第七話:ありふれた隣人

田中茂雄の一日は、いつも同じ時間に始まる。

午前五時半。太陽がまだ、山の稜線の向こう側で眠っている時間。古びた柱時計の鐘の音が、静まり返った家の中に、厳かに響き渡る。彼は、十年前に亡くなった妻の仏壇に、一番に汲んだ水を供え、線香を一本立てるのが常だった。立ち上る紫の煙の向こうで、写真の中の妻は、いつもと同じように、はにかんだような笑顔を浮かべている。


「……今日も、行ってくるよ」


誰に言うでもなく呟き、台所で簡単な朝食を済ませる。納豆と、昨日の残りの味噌汁。テレビはつけない。静寂こそが、彼の長年の友人だった。

還暦を過ぎ、一人息子も都会へ出て行った今、田中の生活には、もはや大きな変化というものはない。日中は、町の外れにある小さな部品工場でパートとして働き、夕方になれば家に帰って、ささやかな晩酌を楽しみながら、時代小説を読む。

同じことの、繰り返し。だが、その単調な繰り返しが、彼にとっては、穏やかで、かけがえのない日常だった。


彼が働く『北関東部品加工』は、そんな彼の日常を象徴するような場所だった。古びた機械が立てる規則的な騒音、油の染み付いた床、そして、何年も変わらない顔ぶれの同僚たち。田中は、その全てに、自宅にいるような安心感さえ覚えていた。

一週間前までは。


変化は、一人の男の出現によって、もたらされた。

ハローワークの紹介でやってきた、というその男は、「鈴木」と名乗った。三十代半ばだろうか。痩せた体に、サイズの合わない、よれよれの作業着。そして、何より印象的だったのは、その目だった。常に何かを警戒し、周囲を窺うような、落ち着きのない瞳。まるで、群れからはぐれた野生動物のようだ、と田中は思った。


その日も、「鈴木」は誰とも言葉を交わさず、黙々とベルトコンベアを流れてくるプラスチック部品の検品作業を続けていた。彼の仕事ぶりは、驚くほど正確で、速かった。まるで、銃や機械の分解・組み立てでもするように、その指先が淀みなく動く。だが、その動きには、人間的な温かみというものが、全く感じられなかった。彼は、まるで自分自身が機械の一部になったかのように、ただひたすらに、同じ作業を繰り返すだけだった。


昼休みになっても、その姿勢は変わらなかった。他のパートタイマーたちが、休憩室でテレビを見ながら弁当を広げる中、彼は一人、工場の裏手にある喫煙スペースの、一番隅のベンチに座り、壁に向かって、コンビニで買ってきたであろうパンを、無心に口へ運んでいた。


田中は、何度か話しかけようと試みたことがある。

「鈴木さん、ここの仕事は、もう慣れたかい?」

「……はい」

「どこから来たんだい? この辺の出身じゃないようだね」

「…………」


男は、ただ無言で、首を横に振るだけだった。その目は、田中を見ているようで、そのずっと向こう側にある、何か得体の知れないものを睨みつけている。その視線に射抜かれていると、まるで自分の平穏な日常までも見透かされ、汚されてしまうような、根源的な恐怖を感じた。

気まずい沈黙が流れ、田中は、それ以上、言葉を続けることができなかった。


工場の誰もが、この新しく入ってきた男に、どこか近寄りがたい不気味な雰囲気を感じ取り、遠巻きにしていた。彼は、自ら壁を作り、その内側に閉じこもっていた。


その日の午後。田中は、彼の『異常さ』を、よりはっきりと目撃することになる。

三時の休憩時間。田中が、いつものように喫煙スペースで一服していると、「鈴木」がふらりとやってきた。彼はタバコを吸うでもなく、ただ、金網のフェンスのそばに立ち、その向こう側を、じっと見つめている。フェンスの向こうには、工場と隣接する雑木林と、その先へと続く、一本の寂れたアスファルトの道が見えるだけだ。


(何を、見ているんだ……?)


田中は、不思議に思った。車通りもほとんどない、何の変哲もない田舎道だ。

だが、「鈴木」の目は、まるで獲物を狙う鷹のように、鋭く、一点に注がれていた。彼の全身からは、ピリピリとした、極度の緊張感が発散されている。


その時だった。

パンッ! という、乾いた破裂音が、遠くから聞こえてきた。

農家の誰かが、鳥獣除けに使っている威嚇用の空砲だろう。この辺りでは、日常茶飯事の音だ。


だが、「鈴木」の反応は、常軌を逸していた。

彼は、その音を聞いた瞬間、まるで至近距離で銃弾でも撃ち込まれたかのように、ビクッと全身を硬直させた。そして、次の瞬間には、身を屈め、コンクリートの壁の影へ、転がり込むような勢いで身を隠したのだ。その動きは、あまりに素早く、そして切実だった。


「……おい、鈴木さん、どうしたんだ」

田中が驚いて声をかけると、男は、壁の影から、血走った目でこちらを睨みつけた。その目には、純粋な恐怖と、そして、一瞬、ここがどこか分かっていないような、戦場の兵士のような色が浮かんでいた。


「……今の、音……」

「ああ、ただの空砲だよ。イノシシでも出たんだろう。いつものことさ」


田中がそう言うと、男は、それでもしばらくの間、信じられない、というように、田中の顔と、音がした方角を、交互に見比べていた。やがて、自分の反応が、いかに過剰であったかに気づいたのだろう。彼は、気まずそうに立ち上がると、作業着についた土埃を、無言で払い始めた。


「……すいません」

「いや……」

田中は、それ以上、何も言えなかった。

あれは、ただの「驚きやすい」人間の反応ではない。あれは、常に命の危険に晒されている人間の、体に染み付いた、条件反射だ。一体、この男は、どんな世界からやってきたというのだろうか。


その日の夕方、仕事を終えた田中は、一人、とぼとと家路についていた。

商店街のアーケードを抜けたところで、前方に見覚えのある、痩せた後ろ姿を見つけた。「鈴木」だった。

彼は、田中がいることには気づいていないようだった。だが、その歩き方は、やはりどこか奇妙だった。

彼は、決して道の真ん中を歩かない。必ず、建物の壁際や、電柱の影から影へと移るようにして、慎重に進んでいく。そして、数歩進むごとに、誰もいないはずの背後を、素早く振り返るのだ。

まるで、目に見えない『誰か』に、尾行されているとでもいうように。


その時、一台のパトカーが、サイレンも鳴らさずに、ゆっくりと商店街を通り過ぎていった。

だが、「鈴木」は、その赤い回転灯が視界に入った瞬間、脱兎のごとく、脇の路地裏へと姿を消した。その動きには、一瞬の躊躇もなかった。


田中は、呆然と、その路地裏の入り口を見つめた。

(警察を、避けた……?)

間違いない。彼は、警察に何か、知られてはまずいことがあるのだ。


田中は、家路を急いだ。いつもと同じ、単調な帰り道のはずなのに、今は、背中に冷たい汗が流れていた。

家に帰り着き、いつものように仏壇に手を合わせる。写真の中の妻の笑顔が、今日だけは、どこか心配そうに見えた。


あの「鈴木」という男は、一見すれば、どこにでもいる、ただの無口な若者だ。だが、その内側には、我々の住むこの平穏な日常とは、全く相容れない、深く、暗い闇が広がっている。

明日から、あの男とは、なるべく関わらないようにしよう。

田中は、そう固く心に誓った。自分の、この退屈で、平和な日常を、得体の知れない闇に侵されたくはなかったからだ。


彼は、テレビのスイッチを入れた。明るいお笑い芸人の声が、がらんとした部屋に響き渡る。

だが、その賑やかな音も、田中の心にこびりついた、奇妙な不安を拭い去ることはできなかった。

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