Deceitful heart.

メイルストロム

「──君はとても運がよかった。生き延びたんだから」

 その言葉を聞いた時、私は笑うべきだったのだろうか?

 だが、私はその方法を知らなかった。顔面の筋肉をどう動かせば『喜び』を表現できるのかさえ、当時の私は思い出せなかった。

 ──いや、理解していなかったのかもしれない。


 病室はとても静かだった。それこそ、「静謐」という言葉だけでは物足りないほどに。

 私の視界は──曇りガラスのようにぼやけていて、色が混濁していた。右目は青、左目は黄。視軸の交差がほんの少しずれているらしく、遠近感を脳が処理しきれないのだそう。そして首に巻かれた包帯は、決して解いてはならないと言われた。

 彼──私の主治医である『綾瀬イサナ』は、私のことを『イレイナ』と呼び、穏やかな声音で繰り返す。

「大丈夫だよ、イレイナ。目の違和感も、声が出せないのも、全部……事故の後遺症だ。いつかきっと治る」

 ──……事故。あらゆる不具合は、それに起因するものらしい。

 けれどイサナは、その内容を語らなかった。そして私も問わなかった。

 記憶は空白だったけれど、それはそれでいい。だって私は、困っていないから。

 そう──本気で考えている。


「……まだ、喋れそうにないかな?」

 イサナの言葉に、私は小さく頷いた。肯定の意思を伝える場合において、この動作が適切な応答である。

 そう、過去に彼から教わったから。

 声が出ない私は、ボディランゲージに頼るしかない。そして、私の声が出ない理由を、彼はこう考えている。

 ──事故の後遺症による機能障害だろうと。

 私に医学的知識はない。だから、本当に機能障害があるかどうかなんて判別できない。私にわかるのは、ただ、声を出すのが怖いということだけ。

 理由はわからない。だけど今、私は言葉を剣のように鋭利なものだと感じている。

 だから──言葉が喉元を通るたび、私自身を斬り裂くのではないか?  と想像してしまう。

 無論、このことは誰にも伝えていない。看護婦は勿論のこと、イサナにも伝えられずに居る。


 そんな事も知らない彼はベッドの端に腰を下ろし、ポケットから取り出した温度計を私の脇に挟む。

 ひやりとしたモノを感じたのも束の間、短い電子音が響く。

 35.8度──決して高いとは言えない温度が、私の生命いのちの温もり。

 けれど、イサナは何も言わない。淡々と記録をつけて、次の検査に移行する。

 私は彼にされるがまま。昨日も、今日も、明日も。生きている限り、これらの検査は繰り返されるのだろう。

「変わりないね、イレイナ」

 検査を終えると、必ず彼は微笑む。私にはその理由がわからない。なぜ──笑いもしない私に、イサナは毎回同じように微笑むのだろう。


 私の病室には、鏡というものが一枚も設置されていない。

 けれど私は、窓硝子に映る影で自分の輪郭、姿を知っていた。

 人間の女性としての身体。手足はやや細く、起伏はそれなり。白磁のように滑らかで、傷一つない皮膚。

 左右で異なる瞳の色。頸部を覆う純白の包帯。幾度となく見た、いつもの私。


「イレイナの髪は本当に綺麗だ」

 イサナはそう言って、私の髪に指を通す。

 その動きは、優しさの現れ──なのだろうか。動物的な表現をするならば、これらの行為はグルーミングにあたる。そして、グルーミングが愛情表現の一つだと知っている。それは彼が与えてくれた情報の一つ。

 そんな情報の中には“母親”という概念も含まれていた。

 親が子の髪を梳かす、身体ケアの一つ。

 ──……けれど、イサナは私の母ではないし、父でもない。ただの主治医だ。

 綾瀬イサナと私──フランクリン・イレイナに血縁は認められない。

 それでも──彼は、私を実の娘のように扱う。その理由も、目的もわからない。

 わからないけれど、その優しさは、温もりは本物なのだろうと考えている。

 だから私は、彼に触れられることを拒まずにいるのだ。

 たとえ血縁になくとも、彼が愛情をもって私に接していることに変わりはないのだから。


 その晩。ベッドで仰向けになりながら、照明を見つめていた。

 室内照明が放つ白い光は、目に刺さるほど眩しい。

 けれど、私はその光を見つめ──あることを考えている。


 この身体の異常は、どこまでが事故の後遺症なのだろうか?

 ──視覚異常。知覚の一部鈍麻。低めの基礎体温。

 それ以外の異常は、与えられた情報の羅列から知ることができた。

 イサナが毎日欠かさず行う検診が、はじき出した結果は嘘をつかない。

 私という存在を、正しく表している。嘘偽りのない、現実だけをはっきりと。


 ある日。私は初めて外出を許された。外出、といってもこの療養施設の敷地から出たわけではない。

 四方を鉄柵で囲われた運動場に出ることを許されただけ。

 そこで浴びた初めての陽光は、想像よりも優しい温もりと眩しさに満ちていた。

 日光浴の途中、何人かの職員が声をかけてきたけれど──会話には至らない。

 誰も彼も、互いに手を振ってお終いだ。職員は皆、私が話せないことを知っているから。


「──おかえり、イレイナ。外の空気はどうだった?」

 それでも、彼だけはこうして会話を試みる。主治医だから、そうしているのだろうか。

 そう思い、筆談で尋ねてみた。

 これに対し、彼は一瞬だけ目を丸くした。それからややあって、「単純にキミの声を聞きたいんだ」と笑ったのである。私の声が聴きたい、というのは少々理解しがたい。

 ……けれど、世話になっている彼の希望に応えたいと考えるようになった。


 検診を終え、彼が去った後。私は少しずつ発声練習を繰り返した。

 ──ただ、決して大きな声は出さない。あの感覚は未だ、根強く残っていたから。

 だから恐る恐る、彼の話し方をイメージしつつ練習した。

 彼の──イサナの話し方をイメージした理由は、よく分からない。

 ただ、なんとなく。あの話し方が、心臓の辺りを温かくしてくれるから。だから、真似したくなっただけ。


 この療養施設には、私以外にも十数名の患者がいた。

 彼らの名前は知らない。知ろうとも思えなかった。

 そもそも、関わることすらないのだから──興味が湧かないのも自然だろう。


 ただ、その姿を──遠巻きに見ることはあった。

 アレらは笑い、泣き、怒り、哀しむ。だが、その感情は、どこか違和感が残るものだ。中には特定の音に反応し、同じ動作を繰り返し、異物を口に運ぶ者もいた。

 アレらと自分の姿に大きな差はない。だが、明確に何かが違う。理由はわからないけれど、彼らとの差異が“ほんのわずか”しかないとも感じていた。


「今日は、物語に触れてみようか」

 ある日、イサナがそう告げた。

 私が頷くと、彼はタブレット端末を起動させ、いくつかのファイルを展開させる。

 それらは児童向けの絵本や、古典の詩篇。TVドラマ。アニメーションと多岐にわたった。

 ──私は、与えられたそれらを貪るように視た。

 文章を読み、記憶し、可能な限り理解しようと試みた。

 たとえば、表情の練習。眉間の皺の寄せ方や、視線の位置。口角の位置。声のイントネーション。

 そこにあったのは、紛れもない“人間らしさ”の断片。

 そんな模倣と練習を繰り返す私を見て、彼は言った。

「イレイナは、随分と感情表現が上手になったね」と。

 ……それが賞賛なのか、皮肉なのかは分からない。

 ただ、彼は理解している筈だ。私の見せるそれらが演技であることを。

 伽藍堂の私が、誰かの真似事で自分を埋めようとしていることを。


 その日の夜。他の患者が眠る時間に、私は洗面台の前に立っていた。

 そこで──自分の顔を確かめる。

 此処の洗面台に鏡はない。蛇口に微かに映る私の顔は、確かに「人間」に見えた。

 滑らかな皮膚。左右で異なる色彩の瞳。整った鼻梁と、無垢な唇。

 それらは触れることもできる。温もりも、感触も、確かに此処にある。


「人真似、愉しい?」

 声の主に振り返ると、病室の扉から覗く小さな影を捉えた。

 恐らくは、子供。名前は知らないけれど、見たことのある顔だった。

 彼は私を見て、その口角を上げる。音のない、静かな破顔。

「可哀想なイレイナ。最後は“いらない”って捨てられるのに、ね」

 私には理解できなかった。言葉を向けられる理由も、その意味も。

「……ナ、ゼ?」

 自然と出た声は、彼を繋ぎ止めるには至らなかった。私の知らない笑顔を浮かべたまま、彼は去っていく。


「おはよう、イレイナ。今日はちゃんと眠れたかな?」

 私は、うなずいた。微笑みも添えて──嘘をついた。

 本当はあれから一睡もできていないのに、私は肯定の意思を示す。

 彼に心配をかけたくないから、そうしたのか。それとも他の理由があったのか。よく、わからない。

 なのに私は嘘をついた。それだけが結果として其処にある。

「キミがそう言うのなら、信じよう」

 彼の言葉に、言語化しようのない息苦しさを覚えた。彼はきっと嘘を見抜いた上で、何も言わないのだ。

 私は嘘を謝ることさえできず、いつもの検診を受けた。きっと私の嘘は検査結果に現れる。

 それを見て彼は、イサナはどう思うのだろう。


 検診から暫く経って、私は──ナースコールに手をかけた。コレを押せばイサナはやって来る。

 そう、教えられた。本来ならば、身体の不調を伝えるための装置。そう理解していながら、ただ謝るためだけに使ってしまった。


「イレイナ? どうした?」

 少し息を乱した様子の彼に、先の嘘と謝意を筆談で伝える。

「どうしてそんな嘘をついたんだい」

 “貴方を心配させたくなくて”。と、筆談で伝えると彼は溜息をついてから笑う。

 その反応は予想外で、どう反応すべきかわからなかった。

 そんな私をよそに、彼は「キミがそんな理由で嘘をつくなんて思わなかったんだ」と優しい顔を見せてくれた。

「──けどね、イレイナ。こういう嘘はやめてほしい。キミの身体のことは、ちゃんと伝えてほしいんだ」

 真剣な眼差しを、初めて見た気がする。私は了承の旨を筆談で伝えた上で、強く頷いた。


「イレイナ、キミの好きなモノを教えてくれないかな?」

 そう告げられたのは、朝の回診時だった。


「なんだって良い。僕はキミが好きだと言うものを、絶対に否定しないよ」

 わからない。この時私は、初めて明確に困った気がする。

 なにせ『好き』という感情が解らないのだから、答えを探しようがない。

 だからイサナに聞いた。貴方の好きなモノは、何かって。

「僕が好きなのは猫かな。たまに運動場に来たりしてるんだけど」

 そう言って彼は、スマホの画面を見せてきた。そこに写っていたのは、欠伸をしながら身体を伸ばしている三毛猫の姿。

「こんなふうに、見ていて癒されたり、気分が和らぐ。それがキミにとっての好きなモノだと思う。だから、そういうものがあれば教えてほしい」

 私は少し時間が欲しいことを筆談で伝え、レクリエーションルームへと足を運んだ。此処であれば、映画を始めとした映像作品に触れることができる。それに、限定的ながらインターネットでの検索も行えた。

 そこから私は──昼食の時間も忘れ、ソレに該当するものを探し続けた。


 ようやく見つけたソレからは、心が安らぐ──というよりももっと、本能的な心地良さを感じた。単なる映像でさえ、こうも満たされるのだ。実物を目にしたら、一体どんな気持ちになるのだろう?

 だが、その実物を手にするのは容易ではない。作り出すにしても、様々な問題がある。小さいものであれば……それこそ、小鳥や猫のようなものであれば、まだ──叶うかもしれない。


 皆が寝静まった時間に、私は初めて病室を抜け出した。

 その目的は、好きなモノを得るため。けれど時間はそう多くない。夜間巡視員が、私の病室を訪れる前には戻る必要があるからだ。

 此処では皆、許可なく病室を離れることを許されていない。脱走が露見すれば、それ相応の罰を与えられる。

 それを理解した上で、私は実行した。目的のモノは幸いにも、運動場の傍にある小藪で見つけることができた。ソレも眠っていたのか、難なく捉えることができた。

 けれど、すごく抵抗された。爪で引っ掻かれて、噛まれて、鳴かれて。その声が思ったよりも大きかったから、とっさにその口を砕いた。それから、一番煩いところを強く押し潰した。

 そうして静かになったソレを、私は自分の病室へと持ち帰る。

 ほんの少し冷たくなったソレを、できるだけ丁寧に開いた。

 仄かな熱を残すソレから感じたのは──ゼリーやワセリンとは違う弾力とヌメリ。そして少しだけ、濃さを感じる鉄の臭い。映像のソレとは異なるモノだけど、その触感は想像よりも濃密な刺激だった。

 私はソレを抱き、目を閉じる。視覚を閉じた分だけ、他の刺激がより一層強まった気がした。

 ソレらがもたらした安らぎは、全くの未知。溶けるような多幸感に、私は自然と意識を手放していた。


 翌朝。目覚めると私の好きなモノは、どこかへ消えていた。

 まさか、逃げたのだろうか? だとすれば、また捕まえれば良い。

 そんなことを考えながら、私は汚れた衣服とシーツを洗濯籠へ押し込める。

 部屋に残る匂いだけが、昨晩の温もりを想起させてくれた。


 ──その日。初めてイサナが検診に訪れなかった。

 彼の代わりに来たのは、白衣の女医。口数は少なく、その視線は冷え切っている。彼女からは、強い嫌悪感が見て取れた。

 だが彼女は淡々と仕事をこなしていく。普段イサナがやっていたことと同じことをされているのに──どこか距離を感じる。事務的というか、作業的というか。

 そんな中で、彼女の手が止まった。

「この傷は?」

 問われたのは、手の甲に残る爪痕。それと、指先の咬傷痕。

「動物に噛まれたの?」

 矢継ぎ早に放たれた質問へ頷く。すると、傷口の処置が行われた後に注射を打たれた。なんでも、人獣共通感染症を予防するものらしい。これについては過去、イサナから注意を受けていた。もし動物に噛まれたら、すぐに報告すると約束していたのに──昨夜の私はそれすらも忘れるほど、熱中していたようだ。


 その夜、私は病室の窓ガラスに自分の顔を映した。

 そこに映る私自身は、何も変わっていない──ように見える。人間の女性としての身体。手足はやや細く、起伏はそれなり。白磁のように滑らかな皮膚。左右で異なる瞳の色。頸部を覆う純白の包帯。

 そう。幾度となく見た、いつもの私だ。


 ……なのに。どこか違うモノに見えて仕方なかった。明確な差異を述べることはできない。けれど、以前の私とは異なる私が此処に居る。

 そんな、言い知れぬ不安を抱えたまま──私は夜を明かした。


「睡眠不良に食欲減退。これが続くようなら、投薬治療に移ります」

 女医が普段どおりの声で告げる。私はただ、黙って頷くだけ。それを了承と見たのか、彼女はいつものように足早に去っていく。その背に思うところはなかった。

 ……もし、これがイサナであれば。私は名残惜しさのようなモノを、覚えたのだろうか。


 そう自覚してから、私は彼に会いたいと思うようになった。

 彼の声が聴きたい。彼と一緒に過ごしたい。そんな願いが、止めどなく湧き上がる。

 だからあの日のように、私はナースコールを押した。


 ──けれど、現れたのはあの女医。私が望んだ人では、イサナではなかった。

 筆談で誤操作の旨を伝えると、女医は何も言わず帰っていく。

 その背を見て思ったのは、“なぜイサナが来てくれないのか”という疑問だけ。


 私はベッドに戻り、泣いた。

 肺から押し出された空気が、声帯をわずかに震わせる。それは音にならず、不完全な破裂音と咳の混合物として空間に放たれた。

 喉が痛む。音にすら成り損ねた声は、喉にヤスリで削られるような痛みだけを残す。それはまるで、意図せぬ自傷行為。言葉にも、声にも、音にもならぬナニかを産む行為の代償。

 そのうちに、喉の辺りがひどく熱を持ったような感覚に見舞われた。絶妙な痛みと、熱感。それらは痒みにも似た刺激となって私を襲う。許されるのなら、包帯の隙間に指を突っ込んで掻き毟りたい。

 ……けれど、それはできなかった。其処には絶対に触れないと、イサナと約束したから。


 翌朝、病室の扉が開く音で目が覚めた。反射的に身体が跳ね──瞬間、喉がひりついた。

 そして、彼──綾瀬イサナが、数日ぶりにその姿を現した。けれど、彼は何も言わない。

 あの優しい目をした彼は、そこには居なかった。

 優しさの代わりにあったのは、冷やかな侮蔑の色。

 そんなモノを向けられる理由は、どこにもないはずなのに。彼はそんな目で、私を見据えていた。


 、私は微笑んだ。


 彼がそんな目をしているのは、久しぶりに会うから。私に会うのが久しぶりで、笑い方を忘れていると思ったから。だから、私がお手本になれば良いんだと思った。そのために、できるだけ優しい笑顔を向けたのだ。


「────……久しぶり、イレイナ」

 ややあってから、彼は優しい声を返してくれた。けれど、私に歩み寄ってくる速度は以前よりも遅い。その動きもどこか、ぎこちなさを感じさせるものだった。

 この反応は──まさか。彼は私をのだろうか。

 ……ううん。そんなはずはない。それに、私は彼に伝えたいことがある。貴方に教えたいことができた。

 貴方が教えてほしいと言った答えを、私は貴方に伝えたい。

 逸る気持ちを抑えて、彼が隣に座るのを待った。


「イレイナ。キミに確認したいことが、あるんだ」

 腰掛けてから暫しの間を挟み、タブレットを片手に彼が聞いてきた。

 筆談で「何を確認したいの?」と聞いてみる。すると、彼はタブレットを操作して一枚の写真を見せてきた。

 そこに写っていたのは、ある物を抱えて眠る私の姿。

「キミが見つけた好きなモノが、これなのか?」

 尋ねる声は震えていた。その唇も、同様である。

 その問いに、私は頷いた。

「……イレイナ。キミの好きなモノを、教えてくれてありがとう」

 その声から読み取れたのは、深い諦観と失望だった。だが、私にはそれが理解できなかった。

 ソレは間違いなく私の心に安らぎを与えてくれたものなのに。貴方はどうして、そんな目で私を見るの?

 私が筆談用の道具を手にした時にはもう、彼は席を立っていた。

 ──引き留めようと伸ばした手は、雑に振り払われる。

 肉体的な痛みはない。なのに、触られていない胸の奥が酷く痛んだ。


 ──……人は嘘を吐く。

 それが自分自身を守るためであれ、他者を欺くためであれ。必要に応じて嘘を吐くものだ。

 それを理解したのは、偶然だった。

 ……もしくは、偶然のふりをした必然だったのかもしれない。


 彼が病室を去った後、私は彼の落とし物を見つけた。それはイサナの携帯端末。

 待ち受け画面には、猫の写真。あのとき見せてくれた三毛猫とは別の個体が、やわらかそうな腹を見せている。

 画面に触れると、すぐさまホーム画面へと移動した。

 私は何の疑問もなく、フォトフォルダを開き、その中身を眺めた。ほとんどは猫の写真だったが、その中に一枚だけ人物を写したものがあった。

 ──それを開こうとした途端、一件の通知が入る。

 通知欄に表示されたのは、“実験記録”という一文。視界に刺さったそれが、私の興味を惹いたのは言うまでもないだろう。


 それを開いたのは、多分──きっと。良くないこと。

 開けてはならぬ、パンドラの箱であったのだろう。

 私はそれを見て、初めて──自分がなんなのかを知った。


<meta name="robots" content="noindex, nofollow">

 本実験は、死体を素体として用いた有機生命体の創造である。

 被験体:フランクリン・イレイナ。

 フランクリン地方で回収した死体二名を用いた、最もシンプルな構造体。死体Aは自死。死体Bは事故死。

 比較的損傷の少ないAを素体として使用し、死体Bの脳を使用。

 これを九体目となる混合型有機構造体とする。

 本個体は、早期段階にて自己認知形成を認めた。意図的な発声抑制を認めるものの、経過は良好とする。

</meta>


<meta name="robots" content="noindex, nofollow">

 被験体:フランクリン・イレイナの不具合について。

 本実験における被験体はすべて、複数の死体から成る生命体である。

 それ故か、人間性に重大な欠陥を露呈してきた。

 成功例として扱っているフランクリン・イレイナにおいても、その不具合は露見した。

 人は自身の本質に近しいものに、本能的な充足感を得るとされる。

 故に、彼女は惹かれたと見るべきだ。

 あれは人間ではない。死体から成ったアレは、怪物だ。

 他の被験体となんら変わらない。私は、次に期待する。

</meta>


 こんな短い文面で、私の思考はいくつかが崩れ、沈黙した。

 私は──頸部の包帯に手を伸ばし、それを雑に引き千切る。そこに在ったのは生々しい縫合痕と、小さな液晶画面のついたチョーカー。液晶には、規則正しい波形が表示されていた。

 そういった現実を目の当たりにして──残ったものは、酷く冷たい納得だけ。

 視界の歪みも、声が出ない理由も、ちゃんとここにあったのだ。


 ──イサナは、親ではなかった。

 私を創造した存在、という意味では親なのだが──世間一般の意味での親ではない。

 しかし、育てようとする意思はあったのだろう。

 だが、彼からしてみれば。私とのすべてが──実験でしかなかったのだ。


 私は一瞬、この端末を破壊しようかと思った。

 けれど、それはできなかった。この機会を逃した場合、私は私のルーツを知る手がかりを失う事になるから。

 だから時間が許される限り、この端末にある記録へ目を通そうと思った。

 ──そのほとんどは、患者たちの記録で埋め尽くされている。

 アレらも皆、私と同じ被験者だ。失敗作。試作品。あるいは副産物。

 そんなタグ付けをされたアレらは、近いうちに処分される。

 尤も、記録を見るに──すでに処分された個体も相当数いた。

 だがそれに対し、思うところは少ない。

 それらは既に終わった話でしかない。

 あるいは、終わらされた話なのだから。


 私は彼の端末を手に、療養棟──もとい、実験棟を抜け出した。

 彼の端末を使えば、ほとんどの扉が開いた。そして、道中で見つけた白衣を身にまとい、端末を見るフリをしていれば──誰も話しかけてはこなかった。


「──まさか、イレイナなのか?」

「その、まさか、だよ。イサナ」

 ジクジクとした喉の痛みを無視して、言葉を紡いだ。驚きつつも警戒する彼を尻目に、私は部屋の奥へと続く扉へ手をかける。

「イサナ。貴方は、なにを、作ろうと、してる、の?」

「それをキミに説明する必要は、あるのかな」

「──ある。イサナ、は、親、だか、ら。……棄て、た、命。棄て、ようとしてる、命に。ほんの、少し、でも。罪悪、感、を、覚え、るの、なら……答え、る、責任、が、ある、と、思う」

 焼け付くような痛みを堪え、伝えた言葉が──彼を動かす。彼の手によって開かれた扉の先に在ったのは、目覚めを待つ一つの生命。その顔は、私とも、あの写真の女性とも酷似していた。


「イサナ、が、望ん、だ、の、は、彼女、なの?」

「そうだ。キミが成るはずだった──フランクリン・イレイナを、私は望んでいる」

「イサナ、に、とって、の……彼女、は、なに?」

 答えなど、聞くまでもない。けれど私は──彼の声で、答えを聞きたかったのだ。

「……イレイナは、私の恋人だ」

「恋人、に、会い、たかっ、た、の?」

 彼は「そうだ」と。ただ一言。話す最中──彼の視線は、次のフランクリン・イレイナへと向けられていた。それ以上、彼は何も語らない。ただ静かに、より美しく、完璧に作られたであろう彼女へと向けられている。


「……ねぇ。イサナ、は──今まで、の、イレイナ、を。愛、して、くれ、た、の?」

 私は、彼女の前に立ち、その頬へ手を伸ばす。彼はそれを止めはしなかった。私が触れた彼女は、自然な温もりを宿している。

 ──きっと彼女は、私にはないものを、たくさん持っているのだろう。沢山与えられていくのだろう。


「────ねぇ、イサナ。答え、て。貴方、は、私達、を、造った。私達、に、向け、た、優し、さ……温も、り、は、本物、だっ、た、の?」

 彼の方を見ずに。目前の彼女を、しっかりと見据えて。はっきりとした声で尋ねる。

 けれど。彼はしばらくの間──口を噤んだままだった。どうして答えてくれないのかは、なんとなく分かる。

 ただこれは、あくまでも私の想像でしかない。だからどこかで期待していたのだろう。私の想像とは異なる答えを、彼が口にしてくれると。


「──……本物だと、答えればお前は満足するのか?」

「それ、は、わから、ない」

「人は怪物を愛さない。たとえ自らが産み出したものであっても、怪物だけは愛さないよ。だから僕は、お前を愛さない。お前たちに向けた温もりは、虚偽だ」


 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが産声を上げた。

 怒りでも、悲しみでもない。もっと複雑で、昏い色をしたもの。

 私は──イレイナになり損ねた怪物は──人の抱く原罪を宿したのだろう。


「さよ、う、なら」

 彼女にしか聞こえない声で、別れを告げる。頬に添えた手を、下へと滑らせる。目指すは彼女の首筋。両の手を添えて指を絡ませた。

 気づいたイサナが声を上げる。止めようとしたのだろう。


 ────だが、遅い。


 彼の手が、私に触れるよりも早く。私はイレイナの首を折った。

 ゴキン、という音だけが──彼女の断末魔の叫び。あの時のような抵抗も、悲鳴もなかった。

 一つの命が静かに終わる。そうだ。私が、終わらせたのだ。


 イサナが、立ち尽くしていた。

「嘘、でも、愛して、いた……その、言葉が、欲しかった、の」

 私は彼に、嘘偽りのない想いを伝える。

 その言葉を耳にした途端、彼の目が見開かれた。その中にあったのは恐怖──そして、大粒の涙。


 泣きたいのは、私も同じ。けれどそれは、言葉にしなかった。

 私は──私たちは、最期まで、愛されたかったのだ。

 たとえそれが嘘でも、建前でも、演技であったとしても。

 産み出した以上、終わりまでは。せめて優しい嘘で包んでほしかった。


 施設を出るのは、思ったよりも容易だった。


 彼らは、逃げるはずがないと信じていたから。

 私たちが“従順に造られている”と。

 創造主に逆らう術を持たないと。

 ──あるいは、意志を持つはずがないと。

 消えたイサナを追って、私は街に出た。

 そして数日間、街をさまよった。

 廃モールの裏口で雨を避け、薬局で包帯を盗み、言葉を話さないことで通行人に怪しまれた。

 その中で一度だけ、警官に話しかけられた。

 これに対して私は──いつかのように、ただ微笑んだ。

 すると彼らは、何もせずに通り過ぎていった。

 ──そうして、私は触れてはならぬナニかとして扱われている。


 普通の人間であれば不都合に他ならないが、私にとっては好都合。

 私はただ、イサナに──答えてほしいのだ。


 ──放浪の果てに見つけた彼は、随分と窶れていた。


 都市の外れ。かつて使われていた隔離型医療施設の一角に、彼は隠れていたのだ。

 イサナは私を見るなり、肩を震わせて笑った。

 そこに狂気はなかった。例えるのなら──諦めに似た、感情の断末魔だろうか。

「……どうして追いかける? まだ、僕から奪いたいものがあるのか?」

 彼の顔は痩せ、眼の下に深い影が落ちていた。

 けれど、どこか安らかにも見える。

 この逃避行が、彼にとって“救済”なのだろうか?

「イサナ。すべてが、嘘だった、の?」

 久しぶりに出した声は──掠れ、軋み、血を吐くような音だった。けれどそれは、確かに私の“言葉”だ。

 イサナは目を見開き、数秒の沈黙の後、言葉を紡ぐ。

「……すべてじゃない。でも、大事なところは、すべてそうさ」

 彼は笑っていた。泣いてもいた。

 その顔を見て私は──唐突に。彼のことを愛していたのではないか、と考えた。けれど、それはもうあり得ない話である。


 …………私は、ポケットから一つの注射器を取り出す。これは施設から持ち出したもの。その中身は自己崩壊促進剤だ。一度使用すれば、対象の体組織は一時間以内に溶解する門外不出の劇薬。

 ──これは、私たちのような存在を消すために造られた。


「イサナは、私を、恨み、ます、か?」

「……さぁ、どうだろうか。以前の私なら、イレイナを殺された直後なら。確かにお前を恨み、憎んだのだろう」

「では、今は、どう、です、か?」

「どうあってほしい?」

「わかり、ません。けれど、私は、貴方に──伝え、たい」

「今さら何を、僕に伝えたいっていうのさ」

「──愛して、くれない、の、なら。せめて、憎悪して、欲し、かった。その火を、以て。私を、焼き、殺して。私たちの、最期は、貴方に、覚えて、いて、欲しい。それが、美しい、もので、なく、ても、いい、から。私たち、から、私から、目を、背け、ない、で。独りに、しない、で──……ただ、それ、だけ」


 私は言葉にしきれなかった想いを載せて、注射器を彼の手に握らせる。


「そうか。それが、キミの望みなのか」

 私は、頷く。そのために、私は此処へ来たのだ。答えを聞いた。悔いはもうない。あとは、彼の手で終わらせてもらうだけ。

「なら、望み通りに────」

 彼は私の顔を見た後に蓋を外し──

「──してやるものか。独りで苦しめ、怪物──!」

 叫び、彼は自分の腕にそれを突き立てた。

 彼は──イサナは、注射器の中身を理解した上で、そうしたのだ。


「…………」 

 音もなく崩れていく輪郭を前に、私は動くことを忘れていた。

 私の中に在るものは、喩えようのない虚ろなナニか。彼に期待していた所も確かにあった筈なのに、裏切られた悔しさとか、悲しさとか、そういったモノは何一つとして感じなかった。

 ……私は彼に伝えたいものを伝えて、その答えを見届けたから──何も、感じないのだろうか。


「──、雨?」


 いいや。そんな筈はない。ここは屋内で、雨漏りを起こすような兆候は無かった。

 なら、この雫は一体何処から? そう考える間も、雫は滴り続ける。

 ポツリ、ポツリと滴る感覚は、緩やかに。けれど確実に、短くなっている。


 ──それが自らの頬を伝う涙だと気付いたのは、彼だった液体が爪先に触れた瞬間。


「、……そう、か。私……は、…………」


 ──あぁ……この胸に去来する感情は、一体どちらなのだろう。私には、わからない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Deceitful heart. メイルストロム @siranui999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る