第15話 執務室はカオスだった

朝、カーテンを開けたのは――新しく僕につけられた見習いメイド、リリィだった。

薄い栗色の髪に、大きな緑の瞳。年は僕よりちょっと上の七歳。


「若様ー! おはようございます!」


元気いっぱいの声と同時に、がしゃーんと洗面器をひっくり返した。


「きゃあああ! し、失礼しましたぁぁ!」


「おはよう……って、あー……タオルもうびしょびしょだね」


ここ数日、毎朝こんな調子だ。

この子、動作は機敏なのに方向性が間違ってるというか、常に事故る未来しか見えない。


「リリィ、落ち着いて。ゆっくり動けば大丈夫だから」


「は、はい! 今日こそ完璧にやってみせます!」


……と言ったそばからスリッパを踏んづけて転びかける。

ああ、ポンコツ。でもなぜか憎めない。


そんな彼女のドタバタを背後から見守るセバスは、相変わらず冷静だった。


「若様、本日旦那様がお呼びでございます。執務室までお越しください」


「……あの、用件は?」


「内政でございます」


「やっぱりかーーーーー!!」


心の準備ができる前に、僕はきっちり着替えさせられ、

リリィも慌てて後ろからついてきた。


「わ、私もお茶をお持ちしますね!」


「いや、フラグ立てなくていいから!?」






執務室に入った瞬間、僕の目に飛び込んできたのは紙の山。

机の上、床、棚――どこを見ても帳簿と書類の塔が積み上がっている。


「アル、よく来た!」


父上が立ち上がる。あのラスボスボイスが響く。


「今日からお前にも領地経営を教える!」


「は、はい……(まだ朝ごはんも完全に消化してないのに……)」


父上は豪快に机をバンと叩き、帳簿を広げた。


「これが税収、これが出費、これが軍備費!」


「……頭が痛くなってきた」


セバスが涼しい顔で解説を始める。


「こちらが村ごとの収穫量、こちらが――」


「もういい! 今それ以上言ったら僕の脳がパンクする!」


そのとき、後ろのドアがばーんと開いた。


「若様のお茶をお持ちしま……わあああああああ!!」


リリィが見事なスライディングで机の前まで突入し、

トレイごと紅茶をぶちまけた。

机の上は一瞬で紅茶まみれ。


「ひゃあああ! す、すぐ拭きますううう!」


必死でナプキンを振り回すが、紙をさらに広げて被害が倍増する。


「ぶはははは! 良いぞ、元気があってよい!」


父上は豪快に笑う。セバスは無言で新しい帳簿を差し出す。


「……この家、豪快さの基準おかしくない?」


リリィは涙目で言った。


「ご、ごめんなさい若様……で、でも、がんばってくださいね!」


「励まされてる!? 僕、まだ何もしてないのに!?」


父上は満足そうに頷き、机を指さす。


「アル、明日からも毎日ここで学べ!」


「毎日!? 僕、まだ遊ぶ時間が――」


「遊びは村の視察だ! 民の声を聞いてこそ領主!」


「五歳児にハードすぎるスケジュール!」


セバスが冷静に言った。


「若様、領地は生き物でございます。今から関わることは決して無駄ではありません」


「……そう言われると断れない……!」


胃は痛い。でも、リリィが横で泣き笑いしながら「がんばってください!」って言ってる。

もうやるしかない。


「……わかったよ。僕、がんばる」


父上が満面の笑みで腕を組んだ。


「よく言った! さすが我が息子だ!」


リリィも嬉しそうに笑う。


「若様、すごいです!」


「……いや、まだ何もしてないんだけどね?」


こうして僕は、否応なく内政という名のカオスに巻き込まれることになった。







執務室を出た瞬間、僕はやっと解放されたと思った。

ところが次の瞬間――。


「アル! ちょうどいい、村の視察に行くぞ!」


父上のラスボスボイスが廊下に響き渡った。


「……え、今から!?」


「現場百回! 紙で学んだことは現場で確かめるのが一番だ!」


「いや、五歳児に即フィールドワーク要求しないで!? 頭がまだ処理落ちしてるんだって!」


セバスが冷静に言った。


「馬車の用意はすでに整えてございます」


「はやっ!? もう用意してたの!? これ、絶対僕の意思関係ないやつだ!」


横でリリィが両手を上げてはしゃいでいる。


「わ、私も行きます! 若様のお世話はリリィがします!」


「お前の今日の貢献度、机を紅茶まみれにしただけだろ!」


「今度こそ役に立ちますから!」


……こうして僕は休む間もなく馬車に放り込まれた。




馬車がゴトゴトと揺れる。

隣でリリィが青い顔をしていた。


「うぅ……若様……すみません……酔いました……」


「はい出た、初期不具合!」


セバスが窓を開け、涼しい風を入れる。

リリィは少し回復したが、顔はまだ真っ青だ。


「お、お役に立ちますから……!」


「その状態で役に立とうとするな! 死亡フラグだから!」


父上は豪快に笑った。


「よい根性だ!」


「いや、褒めるポイントそこじゃないから!」




村に着くと、父上は腕を組んで胸いっぱいに深呼吸した。


「見ろアル! 我が領地の大地だ!」


「う、うん……(牛舎の匂いしかしないんだけど)」


その横で、リリィが馬車から降り――


ずるん!


「きゃあああっ!!」


泥に豪快に転倒。

立ち上がった時には、顔まで泥まみれだった。


「り、リリィ!? 大丈夫!?」


「だ、大丈夫です! これは……土と仲良くなるための……!」


「苦しすぎる言い訳やめて! 村人笑ってるから!」




村長がやってきて、現状を報告してくれる。


「最近、畑を荒らす獣が増えておりまして……」


「ほう! ならば罠を増やせ!」


父上が即断即決。

村長は困った顔をする。


「ですが罠が多すぎると、子供たちが……」


「むぅ……そうか。アル、どうする?」


いきなり僕に振らないで! 五歳だよ僕!


「え、えっと……まずどの畑で被害が多いか調べるところから始めませんか……?」


セバスが微笑んだ。


「若様、的確なご判断でございます」


父上は大きく頷き、豪快に笑う。


「よし! 明日から調査だ!」


「明日から!? 僕、明日休む予定だったのに!?」


「休む? 視察は遊びだろう!」


「遊びの基準がバグってる!!」




帰りの馬車。

リリィは泥だらけのまま、ぐっすり眠っていた。


「アル、今日の視察は見事だった!」


父上が誇らしげに言う。


「僕、ただ聞いてただけだよ……」


でも、少しだけ胸が温かくなった。

領主としてちゃんと役に立てた気がしたからだ。


「……わかったよ。明日もがんばる」


「よく言った! さすが我が息子!」


父上が笑い、セバスは黙って頷く。

リリィは夢の中で「若様すごいです……」と呟いていた。


こうして僕は、強制スケジュールで村の視察に行くことになったのだった。



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