第三幕:虚構

第六話:焼けた地図

夜明けの光が、鈍行列車のごわごわとしたシートの上で眠るおれの顔を、容赦なく照らしつけていた。

うっすらと目を開けると、車窓の外を、見覚えのない田園風景が流れていく。おれはどこへ向かっているのだろうか。いや、どこから、逃げてきたのだったか。


あの夜の出来事が、フラッシュバックする。

轟音、熱風、そして、夜空を赤く染め上げた炎の色。


そうだ。おれは、勝ったのだ。

あの部屋は、奴らが用意した巧妙な罠だった。おれを追い詰め、じわじわと嬲り殺しにするための、蜘蛛の巣。だが、おれは、その巣を自らの手で焼き払った。奴らが配置したであろう追手たちも、あの炎の中で焼け死んだに違いない。

ざまあみろ。おれは、ただ逃げ回るだけの獲物じゃない。


ジャンパーの内ポケットに手を入れる。指先に、歪んで熱を失った、あの『鍵』の感触があった。

そうだ。炎の中から逃げ出した。だが、おれは、まるで何かに導かれるように、もう一度だけ、あのアパートへと駆け戻っていた。なぜ戻ったのか、自分でも分からない。ただ、あの黒い金属片が、まるで磁石のようにおれを呼んでいた。

煙に巻かれ、焼けつくような熱さの中、半ば無意識に、床に落ちていたこれを拾い上げていたのだ。これだけは、手放してはいけない、と魂が叫んでいた。


列車は、名も知らぬ田舎町の駅に停まった。おれは、他の数人の乗客と共に、ホームに降り立つ。目的のあった旅ではない。ただ、あの街から、可能な限り遠くへ離れたかっただけだ。


駅前の、古びた商店街。シャッターが下りたままの店が目立つ。おれは、その中の一軒、まだ開いていた衣料品店に入った。昨夜の煙の匂いが染み付いた服を脱ぎ捨て、一番安く、そして一番目立たない、灰色の作業着と帽子を買う。店主の老婆は、おれの煤汚れた顔を訝しげに見ていたが、何も言わずに代金を受け取った。

近くを流れる川のほとりで、おれは今まで着ていた服を、石を括り付けて川底へと沈めた。過去のおれを、葬り去る儀式だった。


その日は、町に一つだけあった安宿に潜り込んだ。布団に入ると、数日ぶりのまともな眠りが、鉛のように重い肉体と精神を支配していく。

不思議なことに、夢は見なかった。追手の影も、炎の記憶も、おれの眠りを妨げることはなかった。


翌朝、目を覚ました時、おれは、ここ最近で感じたことのないほどの、奇妙な解放感に包まれていた。

自由だ。

おれは、自由になったのだ。

追手はいない。監視も、マーキングもない。おれを縛り付けていた蜘蛛の巣は、もう存在しない。


おれは、町を歩いた。農作業へ向かう老人たち、自転車で駆け抜けていく学生たち。彼らは、おれがすぐ隣を通り過ぎても、気にも留めない。おれは、この町の風景の一部に、完全になることができた。

昼食は、寂れた定食屋でアジフライ定食を食べた。熱い味噌汁が、空っぽの胃に染み渡る。テレビでは、当たり障りのない昼のワイドショーが流れている。

平和で、退屈で、ありふれた日常。おれが、ずっと昔に失ってしまったものが、そこにはあった。

これが、自由というものか。涙が出そうになった。


だが、その自由は、長くは続かなかった。


数日が過ぎた頃から、おれは、再びあの『視線』を感じるようになっていた。

定食屋の主人、宿の帳場の男、すれ違うだけの高校生。彼らの何気ない視線が、まるでこちらの素性を探るような、値踏みするような響きを帯び始めたのだ。

考えすぎだ、と頭では分かっている。誰も、おれのことなど気にしていない。

だが、一度芽生えた疑念は、すぐに毒となって全身に回った。


この町は、狭すぎる。よそ者の自分は、目立ちすぎるのだ。

奴らが本気で探す気なら、こんな小さな町、半日もあれば虱潰しにできるだろう。

あの火事から、もう何日経った? 奴らは、きっと新たな追手を、全国に放っているはずだ。警察も、おれを追っている。組織と、警察。二つの巨大な権力から、おれは同時に追われる身となったのだ。


自由など、どこにもなかった。

おれがいたのは、檻の名前が『恐怖』から『自由』に変わっただけの、より大きな独房だったのだ。


おれは、再び逃げる準備を始めた。だが、今度は、ただ闇雲に逃げるだけではダメだ。

計画が、必要だ。奴らの思考の、裏をかく計画。


宿の薄暗い部屋で、ポケットの中から、歪んだ『鍵』を取り出した。炎に焼かれ、黒く変色しているが、その存在感は、以前よりも増しているように感じられた。

そうだ。おれの目的は、逃げることじゃない。『これを、返すこと』だ。

この呪われた鍵を、あるべき場所に返しさえすれば、この終わりのない鬼ごっこは終わるはずなのだ。

だが、どこへ?


思考を巡らせるうち、不意に、忘れていた記憶の断片が蘇った。

地元で燻っていた頃、やたらと羽振りの良い服を着て、「東京なら一発当てられる」と囁いてきた男がいた。あの男の目が、組織の連中と同じ、底なしの昏い色をしていたことを、今更のように思い出した。

おれは、気づいていなかっただけで、あの頃から、奴らの掌の上で踊らされていたのかもしれない。


そうだ。そうに違いない。

奴らは、おれが組織に関連する場所へ向かうと予測しているはずだ。他の支部、幹部たちが潜んでいそうな場所。だが、その全てが罠だ。

裏の裏をかくんだ。

奴らが、絶対に自分が行かない、と確信している場所。

奴らの誰もが、おれの存在など、とうに忘れてしまっているような場所。

それでいて、おれにとっては、全てが始まった、あの場所。


「……地元…」


呟いた声は、自分でも驚くほどにかすれていた。

ただ隠れるだけじゃない。きっと、あるはずだ。あの町に、奴らとの『接点』が。おれが『鍵』を返す場所は、そこだ。

全てが始まった場所で、全てを終わらせる。これ以上に完璧な計画があるだろうか?


おれは、震える手で、壁に貼られた日本地図を睨みつけた。ここから、おれの故郷までは、電車を乗り継ぎ、バスに揺られて、丸一日以上かかるだろう。

遠い。だが、その遠さが、今は何よりも心強く感じられた。

おれは、焼けてしまった古い地図を捨て、自分自身の記憶だけが頼りの、新しい地図を広げたのだ。


翌朝、おれは、誰にも告げず、宿を後にした。

向かう先は、北。

おれが、かつて捨てたはずの、過去だった。

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