。
「こんな不安定な俺じゃ、美波を幸せにできない。もっとちゃんとした自分にならなければ、きっと…」
そう信じて、がむしゃらに走り続けてきた。しかし、同時に「本当に美波は、こんな俺の勝手な行動を喜ぶのか?ただの逃げじゃないのか?」という疑念が、心の奥底で渦巻いていた。
美波と電話で最後に話した日、彼女の声が震えていたことを今更ながら思い出した。
「『大事な話があるの』って、美波は言ってたな…。僕は、あの時何を言ってたんだ…」
忙しさを理由に、彼女の気持ちから目を背けてしまった自分を、彼は強く責めた。
一方、美波は自宅の庭で、祖母と一緒に夏祭りの準備をしていた。色とりどりの提灯を飾り付け、盆踊りの曲がスピーカーから流れている。賑やかな音色とは裏腹に、彼女の心は沈んでいた。
「祐介、連絡してこないな…。もう、私からすることもないよね…」
夏祭りの日、彼がどこかで、誰かと一緒にいるかもしれないという想像が、彼女の胸を締め付けた。
ふと、祖母が言った。
「美波、あんた、どこか浮かない顔しとるねぇ。もしかして、あの男の子のことかい?」
美波は何も言えなかった。祖母は優しい眼差しで彼女を見つめながら続けた。
「人と人とは、すれ違うこともあるさ。でも、大事なのは、そこで諦めないことだよ。あんたが本当に会いたいなら、自分から行ってみな。会って、ちゃんと話してみないと、後悔するかもしれないよ…」
祐介もまたその頃、祖父から同じような言葉を聞いていた。
「おい、祐介、なんか顔色が悪いぞ。悩み事でもあるのか?」
「…別に、何でもないよ、じいちゃん」
彼はそう答えたが、祖父は彼の心情を見抜いていた。
「後悔しないように、今できることをやれ。それが、男ってもんだ。祭りに行ってみろ。もしかしたら、会えるかもしれんぞ。何も言わないで終わるなんて、一番後味が悪いもんだ!」
見上げれば夕焼け空が広がる。茜色に染まった空が、まるで何かを告げているかのようだった。二人の心には、それぞれ異なる場所で、同じような後悔と、わずかな希望が芽生え始めていた。蒸し暑い夏の空気の中、遠くで花火の試し打ちの音が聞こえた。その鈍い音が、二人の胸の奥で、小さく響いていた。
第四章:祭りの夜の誤算
祭りの夜。街は、提灯の明かりと人々の熱気でごった返していた。人々の会話や笑い声、屋台のざわめきが、夏特有の熱気をさらに高めている。焼きとうもろこしの香ばしい匂いが漂い、子供たちの歓声が響く。祐介 は、人混みをかき分け、祭りの中心へと向かっていた。心の中には、美波 に会って話したいという衝動が募っていた。
「美波も来てるかな…」
そんな淡い期待を抱いて、彼はひたすら歩き続けた。美波が好きな綿あめの甘い匂いが、ふと鼻をくすぐり、期待が膨らんだ。
美波もまた、友人の沙織(さおり) と連れだって祭りに来ていた。賑やかな屋台を冷やかし、焼きそばの匂いに誘われる。
「ねえ美波、あれ食べようよ!」
「うん…いいよ」
心ここにあらずといった様子で、時折、背後を振り返る。
「もしかしたら、祐介も来てるかもしれない…」
そんな期待が、彼女の胸を焦がしていた。あの時の電話の後悔を、今日こそ払拭したかった。
祐介が、ふと見慣れた後ろ姿を見つけた。間違いない、美波だ。彼女が着ている淡い水色の浴衣が、祭りの明かりに映えていた。その浴衣は、去年の祭り用に二人で選んだものだった。しかし、彼女の隣には、親しげに話しかける別の男性がいた。それは、美波の幼馴染である拓海(たくみ) だった。
「やあ、美波、久しぶり。元気にしてた?」
「うん!元気だよ、拓海君!まさか会えるなんて!」
美波の顔に、心からの笑顔が浮かんでいる。彼は、その笑顔を見た途端、足がすくんでしまった。胸の奥に、凍てつくような感覚が広がった。
「ああ、もう美波には新しい人ができたんだ…俺が、勝手に忙しさにかまけている間に…」
そう決めつけてしまった祐介の足は、そのまま踵を返した。美波に声をかける勇気も、隣の男に問い詰める気力も、もうどこにもなかった。
「もういいよ…」
背を向けた彼の耳に、美咲と拓海の楽しそうな笑い声が届いた気がした。彼と美咲がかつて一緒に選んだ、小さなお守りのストラップが、彼の浴衣の帯に揺れていた。その涼やかな鈴の音が、今はただ虚しく響いた。
同じ頃、美波は沙織と少し離れた場所で、祐介らしき人物を見つけていた。
「あ、祐介…?」
しかし、その祐介が、楽しそうに話す女性と連れ立っているように見えた。それは、祐介の研究室の同僚である由紀(ゆき) だった。
「この間はありがとう、祐介君!おかげで発表間に合ったよ!」
「いや、どういたしまして、由紀さん。無理しすぎないでくださいね!」
彼の隣には、美波が知らない女性が笑っている。
「…そうだよね」
その光景を目にした瞬間、美波の心臓は締め付けられた。彼に声をかけようと伸ばしかけた手が、力なく引っ込んだ。
「やっぱり、もう祐介の隣に私の場所はないんだ…」
そう確信してしまった彼女は、祐介と美波が、去年の祭りで買ったお揃いのストラップを握りしめながら、沙織の腕を引いてその場を離れた。
「沙織、帰ろっか…。疲れてきちゃった…」
沙織は心配そうに美咲の顔を見たが、何も言わず頷いた。祭りの喧騒の中、二人の視線は決して交わることはなかった。互いに一歩踏み出すことを躊躇し、ほんの数メートル離れた場所で、決定的な誤解が生まれてしまっていた。それぞれの心に、新しい傷跡が刻まれる。
夜空には、色とりどりの花火が打ち上げられ、大輪の花を咲かせていた。ドーン、ドーンと響く花火の音が、まるで二人の心の痛みを増幅させるかのようだった。けれど、その輝きは、二人の心を照らすことはなかった。互いの誤解が、静かに、そして確実に、二人の間に深い溝を刻み込んでいった。蒸し暑い夏の夜空の下、蝉の声が、まるで二人の悲しみに寄り添うように響いていた。
第五章:途切れた夏蝉の声
祭りから数日後、再び蒸し暑い午後が戻ってきた。祐介 は、部屋の窓から見える空を見上げていた。夏の終わりを告げるかのように、蝉の声が少しずつ途切れがちになっている。あの祭りの夜から、彼の心は一層重くなっていた。
夏休みが終わり、新学期が始まった。キャンパスで美波を見かけることはあったが、互いに目を合わせることはなかった。以前は、少し遠くからでも、彼女の姿を見つけると心が躍ったものだ。今は、美波が視線を向ける度に、彼はわざと目を逸らした。「もう、諦めるしかない…」そう、自分に言い聞かせていた。
そして、季節は過ぎ、秋の風が吹き始めた頃、美波の元に祐介から一枚の葉書が届いた。それは、二人がいつも立ち寄っていた喫茶店の、手書きのイラストが描かれた葉書だった。あの場所で、美波が笑ってくれたこと、あのクリームソーダの甘い味、その笑顔が、自分にとってどれほど大切だったか。そんな思いを込めて、祐介はその葉書を選んだ。
葉書を前に、祐介は何枚も便箋を書き損じた。「ごめん」と書くたびに、それだけでは足りない気がした。あの夜、俺が声をかけていれば、美波が俺を信じてくれていれば。後悔の念が次々と込み上げる。何度も書いては破り、それでも伝えたい気持ちが溢れて、たった一言に収めるしかなかった。
そこに書いたのは、たった一言、「ごめん」
俺の後悔の念を、たった一文字に込めた。本当は、もっと言いたいことがたくさんあった。美波に会いたい。あの時の俺は、君の気持ちを理解できなかった。俺は最低だ。でも、もう遅いことは分かっていた。だから、震える文字で、隣に添えた。
「あの時は、本当にごめん」
葉書を投函した日の風は、もう冷たかった。夏の日差しはずっと弱まり、少しだけ肌寒い風が吹いていた。秋の訪れを告げていた。
美波は、届いたその葉書を握りしめ、しばらく動けなかった。その時、こぼれ落ちた涙が、これまでの寂しさや諦めを肯定した。祐介の優しさと、もう手が届かない距離にいることの痛みを、同時に感じていた。
しばらくして、俺の研究は実を結び、素晴らしい成果を出した。周りからは「よく頑張ったな!」と祝福された。だが、その達成感はどこか空虚だった。成功を祝う乾杯の場で、グラスを傾けるたびに、ふと美波の笑顔を重ねてしまう。もし、この場所に美波がいてくれたら、と。あの喫茶店にも、時々一人で足を運んだ。色褪せた赤いソファーに座っても、隣に美波がいないと、クリームソーダはもうあの頃の甘い味がしなかった。
部屋の窓から、秋の空を見上げた。高く、どこまでも広がる青い空には、白い飛行機雲が一本、真っ直ぐに伸びていた。あの夏の蒸し暑さは、もう遠い記憶のように、夏蝉の声が完全に途切れる頃、俺たちの恋愛は、静かに終わりを告げた…
あの夏の、蒸し暑い午後のすれ違い。あれが、きっと二人の分岐点だったのだろう。あの時、俺が、美波が、もう少しだけ勇気を出していれば。言葉を、気持ちを、諦めずに伝え合っていれば…
SCENE#76 夏蝉の声が途切れる頃 魚住 陸 @mako1122
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます