第15話 執務室はカオスだった
朝、カーテンを開けたのは――新しく僕につけられた見習いメイド、リリィだった。
薄い栗色の髪に、大きな緑の瞳。年は僕よりちょっと上の七歳。
「若様ー! おはようございます!」
元気いっぱいの声と同時に、がしゃーんと洗面器をひっくり返した。
「きゃあああ! し、失礼しましたぁぁ!」
「おはよう……って、あー……タオルもうびしょびしょだね」
ここ数日、毎朝こんな調子だ。
この子、動作は機敏なのに方向性が間違ってるというか、常に事故る未来しか見えない。
「リリィ、落ち着いて。ゆっくり動けば大丈夫だから」
「は、はい! 今日こそ完璧にやってみせます!」
……と言ったそばからスリッパを踏んづけて転びかける。
ああ、ポンコツ。でもなぜか憎めない。
そんな彼女のドタバタを背後から見守るセバスは、相変わらず冷静だった。
「若様、本日旦那様がお呼びでございます。執務室までお越しください」
「……あの、用件は?」
「内政でございます」
「やっぱりかーーーーー!!」
心の準備ができる前に、僕はきっちり着替えさせられ、
リリィも慌てて後ろからついてきた。
「わ、私もお茶をお持ちしますね!」
「いや、フラグ立てなくていいから!?」
◇
執務室に入った瞬間、僕の目に飛び込んできたのは紙の山。
机の上、床、棚――どこを見ても帳簿と書類の塔が積み上がっている。
「アル、よく来た!」
父上が立ち上がる。あのラスボスボイスが響く。
「今日からお前にも領地経営を教える!」
「は、はい……(まだ朝ごはんも完全に消化してないのに……)」
父上は豪快に机をバンと叩き、帳簿を広げた。
「これが税収、これが出費、これが軍備費!」
「……頭が痛くなってきた」
セバスが涼しい顔で解説を始める。
「こちらが村ごとの収穫量、こちらが――」
「もういい! 今それ以上言ったら僕の脳がパンクする!」
そのとき、後ろのドアがばーんと開いた。
「若様のお茶をお持ちしま……わあああああああ!!」
リリィが見事なスライディングで机の前まで突入し、
トレイごと紅茶をぶちまけた。
机の上は一瞬で紅茶まみれ。
「ひゃあああ! す、すぐ拭きますううう!」
必死でナプキンを振り回すが、紙をさらに広げて被害が倍増する。
「ぶはははは! 良いぞ、元気があってよい!」
父上は豪快に笑う。セバスは無言で新しい帳簿を差し出す。
「……この家、豪快さの基準おかしくない?」
リリィは涙目で言った。
「ご、ごめんなさい若様……で、でも、がんばってくださいね!」
「励まされてる!? 僕、まだ何もしてないのに!?」
父上は満足そうに頷き、机を指さす。
「アル、明日からも毎日ここで学べ!」
「毎日!? 僕、まだ遊ぶ時間が――」
「遊びは村の視察だ! 民の声を聞いてこそ領主!」
「五歳児にハードすぎるスケジュール!」
セバスが冷静に言った。
「若様、領地は生き物でございます。今から関わることは決して無駄ではありません」
「……そう言われると断れない……!」
胃は痛い。でも、リリィが横で泣き笑いしながら「がんばってください!」って言ってる。
もうやるしかない。
「……わかったよ。僕、がんばる」
父上が満面の笑みで腕を組んだ。
「よく言った! さすが我が息子だ!」
リリィも嬉しそうに笑う。
「若様、すごいです!」
「……いや、まだ何もしてないんだけどね?」
こうして僕は、否応なく内政という名のカオスに巻き込まれることになった。
◇
執務室を出た瞬間、僕はやっと解放されたと思った。
ところが次の瞬間――。
「アル! ちょうどいい、村の視察に行くぞ!」
父上のラスボスボイスが廊下に響き渡った。
「……え、今から!?」
「現場百回! 紙で学んだことは現場で確かめるのが一番だ!」
「いや、五歳児に即フィールドワーク要求しないで!? 頭がまだ処理落ちしてるんだって!」
セバスが冷静に言った。
「馬車の用意はすでに整えてございます」
「はやっ!? もう用意してたの!? これ、絶対僕の意思関係ないやつだ!」
横でリリィが両手を上げてはしゃいでいる。
「わ、私も行きます! 若様のお世話はリリィがします!」
「お前の今日の貢献度、机を紅茶まみれにしただけだろ!」
「今度こそ役に立ちますから!」
……こうして僕は休む間もなく馬車に放り込まれた。
馬車がゴトゴトと揺れる。
隣でリリィが青い顔をしていた。
「うぅ……若様……すみません……酔いました……」
「はい出た、初期不具合!」
セバスが窓を開け、涼しい風を入れる。
リリィは少し回復したが、顔はまだ真っ青だ。
「お、お役に立ちますから……!」
「その状態で役に立とうとするな! 死亡フラグだから!」
父上は豪快に笑った。
「よい根性だ!」
「いや、褒めるポイントそこじゃないから!」
村に着くと、父上は腕を組んで胸いっぱいに深呼吸した。
「見ろアル! 我が領地の大地だ!」
「う、うん……(牛舎の匂いしかしないんだけど)」
その横で、リリィが馬車から降り――
ずるん!
「きゃあああっ!!」
泥に豪快に転倒。
立ち上がった時には、顔まで泥まみれだった。
「り、リリィ!? 大丈夫!?」
「だ、大丈夫です! これは……土と仲良くなるための……!」
「苦しすぎる言い訳やめて! 村人笑ってるから!」
村長がやってきて、現状を報告してくれる。
「最近、畑を荒らす獣が増えておりまして……」
「ほう! ならば罠を増やせ!」
父上が即断即決。
村長は困った顔をする。
「ですが罠が多すぎると、子供たちが……」
「むぅ……そうか。アル、どうする?」
いきなり僕に振らないで! 五歳だよ僕!
「え、えっと……まずどの畑で被害が多いか調べるところから始めませんか……?」
セバスが微笑んだ。
「若様、的確なご判断でございます」
父上は大きく頷き、豪快に笑う。
「よし! 明日から調査だ!」
「明日から!? 僕、明日休む予定だったのに!?」
「休む? 視察は遊びだろう!」
「遊びの基準がバグってる!!」
帰りの馬車。
リリィは泥だらけのまま、ぐっすり眠っていた。
「アル、今日の視察は見事だった!」
父上が誇らしげに言う。
「僕、ただ聞いてただけだよ……」
でも、少しだけ胸が温かくなった。
領主としてちゃんと役に立てた気がしたからだ。
「……わかったよ。明日もがんばる」
「よく言った! さすが我が息子!」
父上が笑い、セバスは黙って頷く。
リリィは夢の中で「若様すごいです……」と呟いていた。
こうして僕は、強制スケジュールで村の視察に行くことになったのだった。
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