2.重い扉のその先へ
「一年八組......ここか」
教室に入ると、数名の人がそれぞれの自席に座っていた。全くの初対面、やはり緊張感が教室には漂っていた。
郁瀬は自席にリュックを置いて、周りに合わせて静かに座り、スマートフォンを見て時間をつぶしていた。
カレンダーのアプリに記された「体験入部」の文字。郁瀬はそれを見て、ふつふつと煮えていた心を加速させた。これから三年間、どんなことが待ち受けているのだろう。どんな人と出会えるのだろう。どんな奇跡を紡げるのだろう。どんな景色を見ることができるのだろう。その人は、奇跡は、景色は、輝いているか。それとも。郁瀬は、あふれ出そうな感情でうずうずしてたまらなかった。
入学式は何事もなく終わり、その後のホームルームも自己紹介などをして淡々と済んだ。
放課後になった一年生のフロアは、それまで緊張が広がっていたのが嘘のように、一斉に騒がしくなり、廊下には様々な先輩たちの部活の勧誘の声が響く。
「テニス部どうですかー!」
「吹奏楽部いかがですかー?」
郁瀬はそんな喧騒をかき分けて、一心にある場所へ向かった。右手にはシューズ、心には期待。期待のすぐ裏にある過去を見ている暇なんてない。また新しい物語が始まるのだから。
郁瀬は覚えたての校舎を駆け抜け、別棟の体育館にたどり着いた。危機なじみのある靴の音。胸を打つようなボールをたたきつけた音が地に響き、足を伝って鼓動を高鳴らせる。
重い扉を一心に開けて踏み入れた先に広がるのは、体育館の光が照らす九×十八メートルの長方形のコート。その輝く舞台で舞うように飛ぶ人も見える。
扉の音に反応して先輩が数人こちらを見る。郁瀬はその中からとある人を見つけた。その人は郁瀬に気づくと、近づいてきて爽やかにほほ笑んだ。
「郁瀬、よく来たな。ようこそ、わがバレー部へ」
郁瀬よりも一回り大きい彼は、いつになっても郁瀬にとって偉大な存在だった。郁瀬は満面の笑みで元気に返事をした。
「はい! 今日からよろしくお願いします、寛斗先輩!」
開けている窓から春風が郁瀬の後ろ髪を揺らし、背中を押した。桜の花びらはその風に乗って数枚、体育館に入り込んだ。桜は散り始めている。春はもう始まっているのだ。
体育館の奥でモップがけをしていた先輩が、ひとまず部室を案内すると言って郁瀬を呼んだので、それに従った。その先輩は自分よりも十センチくらい身長が低く、郁瀬の隣に立った時にはその差は明らかだった。
「お前、初日から気合入ってんな。まだ入学初日だろ?」
少し勢いのある先輩の言葉で浮かれていた郁瀬はふと我に返り、照れて頭の後ろを搔いた。
「ははは......すみません、どうしてもバレーがしたくって」
「そうかそうか、要するにバレーが大好きってことだな。そんなやつ大歓迎だ」
そう言って先輩は郁瀬の肩を大きく叩いた。口調といい、絡み方といい、少し圧の強い人だなと郁瀬は思ったが、その愛嬌のある笑顔を見る限り、不器用なだけで悪い人ではなさそうだ。ズボンのラインの色を見るに、一つ上の先輩のようだ。
「そういえば名前まだだったな。俺は中村航生。二年でポジションはリベロやってる。お前は?」
郁瀬は決まりの悪そうに、少しうつむき加減で答えた。
「風上郁瀬っていいます。ポジションは……一応ウィングスパイカー」
「一応......?」
「はい......」
「......んー、まあいいか」
先ほどまでハキハキとバレーを好きそうにしていたのに、ポジションの話になると突然自信が無いように航生は聞こえた。しかし、それ以上詮索はしなかった。
部室は体育館を出てすぐそばにあるプレハブの二階の一角だった。
「そういえば、郁瀬は寛斗先輩と知り合いなのか?」
「はい、寛斗先輩とは中学校が同じで、その時からお世話になってました」
「同中......ってことは浜中か。浜中、俺たちの代までは強かったイメージだけど、一個下ってどうだったけな」
郁瀬はふと航生から視線を逸らした。思い出したくもない、けれど忘れられない過去。浜中の強豪校のイメージが航生たちにないのも無理もない。自分たちの代で終わったのだから。
「......そんなにいい成績取れませんでしたー。後輩のいなかったので......」
郁瀬はそう言って苦笑いをした。航生との空気は最悪だった。過去を捨てて、一から変わるためにここを選んだのに、初日からこんな調子では、何も変われないじゃないか。しかし、この空気を破ったのは航生だった。
「まあ、今日からは俺たちの仲間だし。好きなだけバレーやっていいからな」
もしかしたら、航生は何の気なしに言った言葉だったのかもしれない。それでも、たったそれだけの言葉だけれど、郁瀬にとってはとても救われる一言だった。
「寛斗先輩は自分の憧れです。バレーはもちろん、人としても尊敬してます」
「だよなぁ、先輩がキャプテンだとほんとに頼れるっていうか、空気が締まるっていうか」
「俺、中三で部活引退した後、偶然会った寛斗先輩に相談乗ってもらって、それでここ来るって決めたんです」
郁瀬は半年前の記憶に遡った。
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