1.はじまりの朝
昨日までの雨が嘘のように、今日の朝は澄みきって晴れていた。鳥のさえずりとともにベッドから起き上がると、少し散ってしまった桜の木が窓の外に見える。時計は、アラームを設定した5分前を指していた。
「今日から......始まる」
期待と不安が入り混じった気持ちを抱き、制服に腕を通す。郁瀬は、この感覚にどこか懐かしさを感じていた。静寂と共にエンドラインに並ぶ、あの瞬間。自分の鼓動が会場に鳴り響いているかのような、あの感覚だ。
すると、少し開いていたドアから、飼っているシベリアンハスキーの「ウィル」が勢いよく尻尾を振って入ってきた。
「おはよう、ウィル」
ウィルはいつにましてご機嫌のようだった。鼻息を荒くして飛びかかってきたので、勢いそのまま、郁瀬はベッドに倒れ込んだ。
「どうしたウィル、なんかいいことでもあったのか? ......ってちょっと、今日初めて着るのにこれじゃあ毛だらけだよ......まったく」
ウィルがなぜこんなに機嫌がいいのか、郁瀬にも心当たりがあった。それは、ウィルにとの思い出でもあるから。
ウィルはベッドから下りると、郁瀬の思った通り、部屋を歩き回って学校の荷物を発見し、あるものを引きずってきた。
「わかってるよ、俺も待ちきれなかった。やっとだな、ウィル」
そう言って郁瀬は陽気に尻尾を振るウィルを撫でた。
身支度を終え、そろそろ家を出る時間。今までより早い時間、気慣れない制服、何もかもが初めての今日、手に持ったシューズだけは昔馴染みだった。
「忘れ物ない? 私は朋ちゃんと追いかけるから、先行ってていいよ」
「うん、そのつもり。そろそろ湊も来るし」
母はキッチンから郁瀬を覗いて、身だしなみを軽く確認した。そして、シューズを見て、鏡に向かう郁瀬に尋ねた。
「部活、今日からなの? まだ一日目よ?」
母が問うのも無理もない。制服やカバンは新品なのに、ひとつだけ使い古された荷物を持てば目立つはずだ。郁瀬はSNSのトーク画面を確認して答えた。
「体験入部は今日からなんだって。今年は例年よりも早く始めるんだってさ」
ウィルも呼応するようにワウと元気よく吠えた。母は納得したようで、ウィルに朝ごはんをあげている。
「そう、じゃあ怪我には気を付けて、思いっきりやってきなさい」
「うん、もちろん。もう二度と後悔なんてしたくないから……」
郁瀬はスマートフォンのカメラロールのあ・る・写真を見つけた。揃いのユニフォームを着た集合写真。最後の大会で泣いている人もいれば、堪えて笑顔を作っている人もいる。しかし、郁瀬はそのどれでもなく、ただ一人、やりきれない表情を浮かべていた。郁瀬は心の奥に仕舞っていた過去を思い出し、浮き立つ気持ちは厚い雲に覆われてしまった。
反対のホームがとても混んでいて恐ろしく思いながら下りの電車に乗り、川の傍の最寄り駅で降りた。それから、郁瀬と湊の二人は川沿いの道を歩いて学校に向かっていた。少し余裕をもって出発したので、あまり人は多くなかったが、新入生らしき人もちらほら見かけた。
電車で数駅だけど、都会の喧騒から抜け出したような場所で、朝日を反射する水面と、鶯の鳴き声が春らしい。
郁瀬と湊の地元は都心にそう遠くないので、高校進学を機に都会の学校に行く人が多い中、二人は揃って「忙しないのは苦手だから」とこちらを選んだのだった。もちろん郁瀬には、それとは別の理由もあったが。
湊は、家から徒歩十分の中学時代からしたら桁違いに遠い道のりに、既にうんざりしているようだった。
「やっぱり歩き慣れねぇなぁ、ローファー」
「そうだね。でも湊は野球のスパイクとかで少し慣れてるでしょう?」
「そんなことないわ。俺は、部活とかガチになってやってなかったし」
いつものように軽い口調で湊は言ったと思ったら、今度はニヤリとした。
「でも、身長盛ってくれるのはありがたいね。まあ、盛ったところでお前には負けんがな」
ふざけた調子で言った湊は、大きく笑った。
物心ついたときから、いつも隣には湊がいた。学校が同じと言えど、歳を重ねるにつれてそれぞれの道を歩んでいったはずなのに、気が付けば隣で歩いている。幼いころは喧嘩なんかもして、でも二人とも成長して......。知らない間に湊の方が身長も大きくなっていたけれど、隣から聞こえてくる笑い声はいつまでも変わらなかった。
「嫌味かよ......俺だって、湊よりちょっと小さいだけで、一般的に見たら低くないし」
郁瀬は不貞腐れながらも、このやりとりにマイナスな気持ちは一切なかった。思い出してしまった心の雲も、湊のおかげで少し落ち着いたようだった。
すると、後ろから誰かが走ってくる音がした。そう思った途端、郁瀬と湊の間に一人の女子高生が突っ込んできた。
「郁瀬! 湊! おはよう」
ボブで二人よりも少し背の小さい彼女は、幼馴染の弓田莉奈だった。
「びっくりしたあ、なんだよ朝から」
「ははは、変わんねえな、莉奈」
「そんな久しぶりの再会みたいなこと言って、昨日もゴミ捨て場で会ったじゃん」
「いやいや、相変わらず元気だなってことだよ」
「私だって今日から女子高生なんだから、少しくらい変わらせてよね」
郁瀬と湊と莉奈、近所の幼馴染の三人のやり取りはいつもこの調子で、これもまた変わらないものだった。郁瀬と湊が馬鹿をして、莉奈がお姉さんのようにフォローして、でも莉奈が弱ったときには二人が守った。
「それにしても、俺ら三人とも同じ高校ってすごいよな」
「湊めっちゃ勉強してたもんね」
莉奈に一言付け加えられて、湊は決まりが悪そうな顔をした。
部活も引退した秋の放課後、三年生の廊下は静かで、遠くから吹奏楽部の音や外部活の掛け声が聞こえてくる。
郁瀬と湊は日直の仕事が残っていたので、居残りで学級日誌を記録していた。
「湊は高校どこにするの?」
「んー、具体的には考えてないな、ほどほどに勉強しては入れるとこにするかな」
「やっぱり、湊ならそう言うと思ってた」
湊は腰かけていた机から下りて、郁瀬の方に振り返った。それから、少し恥ずかしそうにそっと聞いた。
「......郁瀬はどうするんだよ」
湊の問いに郁瀬は間髪入れずに答えた。
「俺は市立中央。この前決めたんだ」
湊は郁瀬が思ったよりもすぐに返答したので、ヒヤッとした冷たいものを体の中で感じた。その冷たいものが体を覆わなように慌てて言葉をつづけた。
「へえ、その学校になんか魅力でもあったのか? あ、部活の強豪校とか」
「いや、強豪校ってわけじゃないけど……」
いつもの調子のよい言葉ではなく、どこか皮肉交じりのセリフで、「ダッサ」と湊は自分に向けて卑下した。
すると、郁瀬は手を止めて湊の方を向いた。湊を見つめたまっすぐな瞳は、希望が確かに宿っていて、調子を狂わした湊には痛かった。
その時、バッドがボールを撃ち返した音が響いた。
「......俺もそこにしようかな」
湊はあまり深く考えずに、反射的に言った。なぜそう思ったのか、湊にもわからなかったが、まるで郁瀬に置いていかれないように、慌てて出した答えだった。
「本当?」
郁瀬は目を丸くし、驚きを見せた。湊はバッグを背負って、少し強がって言った。
「......そ、そこってちょっと頭いいだろ。郁瀬には負けてられないからな」
「それじゃあ湊も一緒か! 心強いなあ」
湊の感じた冷たさは、どうやら郁瀬にはバレていないようで、少しほっとした。慌てて取り繕った代償の冷や汗を拭って、湊はいつもの調子に戻り、学級日誌を職員室に返しに行った。
しばらくして、三人は学校に到着した。校門前の立て看板で記念写真を撮り、校舎の中に入る。
昇降口にはクラス分けが貼りだされており、登校してきた新入生で徐々に賑やかになっていた。
「俺は……五組だな、郁瀬は?」
「俺、八組だね」
「私は三組。さすがにみんなバラバラだったね」
それから少々言葉を交わして、それぞれの教室に向かった。莉奈は三組なので階段で別れ、湊は教室の前まで一緒だった。
「んじゃ、俺はここだな。郁瀬はもう部活あるんだろ?」
「おう、もちろん!」
「じゃあ......帰りは別か。......また連絡するわ、じゃあな」
「うん」
郁瀬は「じゃあな」と言われたとき、湊がほんの少し距離を置いているように感じた。けれど、今まで湊がそんなセンチメンタルな姿を見せたことはない。いつもお調子者の湊だ。だからきっと気のせいと思って、郁瀬は五組の教室を後にした。
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